前川健一 著作一覧

アジア雑語林(61)〜(70)

アジア雑語林(70) 2004年7月7日

サンダルをめぐって

 旅の履き物はずっとサンダルだ。
 なにも知らない初めての旅では、きちんと靴をはいていったが、汗で布靴がベトベトヌルヌルになるのが不快で、耐えきれず旅先でサンダルを買った。それ以後は、日本を出るときからサンダルだ。西洋やアフリカに行ったときは、寒さ対策と足の安全のために靴をはいていたが、バッグにはいつもサンダルが入っていた。
 サンダルといっても、ビーチサンダルをはいていたのは20代のときだけで、30代になってからは皮のサンダルをはいている。ビーチサンダルは作りがヤワで、すぐ切れてしまうため不経済だということと、宿泊するためではないにしろ高級ホテルなどに出入りするには、やはりビーチサンダルではまわりの人に不快感を与えるだろうという配慮からである。それに、靴のように足を固定した皮のサンダルのほうが、ビーチサンダルよりはるかに歩きやすい。
 さて、そのサンダルだが、英語でなんというのだろうかと疑問に思ったことがある。鼻緒がついた草履型のビーチサンダルなど、もともとは西洋にはないわけだから、「ビーチサンダル」という言葉は和製英語だろうと思った。
 旅先でそういう疑問をいだいたとき、うまいぐあいに安宿の庭にアメリカ人がふたりいて、ふたりともビーチサンダルをはいていた。私はそのビーチサンダルを指さして、「それをサンダルと呼ぶ?」とたずねた。
「うーん、サンダルねえ。『サンダル』という言葉を聞いてイメージするのは、映画の『ベンハー』に出てくるような、皮製のもので、足首をひもでぐるぐる巻きにしているようなものだから、これはサンダルじゃないわね。こういうのは、flip−flopsというのよ」
 カリフォルニアのアメリカ人がそういうと、ニューヨークのアメリカ人が「えー、そんな英語は知らないな」といった。
 フリップ・フロップというのは。「パタパタ」という感じを表す擬声語で、ビーチサンダルだから複数のsがついている。じつはこの語はすでに知っていた。ハワイの、水着やアロハシャツなどを売っている店先で、ビーチサンダルの店頭ワゴンセールをやっていて、"flip−flops"という表示があったことを覚えていたからだ。ニューヨークのアメリカ人がその語を知らなかったのは、ニューヨークの日常生活ではビーチサンダルなどはかないからだ。ふだん使わないものは知らないのだ。
 ビーチサンダルには別の呼び方があると知ったのは映画だった。ケビン・コスナーが中年野球選手を演じた「さよならゲーム」(88年)だったと思うが、もしかすると別の映画だったかもしれないが、それはともかく主演の彼がロッカールームで「俺のシャワーシューズをどこへやった!」とどなるシーンがあって、シャワーシューズってどんな靴なんだと思ってスクリーンに注目していたら、ビーチサンダルが登場した。シャワーを浴びる前後にはくには、ビーチサンダルはたしかに便利だ。それ以後、映画を見るときには室内履きに注目しているのだが、はっきりと見えることは少ない、シャワーを浴びたあと、日本のスリッパよりかかとが高い履き物をはいているシーンを見たことがあるだけだ。
 かつて、「サンダルのアジア史」というテーマに興味を持って少し調べたことがある。業者の組合に問い合わせたり、日本貿易振興会の図書館に通ったり、岡山のはきもの博物館にいったりして調べたものの、わかったことはほんの少しだけだった。従来の草履がゴムになって、ゴム草履。私の少年時代はこれだった。その後スポンジのものができてクッションがよくなった。ゴム草履の時代からアジアに輸出しているが、それが戦前期なのかそれとも戦後なのか、そのあたりのことが貿易統計などで確認できないまま、その取材は中止したままになっている。履き物に興味を持つ人は少なく、資料が乏しいのも、中止した理由のひとつだ。

 


