前川健一 著作一覧

アジア雑語林(81)〜(90)

アジア雑語林(90) 2004年12月19日

書きたい人より・・・・

 ずいぶん前の選挙で、「出たい人より、出したい人を」というスローガンがあったが、最近の私の心境は、「書きたい人より、書かせたい人に」である。
 現在はインターネットのせいで、文章を書きたい人はなんでも好きなだけ好きなように書くことができるが、おもしろいものはきわめて少ない。だから、書きたい人の「書きましたよ」というだけの文章ではなく、私が読みたい文章を書けそうな人に、ぜひ書いてもらいたいと思うのである。
 例えば、某書店にインドネシア語とインドネシアに詳しいTさんという店員がいる。このページをしばらく譲るから、ぜひともなにかエッセイを書いてくださいと丁重にお願いしているのだが、頑として受け入れてくれない。これは宝の持ち腐れ以外のなにものでもない。せっかく苦労して得た知識を、一般人に公開しない理由がよくわからない。
 研究者と雑談していても、すばらしくおもしろい話を耳にすることがある。その人の研究の本筋ではないが、研究しているうちにわかった非常に興味深い話だ。
 タイの政治を研究している人がいる。私はどこの国であれ、政治研究なんぞにまったく興味がないのだが、タイの政治を本当に動かしている勢力の話はおもしろかった。その勢力とは、軍であり、ヤクザである。ヤクザというより、侠客といったほうがいいのかもしれないが、タイにはそれぞれの地方に親分がいる。これは、暴力団の組長というより、戦前までの侠客とか親分といったほうが近いらしい。つまり、完全なる犯罪集団ではなく、地元では人望があり、折に触れ寄付などしたり、慈善事業もやるが、利権はきちんと確保し、バクチや密輸や殺人などの犯罪も行なう人物ではあるが、きちんとした組織があるわけではない。
 そういう人物が政治家をあやつったり、自ら政治家となったり、裏と表の世界でさまざまな行動を見せるので、「そのあたりのことを、ぜひ」とお願いしているのだが、いっこうに書いてくれる気配はない。
 学者にとって重要なのは、学術論文を書くことであって、例えそれが専門の学者すら読まないものであっても、「業績」の欄にずらりと書き込めるだけの数多くの論文が必要なのだろう。一般人が読むような本をいくら書いても、業績にはならないのだ。
 あれは学者だったか、あるいはジャーナリストだったか忘れたが、その人がちょっと書いたことがあるテーマがおもしろかったので、「あのテーマで、ぜひ一冊」と、お願いしたことがある。その人はあまり関心を示さないので、もう一度お願いするとこう言われた。
 「悪いけど、オレ、あんたみたいにヒマじゃないんだよ。これでもけっこう忙しくてね」
 まあ、そう言いたい気持ちはよくわかる。書き下ろしで本を書くにはまとまった時間が必要だし、印税など大したことはないし、学者なら業績にもならない。得なことなどなにひとつないのだ。
 もうひとつ問題がある。私が本を書いて欲しいと思う学者は、講師かせいぜい助教授になりたての若手なのだが、そういう若手に対して「一般書を書くのは十年早い。専門の研究に全霊を打ち込みなさい」と厳しく指導する教授がいるのだ。そういう教授のもとで研究している若手は、本人の関心がどうであれ、私が喜ぶような本は書けないのである。おもしろいことをしたいなら、学者になんぞなるものではない。そんな教授のもとで研究しても、専門バカになるだけだ。まあ、学者としてはそれでいいのだろうが。

 


アジア雑語林(89) 2004年12月12日

1977年の海外旅行(2)

 引き続き『海外旅行案内』1977年版から、当時の海外旅行事情を紹介する。
 「旅費はいくらかかるか」という項目の文章をそのまま引用してみる。きっと、驚くだろう。

 「各国の旅行経費を比較して最も高価な部類に属するものは米国、フランス、スイス、ドイツ、イタリア、ベルギー、英国、ギリシャ、及びアルゼンチン、インドネシア、フィリピンなどで、次いでスウェーデン、エジプト、オランダ、デンマーク、ブラジル、の諸国。割りに安くすむのはスペイン、ポルトガル、の国々である」

