前川健一 著作一覧

アジア雑語林(41)〜(50)

アジア雑語林(50) 2004年2月10日

魔界に足を踏み入れて(4)
『ロンドン−東京五万キロ』と道路事情

 1956年、ロンドンから東京までドライブするという、当時としては壮大な計画が実行された。企画をしたのは、当時のロンドン特派員だった。任期が切れて帰国することになり、どうせならおもしろい旅をして日本まで帰ろうという思いつきに本社が乗って、この企画が実現した。使用する車は、前年に誕生したトヨタ初の国産乗用車トヨペット・クラウン。48馬力。箱根の坂道が登れなかったとか、57年に初めてアメリカに輸出したクラウンが、高速道路でエンコしたという時代である。そういう時代の自動車旅行記が、『ロンドン−東京五万キロ 国産車ドライブ記』(辻豊、土崎一著 朝日新聞社 1957年)だ。
 この本の存在は、多分60年代から知っていたと思う。誰かのエッセイかなにかで知ったのだろうと思うが、現物を目にしたのはずっとあと、90年代の末になってからだ。のちに『東南アジアの三輪車』(旅行人、1999年)としてまとまる本の資料を探すために、大手町の自動車図書館に通っていたときに、書棚でこの本を見つけた。ヨーロッパから日本をめざす長い旅がいよいよ終わりを迎える東南アジア、タイ、カンボジア、ベトナムの部分を拾い読みし、特に参考になる部分はないとわかった。
 その本がインターネットの古書店で安く売られていたので、さっそく購入し、最初からきちんと読んだ。全行程をまんべんなく書いていくという構成になっているので、深みに欠け、あまりおもしろくなかった。ただ、欧米車ではなく、発売したばかりのクラウンを使ってドライブするというあたりにも、「日本人、ここにあり」という戦後の気概が濃厚に感じられる。これは前回紹介した『地球を旅して」にも共通する。それが、50年代の日本だ。
 その50年代の日本はどんな国だったのか。日本の道路が世界と比べてどうなのかという記述部分を、『ロンドン−東京五万キロ』から引用してみよう。文中、道路事情を兵隊の位で表しているのは、放浪の画家山下清の表現方法をまねたものだ。

  アメリカを将官とすると、ヨーロッパの道は大佐、中佐。ドイツのアウトバーンは 准将。イタリアは少佐と大尉。ユーゴは一部が准将、大部分は二等兵。ギリシャは大尉。トルコは少佐。アラブ諸国はイラクを除いて少佐。イラクは准尉。イランは二等兵、砂漠は予科練か脱走兵。パキスタンは部分的に大尉、部分的に曹長。インドは少佐。ビルマ、タイは大尉。カンボジアは軍曹。ヴェトナムは大尉。日本は、少尉と伍長と予科練と補充兵の「烏合の衆」。

 日本の道路事情を、この本からもう少し引用してみよう。

  日本を走って、つぎに驚いたことは、道路事情の恐るべきわるさであった。特に徳山から岡山の山陽道はひどかった。未舗装のデコボコと、ひどい砂煙。舗装のでたらめさ。それに道の細さ。すれちがいができなくて、片側通行というばかな個所が「幹線道路」に残っていた。両側の家の軒をスレスレに走らなければならぬところもあった。都会の舗装も一定性がなく、つぎはぎだらけであった。

 ほぼ同じ時代に、ベトナムからタイにドライブした日本人の記録を読んだときにも、日本と比べてなんと道がいいのかといった記述があって、当時の日本の道路事情のひどさを再確認した。クラウンが高速性能をまったく考えずに生産されたのは、当時の日本ではスピードを出せる道路などなかったからだ。

 


