前川健一 著作一覧

アジア雑語林(71)〜(80)

アジア雑語林(80) 2004年9月24日

世界と出会ったとき・1960年代 テレビのなかの世界

 自分が子供だったときから、子供が好きではなかった。子供向きのテレビ番組も、あまり見ていない。「隠密剣士」や「ひょっこりひょうたん島」などは見たことはあるが、熱心に見ていたわけではない。
 毎週楽しみに見ていたのは、NHKの夜7時半からの番組だった。「新日本紀行」、「現代の映像」、「NHK海外特派員報告」、そしてほかにも海外取材番組があった。7時のニュースの流れでそのまま見るという選択ではあるが、ほかのどの番組よりも、こうした紀行番組やルポルタージュ番組が好きだった。
 こういた番組が始まったのは、東京オリンピックの時代からだが、オリンピックと直接強い関係があったかどうかわからない。日本人の視野が海外に向いた時代だから、特派員による取材番組を放送しようというのではなく、おそらく64年から始まるアメリカ軍のベトナム攻撃、そしてパレスチナ問題といった国際問題を扱う番組を作ろうということだろうし、そういう取材が可能な程度には日本の経済事情が良くなってきたということだろう。
 2003年は、NHKのテレビ放送50周年記念として、過去のさまざまな番組が再放送された。そのなかに、私が好きだった7時半からの番組もあった。久し振りに見ると、暗い音楽と暗い映像の番組だったと改めて感じ、中学生がよくもあんな暗くまじめ一方の番組を見ていたものだと思うが、それは本でも同じことで、中学生時代に読んでいた本をいま手にすると、文庫も活字が小さく、よくもこんなややこしい本を読んでいたものだと我ながら感心するのにも似ている。画面が暗いといっても、まだビデオがなく、16ミリ白黒映像の時代なのだから、それは当たり前のことで、当然、当時はなんの疑問も感じなかった。
 1960年に放送が始まった「兼高かおる 世界の旅」は、そのお上品さが肌に合わず、あまり見ていない。兼高の旅番組が上流階級の優雅な旅だったのに対して、66年に放送が始まった「すばらしい世界」は、文化人類学の学者が引率する大学探検部の遠征のような番組だった。私にはこの方が肌に合ったものの、毎週楽しみにして見たわけではない。それは、たぶん、当時すでに秘境よりも都市文化のほうに興味を持っていたからではないかいと思う。「オセアニア、××島の○○族の祭り」のシーンを30分見せられるよりも、洗濯物が天を覆うナポリの下町風景の紀行の方が好きだ。それはいまでも変わらない。
 中学3年のときの社会科の授業のときだった。教師が「もし、外国に行けるとしたら、どこに行きたい?」と生徒に質問したことがある。1967年だから、規則の上では誰でも自由に外国に行けるようになっているが、中学生はもちろん、その教師の給料でも、外国は遠い遠い彼方の世界にあった時代だ。
 教師の質問に答えた生徒は数人だけだった。記憶にあるのは、ひとりの女生徒の夢だ。
「スイスです」
「なぜ、スイス?」
「『アルプスの少女』の世界に行ってみたいです。屋根裏部屋で寝てみたいです」
 私は行きたい国を答えた数人のひとりだった。
「ソビエトです」
「なんで?」
「変な国だと思うからです」
 ソビエトに行きたいなどという中学生は、親が共産主義をたたき込んでいるのだろうと誤解されそうだが、共産主義にあこがれたのではなく、どうもインチキ臭い国だから、公式発表ではない現実の世界を見てみたいと思っていたのである。だからといって、反共主義的な本を読んでいたわけではなく、ジャーナリストのソビエト紀行のような本を読んでいた。
 ソビエトに興味を持っていたのは中3の1年間だけで、高校生になると、特定の国への興味はなくなったが、その分、世界各地に関する本を読んでいた。どうやったら日本を脱出できるかといった若者向けのガイドブックや、ヨーロッパで皿洗いをやってカネを稼ぎ、ヒッチハイクで旅をするといった旅行記も何冊か読んだ。実際に旅をしている若者がいることがわかった。私も、いつか外国に行けそうな気がした。どこか特定の国に行くというより、とにかく日本を出てみたいと思っていたのだろう。

 


