前川健一 著作一覧

アジア雑語林(51)〜(60)

アジア雑語林(60) 2004年4月24日

インドカレーにまつわる伝説

 カレーが好きで、インドに興味があり、しかし日本のインド料理さえまだ食べたことがなかった高校生のころ、テレビを見ていたら料理研究家がインドのカレーについて話していた。
「インドのカレーは、水がたくさん入っているからドロドロしていないんです。それに、ジャガイモやニンジンも入れないので、日本のカレーとはまったく違うんですよ」
 1960年代末のことだから、この料理研究家もおそらくはインドに行ったことはないだろう。日本にあるインド料理店で食事をして、それが「本場のインド料理のすべて」と思い込んだのだろう。
 その話をテレビで聞いてから数年後、私はインドを旅していて、ジャガイモのカレーがいくらでもあることを知った。ジャガイモとニンジンの両方が入っているカレーは食べていないが、料理書によればそういうカレーもあるそうだ。カレーというものが、日本人にとっての醤油のような調味料だと解釈すれば、どんな材料を使っても不思議ではないことがわかる。この一件がきっかけではないが、私は料理研究家という人の教養をほとんど信用していない。料理研究家というのは、どう料理するかを研究しているだけで、食文化全般にはほとんど興味も知識もない人だとわかってしまった。
「インド人って、カレーを食べていても、あんまり水を飲まないんでしょ」
 私がインド料理の話をしているときに、そんなことを言い出す人がいてびっくりしたことがある。彼女の頭のなかを覗いてみれば、次のようになっているらしい。

  カレーは辛い→だから日本人は水を飲みながら食べる→しかし、インド人は子供のころから辛いものを食べているから、辛さは気にならない→だからインド人は水など飲まずにカレーを食べる。

 インド人だって、水を飲む。辛いから水を飲むインド人だっているだろうが、たんにのどが渇いているから飲むのであり、水があったほうが料理が食べやすいからだろう。アメリカ人やシンガポール人がコーラやジュースを飲みながら食事をしているのと同じ理屈だ。
 都内のカレー専門店で、隣の席に座っている大学生らしきふたりの男の話し声が聞こえてきた。
「カレーって、何だろうな」
「どういうこと?」
「カレーは、カレー粉で作るってのは知ってるけど、カレー粉は何から作るんだろ。『カレーの実』なんてのがあってさあ、それを粉にしているのかなあ」
「知らねえよ、そんなこと。食ってうまけりゃ、それでいいんだよ」
 その話を盗み聞きしていて、やはり料理研究家の話を思い出した。
「カレー粉は、カレーの木の実かなんかから作るんじゃないかと思っていらっしゃる方がいるようですが、カレーの木なんてないんですよ。カレー粉は、トウガラシやクミン、コリアンダー、ターメリックなどいくつものスパイスを粉にして混ぜたものなんです」 この話はほぼ正しいのだが、じつは『カレーの木』は実在するのである。カレーの木(ナンヨウサンショウ Murraya koenigii)は、ミカン科の植物で、英語ではその葉を「カレー・リーフ」と呼ぶ。カレー粉には入っていないが、インドでは料理によく使う。クミンやターメリックほどよく使うスパイスではないが、特別珍しいものでもない。かねてから気になっていたこのカレーリーフについて詳しく教えてくれたのは、『香辛料の民族学』(吉田よし子、中公新書)だった。
 この本だったか別の本だったかわからないが、吉田さんが書いた文章にカレー粉に関する意外な話があった。カレー粉の辛さは、普通に考えればトウガラシのせいだろうと考えられるのだが、日本人が好きなカレーの味はトウガラシよりもむしろコショーの辛さだから、カレー粉やカレールウにはコショーの辛さを強調した配合になっているそうだ。

 


「旅行人」の蔵前仁一さんから「アジア雑語林(58)」に関して、ひと言弁明をと、下記のメールをいただきましたので、転載いたします。

蔵前の蛇足:読書家といわれる人々は、いったい1カ月に何冊の本を読むのでしょうか。たとえば、手元にある2004年3月号の「本の雑誌」に掲載されている目黒孝二さんの「笹塚日記」では、1週間でおよそ11冊ほど読んでいます(あくまでこの日記に書いてあるもので見ればですが)。ということは1カ月に40〜45冊ということになります。さすがに読書家とはすごいものです。原稿も書きながら一晩に文庫を2冊一気に読んだりしてますからね。私なんか最近は寝床に文庫を持ち込んでは数ページで眠ってしまいます。
いつも、「この本はおもしろいよ」と教えてくれるのは、むしろ前川さんのほうなんですが、彼の好みは実に合理的で、僕のように曖昧なところがない。例えば僕は宮部みゆきの小説も読めば、カーブの投げ方、なんていう新書まで読みますが、前川さんはそういう支離滅裂な読み方はしないんですね。タイやアジアといったテーマがしっ かり流れていて、それに沿うようなら小説でも読むし、言葉の本も、旅行記も読む。たとえそれがいかにつまらない本なのかわかっていても読む、というところがすごいと思いますね。僕にはとてもできないことです。

 


アジア雑語林(59) 2004年4月16日

本とどう出会うか(6)小社からの案内で

 出版社に愛読者カードを送ると、「新刊の案内」といったダイレクトメールが届くことがあるが、そういう案内で購入を決めたことはない。私にDMを送るのは無駄である。
 案内というのとちょっと違うが、文庫版雑誌「IN POCKET」(講談社)にその月に発売される各社の文庫リストが載っているのはありがたい。できれば、これに新書リストも載っているとありがたい。現在のように数多くの新書が出版されるようになると、書店に並んでいる期間も短く、知らないうちに書店から消えていき、間もなく品切れ絶版になる時代だ。新書に限った話ではないが、本が雑誌のようにすぐ消えてしまう昨今だから、ひと目で全貌がわかるリストがぜひ欲しいのである。
 文庫の雑誌があるのだから、隔月刊でもいいから新書の雑誌もあっていい。新書を出している出版社からでは自社本ばかり優遇することになるので、できれば第三社から出してほしい。
 取次の資料にはすべての新刊情報が載っているのだろうが、そういう資料を入手してチェックするほど必要というわけではない。インターネット上にもそういう資料があるのかもしれないが、まだ確認できない。
 書店に置いてある「これから出る本」が私の要望にいちばん近いが、それでもすべての新書を網羅しているわけではない。