アジア雑語林(49) 2004年2月2日

魔界に足を踏み入れて(3)
『旅の技術 アジア篇』のことなど

 インターネット古書店に注文を出して数日後から、本が到着し始めた。実をいうと、注文した本のなかで、その存在をまったく知らなかった本というのはほとんどない。ネット上では、その本の内容がよくわからないからという理由もあるが、書名などから「おもしろいかもしれない」と予感させるような本がほとんどなかったからでもある。
 そういうなかで、唯一、その本の存在を知らなかったのが『地球を旅して 貨物船機関長の航跡』(吉野克男、日本海事広報協会、1993年)だ。著者は1931年生まれで、52年から86年まで日本郵船で船員生活をした。船員になろうとした動機は、外国へのあこがれだった。
 素人が書いた本のよさが発揮された本である。自伝部分を極力押さえて、船員としての個人的体験談だけではなく、海運業界の戦後史にも言及しているところが「買い」だ。1ドルが360円時代、船員が使える外貨はひとつの港で5ドルまでと決まっていた。その金額で買えるものといえば、コーヒーや砂糖、ハーシーのキスチョコくらいなもので、もっぱら利用したのは救世軍が運営している不用品店だった。そこで古着を大量に買って、日本で売る船員もいたそうだ。今は、日本の中古車を買っていくロシア人船員がいるが、それほどの外貨は昔の日本人船員にはなかったのである。
 『旅の技術 アジア篇』(旅の技術編集室編、風濤社、1976年)をやっと買い戻した。この本は出版された76年に買ったのだが、その直後に知人に貸して、そのままになっている。70年代後半の若者の旅行事情を知る貴重な資料なので、購入を決めた。この本が自宅に届いて初めて気がついたのは、届いた本が77年の第二刷だったということだ。増刷されていたなどとは、まったく知らなかった。この本の著者のひとりで、当時は大学生だった西澤治彦さん(現・武蔵大学教授)が、「あの本が売れたら、アジア篇のあといろいろ出したいと思っていたけど、売れなくてねえ。あれ一冊で終わっちゃいました」と言っていたので、よもや増刷されていたとは思わなかった。
 1976年というのは、船の旅がそろそろ終わりを告げ、しかし格安航空券はまだ黎明期という時代だった。当時はこんな船旅もできたという例を、本書から紹介してみよう。
 ■日本からアフリカへ
 横浜から香港までバイカル号で、5日間3万円。香港からシンガポール、マラッカ海峡をこえペナンまでタイプシャン号で。7日間5万円。ペナンよりインド洋を西へ、マドラスへはラジュラ号で。7日間5万円。デカン高原をまわってボンベイより、カラチを経てアラビア海を下りアフリカ東海岸を経由して、南アフリカ共和国のダーバンまではカランジャ号で、約3週間12万円。
 この本は前半が脚注に情報を入れたエッセイ編、後半が詳細な旅行情報を載せた資料編になっている。エッセイ部分は、良くも悪くも大学生のエッセイで、さほどおもしろくないが(76年当時もそう思った)、資料編は当時の旅行事情がわかるという点で、文字通り資料になる。

 


アジア雑語林(48) 2004年1月27日

魔界に足を踏み入れて(2)
ついに注文してしまう

 ある夜、巨大な旅行関係の古書サイトがあるのを発見した。何年もインターネットで遊んでいる人には、「なんだよ、そんなもん」と言われそうだが、私は初心者中の初心者で、しかも、コンピューターのことなど勉強したくもないのだから、発見はいつも偶然によるものだった。
 そのサイトには、1万数千冊の旅行書がリストアップされていた。
 よーし、朝までかかっても、じっくり見てやろうじゃないか。
 玉石混交の内容ではあるが、じっくりリストを読んでいくと、目をひく書名もあった。かねてより、探求書リストに入っている本もあった。気になる本をメモしておこうかと思ったが、[カートにいれる]をクリックすれば、興味がある本のリストが自然にできあがることに気がついた。
 この古書リストを全部見てわかったことは、「安い」ということだ。1000円以下の本がほとんどで、プレミアがつく本などほとんどない。旅行業界の内部資料とか、重要な資料になりそうな私家版の本もなかった。それでも、昨今の古本屋では見かけなくなった本もあった。
 安さの謎はすぐにわかった。例えば売価500円の本でも、送料と振替え手数料か代引き手数料を加えると、実際に払う金額は1000円を越える。しかも、それぞれの料金が出店している古書店ごとにかかるから、安い本を買うと、本の代金よりも送料や手数料のほうが高くなることになる。
 とはいえ、神田でこうした本を探すとなると、交通費はかかるし、本は簡単に見つからないのだから、送料や手数料はしかたがないといえる。
 カートに入った数十冊の本を眺めて、考えた。買おうか、買うまいか。そのまま数日たった。冷却期間をおいたあと、試しに、恐る恐る、[購入する]をクリックしてみた。すると、パスワード云々という表示が出てきて、訳がわからないので、それ以後の作業は中止した。
 そんなとき、蔵前仁一さんから電話があって、雑談のなかで、例のパスワードの話をした。
「ああ、それはねえ、こういう風にやれば簡単で……」と教えてくれた。
 一部の人たちにはよく知られていることなのだが、蔵前さんは素人に物事を教えることに非凡な才能がある人で、簡潔でわかりやすい。私はいたって素直な性格なので、教えられたとおりにやってみれば、あら不思議、次々に購入できていく。これも購入、あれも購入と、調子に乗って[購入する]をクリックをしていくうちに我が身の将来が不安になって、知人が書いた本はそのまま残し、内容に疑いが残る本も削除し、しかし比較的高額の本は勇気をふり絞って[購入する]をクリックした。たちまち十数冊の購入が決まり、期待と不安が入り交じった気持ちに包まれた。不安といっても、注文した本が届かないかもしれないという不安ではなく、このまま古本の魔界に身を落とし、支払いに苦労するかもしれないという不安である。読みたい本は、旅行関係書だけではない。ルポルタージュも、芸能の本も、あらゆる雑多な本を読んでみたい私は、右足を魔界に踏み出したものの、左足はこの世に残したままにしていた。そのくらいの自制心はまだ残っている。