アジア雑語林(79) 2004年9月15日

世界と出会ったとき ・1960年代 東京オリンピック

 私にとっての1960年代は、小学2年生から高校2年生までだ。
 初めて地図帳を手にしたのは、多分、小学4年生だっただろうと思う。4年生の教室で地図帳を広げている自分の姿に記憶があるのだが、その地図帳が授業で使ったものなのか、それとも姉が使っていたものをもらったお古なのか記憶にないが、地図を眺めているのが好きだったのははっきりと覚えている。世界地図を眺めて、エベレストの次に高い山を探したり、ナイル川の流域を目で追ったり、友人が首都名を言い、私がその国を探すといった遊びをしているうちに、世界の国の名前とだいたいの位置はわかるようになった。
 できれば、自分と同じ建設機械の技術者に、それがダメなら建設会社の事務系サラリーマンになって欲しいと願う父の期待を見事裏切り、機械は嫌い、算数も理科も嫌い、社会科が好きという少年になっていた私にとって、地図を眺めているのが楽しかった。野球にも、プラモデルにも、ベーゴマにも関心を示さない少年は、本と地図を友だちにしていた。
 暗記が嫌いな私は、地図を眺めて、世界の国名と首都をすべて暗記しようなどといった努力はしなかったし、地図の歴史や種類などといったことにも関心がなかったから、地図少年にも地理少年にもならなかったが、地図を眺めるのは今も好きだ。
 小学校高学年に読んでいた本は、現在と同様にさまざまな分野にわたっているが、筋を探せば、古代文明とか世界の七不思議を追うといったテーマの本で、すでに外国に興味があった。中学に入ると、読書傾向が大きく変わる。外国のことを扱った本という点では同じだが、時代が現代になった。その理由は、色気づいたからだ。死に絶えた世界のことより、人が今生きている現在の世界のほうがおもしろそうだった。
 この文章を書いていて初めて気がついたのだが、古代文明よりも現代文明のほうがおもしろそうだと気がついた直接のきっかけは、たぶんオリンピックだろうと思う。1964年の東京オリンピックである。
 アジア最初のオリンピック、日本を世界に宣伝する絶好の機会であるオリンピックに、日本のマスコミは浮かれていた。外国とはなんの関係もなく過ごしてきた普通の日本人の前に、日本人になじみのない国の人が姿を見せ、映画俳優でもない外国人が脚光を浴びる光景を見た。あのときほど外国人がテレビに姿を見せたのは、それ以前にはなかったことだ。
 オリンピックは、いまはスポーツの競技大会だが、東京オリンピックの時代の日本人にとって、あれはサーカスであり、バラエティーショーであり、はっきり言えば人種博覧会でもあった。かつてのヨーロッパでは、植民地から連れてきた「珍しいアフリカ人やアジア人」を見せ物にしたのだが、東京オリンピック時代の日本人にも同じような影響があったように思う。まったく知らない国から来た人たちの、まったく知らない競技を見る日本人には、選手の奇異な風貌と珍奇な名前が印象に残った。奇異な風貌というのは、顔つきといったことだけでなく、その筋肉であり毛むくじゃらの体でもあった。だから、アベベのような大会前から有名だった選手だけでなく、陸上100メートルのボブ・ヘイズの名は、その筋肉質の体とともに覚えている。重量挙げのジャボチンスキーや、砲丸投げのタマラ・プレスもその巨大な体とパワーと、日本人にとっての珍名で記憶に残った。タマラ・プレスの場合は、市川崑の記録映画「東京オリンピック」で、砲丸を耳の下に構えたとき、ロシアの深い森が脇の下に見えたという光景が日本の少年の目に焼きついている。
 スポーツファンではない私にとって、東京オリンピックというのは、世界にはさまざまな国があり、さまざまな姿をした人が住み、さまざまな名前を持っているという事実を教えてくれた行事だった。開会式のときの、民族衣装をまとったアフリカの代表の姿に胸がときめき、「独立したばかりの……」とアナウンスする声に、独立というものを知らない国の少年である私は、アフリカの国々にどんな歴史があるのだろうかと思った。これは、地理の少年が、オリンピックを見たことによって、世界の文化や政治、社会や歴史に関心がある少年へと変貌していったということである。私にとっての「世界」が、地図帳から出て、現実の社会へと関心が広がったということだ。現在から振り返って考えれば、こういう偉そうなことになって恥ずかしいのだが、まあ、事実としてそういうことなのだろうと思う。地図に描かれている世界を、実際に見てみたくなったのである。

 