     そ の 他
 各社に寄せられた愛読者カードのアンケートでは、もしかすると、今はこの「その他」がかなり多いのかもしれない。インターネットが普及したからだ。新刊書に関して言えば、私はネット情報をあまり使わない。さまざまなサイトで紹介される「売れ行き良好書」と私の趣味が合わないからだ。ただし、検索目的ではよく利用する。ある著者の著作リストを見たり、ある本がすでに文庫に入っているかどうかの確認に使ったりする。コンピューターを使うのはそこまでで、書店で現物を確認しないと、本を買う気にはならない。古書については、すでに書いた通りだ。
 インターネットで本が買えると知ったとき、これで読者がどこに住んでいようと自由自在に本を選んで買える画期的な時代になったと思った。大書店がない小都市でも、あるいは山村でも離島でも本が買えるのは確かだが、出版業界にいる知人たちの話では、インターネットで本を買うのは大都市在住者がほとんどだという。これはたんに人口の問題ではなく、本を読む習慣がある人が、大都市在住者に多いということらしい。
 まったく知らない本に出会うきっかけは、エッセイなどに出てくる本や、論文などの「参考文献」のページに登場する本だということも多い。読んでみたいと思って手帳に書名をメモするが、なかなか注文できないのは、値段がわからないからだ。今はインターネットで値段はもちろん、在庫の有無も確認できるが、前コンピューター期にはなにもわからなかった。版元が「岩波書店」とわかっても、それが文庫や新書なら値段を気にせずに買えるが、定価12,000円ということもありうるわけで、むやみに書店に注文を出せない。出版社に電話すればわかることではあるが、どうしても読みたいという本でなければ、「まあ、いいか」ということになり後回しになってきた。今はコンピューターで検索できるようになり、値段はもちろん、品切れかどうかもわかるようになった。 ある特定テーマに関する本を探す場合は、この「参考文献」から探すというのが効果的だ。たしか、立花隆も書いていたと思うが、さまざまな文献で必ず引用されていたり、参考文献として巻末に書名が明記されている本は、その分野の基本資料になるわけで、その本から入り口を広げていくのが一般的な方法らしい。私自身が書いた本でも、できる限り多くの参考文献を紹介しているのは、読書案内という理由もあるからだ。
 もっと本格的にやるなら、専門図書館や論文目録などをチェックすることになるが、専門的になるのでその話は省略する。

 


アジア雑語林(58) 2004年4月11日

本とどう出会うか(5)人に勧められて

 本との出会いは一期一会だから、見つけたらすぐ買うこと。有名な学者や評論家や小説家たちはそんなことをよく言うが、それは潤沢な資金と広大な書庫を持っている人だから言えることで、貧乏ライターには読みたいと思った本を片っ端から買えるような財政的余裕はない。本を置く場所も限られている。読む時間も能力もないのに、とにかく本を買うという習慣はない。私には、本を買う喜びも所有する喜びもない。
 本を買うのが好きな人たちのエッセイには、「そんなに多くの本を買って、全部読んでいるのですか?」というよく受ける質問に対して、そんな質問をする者に対してひとことで言えば「バカめ!」と見下したものが多い。私の目には、やたらに買いまくる人はたんに買い物中毒の患者というだけのことだ。いばるんじゃない。イメルダの靴と同じじゃないか。
 貧乏な私は、できるだけ効率良く本を買いたいと思う。無駄なく買いたい。そのためには、私の好みをよく知っている人が、「これ、読んだ? おもしろいよ」と声をかけてくれる友人が何人かいればありがたいのだが、いまのところそんなありがたい友人は蔵前仁一さん以外いない。「とくに最近、本が売れないよ」とか「若者は、ホントに本を読まないなあ」などと嘆く出版関係の友人知人たちにしても、「これがお勧めっていう本はあります?」ときけば、「最近は、あんまり本を読んでなくてさあ。コンピューターをいじってると、本を読む時間がなくてさ」などという。知人と出会ったら本の話をするというのは、中高年の趣味だとする文章を読んだことがあるが、その中高年の出版関係者でさえあまり本を読まなくなっている。昔からの習慣で一応買っておくが、読まないらしい。
 その点、蔵前さんは忙しい日常のなかで、膨大な数の本を読んでいて、そのうちの何割かは私の興味と重なる分野だ。彼が推薦する本のすべてが私にとってもおもしろいというわけではもちろんないが、2冊か3冊に1冊は、私も楽しめる本だし、楽しめなくても、まるでダメな本を推薦してくることはない。要は、趣味の問題だと言える程度の誤差である。
 アジア文庫の大野さんも、私の趣味を熟知している人で、「私が買いたくなる本があるなら、出してごらんなさい」などと挑発すると、「これ、どうですか? きょう入ったばかりなんだけど……」などとボソボソ言いつつ、植物事典やインドネシア語雑学辞典などを出してくることもあるが、そういう本が毎月出版されているわけではない。

アジア文庫、大野の蛇足:前川さんにボソボソ言いつつ本を勧めても、「おおこんな本があったか」と喜んでもらえることは少ない。前川さんが知らない本を「これはどうですか?」と出したいが。ほとんどの本は、事前に情報をチェック済みで、「ああこれはいいです」とか、「もう買っちゃった」と言われることが多い。年に一度くらい「おっ、これは」といって喜んで買ってもらえるかどうかだ。本に関しては呆れるほど貪欲で、「こんな本があったよ」と、逆に情報をもらうことも多い。