 


アジア雑語林(47) 2004年1月19日

魔界に足を踏み入れて(1)
肩を押されて

 ついに、禁断の世界に足を踏み入れてしまった。
 そこが魔界だとわかっているから、けっして足を踏み入れていけないと常々自分に言い聞かせていた。境界線の向こうで待ち受けているのは麻薬のようなものらしく、束の間の快感のあとには、苦渋の生活が待っていると容易に想像できた。だから、境界線ぎりぎりまで近づいても、けっして足を踏み入れることはしなかった。ところが、ある日、境界線のすぐ脇に立っていたら、肩をそっと押され、バランスをくずし、右足を踏み出してしまったのである。左足はまだ安全圏にはあるものの、右足は禁断の世界に踏み込んでしまった。私の肩を押し、魔界に押し出したのは、かの蔵前仁一さんである。
 仕事上、雑多なことを無数に調べなくてはならなくなって、コンピューターを導入した。雑多な調べもののなかでもっとも効果を発揮したのは、本の履歴だった。ある本の出版年や、正確な書名、そして同じ著者による出版リストや、同傾向の本のリストなどの検索だった。それには、主に国会図書館の検索サービスを利用したのだが、現在でも入手できるかどうかという調査は、Amazonや各出版社のホームページなどを利用した。
 コンピューター導入時にもっとも危惧していたのは、インターネットを利用して、本をどんどん買ってしまうのではないかということだった。友人知人の話でも、書店で見つからない本でも、インターネットを使えば、世界の本がすぐ入手できるらしいし、事実、検索作業を繰り返していれば、ちょっとした操作で買えるらしいということもわかってきた。
 しかし、本はやはり書店で現物をチェックしてから買いたかった。多忙な生活を送っているわけでもなく、神田神保町からはるか遠く離れた地に住んでいるわけでもないのだから、本は書店で現物にあたってから購入すればいいと思っていた。書店で現物を調べた本ならすべておもしろいというわけではなく、買ってみたものの、まったくおもしろくなかった、あてがはずれたという例は少なくないものの、やはり本は実際に手にとってから買いたかった。
 古書の場合はどうか。「アジア」「海外旅行」などをキーワードに検索してみると、いくつもの古書店がひっかかり、ワクワクしながらその目録を眺めてみたが、多くの本はここ5年か10年ほどの間に出版されたものばかりで、書店での選別作業をすでに終えていた。触手を動かされるような本は、まったく見つからなかった。なんだ、インターネットといったって、たいしたことはないじゃないか。インターネットで検索作業をすれば、狂喜乱舞するような新発見の資料が続々とモニター画面に登場し、そのすべてが欲しくなり、ATMカードを握り締め銀行に走るか、カード破産をするかもしれないという危惧は、杞憂に終わった。なーんだ、この程度か。
 ところが、である。
 日に日に検索作業が熟達し、「おお、こんな本が、こんなに安く売られているのか」という発見をするようになった。インターネットを甘く見ちゃいけないよと、お説教されているような気分になっていた。