アジア雑語林(69) 2004年7月1日

ワープロ専用機「ライター」を作ってくれ

 この原稿も、東芝ルポで書いている。コンピューターは持っているが、ほとんど検索専用機になっている。こういうライターはよほどの珍種かと思ったが、そうでもないらしい。コンピューターは持っているが、原稿は手書きとか、ワープロで打ち、フロッピーに保存し、メールで送るという人もいる。私もその方法を採用したいと思ったのだが、MS−DOS変換したフロッピーをコンピューターに入れてもなんの反応も示さないので、しかたなく、短い原稿ならファックスで、長い原稿ならフロッピーを郵送する。
 ふだんワープロを使っている者の悩みは、いま使っているこのワープロが故障したらどうしようという不安だ。ワープロ専用機の生産はすでに終わっているから、中古品を入手するしかない。私はいまこの原稿を打っているワープロを一台持っているだけだから、故障したときのことを考えて、できればこれとまったく同じルポを少なくとももう一台備えておきたい。そこで、家電の中古店やインターネットで中古のワープロ探しをやってみたが、同じ機種となるとなかなか探せず、あってもかなり高い。なにしろ、私のワープロは発売当時の定価が20万円近くしたのだからというのはたいした理由にはならず、そのくらいの価格だったノートパソコンの中古品ならもっと安い。いまさらウインドーズの「95」や「98」を買おうという客はあまりいないのに対して、ワープロを欲しがる客はけっこういるということだろう。そういう人がみな、私のように原稿をワープロで書いているということではないだろうし、フロッピーで保管している住所録や名簿を呼び出したいという人もいるだろうが、ワープロが欲しいということには変わりはない。
 そこでだ。起死回生をはかりたい中小企業の経営者諸氏、いま新型ワープロを発売しませんか。「なにを時代錯誤!」と思うかもしれないが、それは情報不足だ。音楽の世界ではCDが当たり前の時代になって、レコードなど前世紀の異物だと思われていたが、いまもレコードプレーヤーは売っている。カセットデッキもまだある。二槽式洗濯機もまだ売っている。上部が冷凍庫になっている冷蔵庫もまだ売っている。自動車ではまだマニュアル車がある。ワープロは過去の異物ではなく、工夫すればいまでも存在価値のある商品なのだ。旧製品も、利点はあるのだ。消費者がみな、なんでもできる高性能パソコンを欲しがっているわけではないのだ。
 新型ワープロは、文章作成(文書作成ではない)に特化する。会社の文書作成はパソコンにまかせて、新型ワープロは文章を書く人向きにする。「文豪」というワープロがどこまで文豪向きにできていたか疑問だが、今度のワープロは名実共に「ライター」である。旧字体や人名などでよく使われる中国の漢字などが簡単に取り出せたり、人名・地名などの固有名詞の変換が簡単。機械に無知だから勝手なことを言うが、どんな機種で保存したフロッピーも呼び出せる互換性が欲しい。記憶容量は昔のパソコン程度でいい。印刷機は着脱式にすれば、持ち運びにも便利だ。
 値段は、電子辞書と組み合わせてメーカー希望価格89000円というのでいかがですか。もちろん安いほうがいいが、新聞に一面広告を出して大量に売るという商品ではないので、価格が高くなるのはいたしかたない(そんなら、DELLを買いなさいという声が聞こえそうだ)。
 こんなことを思いついたのは、いいワープロが欲しいという個人的事情からなのだが、それだけではない。定年を機にパソコンを買い、パソコン教室に通ったものの、ほとんど使っていないという人がけっこういるらしいという話を聞いたからだ。インターネット検索のやり方を覚えても、調べたいことがない。友人知人に電子メールを送ろうと思ったが、相手がパソコンを持っていないとなげいているうちに、携帯電話でメールが打てるようになって、パソコンの出る幕がなくなった。けっきょく、パソコンを使うのは年二回、年賀状と暑中見舞い作成のときだけだから、超高額のプリントゴッコを買ったのに等しい。それならば、新型ワープロのほうが操作しやすいし、安いのだから、商品価値はある。そう思ったのである。
「そんなことを考えずに、パソコンに慣れなさい。一カ月もすれば、違和感などなくなるよ」と、季刊旅行雑誌の編集長はいうのだが、いまのところ「ヤーだよ」と答えておこう。

 