 アメリカやフランスと並んでインドネシアとフィリピンが入っているのをきっと奇異に感じるだろう。じつは、この文章は60年代の版から手が加えられずにそのまま載っているもので、77年当時ではすでに事情は変わっているはずだ。
 フィリピンがなぜ物価の高い国に分類されているのかわからないが、インドネシアの場合はこういうことだろう。1964年の話だが、インドネシアの通貨ルピアは1ドルが515ルピアと規定されていた。これは旅行者用レートで実勢レートは2500ルピアだから、外国人は実際の物価の5倍くらいの料金を支払っていたことになる。高級ホテルはドル払いでしかもかなり高額に設定してあるので、外国人にはアメリカ並みの物価(日本より高い!)ということになる。
 私が初めてインドネシアに行ったのは74年で、その当時も闇両替がまだ残っていたが、公定レートより数パーセントいいという程度だったから、もはやアメリカ並みの物価ではなかったが、タイよりはだいぶ高かった。
 次は「外貨購入手続き」
 当時、持ち出せる外貨は3000ドルまでだった。日本円をもって銀行に行き、「海外渡航のための渡航前買入れ等承認申請書」3通を書き、パスポートを添えて提出すると、その日本円相当分の外貨が購入できた。いくら購入したかという記録はパスポートに記入された。おかしな制度だったのは、例えば500ドル両替して、出発前に臨時収入が10万円あったから、これも両替しようとしても、拒否されることだ。つまり、両替は3000ドル以内であっても一度しかできなかった。
 当時はまだ予防接種が必要だったが、そういう話をすると長くなるし、アジア文庫のホームページを読んでいる人には残念ながら若い人はいないだろうから、中高年の読者は予防接種の話はすでに事情がわかっていると解釈して省略する。
 書きたいと思ったのは、クレジットカードのことだ。1977年当時に海外でクレジットカードを使っていた日本人はそう多くはないだろうし、私などクレジットカードを手にしたのはほんの数年前なので、当時のクレジットカード事情など想像もできない。
 『海外旅行案内』によれば、海外でクレジットカードを使うには、次のような手続きをするそうだ。
 ・まず国内用のカード会員になる(おそらく、審査は大変厳しかっただろう)。
 ・パスポート番号と国内カードの番号を記入した「国際カード発行申請書」を提出する。
 ・使用限度額は3000ドル以内だが、現金やトラベラーズチェックも必要なので、それらの金額を差し引いた額を申請する。つまり、クレジットカードだからといって、3000ドル以上使えるというわけではない。
 ・国際カードは原則として一回の渡航にのみ有効で、しかも有効期限が短いらしい。

 「服装」
 「女性の場合、洋装の方が活動的で便利だが、着物で行けばあちらの流行も気にしないですむ上に、高級品でなくとも結構立派に見えるから経済的である」

 こういう文章は昔の版から変わらずに載っている。いつまで「着物がいい」と書いていたのか不明だが、77年当時ならまだ「着物で海外旅行」という人がいたかなあ。
 こうやって書き出すときりがないので、最後に機内食について触れておこう。
「食事の時間にはもちろん無料で食事が出る」 有料だと思っていた人がいても不思議ではないが、当時、酒は有料という航空会社が多かった(大きな航空会社は有料だった)から、トラブルも多かったと思う。実際に、「どんどん勧めるからどんどん飲んだら、あとでカネを請求された、インド航空らしいぜ」と言っていた旅行者がいた。
「食事時間が途中の着陸地点に相当する時には地上でサービスを受ける」 機内食について調べていてわかったのは、初期のころは、食事は空港でとっていたのだ。航続距離が短いから、途中に何度もとまり、その間空港で休憩するわけだから、その時間を食事にも使うのだ。
 ビジネス客やツアー客は、できるだけ早く目的地に到着して欲しいだろうが、長時間機内に閉じ込められるのがいやな私は、3時間ごとに空港で休憩したり、ゆっくりと食事をしたい(当然、空港内喫煙可が望ましい)。そのほうが絶対に優雅な空の旅だ。大多数の人は「変だよ」と思うだろうが、私は途中降機の多い路線が好きだ。そのせいもあって、太平洋路線には魅力がない。

 


アジア雑語林(88) 2004年12月4日

1977年の海外旅行(1)

 古本屋の特価本コーナーで、『海外旅行案内』(日本交通公社)の1977年版を見つけた。定価は4800円で、古本屋では通常2000円から3000円くらいの値段がついている。これが100円だから、もちろん買った。
 日本交通公社が戦後初めて発行した本格的海外旅行のガイドブックは、1952年の『外国旅行案内』で、毎年改定して出版された。1977年に『海外旅行案内』と書名が変わり、82年まで出版された。
 この書名変更でもわかるように、昔は「外国旅行」と言っていて、「海外旅行」という言葉は新しいらしい。その『外国旅行案内』も68年版をすでに持っているが、その内容を紹介するのではあまりに隔世の感がありすぎるので、77年版から当時の海外旅行事情をちょっと紹介してみよう。
 本題に入る前に、これから航空運賃などさまざまな値段が出てくるので、77年ころの物価を『値段の風俗史』(朝日文庫)からいくつか書き出してみよう。

   カレーライス            350円
   ラーメン              280円
   日産ブルーバード       960,000円
   帝国ホテル(シングル)   6,000円
   小学校教員初任給   92,756円

 ということは、若いサラリーマンの月給はだいたい十数万円ということになる。だから、この『海外旅行案内』は一日分の稼ぎに相当する。今なら一万数千円の本ということになる。
 さて、本題に入る。「旅行計画と費用」 この項で76年現在のLOOK(交通公社の海外ツアー)の料金を紹介している。