アジア雑語林(78) 2004年9月6日

世界と出会ったとき ・ 1950年代 ラジオとともに

 雑誌のインタビューや知人との雑談で、「どうしてアジアに興味を持ったんですか」と聞かれることがたまにある。
「いやあ、たまたまですよ。とくに理由なんてありません」
 いつもそう答えるのは、そう答えるしかないと思うからだが、自分の行動の理由をあらためて考えてみるなんてのは面倒だという思いもある。冷静に考えて行動してきたわけではなく、やりたいことをやってきただけだ。歴史的な大事件をきっかけに、アジアに興味を持ったというわけではまったくないのだが、戦後日本人の海外旅行史を考えていたら、時代という環境が私に与えた影響も大きいのではないかと思うようになった。日本人と外国文化という一般論ではなく、私個人の異文化接触の歴史である。
「父の仕事の関係で、少年時代はベルギーで過ごした」ということはなく、「父が貿易商だったために、我が家にはしょっちゅう外国人が訪れていた」ということもない。父は戦争で中国に行き、母は上海で育ったが、家に中国の香りはまったくなかった。母は、中国料理を作ったことはなかった。日曜日には教会に行き賛美歌を歌うということもなく、身近に外国はまったくなかった。
 私は1952年に東京で生まれたのだが、50年代のほとんどは奈良県の山村で過ごした。父が土木の技術者だったせいで、ダムの建設工事のために山村に移り住んだのである。子供時代というのは、出来事のあとさきがはっきりしないものだが、記憶の残るもっとも古い「外国」は、父が作ったラジオから流れていた。
 そのひとつはアメリカ音楽である。ジャズやカントリー&ウエスタンであり、映画音楽であり、ロックンロールもあった。日本人歌手が日本語で歌う翻訳ポップスもあった。もちろん日本の歌も流れていた。あらゆるジャンルの音楽を熱心に聞くというわけではないから、特定の番組名は覚えていないが、たえず音楽を体に感じていたという記憶はある。ラジオのダイヤルはNHKに合わせたままで、スイッチを入れたらさまざまな音楽が勝手に流れてきたというだけのことだ。春日八郎とフォーシーズンズを同時に聞くような音楽生活は、当時はけっして珍しいことではなかった。ただ、それを覚えているということは、当時から音楽には興味があったということだろう。
 もうひとつ、ラジオで感じた異文化は、外国の地名がよく登場した「尋ね人」のコーナーだった。戦前から戦後にかけて、消息がつかめない家族や友人知人に呼びかける番組だった。そのなかでしばしば聞いたのは、満州を初めとする中国の地名や、戦地であった東南アジアの地名だったような気がする。「気がする」というだけで、本当にそうだったのかはわからない。外国の地名に精通していたわけでは無論ないが、音の響きが日本の地名ではないものがあったという気がする。
 1960年のローマ・オリンピックのときには、我が家にはすでにテレビがあったのだが、テレビでオリンピックを見た記憶はない。もとより生中継の時代ではなく、ニュースフィルムで見たはずなのだが、ローマ・オリンピックの記憶は雑誌「サングラフ」のなかにある。中山の水泳、小野の体操、アベベのマラソンは、写真で記憶している。サン出版社が発行していたこの月刊ニュース雑誌を、なぜ我が家で毎月購読していたのか、その理由はわからない。母にたずねても「きっと、父さんが購読を勧誘されて、つきあいで半年か一年の購読を決めたんじゃないかしら」というだけだが、この雑誌で世界の出来事を写真で目にしたはずだ。絵本も学習雑誌もマンガ雑誌もない家庭だから、サングラフは私が初めて読んだ雑誌なのかもしれない。「読んだ」といっても、幼稚園児でも手紙が書ける昨今の子供と違い、小学校に入って初めて文字を習う子供の読解力など大人用の雑誌に対しては無きに等しいもので、雑誌の「写真を眺めた」というのが正しい。
 あれは幼稚園か小学1年生のときだったか、記憶がはっきりとしないのだが、近所のK君の家の前を通りかかったら、結婚式のような儀式をやっているのが見えた。その家にいる人の服装が見慣れぬもので、色遣いもなじみのないもので驚いた記憶がある。電球の赤い色のなかに別世界を見たような気がした。
 のちに、東京の御徒町駅近くの朝鮮・韓国人街の生地屋で、あのとき見たのと同じような生地を発見し、K君、つまり金田君の名前から考えて、彼が在日朝鮮・韓国人だったのだと気がついたのは、高校生になってからだ。
 幼稚園や小学校低学年のころの私は、近所の特定の友人とだけ遊んでいて、2年終了で転居したから、級友の名前も顔もほとんど覚えていない。それなのに、親しくもなかった金田君の名と顔をはっきり覚えている。とくに変わった少年ではなく、泣き虫のおとなしい子供だった。クラスにちょっとかわいいなと思う女の子がいて、その子の家に遊びに行った記憶もあるのだが、その子の名前も顔も覚えていないのに、金田君のことだけは不思議に覚えている。
 山村でダム工事が始まり、私の一家のように外部から山村に移り住んだ工事関係者は多数いた。そのなかに、在日朝鮮・韓国人も少なくなかったと思われる。村に「朝鮮漬け」という名のキムチが広まり、父が内臓の料理を覚えて家でみずから作ってくれたことも何度もあった。いわゆるホルモン焼きというものだが、おそらく仕事仲間に教わったものだろう。

 