 


アジア雑語林(46) 2004年1月8日

異文化を知る一冊 ―― 80年代異文化紹介書籍事情

 現在、語学教科書を多く出版している三修社が、文庫本を出していたことがある。普通なら「三修社文庫」とでも名づけるところだが、文庫名としては異色の「異文化を知る一冊」という名前だった。外国事情と異文化体験に特化した文庫で、書店の棚にずらりと並んだ赤いカバーの文庫が印象に残っている。方向的には私の好みにぴったりなのだが、ほとんど買っていない。読売新聞外報部の『世界の衣食住』や『続・新世界事情』、旅行添乗員の高木暢夫の『ツアーコンダクター物語』や『ツアーコンダクターの手帖より』、田中明の『ソウル実感録』などすぐれた本はあるものの、そうした本は文庫化される以前に単行本ですでに読んでいた。
 当時書店で全点チェックしても、買いたくなるような文庫ではなかった。ひとことでいえば、「おもしろい内容の本がなかった」というだけのことなのだが、それがどんな本だったから「つまらない」と思ったのか、という細部の記憶はあいまいだ。
 文庫目録が手元にないので、文庫専門古書店の「ふるほん文庫やさん」の「Web文庫三昧」で調べてみると、137冊がリストアップされていた。これで全部ではないだろうが、おおよその姿はつかめるのではないかと思う。創刊が82年だということはわかっていたが、最後がいつなのかはわからない。このリストでもっとも新しい本は、88年の『中国中毒チャイナ・ホリック』(新井ひふみ)で、88年に出版されたとわかるのはこれ一冊だけだ。この文庫の創刊は82年だとわかっているから、80年代異文化関係書の参考資料として使えるかもしれない。
 この文庫リストを国別に分けてみた。多い順に並べると、次のようになる。
 1位 アメリカ    29冊
 2位 ドイツ     17冊
 3位 フランス    13冊
 4位 イギリス    10冊
 5位 韓国、スペイン  5冊
 6位 イタリア、中国  3冊
 こうしたランキングを見てみると、私がこの文庫にほとんど興味を示さなかった理由が、欧米偏重だったからだろうと想像がつくが、それだけではなく、文章の素人が書く滞在記という構成になじめなかったのだろうとも思う。なぜそういう構成にしたのか考えてみると、想定した読者は旅行者ではなく、企業駐在員とその家族だったからではないだろうか。海外旅行の人気地域であるハワイや香港が入っていないことからも、私の想像が当たっている可能性がある。
 日本人の海外旅行史からこの文庫を眺めてみる。「異文化を知る一冊」が創刊された82年の日本人出国者数は約400万人で、500万人を越えるのは86年、それから毎年100万人以上増え続けたのに、この文庫は終わりを告げた。その理由がなにかの社内事情によるものかもしれないが、急増する旅行者、とくに若い旅行者を読者にできなかったのが敗因のような気がする。
 もしも、この「異文化を知る一冊」文庫が、10年遅れて90年代の創刊だったら、国別順位は大きく変っていただろう。アメリカ、フランス、イギリスは強いにしても、イタリア、中国、韓国、インド、そしてタイとインドネシアが参入しただろう。

 