・世界一周(21日間)                     1,090,000円
・グランドハワイ(8日間)                 290,000円 
・ラスベガスとアメリカ西部・ハワイ(9日間)      468,000円
・ヨーロッパルート22(22日間)             725,000円
・バリ島・ボロブドールの遺跡と東南アジア(11日間) 385,000円
・デラックス香港・マカオ(4日間)               188,000円

 いずれも料金が高いツアーを紹介しているようだが、香港への安いツアーなら、月給分くらいで海外旅行ができるようになった時代だとわかる。ちょっと無理して、ハワイに新婚旅行という時代の始まりでもある。
 70年代初めに、航空運賃の団体料金が大幅に割引されて、ツアー料金が60年代のものと比べていっきに半額ほども安くなった結果が上記の料金だ。ツアーに参加すれば、以前と比べて海外旅行は身近なものになったが(あくまでも60年代の料金と比べてということであって、現在と比べてという意味ではない)、個人旅行はまだまだ高い。航空運賃が高いからだ。
 そこで、次に当時の航空運賃を紹介してみよう。東京発のエコノミークラス片道運賃である。ちなみに、当時はまだ格安航空券は「知る人ぞ知る」という程度の存在で、旅行業界に強いコネがある人か、私のように貧乏だがヒマがあるという若者が探しまくってやっと見つかるというような存在だった。

 航空運賃
   カトマンズ      170,000円
   カルカッタ      155,000円
   クアラルンプール  122,000円
   ジャカルタ       141,000円
   シンガポール    123,900円
   バンコク        112,700円
   ソウル           34,400円
   ホンコン          77,300円
   グアム          55,000円
   ホノルル       124,100円
   シドニー        230,700円
   カイロ          271,700円
   ナイロビ        266,200円
   サンフランシスコ   154,600円
   ニューヨーク     204,000円
   サンパウロ        309,700円
   ヨーロッパ全都市  312,500円

 ただし周遊料金というのがあって、たとえば14日以上21日以内という規定を守れば安くなるというのだが、安いといっても往復運賃の1割引き程度だから、割安感などない。東京・ホノルルの往復運賃は248,200円で、周遊料金は230,500円だから、その差額はわずか17,700円でしかない。
 この時代に、日本人がタイ旅行を計画したとする。ツアーではなく個人旅行をするとしたら、往復運賃は約23万円だ。現地滞在費も含めて30万円の海外旅行とすれば、3か月分の月給を費やすことになる。現在なら60万円以上の旅ということになる。正攻法ではこういう計算になってしまうから、貧乏だけどヒマはあるという若者は、安い船を探し出したり、学生割引きを探したり、旅行社に通ってコネを作ったりしたのである。

 


アジア雑語林(87) 2004年11月27日

自費出版に期待すること

 大阪のアジア図書館の目録をチェックしたら、読みたい本が1冊あった。何万冊もあるリストのなかでたった1冊かと思うかもしれないが、現実にアジア図書館の棚を点検しても、読みたい本はそう多くなかった。絶えず古本屋巡りをしているし、各種文献目録でも点検しているから、私好みの本はたいてい入手している。
 読みたいと思った本とは、戦前期にインドネシアで生活していた日本人の思い出話を書いたものだった。リストに書いてある内容から、その本が自費出版だとわかった。最近では定価をつけて売っている自費出版物もあるが、その本は市販をしない私家版だとわかった。
 その本をインターネットで調べてみると、いくつかの論文で引用されていることがわかり、資料的にも価値ある本らしいとわかった。その本を読むためには大阪まで行ってアジア図書館で読むか、東京にあるらしい自費出版専門図書館にでかけるしかないらしいので、まだ読んでいない。
 ほとんどの自費出版物というは、ほかの人に読んでもらうために書くのではなく、自己満足のために書くのだから、当然、他人が読んでもおもしろくはない。 読者を満足させるために作った本ではないので、それで目的は達している。しかし、なかには貴重な資料となる出版物もある。
 こんな本があれば読みたいと思う。自分の仕事を振り返った本だ。
 例えば、『八百屋五〇年』とか『クリーニング店五〇年』といった本だ。その業界の歴史、とくに戦後史がわかる本を読みたい。業界全体の話なら、これも自費出版だが業界組合の『五〇年史』とか企業の『○○社八〇年史』といった本がいくつもあるが、個人史と重なった業界史なら、一般読者でも興味深く読めると思う。もちろん、その本の完成度が問題になるが、その点は金儲けだけが目的ではない編集者と出版社の手助けに期待したい。
 八百屋の五〇年史なら、商品の移り変わりや町の変化、スーパーマーケットとの戦いなどテーマはいくつもありそうだ。どの業界でもこういう話はおもしろいはずだ。
 この手の戦後史は、マスコミ業界の個人史ならば数多く発表されている。
 例えば、こんな本。「8時だヨ! 全員集合」のプロデューサーが書いた『8時だヨ! 全員集合伝説』(居作昌果、双葉社文庫、2001年)によれば、著者が現在のTBSに入社した1956年ころだと、ラジオ番組の制作に意欲を示さない社員があると、「テレビに飛ばしてしまうぞ!と怒鳴られたという。映画界でも、役者に「お前、映画をやめて、テレビに行くか」が脅し文句だった。当時のテレビは左遷される部署だったのである。
 ほかの業界でも、「今では考えられないことだが」といった事実がいくらでもあるだろう。アジア文庫関連でいえば、外国語教育業界の変遷などすさまじいものだ。
 自分のカネで本を出すのだから、俳句でも旅行記でも好きな本を出せばいいのだが、もしほかの人にも読んでもらいたい、資料として残しておきたいという意思があるなら、自分の仕事史を書き残して欲しい。自費出版物を扱う編集者諸氏にも奮闘努力を期待したい。