 


アジア雑語林(57) 2004年4月3日

本とどう出会うか(4)書店で現物を見て

 新聞の書籍広告で知った本を書店で探すことも少なくはないが、単行本に関して言えば買った本の大半は書店で初めてその本の存在を知ったことになる。神田で買うことが多いから、広告が出る前に書店で実物と出会うことも少なくないからだ。
 本に出会う事情は新刊書店と古本屋では違いがあるので、まずは新刊書店の話から始めようか。
 大型書店に行けば、それだけ発見も多く、収穫が多いのも当然かというと、そうでもない。品揃えが私の肌に合わなければ、棚をさっと眺めただけで、早々に立ち去る。店舗の広さと収穫の多さは、さほど関係がないのである。神田神保町の書店の話はすでに書いたので、他地域の書店でいえば、赤坂の文鳥堂は私が興味を持つ本が多く揃っている不思議な本屋だった。おそらく10坪にも満たない小さな書店だが、買いたいと思う本が多かった。溜池山王の国際交流基金アジアセンターに行くときは必ず寄っていたのだが、先日行ってみたら姿を消していた。閉店したそうだ。前川好みの品揃えは、やはり経営的に苦しいのだろう。赤坂では一ツ木通りの金松堂書店も、買う確率の高い本屋だ。TBSやテレビ番組制作会社がすぐ近くにあるせいか、マスコミや芸能関係の本が揃っている。
 銀座なら旭屋の、ソニービル方面から歩いてきて、最初の入り口を入った右側の棚が好きだ。旭屋が好きというのではなく、銀座支店のあの棚がいいのだ。まるで、私の好みを熟知していて、「さあ、お買いなさい。どうです、欲しいでしょ」と声をかけてくるような棚なのである。具体的には、異文化、サブカルチャー、エッセイ、現代社会史といった関係の本が揃っている。
 古本屋の場合は、すでに知っている本が半分、初めて出会う本が半分といった割合だろう。もちろん、私の興味を引く分野の本に関してのことだ。新聞などの広告でその本の存在を知り、新刊書店で現物をチェックし、「高すぎる」とか「内容が期待したほどではなさそうだ」といった理由で、第一次審査に落ちた本に、古本屋で再会することがある。出たばかりの本が半額くらいの値段で売っていると、ついつい敗者復活して購入ということになるのだが、そんな本が、読んでみれば傑作だったという例はほとんどない。第一次審査は厳正かつ正確なものだった、私の選書眼もなかなかのものだとうぬぼれたくなるのだが、第一次審査に合格した本にも、期待外れで見事予想が裏切られたという例がいくらでもあるから、私の選書眼などまったく当にならないことになる。
 なぜ私の選書眼が不正確かというと、書店で本をほとんど読まないからだ。買うか買わないかは、20秒か30秒くらいで決めている。そういう決め方がいいというのではなく、長年のクセだというだけだ。著者名だけを見て、すぐ買う本もある。そういう10人くらいの著者の場合は、よほど高くない限り内容など確認せずに購入を決める。ジャンルとレベルがすでにわかっているからで、もし確認するとすれば、過去に出た本の改題ではないかということだけだ。
 著者をまったく知らない場合は、「著者略歴」を読んで、ページをパラパラとめくってみる。まるでダメな本というのは、本文レイアウトがまるでなってないのだ。自費出版の匂いがすれば版元を確認し、「やっぱりな」と納得して本を棚に戻す。自費出版が悪いというのではない。「一応、印刷はしましたよ」というだけの本は、やはり内容もその程度だということだ。
 出版社で、本の内容とレベルをある程度推測することもある。それを偏見だとするか、それとも経験則に基づく判断だとするか、人によって意見が違うだろうが、やはり出版社の性格というものがある。だから、このテーマで、この出版社なら、この程度の内容だろうと推測するのである。
 私にも好きな装幀というのはあり、自分の本の場合は多少こだわるが、読者の立場でいえば、本を買うときにはなんら影響しない。装幀がいいというだけで買うということはいっさいないし、おもしろそうな本だが装幀がひどいから買わないということもない。だから、古本屋でカバーつきが1500円、カバーなしが900円なら、ためらわずにカバーなしの方を買う。本は、読めればそれでいいのだ。飾りものじゃない。だからこそ、デザイン重視の、読みにくい本には腹が立つのである。
 「おもしろそうだ」と感じた本でも、すぐ買うとは限らない。買うか買わないかの判断基準はいくつかある。今すぐ読みたいかどうか、最優先で読みたいか、それを考える。おもしろそうだと判断しても、すでに買ってある本が何冊もあれば、「きょうはやめておこう」ということになる。その日最初に出会った本なら買うが、すでに何冊も買ったあとで出会ったなら買わないということもある。数多く買えば、読まない本が増えるだけのことで、結局カネの無駄ということになる。仕事上でぜひとも必要だと思ったら、買う。仕事と関係なくても、そのときの気分にぴったり合えば、買う。今読まなくてもいいやと思えば、後回しにする。数年後に、かつて後回しにした本を読み、早く読んでおけばよかったと悔いる本は、残念ながらそれほど多くない。
 判断基準には値段も関係する。私の場合、どうやら3000円が決断の分岐点になるらしい。私の興味分野でいえば、新刊書で3000円以上出しても読みたいという本はそう多くない。過去の経験でいえば、3000円以上する本を何冊も買っているが、辞書・事典・図鑑などを除けば、値段に見合った満足度を与えてくれた本は少ない。高い本は、古本屋で半額以下で買っても、「買うんじゃなかった」と後悔するのがほとんどだ。
 すぐに古本屋に出そうな本も、あと回しになる。神田をよく歩いていれば、この手の本なら、「あそこの古本屋にすぐ出るだろう」という予測がつくもので、あるいは「ブックオフで見つかればそのときに」という程度の評価ということもある。