アジア雑語林(68) 2004年6月24日

スマトラの港で見たものは

 ジャカルタから船でスマトラをめざしたのは、1974年だった。
 バスと連絡船でジャワ島からスマトラ島への旅行ができることはわかっていたが、船を利用することにした。船で赤道を越えたかったからであり、「マラッカ海峡の航海」を体験したかったからでもある。「赤道」と「マラッカ」というふたつの言葉は、日本で育った若者には魅力的な響きがあった。
 そのころもカネがなかったから、船室などもちろんなく、私は甲板の客となった。熱帯の旅とはいえ、天候は悪く、海の上は風が強く、できることなら通路などに快適な場所を確保したかったのだが、そういった場所は旅慣れた船客たちに占領されて、私は吹きっさらしの甲板に荷物を置いて、横になった。
 はっきりとは覚えていないのだが、船はシンガポールの南にあるビンタン島のタンジュン・ピナンを経由してマラッカ海峡に入ったから、たぶん2泊3日の旅だったと思う。目的地はブラワン港。スマトラの大都市メダンへ30キロ弱のところにあり、メダンはトバ湖への玄関口となる街でもある。ブラワンから東に目を向けると、マレーシアのペナンがあるという位置関係にある。
 インドネシア国内の船旅だから、船を降りてもイミグレーションも税関もなく、港の建物を出て、メダンに行くバスを探すために歩こうとしたときに、変な光景を目撃した。港湾事務所の隣りは柱と屋根だけの建物があって、駐車場や駐輪場、あるいは市場のような建物なのだが、そこはなんとパチンコ屋だったのである。
 椅子はなく、客は立ったまま打っているから、その姿は映画やテレビ番組で見た日本のパチンコ初期と同じだった。私はパチンコファンではなく、それまでにパチンコ店に入ったことはあまりなく、それ以後もほとんどないのでよくは知らない。そんなわけで、興味をもってスマトラのパチンコ屋を点検しなかったから、詳しいことはまったくわからない。その台が玉をひとつひとつ穴に入れる古典的な機種だったのか、それとも玉を入れる皿があり、レバーをはじくだけで自動的に玉送りされる機種だったのかも記憶にない。せめて機種の写真だけでも撮っておけば、のちの雑文に役だっただろうと、いまにして思うのだが、当時は調べるどころか写真を撮るのも嫌いだったからしかたがない。はっきり覚えているのは、子供向けに数台置いたようなパチンコ屋ではなく、30台から50台くらいあったと思う。昼間の時間で、客は数人いただけだ。
 パチンコ台はたびたび海外に輸出されたことがあるのは知っている。テレビで台湾のパチンコ屋を見たことがある。本やインターネット情報では、アメリカ、カナダ、タイ、マレーシアやカンボジアなどにもパチンコ台が輸出されたそうだ。しかし、それは台湾やカンボジアなどを除けば、遊園地のゲーム機として数台使用されたらしく、しかも1970年代にさかのぼって、外国にパチンコ屋があったという資料は発見できなかった。
 パチンコそのものには興味はないが、「パチンコをめぐる世界現代史」はなかなかおもしろそうなテーマだといまは思うが、誰かがそんな本を書いてもたぶん売れないだろう。野球や麻雀などと同じように、そのジャンルのファンは多くても、興味の範囲は極めて狭い。マンガファンは外国のマンガにはほとんど興味がないらしく、鉄道マニアも外国の鉄道にはあまり興味がないらしい。多くの野球ファンは、スポーツ新聞の情報だけで満足なのだ。

 


アジア雑語林(67) 2004年6月16日

外国を舞台にした小説の会話

 旅先で言葉に苦労することが多いせいか、海外を舞台にして日本人が書いた小説の会話が気にかかる。そういう小説を何冊も読めば、主人公の語学力によって、小説の内容がいくつかに分類できることがわかってきた。

(1)日本語しかできない場合………団体旅行で事件がおきるというパターン。あるいは、旅行者や駐在員など日本人居住者のなかでしか物語が進行しない構成。ときには、日本語が堪能な地元の人が登場することもある。香港を舞台にナインティーナインの岡村隆史が主演した映画「無問題」(モーマンタイ)は、通訳をうまくつかうことで世界を広くした。その点だけでも、この映画は意外によくできていると思う。ついでに書いておくと、続編の「無問題2」には、タイ映画のパロディーシーンがある。

(2)英語ができる場合………会社員の出張、個人旅行者などが主人公。外国語がヘタなことでは定評がある日本人のことなので、英語が堪能な人物を主人公にするためには、例えば「アメリカ留学経験あり」などという経歴にする。非英語圏を舞台にした場合は、英語が得意な地元の人物を登場させる。英語で書かれた小説には、このパターンが多い。007シリーズのように、英語が堪能な美女が現れて……というパターンである。