アジア雑語林(77) 2004年8月28日

国名もむずかしいが

 なしくずし的に、テレビやラジオでは平気でかの国を「北朝鮮」と呼ぶようになったが、そこに法律や条約や規則の改訂があったわけではない。国民の反北朝鮮感情に乗じただけだろう。
 朝鮮半島の北の国を北朝鮮と呼ぶなら、南も南朝鮮と呼ぶのが論理的で、おそらく多くの国ではそれぞれの言葉で、「北」と「南」といい分けているはずだ。「国交がないから、ただ北朝鮮と呼んでいるにすぎない」というのであれば、かつての「西ドイツ」「東ドイツ」という呼称はどうなんだということになる。つまり、筋論では、それぞれの国を「朝鮮」「韓国」と呼ぶか、「北朝鮮」「南朝鮮」と呼ぶべきだろう。そうならないのは、政治的思惑があるからだ。
 ビルマを「ビルマ」と呼ぶか「ミャンマー」と呼ぶかという違いは、軍事政権を積極的であれ消極的であれ、支持するかどうかの踏み絵になっている部分もある。
 こうした政治的理由ではなく、ただたんに「むずかしい」と思うことのほうがじつは多い。外国語での呼称の場合だ。日本では基本的に、国名は現地語に近い発音で表記することにはなっているが、「イギリス」のように慣習にならう場合もある。旅先で、さまざまな国から来た旅行者たちと話をしていいて、「イギリス」と言おうとして言葉につまることがあった。「イングランド」というのは変だ。イギリスには、イングランドのほか、スコットランドやウェ−ルズ、そして北アルランドもあるわけで、その一地方だけの名称を国名に使うのはまずそうだ。かといって、正式国名は長すぎるし、ブリトゥンかUKか、どれがふさわしいのか考えてしまったことがある。
 国名よりももっとむずかしいのが、英語で表現する場合のJapanに対するJapaneseにあたる形容詞形だ。日本語なら、国名のあとに、〜語、〜人、〜風のという語をつければそれですむ。ギリシャ語、ベルギー人、カンボジア風の、というように造語できるが、英語ではそういうわけにはいかない。英語のテレビニュースや新聞でたまたま知って、「ああ、そういうのか」とやっとわかったということも多い。イラク・イラン戦争のときに、IraqはIraqiになると、初めて知った。
 というわけで、英語の辞書を引いて少し調べてみた。本当は全世界の国名をチェックしたかったのだが、ほとんど知られていない国は出ていないので、わからなかった。ふだん英語を使っている人は、知らない国のことに言及するときはいちいち辞書で調べるのだろうか。Myanmarなんて、古い辞書には出ていないだろうから、その形容詞形をどうやって知るのだろう。
 landの場合で、まずひっかかった。Thailandの場合はThai,Switzerlandの場合はSwissとなる(国名としてSwissを使うことも多いと思う)。FinlandはFin。それならば、New ZealandはNew zeaになるかというと、New Zealanderである。これは、もともとオランダのジーランドにちなんで名付けられた国名だから、landは取れないのだ。
 こうやっていちいち説明つきで書いていくとややこしいので、以下形容詞形だけをいくつか書き出してみよう。
 アフガニスタン  Afghan 
 ブータン      Bhutanese
 ベルギー     Belgiam
 バングラデシュ  Bangladeshi
 キプロス      Cypriot
 デンマーク     Danish
 クウェート      Kuwaiti
 マリ          Malian
 モロッコ       Moroccan
 モルディブ      Maldivan
 ノルウェー      Norwegian
 フィリピン      Philippine(国名はPilippines)
 パキスタン      Pakistani
 スリランカ     Sri Lankan
 イエメン       Yemeni

 日本の新聞などでは、アフガニスタンを「アフガン」と短く表記することが多いが、これでは国名にならないのだから、きちんとアフガニスタンと表記すべきだろう。かつて、チェコ・スロバキアという国があったが、日本では「チェコ」と省略して呼ばれることが多かった。この国は、チェコ人とスロバキア人が主要民族として構成されていたのだが、いつもスロバキア人を無視して呼んでいた。
 国名の省略が危険なのは、しばしばそこに軽蔑の感情が含まれるからだ。日本人駐在員がインドネシアを「ネシア」と呼ぶなど、その例はいくつもある。

 


アジア雑語林(76) 2004年8月21日

悪筆に悩まされる人たち

 まだ20代のころだが、友人が担当している雑誌の編集を手伝ったことがある。手伝ったというより、おもしろがって遊んだといったほうが正確なのだが、編集の仕事とはどんなものだろうかという好奇心で、遊ばせてもらった。ほんの数回遊んだだけだが、ライターとしていろいろ教えられることは多かった。
 私に与えられた最初の仕事は、行数かぞえだ。1行20字で書いてある原稿が、1行16字だと全体でどれだけの行数になるのか数えるという作業だ。手書き原稿の時代はこれが大変だった。
 いま「1行20字で書いてある」と書いたが、現実にはそんなやさしい書き手ばかりではなく、原稿用紙の升目など無視して書いている人もいる。それでも、その文字が読めればいいのだが、判読不能の原稿もある。達筆で読めないということもあれば、ただたんにヘタだから読めないというものもあった。ヘタな字でニュロニョロと書かれると、それが何文字分なのかわからないから、行数もはっきりしなくなる。
 私に与えられた原稿は、全体的にはなんとか読めるのだが、細部がつらかった。その原稿は、作家の少年時代の家族旅行について書いたものだったが、おびただしく出てくる地名がほとんど読めないのだ。読み方がわからないというのではない。どんな漢字なのか判読できないのだ。これが東京の地名なら、土地勘があるから、なんとか判読できるのだが、まったく知らない土地の、古い地名で、しかも字(あざ)や大字(おおあざ)だと、市販の地図では確認できない。
 そんなわけで、地名は校正のときに、著者にきれいな字で記入してもらうことにした。それだけでも、編集者の苦労はわかった。字がへたな私だが、それ以後、読める字で原稿を書こうと決意した。
 90年代に入ってからだが、知り合いの編集者にそんな思い出話をしたら、「最近、こんなことがありましてね」と、困った体験談を話してくれた。
 その編集部全員を悩ませている悪筆の先生が、ついにワープロを導入したという噂が伝わった。「よし。ありがたい!」と編集部は大喜びだ。数週間して、悪筆先生のワープロ原稿が編集部に届いた。封をあけた編集者は、「アー!」と声をあげた。
 原稿はきれいにプリントアウトされているのだが、そこに判読不明の文字で大幅な書き込みが何カ所もあるのだ。文章の削除や入れ替えもあって、その指示をしめす線が入り乱れている。ワープロ画面でやってくれればいい作業を、紙の上でやるものだから、「もう、立ちくらみしそうでしたよ」と、その編集者は言った。
 やはりその頃のことだが、ある学者の出版記念パーティーに行ったことがある。その学者もまた悪筆の人で、ときどき手紙をもらうのだが、判読するのに苦労する。パーティーでは、あいさつに立った担当編集者が開口一番、こんなことをいった。
「先生は最近ワープロを買ったそうですが、なんでこの本を書いてから買ったのでしょうか。せめて1年前に買っていただいていればと……」
 場内爆笑だったが、そういいたい気持ちは私もよくわかる。それからしばらくして、その学者からくる手紙もワープロ印刷のものになり、断然読みやすくなったが、「P.S」以下の手書きの文章がやはり読めない。「………どう思います?」と、最後の部分だけは読めても、返事の書きようがないのである。