 


アジア雑語林(56) 2004年3月27日

本とどう出会うか(3)テレビ・ラジオの番組で

 書評の番組やコーナーをあまり見ないので、私自身にはなんの影響力もない。一般読者にとっても、さほど影響力はないだろうと思う。何人かの編集者の話ではそうだったのだが、別の意見もある。
 ちょっと確認したいことがあって、めこんの桑原社長に電話したついでに、マスメディアの影響について尋ねたので、その話を紹介しておこう。
「一般読者にも読みやすいもので、読者の関心が比較的ある分野で、しかもそれほど高くないなどいくつかの要因が重なっていると、その本がラジオなどで紹介されると、放送当日から数日は客注(客が書店に注文をだすこと)がどんどん入ることもあるよ。活字メディアでの紹介は、ラジオほどの影響力はないですね」
 かつて、人気絶頂だったころの逸見政孝が、出版したばかりの自著を宣伝するためにある有名ラジオ番組に出演し、「ぜひ読みたいという希望者はハガキで申し込みいただければ、抽選で10名にさしあげます」と告知したが、6通しかハガキが来なかったという話もある。
 アジア文庫関係では歴史的大事件を経験している。アジア文庫がまだ日曜定休だった10年以上前の話だが(現在は基本的には無休)、月曜日に店主が店に来ると、事務所がファックス用紙の海になっていたことがあるそうだ。ある本の注文や問い合わせである。その本は、大同生命国際文化基金が発行しているビルマ文学(※注)の翻訳で、市販はしないが唯一アジア文庫でだけ扱っていた。騒ぎの原因は、土曜日に放送されたラジオ番組でその本が紹介されたからだった。もしもその本が、大出版社から普通に出版されたものであったら、こうした騒ぎにはならなかっただろう。

 ※アジア文庫店主の長い注釈: 紹介された本は、「農民ガバ」(マァゥン・ティン著)、番組は、TBSラジオ 「土曜ワイド」。実売数は、私の記憶では、60冊くらいだった。でも、短期間にこれだけの数が売れたのはアジア文庫にとって「事件」だった。
 大同生命国際文化基金の本は、現在、アジア文庫でも扱っていない。同基金からは、他にも「アジアの現代文芸」シリーズと題されて、アジア各国の小説が40点ほど出版されている。本シリーズは主要な図書館に寄贈されているので、興味のある方は、最寄の図書館にお問い合わせください。
 めこんの桑原さんが言っているように、活字メディアでの紹介で、問い合わせが相次ぐということはほとんどない。
 新聞にアジア関係の本が書評に載ったとき、在庫があれば、「お、出たか」と余裕で済まされるのだが、在庫のない本が書評に出ると、「ヤバイ!」と思ってしまう。先先週だったか、朝日新聞の書評欄に「尹東柱詩集 空と風と星と詩」(金時鐘訳 もず工房 1,800円)が掲載された時がそうだった。掲載時に在庫がなかった。一般の書店に置いていないと思われる出版社の本だったので、問い合わせがくるのではないかとあせった。確かに問い合わせはあったが、二件だけだった。
 活字メディアに比べて、テレビの影響力というのはすさまじい、怖いくらいだ。本そのものの紹介ではないが、テレビの影響力の大きさを感じたのは、「ウォンビン写真集」だった。以前、「アジア文庫のレジ裏から」にも書いたが、2002年2月に放送されたテレビドラマ「フレンズ」(TBS系 日韓共同制作)の放映直後、当サイトとしては驚異的な数のアクセスが殺到した。主演のウォンビンが、当時、日本では無名だったためか、テレビを見た女性が一斉にネットで「ウォンビン」を検索したようだった。その後、「ウォンビン写真集」に注文が殺到した。
 最近、日本で放映された韓国のテレビドラマは、同じような現象を次々に起こしている。ご存知、「冬のソナタ」は、社会現象といってもいいような騒ぎになっている。主演のぺ・ヨンジュン、チェ・ジウの人気も半端じゃない。でも、ここまでくると、もうアジア文庫の枠をはるかに超えて、メジャーの世界の、別の出来事になってしまった感がある。大出版社が次々に写真集を出し、大書店のメーンの平台にドーンと積まれたぺ・ヨンジュンがにこやかに微笑むようにるようになってきた。韓国のテレビドラマが、これほど日本に受け入れられるようになろうとは、一昔前では考えられなかった。隔世の感がある。

 