(3)現地語ができる場合………こうなると、主人公は語学の天才にするか専門の学者にする。『チェンマイの首』など中村敦夫の小説の主人公は、語学の天才にしている。東京外国語大学の卒業生という設定もありうるはずだが、そういう人物が主人公という小説は記憶にない。現地に長く住む日本人や日本に帰化した人物が登場することもある。昔なら元日本兵、最近では現地での生活が長いNGOなどの関係者を主人公にすることもある。アメリカやフランスなら帰国子女である日本人を主人公にすれば、言葉の問題は解決するが、アジアが舞台だと特別な設定が必要になる。ジャカルタの日本人学校を卒業しても、インドネシア語が流暢にはならないから、「親のどちらかがインドネシア人」といった経歴の説明がないと不自然になる。
 したがって、(1)や(2)のパターンなのに、例えばタイ人たちが話している内容を主人公が理解できたらおかしいし、タイ人たちが英語で話し合っているという設定では、「じつはタイ系アメリカ人だ」といった説明でもなければ無理がある。しかし、現実にはそういう小説がある。
 こんな例もあった。中国語が少しわかる主人公が、バンコクの中華街に行くと、人々の話がよくわかるといった記述を見つけたことがある。この場合の中国語とは北京語なのだが、中国系タイ人が話しているとすれば、潮州語か客家語で、屋台のオヤジと客が北京語で会話していることは、「絶対にない」とは言えないが、それならなにか理由があると考えるのが普通だ。

 おそらくほとんどの読者は、私がここに書き出したことはまるで気にならないだろう。「小説だから、なんでもあり」ということもあろうが、外国で言葉に苦労したことがないからでもあるだろう。団体旅行ならもちろん、個人旅行でも日本語とカタコトの英語で買い物をしているくらいなら、外国語で苦労することはない。苦労したことがなければ、小説のなかの会話なんぞに神経をとがらすということもないだろう。

 


アジア雑語林(66) 2004年6月11日

インドネシアの餅

 インドネシアに長年住んでいる友人と久し振りにジャカルタで会って話していると、「あっ、そうだ!」と友人が思い出したように言った。
「この前、日本をよく知っているインドネシア人に会ったら、『インドネシアにも餅があるのを知っているか』っていきなり言われたんだけど、前川さんは餅のことを知ってた?」
「いや、知らない、まったく。彼は何と言ったの? モチ? それとも……」
「モチ。日本の餅とまったく同じものが、モチと呼ばれているというんだけど。オレもインドネシアに住んで20年くらいになるけど、そんな話、聞いたことないしなあ」
 日本の餅とほぼ同じものは、タイ北部に住む少数民族の食文化にあることは、テレビや本などで知っている。ビルマのシャン州の市場では現物を見たことがあるし、試食もしている。タイ北部から中国雲南省あたりの地域なら、『餅』と聞いても不思議でもなんともないのだが、インドネシアにあるというのはあまりに唐突で、しかも『モチ』という名なら、日本人が伝えたことになる。戦前の移民か、それとも戦中の軍人が伝えたのかもしれないと推察できるが、その現物を見たことがないのだから何とも言えない。
 友人とモチの話をしてから数日後、私はジャカルタの中国人街を歩いていた。狭い路地を抜け、また入り、インドネシアの中国文化を眺めていた。そのときだ。路上の屋台に七輪がひとつ見えた。そこに網がのっていて、白いものが3個ある。近寄ると、日本人である私にはまさしく餅としか見えないものだった。
 さて、これは何だ。屋台に人はいない。七輪の炭はもう灰になっていて、商品を放り出してどこかに行ってしまったらしい。困った。教えてもらえないじゃないか。しかたがないので、屋台のすぐ近くにたむろしている男たちに声をかけた。
「これは何という名前ですか」
 餅らしきものを指さして、そう言った。
「クエ。クエっていうんだよ」
 男は短くいった。「クエ」が菓子を表す総称だというくらい私だって知っている。総称ではなく、個別の名を知りたいのだが、男は「クエ」としか言わない。屋台の人がいれば、質問し、残った商品をすべて買って持ち帰り、知り合いのインドネシア人たちに鑑定を依頼することだってできるのだが、店主がいない。
 というわけで、インドネシアの餅調査は、現物らしきものを発見しただけで終わっている。インターネットで調べると、「加藤秀俊 旅行日記」というページにシンガポールでの食事体験の話がでていた。引用した部分のテーマは、中国の影響を受けた日本の食べ物である。

  デザートにでてきたもののなかでは、くずもちのようなものがあった。まわりにきな粉がかぶせてあるのも(日本のものと)まったくおなじ。中国系の友人に名前をきいたら、モチという答えがかえってきた。中国語の発音からすれば当然ペイになるはずなのにこれをモチというのは、(中国から)いったん日本にはいったものが逆輸入されてそのような名前でよばれるようになったのかもしれない、という疑問がふと頭のなかをかすめる。