 


アジア雑語林(75) 2004年8月14日

ゴーストライター

 もう時効だから書いてもいいと思うが、関係者の許可を得ていないので、ボカして書くことにしよう。
 かなり昔の「本の雑誌」の投書欄に、某有名学者が書いた本を取り上げて、「ゴーストライターが書いたひどい本だ、編集者も出版社も恥を知れ」といった意味の批判が載ったことがある。その本を出している出版社に、知り合いの編集者がいた。投書が載った数カ月後にたまたま彼に会ったので、世間話のなかで、「そういえば、こんな投書が載っていましたが……」とあの投書のことを口にした。そのときの彼の話を思い出して書いてみる。

 ええ、あの投書ね、読みましたよ。じつはね、あの本の担当編集者はこの私なんですよ。だから、ちょっと困ってるんですよ。これには深い事情がありましてね。
 あの本は、先生に2時間くらいの話を数回してもらって、それをライターが原稿にまとめるという企画だったんです。本当は、もちろん本人に書いてもらいたかったんですが、超多忙な先生に書き下ろしで一冊なんてとても頼めるわけもなく、ライターに原稿をまとめてもらったわけです。
 すぐにでも出したい本だったんで、1章分できると、ボクが原稿をチェックしたあと、原稿をコピーして著者に送って、手を入れてもらうわけです(当時はまだワープロさえあまり普及していない時代だから、原稿は当然手書きだ)。
 第1章を送ったら、ものすごい書き込みと削除なんですよ。だから、印刷所に送るには、はじめっから書き直して清書ですよ。第2章を著者に送ったら、すぐに電話がかかってきました。「またこんなひどい原稿を送ってきて、なんだ! ちゃんと話をしたのに、文章がひどすぎる。間違いが多すぎる。あんた、原稿をきちんと読んでいるのか!」と、すごい剣幕でご立腹なんですね。「もう、やめだ。こんな本!」といわれると困るので、ひたすら低姿勢ですよ、当然。そりゃ、こちらで依頼したライターは、特別腕のいいという人じゃないですよ。でも、合格点には達しているレベルですよ。それに、著者が加筆している部分はインタビューのときにまったく触れていない話題なんですから、それに触れていないとライターを責めるのは酷ですよ。
 ひたすら低姿勢で電話の応対をしていたら、先生は驚くことを言い出したんですよ。「こんなに手間がかかって、しかも何の実りもない作業を続ける気はもうない。最初から私が書きます! ライターはクビだ!!」。
 そりゃ願ってもないことですよ。できればそうしたいと、こちらも思っていたわけですから。そして、数カ月後に送られてきた原稿をそのまま本にしたのが、あれです。あの本ですよ。ひどい文章ですが、もう直しの注文なんかいえません。まあ、ウチとしては先生の名前が欲しいわけですから、内容はどうでもいいとはいいませんが、まあ、二の次ですな。そんなわけですから、ゴーストライターの作品じゃないんです。語り下ろしでもないんです。もしかすると弟子か誰かに書かせたかもしれませんが、それはこちらの関与しないことです。
 そんな事情があるんですよ。だから、「本の雑誌」に反論の投書なんてできっこないでしょ。「私は、先日この投書欄で『ゴーストライターを使って……』と批判された本の編集者ですが、原稿を書いたのは間違いなく著者ご自身です、たしかにひどい文章ではありますが、ゴーストライターは使っていません。もし、ライターが原稿を書いていれば、もっと読みやすい文章になったはずです」なんて、とても書けないでしょ。ただ黙って、書店からあの本が消えるのを待つだけです。そういう事情があったわけですが、どうかこの話はご内密に。オフレコということで。

 