アジア雑語林(55) 2004年3月21日

本とどう出会うか(2)雑誌の広告で

 雑誌をほとんど読まないので、雑誌の出版広告を読んで購入を決めるということもない。
      新 聞 ・ 雑 誌 の 紹 介 記 事 を 読 ん で
 紹介記事や書評などで、その本を買いたくなることはほとんどない。私が読む新聞の書評欄で、一年間にとりあげる本が例えば100冊あるとして、「読みたいな」と思う本はせいぜい数冊で、そのうち書店で現物を見て買うことになる本は1冊あるかどうかだろう。私は小説を読まないし、難しい評論は嫌いだし、小説でなくても基本的に翻訳物も嫌いなので、エライ人が紹介するエラそうな本には縁がない。
 縁がないのは私だけではなく、ほとんどの読者にとっても縁がないようだ。新聞の書評が営業的に意味を持っていたのは、多分70年代かあるいは80年代初めくらいまでではないかと思う。新聞や雑誌の書評欄で紹介されることは、著者や編集者や出版社にとってはうれしいことではあるが、だからといって売り上げが急激に伸びるわけではない。本の内容や値段などによって売れ行きに影響することもあるだろうが、初版3000部の本が、書評で取り上げられたからといって、いきなり1万部の注文が入ることはめったにない。書評の影響力が70年代あたりまであったのは、本を読むことは教養を高めることであり、教養が高いことはすばらしいことだという信仰がその時代まで残っていたからだ。こういう教養信仰の時代は、80年代の「ポストモダン」とか「ニューアカ」(ニューアカデミズム)といった言葉が一部でもてはやされた時代を最後に終わった。
 新聞でも「日刊ゲンダイ」などの書評欄や、週刊誌の書評なら私が読みたくなるような本が紹介されているかもしれないが、そういう新聞や雑誌を読まないのだからしょうがない。ただし、そうした書評をまとめた単行本は読むから、間接的には雑誌の書評を参考にして、本を選んでいるということもあるのだろう。
 「本の雑誌」は、まだほとんど無名だった第8号か10号くらいからしばらく読んでいたが、椎名体制から目黒体制に紙面が変わり、小説中心になったのを期に定期購読もやめてしまった。ミステリーにもSFにも、恋愛小説にも時代小説にもまったく興味がないと、せっかく買っても読むページがほとんどないからだ。
 「ダヴィンチ」は創刊号を立ち読みしたが、「書評」らしく見せているがじつは広告というリクルート式編集で、編集方針が私の興味とはまったく合わないので以後手にとっていない。「本の雑誌」も「ダヴィンチ」も、そういう編集方針が悪いといっているのではない。趣味が合わないというだけのことだ。
 「この人が紹介する本なら、おもしろいに違いない」と思える評者を得た読者は幸せである。私の場合、読書傾向がいくぶん変わっているからなのか、そういう評者にはほとんど出会えなかった。小説ファンの世界は知らないが、ある程度多種多数の本を読んでいる人にとって、自分とまったく同じ興味と評価基準を持っている人など、多分いないだろう。
 評者の興味と重なるという意味では、私にとって唯一の例外的存在だったのが井田真木子だ。彼女が紹介する本は、私がすでに読んだ本か、読みたいと思って買ってある本か、あるいは買おうと思っている本が多かった。まったく知らない本を紹介していることももちろんあったが、書評を読めば(あるいはテレビで見ると)、その本を読んでみたくなった。実際に買ったことは多くなくても、「読みたい」と思わせる紹介記事があると感動するものだ。
 書評集や読書エッセイなどは比較的よく読むが、それは参考書として読むのではなく、文章や批評の芸を楽しむために読んでいることが多いようで、そこで紹介された本をすぐさま読んでみたいと思う確率は少ない。
 そういう書評集のひとつ、『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』(狐、筑摩文庫)をついさっき読み終えたところだが、そこにおもしろい話が出ていた。ミヒャエル・エンデの『モモ』(岩波書店)といえば、小泉今日子が「愛読書です」と紹介したために急激に売れたという出版伝説で有名だ。『モモ』のほかに、『ライ麦畑でつかまえて』も紹介して、やはり売り上げを伸ばしたという話は知らなかったが、「あれは言ってみたかっただけ、ほんとは読んでないのよ」と、小泉はのちに告白したそうだ。

 


アジア雑語林(54) 2004年3月15日

本とどう出会うか(1)

 新刊を買うと、愛読者カードが挟み込まれていることがある。かつてはよく書いたのに、最近あまり書かなくなったのは、著者や編集者に感謝の気持ちを伝えたいと思うような本に、ほとんど出会わないからだ。
 愛読者カードには、「この本を何でお知りになりましたか」というアンケート項目が必ずある。出版社によって内容はいくぶん違うが、だいたい次のような選択肢が並んでいる。
1.新聞の広告で(新聞名      )
2.雑誌の広告で(雑誌名      )
3.新聞・雑誌の紹介記事を読んで(新聞・雑誌名       )
4.テレビ・ラジオの番組で(番組名       )
5.書店で現物を見て(書店名       )
6.人に勧められて
7.小社からの案内で
8.その他
 出版社によっては、「インターネット情報で」という項も入っているだろうが、私の手元にあるいくつもの愛読者カードでは、そういう選択肢は見つからなかった。
 私の場合はどうだろうかと考えてみた。本はどうやって探しているのかという話だが、これはなかなかに難問だ。各項目ごとに考えてみた。

  1. 新 聞 の 広 告 で
 一日のうちで、もっとも好きな時間は朝食のときだろうと思う。子供のときから朝食を抜いたことがない。子供のころはあわただしい朝だったが、年中半失業状態のライターになってからは、時間はたっぷりとあり、「あわただしい朝」はなくなり、毎朝1時間以上かけて朝ご飯を食べている。とくに手のこんだものを食べているわけではない。トーストとサラダとコーヒーだけである。サラダは数日分まとめて用意しているから、5分もあれば、朝食の準備は終わる。
 机に朝食と新聞を置き、ラジオのスイッチを入れて、朝の楽しい時間が始まる。新聞で毎日確実に読むのが、出版広告だ。雑誌の広告にも目を通すが、その広告につられて雑誌を買うことはほとんどない。そもそも雑誌をほとんど買わないからだ。書店で立ち読みもしない。本の広告はていねいに読み、「ほほう、そんな本が出たか……。今度買おうか」などと思うものの、本によっては書名や著者名をメモしておかないので、書店であたふたすることがある。
 書店員のエッセイに、トンチンカンな書名を口にする客がいるという話がよく出てくるのは知っているから、そういう客と同じことはしたくないと思い、結局その日は本を買えずに帰宅する。自分の記憶力を過信していると、こういうあわれな結末を迎えることになるのだが、それでもメモをとらないのは、その本が有名な著者のものであったり、大出版社から出た本だから、「きっと平積みになっているから、すぐ探せるだろう」と予想するところに問題があるらしい。「忘れるのは、歳のせいでしょ」などと指摘したがる人もいるかと思うが、忘れ物が多い小学生はいくらでもいるのだから、これはおっちょこちょいが原因だと思う(思いたい)。
 「読みたい」という欲求が非常に強い本は、さすがの私もメモをする。後日、書店の棚に立ち、バッグから手帳を取り出そうとして躊躇する。書店でバッグを開けたら、万引きだと誤解されそうだ。万引きしなければ、もちろん問題にならないのだが、書店員に疑いを持たれるのがいやだから、レジ近くでバッグを開けることがある。
 万引きで思い出した。ある日出かけたときに、途中で書店に寄った。私としては珍しく読みたい雑誌を見つけたのだが、バッグに入るかどうかわからない微妙な大きさだった。これから何カ所か巡る予定だから、手に雑誌を持ったままなのは嫌だ。バッグに入ったら買おうと思って、バッグに入れようとしていてハッとした。バッグに入れたら万引きじゃないか。アブナイ・アブナイ。
 出版広告でもっともきちんと読むのは、もしかすると新書の広告かもしれない。昨今は新書の出版ラッシュで、新書は雑誌のように次々に出て、すぐ消える。だから、出版時にチェックしておかないと、知らないうちに消えてしまう。私は基本的に小説は読まないから、新書や選書のチェックは重要なのである。
 毎日、新聞の出版広告を読んでいると、レイアウトだけで、どこの出版社のものかわかるようになってくる。平凡社と筑摩書房のものがわかりやすいと感じるのは、その社の本に興味があるからだろう。