 ということは、「モチ」と呼ばれる食べ物はシンガポールにもあり、それはどうやら中国人が関係しているらしいということがわかる。私は菓子にはあまり興味はないから、資料をすでに読んでいてもすっかり忘れているということもありえるが、「モチ」という名なら覚えているはずだ。「東南アジアのモチ」というのは、テレビの30分番組程度のネタになりそうだ。

 


アジア雑語林(65) 2004年6月3日

世界マイナー国家選手権

 世界一小さい(面積が狭い)国とか、人口密度の多い国といったことなら世界の国々の順位は簡単にわかる。ところが、日本人にとってもっともマイナーな国、つまり、認知度のもっとも低い国はどこかということになると、簡単には答えがでない。認知度が低いということは、心理的に遠い国だということだ。
 逆に、もっとも知名度の高い国はアメリカだろうと予想はつくが、地図上での認識となると、別な国が第一位になるようだ。テレビや雑誌の企画で「世界地図を描いてください」と、ごく普通の人々に依頼すると、多くの人がほぼ正確に描けるのがイタリアだという報告を読んだことがある。「イタリアは長靴の国」という認識がはっきりとあるのだ。それは、国の形を知っているというだけでなく、だいたいの場所も知っているということだ。
 この、「だいたいの場所を知っている」のを認識度調査の基準にすると、旧西ヨーロッパとメキシコ、アメリカ、カナダ、そしてオーストラリア、アジアでは韓国、北朝鮮、中国、台湾くらいがわかる人は、「よく知っている」といわれる部類に入る人ではないだろうか。だから、「地図上で、その国に印をつけなさい」という設問にすると、今挙げた国以外はすべて、「マイナーな国」に入るような気がする。新宿の街を歩いている人に、国境だけが描いてある白地図を見せ「イランとイラクに印をつけてください」という調査をすれば、正解率は10%もないだろうと思う。まあ、やってみなければわからないが。
 そんなことを考えていたある日、インターネットで検索すればだいたいの傾向はわかるんじゃないかと思った。カタカナで国名を打ち込めば、日本人が持っている情報量の概要がつかめるかもしれない。もちろん、「タイ」と打てば、「ケータイ」や「ネクタイ」「タイ記録」、そして魚のタイも同時に検索されるが、タイ王国がマイナー国選手権決勝に出場することはないだろうから、気にすることはない。国名がほかの語にもひっかかりそうなのは他にマリとチリが上がると考えられるが、これも決勝に出場するような国ではないだろうから、無視していい。
 どの国が最マイナー国かはわからないが、いくつかの候補国はわかった。某雑誌の企画として、編集者と編集長と私の3人がクイズ形式で検索ごっこをやってみると、意外にヒット数の多い国などあって、なかなかに興味深い結果がでた。しかし、その調査が紙面に登場することはなかった。編集長が集計用紙を紛失してしまったからだ。充分楽しんだ調査だったから、紙面で紹介されなくてもいっこうにかまわないのだが、ここでその結果を発表できないのは残念だ。読者が自分でやろうとすれば簡単にできる調査だから、もし興味あればやってみればいい。
 私は小学生時代から地理少年だったし、地図を眺めているのがいまでも好きだから、国の名前さえ聞いたことがないという国はない。白地図に国名を記入するという設問なら、アジアは全部できるし、アフリカも中南米も70点くらいはとれるかもしれない。しかし、まるでダメなのが、旧ソビエト崩壊後の独立国や東ヨーロッパ地域と太平洋地域だ。冷戦終結後に誕生した新国家の名前と位置関係がほとんどわかっていない。わからないのにそのままにしているのは、ただたんに興味がないからだ。太平洋地域も同じ。いままで一度も「行ってみたい」と思ったことがない地域のことは、まるで知らないものだ。

 