アジア雑語林(74) 2004年8月7日

年表はあることはあるけれど

  前回、このコラムで人間の生活がわかるような年表を読みたいという話を書いたあと、あるジャーナリストに同じ話をした。すると、「それにやや近いものはあるよ」という。日本と東南アジアの関係史のような本で、版元を教えてもらったので、さっそくインターネットで調べてみた。長いタイトルの本が見つかった。
 『南方軍政関係史料26 戦後日本・東南アジア関係史総合年表』(早稲田大学アジア太平洋研究センター「戦後日本・東南アジア関係史総合年表」編集委員編、龍溪書院、2003年)A4版、302ぺージ。
 おもしろそうな本じゃないか。ただし、問題があった。アジア文庫に在庫がなく、アマゾンなどでも扱っていない。だから、現在入手可能であるかどうかわからないし、内容の確認もできない。普通なら、おもしろそうだと思えば、書店に注文を出すのだが、私は「う〜ん」と考えてしまった。その理由は、定価が18000円もするからだ。税込みだと18900円する。
 しばらく考えて、清水の舞台から飛び降りてしまった。というのも、ここ何年か、なんとなく「日本・タイ戦後関係史」のような年表を自分で作っているからだ。とくに何か目的があるわけではないが、学術書には出てこない事柄をまとめておこうと思ったからだ。芸能やスポーツなども含めた関係史なので、タイだけに限らず、フィリピン人バンドや日本における東南アジア料理店の歴史も知りたい。『戦後日本・東南アジア・・・』が、そういう私の好奇心に真っ向から答えてくれる資料ではないだろうが、ヒントになるようなことが書いてあるかもしれないというほのかな希望を抱いて、アジア文庫に注文したのである。
 10日ほどして、本が届いた。さっそく読んでみたが、正直な感想をいえば、「やっぱりな」である。執筆者のほとんどが学者だから、年表に登場する項目は、新聞の一面に出てくるような政治や経済の話と経済新聞で取り上げるような話の羅列で、しかも「○○新聞が、日本政府がインドネシアに△△をする計画を発表」と書いてあっても、その計画が実際に実行されたのかどうかわからない。新聞に載った発表記事だけ紹介しても、そんなものはたいして参考にはならないのである。バンコクの地下鉄計画なんか、何十年も前から「計画が発表されている」のだから、「実施した」とか「完成した」といった書き込みがないと意味をなさない。だからこそ、年表作りは大変なのである。
 この年表で、フィリピンの項だけが妙におもしろい。おもしろい理由は、この国だけ学者ではなく、新聞記者の大野拓司さんが担当しているからだ。
 たとえば、1980年12月31日の項に「フィリピン人の日本渡航者に占める女性の割合が初めて男性を上回る」とある。いわゆる「じゃぱゆきさん」の時代の始まりである。
 同じ80年に、当時のマルコス大統領が笹川良一にゴールデンハート賞なるものを授与していることもわかる。
 以下、ページをパラパラとめくりながら、フィリピン関係の話を紹介してみよう。
・ 大阪外国語大学に「インドネシア・フィリピン語学科」ができたのが、1984年。戦後初のフィリピン語専攻コースができたのがわずか20年前でしかないことがわかる。
・ 1966年に埼玉県羽生市とバギオ市が姉妹都市提携。
・ 1949年9月7日、国際会議のためにバンコクに向かう3人の日本人を乗せた航空機が、悪天候のためマニラ空港に緊急避難。「この3人が、戦後初めてフィリピンの空港に降り立った日本人である」と現地の新聞が報道。
 こういう雑多な事項を眺めて、しだいに関係史が見えてくるのが楽しいのだ。
 きりがないので、紹介はこれくらいにしておくが、フィリピンの項だけは読んでもおもしろい年表になっているが、ほかの国は「場合によれば、もしかして参考になることがまったくないとは言えない」という感じだ。これはもちろん、年表を使う人の興味の方向の問題であって、学術論文を書くような人にはきっと有用なのだろう。
 おそらく、300部とか400部くらいしか印刷していないと思うので、もし買いたいという人がいたら、できるだけ早くアジア文庫に注文したほうがいい。

 