 


アジア雑語林:番外 2004年3月8日

「本屋は気楽な稼業か」への反論と解答
―「めし屋はいいな」―

特別寄稿:アジア文庫店主

 まさか、前川さんに宿題を出されるとは思わなかった。「アジア文庫のレジ裏から」の更新が、あまりにも少ないことに、業を煮やしてのことでしょう。
 「めし屋のオヤジと、本屋のオヤジと、どちらが気楽な稼業か?」、アンケート調査をしてみれば、多分、「本屋のオヤジ」、と答える人が圧倒的に多いでしょうね。昔から本屋のオヤジといえば、日がな一日、レジで本を読める気楽な稼業、というイメージが強いようだ。
 業態のまったく違うものを比較するのも、あまり意味がないような気もするのだが、世間から「呑気なやつら」と思われている本屋のオヤジにも、時に、「めし屋はいいな」と思うことはあります。
 私が、お昼に、毎日のように通っている定食屋は、刺身が山盛りで、味噌汁も具沢山の「マグロのなかおち定食」(800円)が人気メニューで、よく売り切れになってしまう。「すいません、なかおちは売り切れました」、「あ、そう、じゃ、肉豆腐定食ください」、といった会話が、お客と店員との間でよく交わされている。
 「めし屋はいいな」、と私が思うのはこの時だ。本屋では、「前川さんの『東南アジアの日常茶飯』をください」、「すいません、売り切れました」、「あ、そう、じゃ、『タイの日常茶飯』をください」、とは、絶対にならない。本は、一部の実用書や語学書などを除けば、代替が利かない商品がほとんどだ。しかも、商品数がやたらに多い。調達に時間がかかる。品切れ・絶版は頻繁に発生する。お客さんが求める本を、求める時に手渡せないことが、かなりの頻度で発生する。つまり、メニュー(目録)には載っているが、提供できない事態が多発する。
 さらに、めし屋に来店した客は、必ず注文してくれる。本屋の来店客は、購入者のほうが少ない。うらやましいとは思うが、そのことはさして気にならない。購入しない人も、本屋には大切なお客さんだと思っている。私自身、他の小売店にひやかしで行くことはよくある。その時には買わなくても、何度か行っているうちに購入することもある。
 でも、たとえば、こういうことはある。アジア文庫のトイレは、レジ脇にあって、無断では入りにくい。先日、無言でヌーッと、レジにいた私の脇をすり抜けてトイレに入った男がいた。やがて、ヌーッと出てきて、店内にしばらく滞在した後、やはり、ヌーッと出て行った。後でトイレに入ったら、粗相の残骸があちこちに散らばっていた。
 小さい子も脅威だ。彼らは、やたら触るのである。表紙や、頁を折ることに何のためらいもない。落っことすことにも無頓着。あっちからこっちへ本を移動する。平積みを崩す。それを注意しない親にさらにイライラする。あまりにひどい時は、私自身が注意するが、たまに、「触っちゃだめよ」と言う親の言葉を素直に聞いて、おとなしくしている子もいる。それだけで、私は彼らの親を尊敬のまなざしで見てしまう。注意すれば、子供はある程度聞き分けてくれるのだ。
 「本は返品できるからいいよな」、というのも他の業界からよく聞く言葉だが、これも少し誤解されているようだ。確かに、新刊本は、刊行されてから3ヶ月以内であれば、ほとんどの本が返品できるけれど、支払いは入荷の翌月にはたってしまう。さらに、注文で取り寄せた既刊本は、原則的に買い切りになる。また、返品可能な本ばかりを扱うことも可能だけれど、おそらく、魅力のない、極めて薄っぺらな棚しかできないだろう。アジア文庫の在庫を考えてみても、いつでも返品可能な本は、3割くらいしかないと思う。売れなければ、不良在庫として自分でかぶらなければならない本のほうが多い。
 「めし屋はいいな」、と私が思うもう一点は、万引きがない、ということ。食い逃げ、というのはあるのだろうが、万引きの件数に比べれば、微々たるものだろう。万引きは、本屋にとっては死活問題だ。最近、日本書店組合で、加盟書店に万引きの実態をアンケート調査した結果が発表されたが、一書店あたり平均で、年間200万円を超える被害にあっているという。万引き犯の大半は、中高校生と言われている。幸い、というべきなのだろうか、アジア文庫の来店者には、この世代は皆無に近い。では、万引きの被害はないのか、さすがに200万円ということはないが、大人でも万引きをする。むしろ、子供よりもたちが悪い。高額品をねっらた確信犯がいる。一日の売り上げが吹き飛んでしまうこともあった。被害にあったあとは、数日間気持ちが晴れない。万引きは犯罪です!「つい出来心で…」などという言い訳は本屋には許せない。本の粗利は、2割少ししかない。1万円の本を、1冊万引きされたら、4万円の売り上げが消滅したのと同じことになる。200万円なら、800万円か、それ以上にもなる。その本が、補充されるまでの期間に売れた可能性を考えると、被害額はもっと大きくなる。本屋が万引きに敏感になるのもお分かりいただけるだろうか。万引きの話になるとつい力が入ってしまうのだが、大多数の人には無関係な話なので、これくらいにしておきます。
 と、まあ、本屋のオヤジも、それなりの気苦労とともに、稼業に打ち込んでいるのですが、「のんびり本を読んでいる時間」がないか、と言えば、アジア文庫のオヤジに限れば、30分くらいはある、とお答えしておきます。
 やっぱり、めし屋より楽かな?