アジア雑語林(45) 2003年12月25日

本は貸したくない

 手持ちの資料が誰かの役に立つものなら、何冊でも貸してあげたいとは思うものの、その本が帰ってこないのではないかという不安があって、ほとんど貸したことがない。 ある日、まったく知らない人から自宅に電話があった。出版社で私の電話番号を聞いたらしい。その人はフィリピンの食文化を調べているそうで、私の本のなかで参考資料として紹介している本がどうにも入手できないので、ぜひ貸してほしいという用件だった。
 その本は、1976年にフィリピンで出版された『フィリピンの食文化』という英語の本で、私は80年代なかばにバンコクの本屋で買った。まだバーツがいまのように安くなっていなかったので、日本円にすると1万円ほどもした。料理の作り方を説明した本はいくらも出版されているが、歴史もふまえて食文化全般を書いた本は、中国やフランスなどを除くとめったにない。だからこそ、タイでの生活費をいっそう切り詰める覚悟でその本を買ったのである。
 その本が、安く、しかも内容に乏しいというのなら、貸しても、あるいはあげてもいいのだが、私にとって幸運にも資料価値の高い本だった。だから、貸したくはなかった。その人は私の意向をよく理解してくれて、しつこく食い下がることもなく、だからこそ気の毒になったのだが、情に負ければ本が消えるかもしれない。心を鬼にして、「ごめんなさい。お貸しできないのです」といい続けた。
 私にも前科がある。
 もう20年以上まえのことになるが、ある日私の本棚の「未読コーナー」に積んである本のなかからおもしろそうな本を探していたら、アラブ人が書いたアラブ問題の本があった。「未読コーナー」というのは、買ってきた本をとりあえず置いておく場所で、ある本を読みおえると、そこから次の本を探す。だから、優先順位は買った順ではなく、その時点での私の関心の高い順である。そうなると、「読みたい」と思って買った本でも、順序がどんどん後回しになり、何カ月も読まれないまま放置され、それが何年にもなることがある。経済効率からいっても、こうした「不良在庫」は極力減らしたいとは思うものの、買ったときの関心と読みたいときの関心が一致しないと、どうしても未読のままになってしまう本がでてしまう。
 アラブのその本も、いつからか棚にあり、いつ買ったのかも忘れていた。読み始めればおもしろく、一気に読んだ。それから数日して、アラブ問題に強い関心をもっている友人に会ったので、内容を紹介して、「読んだ?」とたずねた。
「それ、私が貸した本じゃない!」
 彼女は、憮然としていった。穴があったら入りたいというのは、こういう心境だ。それ以後、できる限り本は借りないと決めた。どうしても入手できない本は、貸してもらうこともあるが、その場合はすぐに読むか、あるいはコピーして数日で返却するように心がけている。
 ただし、本のコピーというのも問題だ。厚い本をコピーすると、ノド(本が綴じてある内側のこと)を強く押しつけることになるので、本が痛みやすい。とくにアジアの本の場合は、ただでさえ製本に問題があるから、コピーしたとたん本がバラバラになってしまうこともある。そういう悲劇を生まないために、ファックスを買い換えるさいに、ハンドコピーつきの機種を購入したのだが、私の技術に問題があるのか、ハンドコピーは使いものにならない。
 本はカネと同じように、「貸すなら、あげたと同じだと思え」と諦めないと、借りた人の人間性を疑うことになる。でも、疑いたくなるほど、だらしない人が多いよね。

 


アジア雑語林(44) 2003年12月17日

旅行記を書いた若者たちのその後 (2)

 前回に引き続き、食文化の研究会での話。
 西澤さんと、1970年代の若者の海外旅行の話を少しした。
「旅行記では、『おまえも来るか! 中近東』というのもありましたね」
 私がそういうと、西澤さんも「ああ、ボクも買いましたよ」といった。彼とは一歳違いだから、ほぼ同じ時代に同じようなことをしていたのだとわかった。
 いままで私たちの話をそばで聞いていた歴史学者が、「その本、高校時代の友人が書いたんだよ」と、話に加わってきた。現在は旅行とはまったく違う分野にいるふたりが、国会図書館にもないウルトラマイナーな 2冊の旅行記を知っているというだけでも不思議なことなのに、これはいったいどういうことだ。3人いて、たんなる読者というのは私だけだ。
 『おまえも来るか! 中近東 一日一弗の旅』(まるこぽーろ旅行団、まるこぽーろ旅行団出版局編、1971年)も、『旅の技術 アジア篇』同様、紀行文に情報ページがついたものだが、その情報たるや、現在から見ればまことにおそまつではあるが、当時は団体旅行者用の観光ガイドさえやっと本格的に出版され始めた頃だったから、個人旅行者が欲しがるバスや安宿の情報がでているこの本を、溺れる旅行者はワラをもつかむ思いで買ったのである。「地球の歩き方」を出しているダイヤモンド・ビック社の社長である西川敏晴さんも、この本を買ったといっていた。数は少ないとはいえ、70年代始めに海外個人旅行を計画していた若者は、なんとかしてこの本を入手したらしい。だから、自費出版でありながら、翌年に2刷になっている。
 ちなみに、私はこの本を神田の古書店の均一台で、偶然見つけた。定価540円で、売価は150円だった。
 食文化の研究会で、この2冊の旅行記の話をしてから1年ほどたったころだろうか、ライターの北尾トロ氏が経営するインターネット古書店「杉並北尾堂」のホームページを読んでいたら、旅行書専門のネット古書店が新しくできたという紹介文があった。さっそく、その「旅好堂」というサイトを覗いてみた。
 書籍目録のアジアコーナーを点検すると、件の『おまえも来るか! 中近東』が3000円の値段で売られていた。ネット古書店でその書名を目にするのは初めてだ。そして、本の説明文を読んで、びっくりした。