アジア雑語林(73) 2004年7月31日

座右の書

 何度も読んだ本といえば、タイの小説である『東北タイの子』や『田舎の教師』などの名がすぐに浮かぶが、「何度も」といったところで、せいぜい3回か4回程度にすぎない。何度も手に取るという意味では、当然、辞書・事典類の使用頻度にかなうわけはない。
 かつて、もっともよく手にしていた本は、講談社学術文庫の『新版国語辞典』と『英和辞典』だった。私の漢字力には大きな欠陥があって、読む力は日本人の平均をやや越えているかもしれないが、書く力となると小学生レベルなのである。「ワープロを使うようになると、どうしてもそうなりますね」などと同情してくれる人もいるが、それは好意的誤解であって、じつは小学生時代から漢字があまり書けなかったのだ。そんな人間がライターになってしまったのだが、誤字脱字ひらがな満載の原稿を書くわけにもいかず、辞書が手放せなくなった。
 事情は英語も同じことで、会話力は日本人の平均は越えていると思うし、必要があれば英語の本や新聞も読む。しかし、書く力となると、まことにもってお恥ずかしい限りで、簡単な単語でも綴りがよくわからない。
 私の頭脳はそういう構造になっているので、辞書は手放せない。ながらく文庫版の辞書を使ってきたが、漢字を調べるには視力上の問題が出てきて、やや大きい『明解国語辞典』(三省堂)を買ったが、利便性を考えて電子辞書を買った。これなら英語辞典にも漢和辞典にもなるし、画数の多い漢字は拡大して表示してくれるのがありがたい。
 その後ワープロを導入したので、辞書を使う頻度は格段に少なくなったが、言葉の使い方に迷うことが多いので、電子辞書は日夜活躍している。
 紙の辞書・事典類では、『タイの事典』(同朋舎出版)や『東南アジアを知る事典』(平凡社)などが首位争いをするだろうと予想したが、よく考えて見ると、そうした事典よりもはるかによく使う事典があることに気がついた。『値段の風俗史』上下(朝日文庫、1987年)である。
 明治・大正・昭和のさまざまな値段の変遷史を年表とエッセイで構成した名著なのだが、1980年代初めごろまでの情報しかなく、現在は実質上絶版である。その代わりに発売されたのが、『戦後値段史年表』(朝日文庫、1995年)である。拙著『異国憧憬 戦後海外旅行外史』(JTB)を書いたときはもちろん、ふだん本を読んでいるときでも、「帝国ホテルとバンコクのオリエンタルホテルの宿泊料金を比較してみたらどうなるんだろう」とか「1950年代の映画館入場料と収入の比較」などという疑問を持ったら、さっそく調べてみたくなる。そういうときに、まことに役立つ資料なのである。
 ある時代のある物が、平均的な収入を得ている人たちにとって安い物だったのかそれとも高い物だったのかという疑問は、物価と収入の両方の資料がないと判断できない。収入の資料がなくても、例えばラーメンやざるそばなどの当時の値段がわかると、だいたいの想像がつく。だからこそ、タイ版やインドネシア版など、とりあえず東南アジア版の『値段の風俗史』か『値段史年表』がぜひ欲しいのだが、その作成をタイ人に期待しても、おそらく完成しないだろう。学者なら、ある物の値段を比較して論文を書くということはあるだろうが、多種多用な物の値段をたんねんに調べるという作業は期待できない。
 ぜひ欲しいが存在しないのは『値段史年表』だけではなく、じつは詳細な年表そのものがないのである。政治や王室や経済の大きな流れは多少わかっても、生活に近い部分のことはまるでわからないのだ。テレビのカラー化はいつからだとか、あのショッピングセンターができたのはいつかとか、コーラが輸入されたのはいつかといったこまごまとしたことがわからない。個別に調べればある程度わかることもあるが、資料によって年代がバラバラなのだ。年表ができない理由がそこにある。私好みの年表ができない理由はもうひとつある。そういう年表をありがたがる人が、一部の研究者と物好き以外ほとんどいないことだ。

 


アジア雑語林(72) 2004年7月24日

家電の世界

 日本には世界的な家電(家庭用電気器具)メーカーがいくつもあるせいか、あるいはそれが日本人の好みなのか、家庭にはじつに多くの家電製品がある。家電製品といっても、テレビやステレオコンポのように世界各国に普遍な製品と、自動餅つき機のようにおそらく日本にしかないと思われる製品もある。むかし新聞広告に「自動ゴマすり機」というのがあって、笑ってしまった。文字どおりゴマをする機械なのだが、その広告を目にしたとたんに、クレージーキャツの「ゴマスリ行進曲」を思い出したからだ。この自動ゴマすり機というのは、業務用では外国にもあるだろうが、家庭用となると日本以外にもあるのだろうか。
 日本にも外国にもあるが、使い方がちがうというものもある。イラン向けに生産された電気炊飯器は、おコゲが好きな人が多いので、わざとおコゲができるように調整してあるという話は以前に読んだことがある。タイでは煮物鍋やホットプレートとして電気炊飯器を使っているのを、実際に見たことがある。スペインでは、バル(バーと軽食堂が合体したもの)の調理場で、ホットプレートを見たことがある。夕方の仕込みの時間で、ホットプレートでパエリアを仕込んでいた。いいアイデアなので、私も日本でマネをしてみたら、うまくいった。
 日本にあって外国にはないという家電製品はいくらでもありそうだが、逆に外国にはあるが日本にはないという家電製品はあるだろうか。家電といってもその範囲はじつに広いので、台所に限定して考えたい。そうしないと、電動ハナ毛切り機とか各種アイデア製品も入ってくるので、収拾がつかなくなるからだ。
 建築家で道具研究家の山口昌伴さんに教えていただいたのは、フライヤー(電気揚げ物機)だ。日本ではレストランやホテルの厨房や肉屋などにあるが、西洋では家庭の台所にあるという。日常的によく食べるフライドポテトを作るためだ。高価な輸入システムキッチンには、このフライヤーが組み込まれているものがある。日本人とちがって主食のように大量のジャガイモを食べる人たちなので、ジャガイモを棒状に切る機械も販売されている。
 そういえば、むかし、テレビの通販番組で電気鍋を見たことがある。煮込み用の深鍋で、「タイマーをセットしておけば、外出中に加熱し続けて、大きく堅いお肉も、ほらこんなに柔らかく」と宣伝していたが、あの鍋は日本ではあまり売れなかったのではないか。日本では大きな肉のかたまりをそのまま料理することはめったにないし、主婦は電気代のことも心配したのだろう。
 ワインセラーというのも、かつては西洋独特の電気製品だったが、最近では日本でも少しは売れるようになったらしい。
 韓国にはキムチ用冷蔵庫がある。伝統的には、キムチは庭に埋めたカメにいれて保存していたのだが、都会でアパート暮らしをする人が増えて、キムチを入れたカメはベランダに置かれることになったが、夏は発酵が進んでしまう。そこで冷蔵庫に入れることになったのだが、量が多いということと、他の食べ物に匂いが移ってしまうという問題があって、専用の冷蔵庫が開発された。たんに低温で保存するというだけではなく、発酵にあった温度管理ができるらしい。
 中国には行ったことがないし、台湾にもながらく行っていないので、中国人世界の家電製品事情がよくわからない。20年もむかしの話なら、日本に来た台湾人旅行者が保温式電気炊飯器を買って帰ったという話を聞いたことがあるが、最近は台所用家電をわざわざ日本で買うということはないのかもしれない。そして、中国料理を日常的に食べている人たち向けのユニークな家電があればおもしろいと思うのだが、はたしてそんな物が存在するのだろうか。例えば、電気お粥機とか?