アジア雑語林(64) 2004年5月25日

渋いのが好き

 タイ料理を初めて食べた人は、まずその辛さが印象に残る。そのまましばらく食べ続けていると、酸味も印象に残るだろう。タイ人が麺類に砂糖を入れているのを見て、甘さも重要な要素なんだと気がつくかもしれない。こうした体験をもとに、「タイ料理とは、辛さと酸味と甘さのハーモニーである」などと結論を出すことになるのだが、タイ人が好む味はそれでおしまいではない。
 外国人向けのレストランで食事をしているだけだとなかなかわからないのだが、タイ人は渋みや苦みも大好きなのである。もっともありふれた渋みといえば、パッタイ(タイ風焼きそば)についてくるバナナのつぼみだ。細く切ったつぼみを、そのまま生でかじる。味つけは、しない。加熱もしない。だから、舌がしびれるほどの渋さが、より強調される。
 もっと渋い植物を食べたことがある。
 市場巡りはまず全体像を知ることから始めたのだが、だんだん通い慣れてくると、いままで見たことがないものを探すようになる。そんなものを見つけると、写真に撮り、名前をたずね、あとでタイ語辞典と事典や図鑑などで正体を調べる。すでに料理してあるものなら、買う。量が多そうだと思うときには、コインを数枚渡して、ほんのひと口分だけもらって味見することもある。
 タイ南部の市場で、その植物を見つけた。木の新芽のような植物で、ザルに広げて売っていた。それまで見た記憶がなかったから、食べてみたかった。ひと束買うには多すぎるから、「ちょっと食べさせて」とお願いした。
「いいよ」と言ってくれたので、葉をちょっとちぎって、口に入れた。「うっ」とうなった。とんでもない渋さだ。山菜をそのまま食べても、これほど渋いということはないだろうと思えるほど渋かった。その植物の名前をたずねると、「サダオ」といった。タイとマレーシアの国境の街サダオと同じ名前らしい。ほかにも渋い植物がいくらでもあり、タイ人はそういう植物を好んで食べている。
 サダオは英語名neem tree(Azadirachta indica)というセンダン科の植物で、インドではハブラシ代わりに、この枝で歯を磨くそうだ。
 サダオのあまりの渋さが強く印象に残り、以来「タイ人と渋さ」について興味を持っているものの、その研究を本格的に始めてはいないのだが、先日、専門的に研究している人の発表を聞いた。
 「アジアにおける苦味食文化の系譜に関する民族植物学」というタイトルで、発表者は井上直人さん(信州大学教授)。調査地はおもに雲南だが、タイと重なることが多い。井上さんの研究発表を聞いていて気がついたのは、苦い(あるいは渋い)食品を好む人が多く住む地域は、野菜(ハーブ、山菜、野草)を生で食べる地域と重なるのではないかという仮説だ。タイとその周辺国の食文化の特徴のひとつは、野菜を生でよく食べるということで、これはマレー世界やフィリピン、インド亜大陸と違うところだ。インドでも生野菜を食べないわけではないが、野菜の種類と量がインドシナ半島大陸部とは桁違いだ。
 というわけで、この方面の研究は非常に興味深い。

 


アジア雑語林(63) 2004年5月18日

1984年 その2

 アジア文庫が開店した1984年当時、日本人の海外旅行はどうだったのか。
 対ドル為替レートでいえば、84年はだいたい240円台後半で推移していたのだが、85年のプラザ合意により円高が承認され、85年の末には200円、88年には120円台まで高くなっている。対ドル為替レートの変遷を見ると、アジア文庫の開店は円高、バブル経済、海外旅行ブームを見越して創業したかに見える。店主には失礼だが、もちろんそれは偶然のことであって、店主に世界と日本の経済を適格に予測する眼力があれば、いまごろ巨万の富を手にしているし、そもそも儲からないアジア文庫をやろうなどとは考えないはずだ。だから、84年のアジア文庫開店は、時代が味方したといえるだろう。
 1984年の日本人出国者数は、466万人だった。そのなかで、アジア地域の目的地別旅行者数を見てみると、多い順に次のようになる。インドネシアの数字は最近のものしか入手できないので、わからなかった。(  )内は2002年の数字。

 台湾     63万人 ( 99万人)
 韓国     58万人 (232万人)
 香港     58万人 (140万人)
 中国     38万人 (299万人)
 シンガポール 38万人 ( 72万人)
 タイ     22万人 (124万人)
 フィリピン  16万人 ( 34万人)
 マレーシア  11万人 ( 40万人)
 インドネシア      ( 61万人)