 


アジア雑語林(86) 2004年11月19日

ニッポンが大嫌い

 規制などされずに、できるだけ自由に生きていたいと思う。だから、上司も部下もおらず、勤務時間の規定も社則もない自由業を選んだのだが、日本語のことになると独裁者になりたいという欲望がメラメラと沸きあがってくる。
 いま、ラジオを聞きながらこの原稿を書いているのだが、国会担当の記者が「………民主党の○○氏は、このようなことをなにげに話していますが……」などとしゃべっている。こんな言葉はいやだ。追放したい。いやな言葉は辞書のなかだけにとどめ、音声言語としては追放したい感情にかられる。言葉、とくに話しことばはどんな独裁者でも規制できないものだということはわかるし、国家による言語統制などいやだという理性もあるのだが、あんないやな言葉を耳にすると、怒りの感情をおさえきれなくなるのだ。
 言葉に関心があれば、誰にも嫌いな言葉や表現はいくつもあるもので、「コーヒーのほう、お持ちしますか?」とか、「Aランチになります」といった喫茶店・レストラン用語批判がしばしばマスコミに登場するが、私にとってもっともいやなのは、「ニッポン」である。日本から「ニッポン」を追放したい。
 日本は国名呼称を二種類認めている変わった国なのだが、私は「にほん」に統一したい。「ニッポン」が耳障りなのだ。「にほん」と「ニッポン」の二重呼称の歴史は古くからあるようで、どちらが正しいという結論はたぶん出ないだろう。私も、どちらが正しいかという論を展開したいとは思わない。「ニッポンが嫌い」というのは、理屈の問題ではなく、感情の問題で、したがって論理的な説明などできない。
 「ニッポン」という音を耳にすると、「大ニッポン帝国陸海軍は……」といった、いまなら北朝鮮の放送のような、絶叫するアナウンサーの声が聞こえてくるのだ。「ニッポン」という音の背後に、軍服や軍刀が見え隠れするのである。
 いくつかの資料を読むと、NHKでは国名は「ニッポン」に、その他の場合は適当にという取り決めがあるようなのだが、実際にはニッポン派が勢力を伸ばそうとしているように思えてならない。先日見ていたNHKのある番組では、「ニッポン語」「ニッポン料理」などと、すべての日本を「ニッポン」と発音していた。あれは嫌がらせとしか思えない。
 私の語感では、「日本」がつく語はすべて「にほん」と発音してもなんら問題はないのに対して、「ニッポン」にしたほう方がいいと思えるものは何ひとつない。あなたは、こういう日本語に違和感はありませんか。
 ニッポン式庭園
 ニッポンそば
 ニッポン地図
 ニッポン舞踊
 ニッポン美術史
 放送局が「ニッポン」と呼びたがるけれど、にほん人、にほん語、にほん大使館でなんの問題もない。それなのに、「ニッポン」と呼びたがるのは、「そう読め!」というおカミの意向があるからだろう。そのほうが勇ましいからという理由によるものだろう。だから、「ニッポン」が武であり、「にほん」は文という気がする。スポーツ関係者は武を好み、かつ、おカミに弱いという体質があるから、「ニッポン」を使いたがるのだろう。
 私のこの意見は、けっして少数のものだとは思わない。「ニッポン放送」といったような固有名詞を除けば、NHKなど放送局の方針とは違って、日常生活では「にほん」と発音することの方が多いような気がする。
 政治家や役人が大好きなニッポンを、一日も早くこのにほんから駆逐したい。

 