 


アジア雑語林(71) 2004年7月15日

また、同じことを

 ちょっとした会合から帰宅して、コーヒーを飲んでいて「はっ」と声をあげそうになった。もしテレビカメラが私の顔をとらえていたら、赤面しているなさけない表情を写しとったにちがいない。その会が終わって、別室で参加者とちょっと建築の話をしたのだが、その30分ほど前に、同じ人物に「最近の建築は……」とまったく同じ話題で話かけたことを思い出したからだ。ナサケナイ。
 あたかも初めて話すかのように、同じことを何度も話すのは老化のしるしらしい。まだ老眼鏡など必要ないなどと、安心している場合じゃない。
 本を読んでいると、「その話はすでに別の本に書いたので省略するが、……」という文章がよくあるが、その「別の本」をまだ読んでいない私は、省略された話が知りたくなる。しかし、ある作家の本をよく読んでいる場合、省略されずに繰り返されていたら「またその話かよ」とうんざりする。とくに、さまざまな雑誌に書いたエッセイを単行本にまとめた場合、編集がへただと同じ話に何度もつきあわされることがある。こういう場合はうまく編集して欲しいが、「別の本に」という場合はむずかしい。読者は勝手だから、いろんな文句をいいたくなるものだ。
 私の場合は、できるだけ同じ話は書かないようにしている。だから、旅の話はすぐネタ切れになってしまうのだ。「同じ話」というのは、自分が書いた話と同じという意味だけではなく、他人が書いた話と同じというのもいやなのだ。多くの人がすでに書いている「韓国キムチ紀行」とか「タイ料理はうまいぞ」などといった文章は書きたくない。できることなら、まだ誰も書いていない分野をテーマにしたいという欲望がある。まったく誰も触れていないテーマというのはないにしろ、一冊まるごとそのテーマで書いたのは、私の本が世界最初だというような本を書きたいと思う。
 誰の本だったか忘れたが、出版をテーマにした本で、「誰も書いていないテーマの本は出すな」という法則があるそうだ。そのココロは、誰も書かないということは、誰も読みたくないからだということらしい。たしかに、私の本は売れないのだから、その説は正しいのかもしれないが、二番煎じ、三番煎じの本を書くのはいやなのだ。
 同じ話は書かないようにしているが、意識的に書くことはある。かつて書いた文章に手を加えたかった場合と、単行本全体の構成を考えたときだ。ナイロビのバラックめし屋の話を最初に書いたのは、『東アフリカ』(グループ・オデッセイ出版局、1983年)だった。元の短い文章に大幅に手を加え、『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』(筑摩書房、1988年)におさめた。その本が講談社文庫に入り『アジアの路上で溜息ひとつ』(1994年)となるとき、また手を加えた。旅行人から『アフリカの満月』(2000年)を出すときに、ナイロビの食文化の話をぜひ加えたくて、また手を入れて載せた。そのどれかの本を読んだ人物が、世界の食べ物の本にケニアのめし屋の話を入れたいというので、再録された。『美味探求の本 世界編』(有楽出版社発行、実業之日本社発売、2001年)だ。「同じ話は書きたくない」などといいながら、まあなんともすごい使いまわしだが、意識的にやったのは一度だけで、あとは偶然である。
 あるとき、ふと考えた。同じ話を書かないというのは、たんに自己満足でしかないのだろうかと。私の本が仮にAからJまで10冊あったとして、Bに書いた話をGの本にまた書いたとして、そのことに気づく読者はどれだけいるだろうか。ただでさえ売れない私の本を、BもGも読んでいるという人は天然記念物なみに少なく、しかも内容をしっかり覚えている読者となると、もっと少なくなる(書いた本人だって、どの本にどんなことを書いたかよく覚えていないのだ)。だから、「この話はすでに書いたから、ここではやめておこう」などという自主規制は、ガンガン売れている書き手のいうことで、私のように売れないライターが自主規制するのは、うぬぼれ、思い上がりではないかという気もする。だからといって、大幅増量、一冊分のネタで三冊書くという器用なまねはしないし、できないのだが。
 だから、このコラムに限らず私の文章に、「この話、以前に読んだよ」という発見がもしあったら、それは老化が原因だと思って許していただきたい。このコラムのように、随時書いているものはそういうミスをやりかねない。編集長のアジア文庫店主だって、老化が始まっているのだから、同じ文章があっても見逃すこともありうる。

 

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