 


アジア雑語林(53) 2004年3月1日

本屋は気楽な稼業か

 サラリーマンが定年後にやりたい職業といえば、ラーメン屋や居酒屋などとともに、古本屋というのも人気が高いらしい。いずれも、組織にしばられない自由さを求めてのことだろう。古本屋の場合は、それと同時に、「本が好きで」、だから「一日中、本を読んでいればいい仕事なら自分に向いているはずだ」というのが、その理由らしい。
 できれば一日中本を読んでいたい男が、めし屋のオヤジになった。その男が本屋稼業について語った話をそのまま紹介してみよう。

 本屋に行くと、オヤジがのんびりと本を読んでいたりしてさ、「いいなあ」と思うんだよ。めし屋じゃ、そんなことできないよ。
 ウチの開店時間は11時だけど、9時には店に入って、仕込みをやって、それが終わればランチタイム。2時から「休憩」に入るんだけど、それは店を閉めるというだけで、こちらはちっとも休憩じゃないんだよ。ランチの片付けをして、買い物や、夜の仕込みに入ったり、業者に注文の電話をかけたり、新しい食材や安い食材を探して都内を歩いたりと、いろいろやらなければいけないことがあるんだよ。ちょっと時間があって本屋に立ち寄ったりすると、オヤジがのんびりと本を読んでいるじゃない、いいよな。うらやましいよ、ホント。
 オレが椅子に座るのは、ランチが終わって昼めしを食べる10分ぐらいだけ。あとは、朝から閉店まで、ずっと立ちっ放し。もちろん、本を読む時間なんてないよ。
 夜の営業が9時まで。客がまだいれば、閉店時間はずれる。客が帰って、片付けをして、売れ残ったものの処理をして、店の掃除が終われば、もう10時は過ぎている。
 本屋には、仕込みがないじゃない。いいよな。最悪の場合だけど、10時開店なら9時55分に店に来ても営業はなんとかなるでしょ。めし屋はそんなことできないよ。開店時間直前に店に着いたんじゃ、飯が炊けていないどころか、米も研いでない。お湯もわいてないんじゃ、商売にならない。だから、本屋はいいよ、ホント。朝寝坊ができる。店を開けてから、配本された本の処置をすればいいんだから。
 本屋はさあ、店主が不在でも営業できるでしょ。なにか用があって、半日不在でも店はアルバイトに任せておける、だけどさ、めし屋だと、オレがいないと料理は出せない。皿洗いのアルバイトやカミさんに、料理させるわけにいかないもの。
 売れ残りも、こっちはなまものだから、捨てるなり冷蔵するなり、毎日苦労するわけだ。本屋だと、新刊書店なら売れ残りは返品すればそれでいい。古本屋は返品できないけど、その日のうちに処分しなきゃいけないってわけじゃないでしょ。古本屋は、本の仕入れに苦労するという話は多少知っているけどね。
 本屋は、ホント気楽な稼業だと思うよ。でもさあ、そんなら、お前が本屋をやってみればいいじゃないかと言われると、困る。ちいさな本屋がどんどんつぶれているしね。めし屋もつぶれているという点じゃ、同じことなんだけど。毎日、本を読んでいればいいっていう仕事はないかねえ。貧乏ライター? やだよ、オレ、そこまでの貧乏には耐えられないよ。

 というわけで、次回は特別ゲストとしてアジア文庫店主に、「書店経営者の生活と意見」を語っていただこう。

 