アジア雑語林(85) 2004年11月9日

英語が先か日本語が先か

 将来、日本人が国際社会で充分に活躍できるように、小学校から英語を教えるべきだなどと言い出す人が少なからずいる。あるいは、小学校ではすでに遅いから、幼稚園から始めるほうがいいという人もいる。そういう人は、よほど物事を考えない人か、たんなる西洋コンプレックスのかたまりだとしか思えない。
 国際会議の運営に長らくかかわっってきたという日本人が、こんなことを言っていた。「国際会議、とくにアジアの会議を成功させるには、インド人出席者の口をどれだけ封じられるかであり、日本人出席者の口をどれだけ開けさせるかということです」
 インドを旅したことがある人なら、インド人の質問好きと議論好きに出会って、閉口した経験があるだろう。それはともかく、インド人やシンガポール人やフィリピン人が会議でよく発言するのに対して、日本人がおとなしいのは英語が不得意だからと説明する人がいる。この意見には大方の賛同を得られそうだが、じつはまったく説得力がない。
 日本国内の会議を考えてみればいい。企業でも役所でもいい。そういう場の会議に私は無縁なのだが、おそらく、たいていはこんな具合だろう。上司が一方的に話し、部下がメモをとっているだけ。あるいは、発言はあるが、発言者はほぼ決まっていて、大多数はずっと無言のまま会議が進行する。そして、会議が終わってからの酒場で、あーだこーだと不満を口にする。あるいはまた、根回しができていて、会議をやる前にすでに結論がでているというような会議。
 こうした会議で発言しない人は、日本語が不得手だからだろうか?
 その点に気がつけば、国際会議で日本人の発言が少ないのは、外国語力の問題ではないとすぐにわかるはずだ。日本語の会議でも、出席者の多くは発言しないのだから、言葉の問題ではない。会議で発言しない人がいくら英語を学んでも、国際会議の談論風発の輪に加われるわけはない。日本語できちんと発言できない人は、当然英語ででも発言できないのだという単純な理屈が、早期英語教育派はなぜ理解できないのだろうか。英語さえ学べば、そしてアメリカ人の発音に少しでも近づければ、国際社会で堂々と意見を述べることができるという幻想は、残念ながらなかなか消えない。
 だから、まず必要なのは、ある事柄に関する知識であり分析力であり、判断力だ。次に、それをきちんとわかりやくい言葉で伝えられる日本語力だ。人前で話す能力だ。例えば、論点を30秒でまとめて、意見を言える能力である。英語を学ぶのは、そのあとでいい。
 アメリカに留学したことがある人の話では、学校の授業や職場の会議で発言しない人は考える能力のない人間だと見なされるので、「無能」の烙印を押されたくないために、意見などなにもないのに発言を求め、たんなる感想を口にする人もあるそうだ。自己主張の国で、主張したい自己がない人はつらいのである。
 もしも、「無言は無能だ」とされるのが国際社会ならば、「遠慮」「控え目」「奥ゆかしさ」「和」といったことを美徳とする社会とはいったん縁を切らなければいけない。つまり、日本人社会で「いやなヤツだ」と言われるような人間にならなければいけないのである。「オレが、オレが!」の社会の住人にならなければいけないのである。
 日本の会議で発言者が少ないのは、「和を乱してないけない」とか「若輩者はおとなしくしているべき」といった”伝統”や、「発言すると責任をとらされるから黙っていよう」といった感情があるからでもある。日本人に思考力がないというわけではないが、思考した結果を会議で発言していいのは、限られた者だけの権利だという長幼の序や男女差別意識が会議を支配している文化で育っていれば、いくら小学校から英語を教えても効果はない。
 義務教育で求められる英語力というのが、旅行中に道をたずねる程度の会話力というのであれば、英会話学校に行けばいいのだ。小学校で、他の教科の授業時間を削って英語を教える必要はない。仕事で使える英語力を求められるなら、仕事ができる能力をつけることがまず必要であり、次に仕事で立派に使える日本語力を鍛えることであり、英語に力を入れるのは、そのあとでいい。

 