 1984年当時、海外旅行はすでに大衆化しているが、まだツアーで行くのが普通という時代だった。そして、若者が東アジア、東南アジアに出かける時代ではまだなかった。この時代にアジアを旅していた若者は、インド方面へ出かける者たちか、社会問題に興味を持っている者か、あるいは旅が趣味という道楽者、そして研究者の卵たちで、そういう人たちがアジア文庫の客の、ある層を成していたと思われる。彼らが頼ったガイドブックは、英語のものか、83年から刊行が始まった「宝島スーパーガイド アジア」である。ツアーでアジアに出かける者は、普通の観光旅行のほか、いまも変わらぬ売春旅行か、香港やシンガポールでの買い物旅行、そしてやっと観光旅行ができるようになった中国への旅だった。国際観光振興会の日本人旅行者統計に、中国への旅行者数が明記されるのは83年からだ。
 80年代後半の激辛ブームとエスニック料理ブームによって、テレビ番組にタイが登場することが多くなり、タイでロケしたテレビコマーシャルが放送されたり、プーケットやサムイ島でのんびり過ごす日本人が増えてきた。こうした動きから、90年代初めごろには、タイが東南アジアで日本人にもっとも人気がある国になったのだろうと思っていたが、統計では違う。タイに行く日本人旅行者数が、東南アジアで日本人旅行者がもっとも多いシンガポールを抜くのは、1998年以降のことだ。理由がよくわからないのだが、98年にシンガポールに行く日本人旅行者数が突然前年比22%減になり、タイと入れ替わり、現在までその順位は変わらない。
 目的地別日本人訪問者数の統計を眺めていると、とんでもない数字があることに気がつくことがある。例えば、1990年にマレーシアを訪れた日本人の数が前年比150%増なのだ。これはどうしたことがと調べてみたら、90年はマレーシア観光年ということで、キャンペーン活動の成果が現れたことを示している。しかし、だからといって出版界にマレーシアブームがあったわけではない。
 アジア文庫が開店したころ、棚にどんな本が並んでいたのかといった詳しい話は店長レポートとしていずれ書くだろうが、84年に出版されたアジア関係の本や雑誌で、まだ書名をあげていないものを少し紹介しておこう。食文化や旅行のことをちょっと調べてみただけでも、日本人がアジアに注目し始める直前の萌芽が見つけられる。
 『ソウルの練習問題』(関川夏央、情報センター出版局)
 『雲南の照葉樹のもとで』(佐々木高明編著、日本放送出版協会)
 『シルクロード』上下(ヘディン、岩波文庫)
 『ブータンの花』(中尾佐助・西岡京治、朝日新聞社)
 『インドを歩く』(深井聰男、YOU出版局)
 『カルカッタ大真珠ホテル』(谷恒生、講談社)
 『インドでわしも考えた』(椎名誠、小学館)
 雑誌では民族音楽の「包(PAO)」(エフエム企画)や「AB・ROAD」(リクルート)などが創刊された。

 


アジア雑語林(62) 2004年5月10日

1984年 その1

 1984年といえば、外国文学のファンならば、ジョージ・オーウェルの『1984』を思い浮かべるだろうが、アジアに関心がある人なら、アジア文庫が開店した画期的な年であると記憶していてほしい。紆余曲折、切磋琢磨、孤軍奮闘、独立独歩、千客万来を望めど一輪車操業の零細書店の日々ではあったが、とにかく創業20年目を迎えることができた。そこで、今回と次回の2回にわたって「開店20周年を迎えられて、ホントによかったね 1984年特集」を企画してみた。
 1984年とはどんな年だったのか、歴史を振り返ってみよう。アジア文庫の利用者には、残念ながら大学生くらいの若者はほとんどいないから、84年の記憶がないという人はほとんどいないはずだが、具体的にどういう年だったのかというと私も含めてあまり覚えていないだろう。
 日本人の平均寿命が世界一になり、小学校教員の初任給が11万3000円で、国民の9割が中流階級だと認識し、ワープロが一気に値下げされ、筆記具として普及し始めた。国籍法が改正されて父母のどちらかが日本人なら子供にも日本国籍が与えられることになった。
 レーガン大統領は、一般教書演説で「強いアメリカ」を強調し、中曽根・自民党は防衛費のGNP比1%枠の見直し作業に着手し、スパイ防止法案を作成し、靖国神社の公式参拝は合憲との党見解を決定している。
 国際社会では、2月にユーゴスラビアのサラエボで冬季オリンピックが開催され、7月にはロサンゼルスでオリンピックが開催された。アフリカでは飢餓が問題になり、インドのガンディー首相が暗殺された。韓国からやって来たのは、現職の大統領としては初来日となる全斗煥大統領と、趙容弼(チョー・ヨンピル)。ちなみに、放送局はこの年から、韓国人の名を現地語音で読むことになったので、金大中は「きん・だいちゅう」から「キム・デジュン」となった年である。
 テレビに目を転じれば、大河ドラマは評判の悪かった「山河燃ゆ」(日系二世のドラマ)、教育テレビでは番組名に苦労した「アンニョンハシムニカ ハングル講座」が始まり、その結果、韓国語をハングルと呼ぶのだと誤解する日本人がかなり現れている。「北の国から」の海外版として企画したのだろうと思われるのが「オレゴンから愛」、中村敦夫の海外報道番組「地球発22時」の放送が開始された。フィリピンを舞台にした深田祐介の小説『炎熱商人』がドラマ化され、やはりフィリピンを舞台にした佐木隆三の小説『海燕ジョーの奇跡』が映画化された。
 のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が初めて報道された年であり、グリコ・森永事件がおきた年である。トルコ人の抗議により、トルコ風呂が「ソープランド」と改称されたのもこの年。音楽では、チェッカーズと中森明菜、安全地帯の時代であるが、本はあまり売れなかった。話題になった本は、『構造と力』(浅田彰)、『見栄講座』(ホイチョイ・プロダクション)など。
 日劇跡にマリオンができ、福沢諭吉の1万円札など5000円、1000円が新札になり、植村直己がアラスカのマッキンリーで消息を断ち、禁煙パイポが発売された。
 アジア関連ではどういう年だったのか。
 都内にタイ料理店は多分5軒くらいしかなく、インドネシア料理店も数軒しかなかった。まだ「エスニック料理」という言葉はほとんど知られていないが、『東京エスニック料理読本』(冬樹社)が発売されている。『食は東南アジアにあり』(星野龍夫、森枝卓士、弘文堂)もこの年の発売。激辛ブームは翌年だから、日本人の目と舌が中国料理以外のアジア料理に向けられ始めた黎明期の時代だということがわかる。