アジア雑語林(52) 2004年2月24日

魔界に足を踏み入れて(6)
ネット古書店から見えてきたこと

 インターネットで古書を注文して気がついたことのひとつが、書店側の案内ページに「ノークレーム、ノーリターンでお願いします」という文章だった。つまり、「文句を言わないでくれ、返品しないでくれ」という意味だろう。
 30年前に出た文庫で、売値が300円という古本に、クレームをつけたり、返品を要求するような客がいることに驚くが、こういう文章を載せているのだから、そんな客が実際にいるということだろう。
 私は、基本的には、「本は読めれば、それでいい」と思っている。カバーがやぶれていようが、書き込みがあろうが気にならない。重要なのは内容である。だからこそ、新本でもデザインだけを重視し、読者に「読むな!」と主張しているレイアウトの本は、読むに堪えないし、ハラが立つ。そういう本に対しては、返品を迫らないまでも文句のひとつやふたつは言いたくなる。
 各業界で「困った客」問題が取り上げられているが、そうした一般的な話ではなく、ネット古書店の「困った客」はどうして生まれてしまったのか、しばし考えてみたい。
 まず、素人の参加が、その原因だろう。古本屋によく出入りしていれば、その売値によって、古本の状態というのがだいたい想像できるのだが、そんなことがわからない者が客になった。古本屋に行ったことがない者が、新品より安いというだけの理由で購入を決定する。送られてきた商品は当然新品ではないのだが、客は電気製品などと同じように、新品のバーゲンだと思い込んでいるために、クレームをつける。
 そのクレームが、店に直接行って苦情を言うというのであれば、ためらいもあるだろうが、メールを送るだけなら、どんな罵詈雑言でも平気で打てる。ネット販売にはそういう特性もあるだろう。
 変な表現だが、古本屋を知らない者が知っている古本屋とは、ブックオフなどに代表される新型の古書店だ。そういう店で売られている商品は、あたかも新品だと思えるほど磨かれている上に、立ち読み自由だ。タダで、いくらでも本が読める。読んでも、棚に返せば万引きにはならない。これとまったく同じ思考回路で、ネット古書店に注文し、「もう読んだから」、「読んだがつまらないから」、「期待した内容じゃないから」、「読む気がしないから」などさまざまな理由で、「本を返せば代金も返すのが当たり前じゃないか」という理屈になるのだろう。
 こうした理由のほかに、私から見れば異常とも思える潔癖症も原因のひとつかもしれないと思える。清潔・完璧症候群とでも名づけたいこの病気が蔓延しているからこそ、ブックオフのような「清潔な古書店」が好まれるのだろう。
 そのような性癖の者が、みずから古本屋に出かけず、現物を見ずに、パソコン上で買い物をする。品物が到着すると、汚れているのでガッカリする。そういうことだろう。彼らを「異常とも思える潔癖症」と書いたが、じつはそういう彼らがいまや多数派ではないかと思う。というのも、数時間後か翌日にはゴミ箱に捨ててしまう週刊誌を、駅の売店で上から二冊目以下を選んで買う行為は、もはや日常のもののようだし、それは月刊誌でも同じことだ。つまり、私の目で見れば、異常者が多くなりすぎて、それがもう普通になってしまったからこそ、「ノークレーム、ノーリターン」と表示せざるをえないのではないか。
 問題は客の側だけにあるわけではない。出店者が古書を扱うプロの場合は、商品の内容や本の状態をきちんと説明できるだろうし、するだろうが、出店者が素人の場合は、商品の説明が不充分ということがある。買い手も素人だから、そこにトラブルがおこる。そんなこともきっとあるだろう。

 


アジア雑語林(51) 2004年2月17日

魔界に足を踏み入れて(5)
『外国旅行案内』と68年の旅行事情

 日本で最初の、本格的な海外旅行のガイドブックは、日本交通公社が52年から発行していた『外国旅行案内』だ。77年に『海外旅行案内』とタイトルが変わり、82年まで発行した。
 この本は、70年前後に新刊書店で何度も見かけたが、あまりの高額ゆえに買えなかった。のちに古本屋で見かけたことはあったが、そのころは日本人の旅行史にはまだ関心がなかったので、買わなかった。均一本コーナーにあったから、せいぜい1000円程度の値段だっただろうが、買う気はなかった。
 何年か分を拾い読みしたのは、数年前に雑誌「旅」で海外旅行史の連載をやったときだ。JTBに残っている古い『外国旅行案内』をざっとチェックして、必要な部分をコピーしただけで、じっくりとは読んでいない。
 その本の68年版(改定21版 第2刷)が売りに出ていたので、さっそく購入。当時の定価は1800円。『値段の明治・大正。昭和風俗史』(朝日文庫)によれば、当時の民宿料金は一泊二食付きで平均1600円だった。小学校教員の初任給が8800円なのだから、定価1600円の本は、高校生だった当時の私が買えるような値段ではなかった。それを、ネット古書店で600円で買った。今回、このシリーズで紹介している本はすべてこの程度の値段だ。売値は安いが、送料と振り込み手数料がかかるから、実際の出費は売値の倍くらいになる。
 1968年といえば、海外旅行が自由化されて5年目。ジャンボ機はまだ導入されていないから、海外旅行は依然として特権階級だけのぜいたく旅行だった。
 東京からの航空運賃が出ているからちょっと紹介してみよう。小学校教員の初任給が8800円だったということを頭に入れて、次の金額を考えて欲しい。料金はいずれも往復。
  ソウル    46,400円
  香港     106,350円
  バンコク   155,200円
  デリー    243,300円
  ロンドン   463,500円
  ニューヨーク 345,600円
  サンパウロ  524,200円
 一般旅券は一次と数次の2種類あるが、数次旅券は特別の許可を受けた者だけに与えられるもので、有効期限は2年だった。料金は、一次で1500円。
 例えば、タイに行きたいと思ったとする。航空運賃は上記のとおり。ビザなし入国は48時間以内の滞在だから、ビザを取らなければいけない。料金は不明だが、ビザ申請の手続きは楽だ。さあ、出発だ。
 飛行機はバンコクに着いた。銀行へ両替に。1ドルは20.80バーツ。
 空港からはタクシー。「タクシーはメーターをつけていても使っていないから、乗る前に値段の交渉が必要である。市内まで、80バーツ以上」。
 ホテルはサイアム・インターコンチネンタルなら17から21ドル。パークホテルやトロカデロクラスといった中級ホテルなら11から15ドル。1ドルは360円だった時代だから、10ドルで3600円、20ドルなら7200円。ちなみに、当時の日本の民宿料金は平均1600円、帝国ホテルは4300円。中級ホテルでも、帝国ホテルなみの料金だったことがわかる。日本円がいかに安かったかがよくわかる。
 [食事]の記事は、こう書いてある。「タイ人の好む料理の一つにミーがある。これは中華そば、こんにゃくを主として肉、野菜を加えて、油で調理したもの」。コンニャクは使ってないだろ。
 [買物]は、「ワニ革、象牙、タイ銀、タイシルクの製品、トカゲ革。宝石などもよい」。
 そういう時代だったのである。この本と現在の旅行事情を比較すれば、一冊分のネタがころがっているが、残念ながら、そういうテーマに興味がある読者はほとんどいない。

 

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