アジア雑語林(84) 2004年10月30日

ベトナム戦争と恥ずかしいタイトルの映画

 ビデオデッキを買ったばかりのころは、録画の操作にときどきミスをしていた。放送日や放送時間や、放送局のチャンネル番号を間違えてセットしたことが敗因である。Gコード予約ができるようになってミスはかなり減ったが、それでもまだやってしまう。間違える原因は、「標準」と「3倍」の操作ミスと、放送時間の読み違いだ。
 「3倍」なら、このテープの残りの部分に入るなと思ってセットしたら、「標準」で録画され、番組の大半が録画されなかったというならまだ諦めもつくが、「まあ、たぶん大丈夫」と残量を確かめずにセットして、番組の最後が切れているときにはがっくりする。とりわけ、映画を録画した場合のショックは大きい。「グラン・ブルー」もその被害にあって、2度目の録画でやっと成功した。
 あの映画もそうだった。後半の、いよいよ盛り上がる直前に、画面が突然テレビに変わり、テープが猛烈な勢いで巻き戻された。私の勘よりも、15分か20分くらい放送時間が長かったらしい。その映画は、地上波の深夜放送で、放送日の新聞の紹介記事で、ベトナムが舞台になっているというだけの理由で、とりあえず録画しておいたものだった。
 ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画だが、戦闘場面はなかった。それが気に入って、楽しんで見ていたのだが、結末がわからない。ストーリーは、不良アメリカ兵が、ひょんなことから(どんないきさつだったか思い出せない)ベトナムの孤児院を個人的に援助することになり、軍の倉庫から食料や生活必需品を盗みだして、孤児院に運んでいる。そういう話だった。映画はそのままでは終わらないはずだが、結末がわからない。地味な映画で、有名な俳優は出演していない。少なくとも、私が知っている俳優はいなかった。監督の名前はもちろん、タイトルも覚えていない。放送日までタイトルさえ知らなかったのだから、おそらく話題にはならなかった作品だろう。
 その映画がずっと気になっていたのだが、タイトルさえわからないのだから、調べる手立てもなく、わからないままになっていた。10年か、あるいはそれ以上前の話だ。
 先日、1950年代のある日本映画が気になって調べているときに、あのベトナム戦争映画のことを思い出し、インターネットで調べてみることにした。すぐさま、ベトナム戦争を舞台にしたアメリカ映画のリストが見つかった。すでに見ている映画を除いて、それらしいタイトルの映画の内容をチェックしていったが、簡単には見つからない。まだ調べていない映画のなかから、「まさか、これじゃないよな」というタイトルの映画をチェックしたら、当たった。私が記憶していたとおりのストーリーだ。67年のサイゴンが舞台だった。
 その映画の日本タイトルは、笑うぞ。
 「戦場の小さな恋人たち」。まあ、なんとも、困ったタイトルだ。
 原題は“Don't Cry It's Only Thunder”
 1981年のアメリカ映画 
 監督 ピーター・ワーナー 
 出演 デニス・クリストファー、スーザン・セント・ジェームズ
 監督も俳優も聞いたことがない名前だ。スタッフリストに「制作総指揮:辻信太郎、テリー荻原、河原井敬一」とある。辻信太郎の名に記憶がある。確認すると、サンリオの社長だとわかった。だから、「サンリオ映画配給」の映画だったのか。
 ビデオもDVDも入手できないようなので、結末も書いておこう。主人公の陸軍1等兵ブライアンは、ベトナムの孤児アンを養女としてアメリカに連れて帰ろうと、手続きに出かけるが、そのとき「ベトコン」が仕掛けた爆弾でアンは死亡。ブライアンはひとり帰還する、ということらしい。そもそも孤児を助けることになったきっかけは、戦友の遺言だったらしいのだが、この部分の記憶はない。
 決して名作ではないが、深夜に偶然発見して見る映画としては、そんなにひどくない。もちろん、批判的に見ればいくらでも批判できるが、若きジャック・ニコルソンあたりがやれば、ちょっといい映画になっただろう。というのは、「さらば冬のかもめ」(73年)の連想だ。見ました? ちなみに、この「さらば冬のかもめ」の原作者ダリル・ポニクサンは、癖のある軍人を描いた小説『シンデレラ・リバティー』(角川書店、1974年)の作者であり、ジェームズ・カーンが主演した同名の映画(73年)では脚本も書いている。これが、私が好きな数少ないアメリカの小説だ。ちなみに、「さらば冬のかもめ」の原作は、日本では『さらば友よ』(角川文庫、1975年)というアラン・ドロンの映画のような日本題で出版されている(原題は、The Last Detail)。

 


アジア雑語林(83) 2004年10月19日

東ティモールとポルトガル語

 インドネシア研究ではよく知られた学者が、国際交流基金アジア講座で東ティモールの話をした。
 その学者は、東ティモールの苦難の歴史と独立達成の喜びを語っていたが、私は懐疑的にその話を聞いていた。かつてポルトガルの植民地だった東ティモールは、ポルトガルの手を離れたあとインドネシアに編入された。インドネシアの政府と軍は、独立の動きを封じるために、東ティモールで乱暴狼藉をはたらいた。そういう歴史があるから、インドネシアから独立すること自体に反対しているわけではないが、研究者なら将来の経済的展望にも言及すべきだと思った。もうひとつ、公用語の問題も気にかかっていたので、講義終了後の質疑応答の時間に、私は次のような質問をした。
「東ティモールは大油田地帯ではないし、ダイアモンドや金の大鉱山があるわけでもありません。大観光地でもありません。だからこそ、インドネシア政府は独立を認めたわけですが、東ティモールの独立後の経済についてどう考えますか」 この質問に対する学者の解答は、驚くべきものだった。
「あそこはコーヒーの産地です。だから、経済的にもなんの問題もありません」
 コーヒー栽培だけで国家経済が成り立つなら、コーヒー生産国はみな豊かになっている。経済的に見れば、インドネシアの東ティモール支配は赤字だった。道路や学校の建設にカネを使っているが、その支出を上回る税収があったわけではない。諸外国の援助なしには国家経営が成り立たないのだ。西欧世界が東ティモール独立に暖かい視線を送っていたのは、イスラム教国からキリスト教徒居住地域が独立するからであって、もしその逆だったら、西欧世界は冷ややかに見ていただろう。そういうことも踏まえて、独立問題を語るべきなのに、その学者は一切触れなかった。
 公用語に対する質問というのは、こういうことだ。
 東ティモールには、10を越える少数言語があるが、共通語としてテトゥン語がある。インドネシア支配時代には学校教育ではインドネシア語が使われてきた。テレビやラジオの言葉もインドネシア語だ。だから、住民たちは場によって、この3言語を使い分けてきたわけだ。独立にさいして、公用語を決めなければいけなくなった。選択枝は次の3つだろうと私は思っていた。