 


アジア雑語林(61) 2004年5月2日

コショーの話

 前回の話に関連して、コショーの話を書き加えたい。
 タイの食文化を調べていたときに気がついたのだが、タイでコショーをよく使うのは古くからあるタイ料理ではなく、ここ100年ほどの間に伝わった中国系料理だということだ。客にもよくわかるのは、麺類だ。テーブルには必ずコショーがあり、客は運ばれてきた麺料理にコショーを振りかけて食べる。客が料理にコショーを振りかけるのはこうした麺料理と、トウガラシが入らない炒め物だけで、どんな料理にもコショーを使うわけではない。麺料理でも、生ソーメンのようなカノム・チーンという米の麺料理にはコショーを振りかけない。
 元々、タイ語ではコショーを「プリック」と呼んでいた。そこにトウガラシが入ってきて、これも「プリック」と呼んだので、混乱を避けるためにコショーを「プリック・タイ」(タイのプリック)と呼び、トウガラシはただの「プリック」となった。
 こういう歴史を考えれば、古くからあるタイ料理にコショーをたっぷり使っていていいはずなのだが、どうもそうではない。和え物のヤム、東北タイの民族食であるソムタムにもコショーが入ってない。
 では、汁物のケーンではどうか。ケーンを大胆に二分すると、インド系ケーンと雲南系ケーンがある。雲南系というのは仮称で、タイ、ラオス、雲南に共通する汁物を仮にこう呼んでおく。インド系ケーンとは、ケーン・カリー、ケーン・マッサマン、ケーン・パネンといった料理で、料理の色は黄色から茶色で、日本人の目にはまさに「カレー」である。こうした料理にはカレー粉を使っているから、当然コショーも入っている。ところが、雲南系となると、コショーの影がない。各種ハーブとトウガラシの味つけだ。
 こうして見ると、コショーは現代の中国系料理と、それ以前にマレーから入ってきたインド系料理にのみコショーを使うということがわかってきた。生の粒コショーを使った料理もあるが、それほど種類は多くない。
 すでに書いたように、コショーはかつてプリックと呼ばれ、トウガラシが入ってきてプリック・タイと名を変えたという言語学的な面からの説明は正しいとは思うが、その歴史的経緯がよくわからない。もともとタイではコショーをよく使っていたが、トウガラシが伝わって、コショーがトウガラシに置き換わったのか、あるいはもともとコショーはそれほど使っていなかったのか。そのあたりの事情がよくわからない。
 タイ料理関係の本は多数出版されているが、そのほとんどは作り方か店の紹介だ。きちんとした食文化の本が出るのはいったいいつなんだろうか。

 

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