1.テトゥン語にする……話者は多いから日常生活では混乱はないが、教育や行政の言語ではないので、実現は難しい。
2.インドネシア語にする……憎きインドネシアの言葉など使いたくないだろうが、名を捨て実をとるという柔軟な考えなら、これが一番実現性がある。国民の負担も少ない。
3.英語にする……当分の間はテトゥン語との併用だが、しだいに英語の重要性を高める。シンガポールのやり方だ。

 独立して、政府が選んだ言語はなんとポルトガル語だった。独立運動の活動家たちはポルトガルに亡命していたから、ポルトガル語には不自由はないだろうが、国民の大多数にはまったくなじみのない言語だ。独立しても、家庭では従来どおり少数言語を使い、広い地域では共通語としてテトゥン語を使い、インドネシアとは国境を接しているから、引き続きインドネシア語は必要で、学校では英語も覚えなければならないだろう。それに加えて、公用語としてポルトガル語の学習である。これは無茶だと思ったので、その学者の意見を聞きたかった。こんな解答だった。
「ポルトガル語は、ポルトガルはもちろん、ブラジルでも使っているちゃんとした言葉です。問題ないでしょ」
 ポルトガル語がブラジル以外にも、サントメ・プリンシペやガボ・ベルデやアンゴラなどで使われているのは知っている。それが、ポルトガル人も理解できないほどに変容しているのも知っている。しかしだ、「ちゃんとした言葉だから、問題ない」は、ないでしょ。楽観的なのにも程がある。大反論を展開したかったが、時間的に一問一答しかできないようなので、遠慮せざるをえなかった。
 のちに、あるジャーナリストにこのときの話をすると、経済問題について彼はこう言った。
「戦後独立した国で、経済的に外国の援助なしに国家経営している国なんて、産油国でもなければほとんどないですよ。とくにアフリカや太平洋地域なんかそうでしょ。だから、政治的に独立するというのは、たいていの場合、『経済など全面的に援助をよろしく』という意味なんですよ」
 こういう説明ならわかる。コーヒーを売れば、それで国家経済が安泰などと考えている経済音痴の学者が実在することがわかっただけでも、あの講座は価値があったとするべきか。

 


アジア雑語林(82) 2004年10月12日

ポルトガルでインドネシア語

 ポルトガル北部の街ポルトの商店街を歩いていて、ある商店の看板に目が止まった。
 SAPATOS
 どこかで目にした記憶がある。その看板を見て思い出したのは、インドネシア語のSEPATUだ。意味はどちらも「靴」だ。インドネシア語には、アラビア語やオランダ語からの借用語が多いということは知っていた。オランダに行ったとき、知っているインドネシア語が、じつはもとはオランダ語だったとわかった。インドネシア語では警察をPOLISI,出入国管理はIMIGRASIというが、これは英語のPOLICE、IMIGRATIONのインドネシア語訛りだと思っていたが、じつはオランダ語そのままだったのだ。歴史的経緯からして、インドネシアにオランダ語が数多く入っているのはわかる。ポルトガル語からの借用語が多少あっても不思議ではないが、具体的には知らなかった。
 さっそく辞書で調べてみると、いくつか見つかった。ポルトガル語MESA(テーブル,発音はメーザ)は、インドネシア語ではMEJA。同じく、JANELA(窓)はインドネシア語ではJENDELAになる。
 日本にもポルトガル語からの借用語が多い。パン、カッパ、カルタなどはよく知られている。現在ではもはやセッケンを「シャボン」とは呼ばなくなったが、「シャボン玉」の語で残っている。これも、もとはポルトガル語だ。
 さて、そのシャボンだ。タイ語を習っているとき、セッケンは「シャブー」だと知って、その語源がすぐわかった。大航海時代のポルトガルの影響を受けているのだ。インドネシア語でもSABUNだから、これも同じだろう。そう思っていた。
 ある日、テレビでシリアのセッケン作りのようすを報告していた。シリアは、オリーブを原料にしたセッケンの産地として、セッケン愛好家の世界ではかなり有名な地らしい。
 テレビでは、男がカメラに向かって、セッケンの作り方を説明している。もちろんアラビア語だから、字幕がでている。男の話に気にかかる語があることに気がついた。何度も「サボン」と言っているように聞こえるのだ。その番組はうまい具合にビデオに録画していあったので、何度か繰り返して、男の話を聞いた。たしかに「サボン」と言っている。字幕との関連で、それがどうやらセッケンのことではないかと想像した。アラビア語よ、おまえもか。アラビア語もポルトガル語を借用していたのだろうか。
 腑に落ちないので調べてみると、セッケンの原形はメソポタミアで生まれたものらしく、異説はあるが、どうやら「シャボン」の語はアラビア語起源と考えられるようだ。おそらく、インドネシアにはアラビア語のまま伝わり、タイや日本はポルトガル経由で入ってきたということだろうか。語源や物の移動経路というのは、俗説が多く、正確な情報はなかなかわからないのだから、私のこの話も正確さに自信はないとお断りしておく。

 


アジア雑語林(81) 2004年10月2日

世界と出会ったとき・1970年 インドへ行く?

 高校の1年上の生徒が、アメリカに1年留学した。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)という制度の留学だった。彼は帰国して、私と同学年になった。外国のことに興味がありながら、その生徒とほとんど話をしなかったのは、私とクラスが違ったからというだけでなく、「なんだ、アメリカかあ。おもしろくなさそうだな」という感情が1割、英語で授業を受け、英語で生活をしてきたという事実に対する気後れが9割あった。
 私が通っていた高校には、英語と数学の2科目に限って、「できるクラス」と「できないクラス」があった。実際にどう呼んでいたかは覚えていないが、事実としてそういうクラス分けをしていた。私は英語も数学も「できないクラス」のなかの、「とりわけできないグループ」に属していた。将来の旅行にそなえて、英会話の本は読んでいたし、歌詞の翻訳などを楽しんでやっていたが、受験にしか役立たない英語の勉強などする気はまったくなかった。だから、ひどい成績だったのである。
 高校3年の、たぶん夏休み前のことだったと思う。ある日の放課後、担任に呼び出された。呼び出しを受けるほどの、悪事をした心当たりはない。教員室に行くと、教師が待っていた。
「あのう、なんでしょうか」
「うん、あのなあ、おまえ、インドに行く気はあるか?」
「はあ?」
「インドだよ。こんなものが学校に届いててな……」
 教師は机の引き出しから書類を取り出した。
「インドへの留学生募集の書類だ。もし、おまえがインドの大学で勉強したいというなら、応募書類を作ってやるけど、どうする?」
「はあ……」
「どうする。試験を受けてみるか」
「いえ、あの……」
 日本語で授業を受けているいまでも、成績がわるい生徒だ。自慢じゃないが、我が英語力は、「できないクラス」の「とりわけできないグループ」の一員である。インドでの英語の授業に歯が立たないという以前に、留学生試験のレベルにも遠く及ばないのは明らかだ。弱小野球部のタマ拾いに、「プロ野球のテストを受けてみるか」とたずねているようなものだ。受験の準備をするだけ無駄というものだ。
「いえ、あの、試験を受ける気はありません」
「そうか。わかった。じゃあ、これで」
 教師は私が外国に行きたいという夢を抱いているのは知らないはずで、なぜインド留学の話を私に持ってきたのか、その理由はわからない。たぶん、変わったヤツだから、変わった国に行ってみたいと思っているのではないかと想像したのだろう。
 ありえない話だが、もし無試験で留学が可能だとしたら、あのとき、はたして行っただろうか。1970年の高校生にとって、外国ははるか遠く、しかも旅行ではなく留学となれば勉強しなければいけない。外国語での授業だ。だから、例え無試験でしかも奨学金つきであっても、留学しなかっただろうと思う。冷静に考えればそうなのだが、心に一抹の寂しさもある。「この意気地無し。留学生試験まで懸命に努力して勉強し、それでダメならダメでしょうがないじゃないか。試験を受けるだけでも、受けてみればよかったじゃないか」。そういう声が心の底で聞こえるが、「はい、私は意気地なしです。『懸命に』とか『努力』という言葉にふさわしくない生き方をしているのですよ」と居直りたい気もある。人生は、青春ドラマのようには展開しないのだ。それに、インドの大学で勉強したいことなど、なにもなかったし。
 インドという国を初めて意識したのはいつなのか、わからない。しかし、読書歴ということでいえば、あの出来事のあとインド関係の本を読んでいる。『インドで考えたこと』(堀田善衛、岩波新書)と『インドで暮らす』(石田保昭、岩波新書)というお決まりの2冊以外に、『インド史』(山本達郎、山川出版社)という高い本も買って読んでいる。
 1970年の「留学事件」から3年後、私はインドへと旅立った。なぜインドに行ったのか。これがわからない。実際にインドへ行くまでの3年間に読んだインド関係の本は、先に挙げた3冊きりで、「非常におもしろかった」という読後感はなかったと思う。だから、それらの本に誘われてインドに行ったとは思えない。ラビ・シャンカルのシタールはすでにラジオで聞いていたはずだ。ビートルズがインドに行ったのも知っている。しかし、インド音楽とビートルズに誘われたとは思えない。長髪ではあったが、ヒッピーになりたいなどとは思わなかったし、その思想に共鳴することもなかった。共鳴どころか、ヒッピーとはどういうものか勉強してみようという気もなかったから、ヒッピーについてなにも知らなかった。
 私をインドへと誘ったものがなにか、あえて考えてみると、「本場でカレーを食べてみたかった」という理由が、どうも真実に一番近いような気がする。もうひとつ理由を無理やり挙げてみれば、中学3年生のときに「ソビエトに行きたい」と思った理由と同じように、「変わった国らしいから、おもしろそうだ」と思ったのかもしれない。
 1973年に引き続き、翌74年にもインドに行っているのだが、それは東南アジア旅行のおまけのようなものだった。というわけで、私と東南アジアとの関わりの話は、いずれかの機会にということで、この話は終わる。

 

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