 森本たけし他(まるこぽーろ旅行団出版局)1972,2刷 ¥540 程度B● 何を隠そう、私メが団長で作った、本邦初(世界初?)のアジアハイウェイのガイドブック。イスタンブールからネパールまで陸路で帰った日本人バックパッカー数名が旅日記を持ち寄り、自費出版した。本を車に積んで鹿児島まで営業したのも懐かしい思い出だ。当時の、黒崎、岡崎、松村、元気か?

 旅好堂の経営者である森本剛史氏は、旅行者からサラリーマン生活のあと、トラベルライターになったという経歴らしい。

 


アジア雑語林(43) 2003年12月10日

旅行記を書いた若者たちのその後 (1)

 旅行記というのは、素人が簡単に参入できる数少ない分野なので、素人の手による旅行記があまた出版されている。若者が書いた旅行記というのは、「青春の記念碑」という意味合いがあるのか、本を出すことだけが目的で、その目的が達成されれば、旅暮らしも執筆の日々も終わり、普通の社会人に姿を変えていく。なかには、そのまま紀行作家への道を探ろうとする者もいるが、現実は厳しく、第二、第三の、あるいは第二五の小田実にはなかなかなれない。だから、旅行記の著者は、名前をはっきりと覚えられる前に出版界から姿を消していくか、あるいは名前が表に出ない裏方の仕事につく。
 最近になって、昔読んだ旅行記の著者のその後が、偶然にもわかるという出来事があった。
 私は10年ほど前から食文化のある研究会に出席していて、本筋の研究会そのものも、もちろん勉強になるが、さまざまな分野の研究者たちとの雑談も楽しいものだ。
「前川さんは、最近はどんな分野に手をつけているの?」
 中国を専門地域とする文化人類学者が、休憩時間に声をかけてきた。
「戦後日本人の海外旅行の歴史を調べてまして、ここ数週間は若者の海外旅行に的を絞って、旅行記などからその動向を探って行こうと思ってまして、あっ、そうだ、『旅の技術 アジア篇』という昔出た本の著者のひとりが、あの藤井省三じゃないかと思うんですが、なにか知ってますか……」
 『旅の技術 アジア篇』(旅の技術編集室編、風濤社、1976年)は、紀行文に情報ページがたっぷりついた構成で、情報量の多さでは当時としてはピカイチである。その本を出版当時に買っっているのだが、しばらくしてあるライターに貸してそのままになっていた。最近になって、そのライターに会い、昔の海外旅行の話をしていたら、「こんな資料でよかったら、貸してあげるよ」といって手渡されたのが、この『旅の技術』だった。どう考えても私の本だろうと思うのだが、もう20年以上前のことだから、いまさら事を荒立てたくなくて、必要部分だけコピーして返却した。だから、本を貸すというのは嫌なのだが、その話はいずれまた。
 さて、二十数年ぶりに目にしたこの本の「旅の技術編集室工作員紹介」という部分を読んでいたら、4人の著者のひとりに「藤井省三 1952年生。東京大学大学院生」とあった。この人物は、中国学者として有名な東大教授の藤井氏ではないか。そんな疑問が浮かんだので、以前に藤井氏の著作の話をしたことがあるこの文化人類学者に確認したくなったのである。
「ええ、そうですよ。あの『藤井省三』は東大の藤井さんですが、ボクも著者のひとりだって気がつきました?」
「ええ! たしかに、西澤という名で気になったのですが、でも名前が違っていたので……」
「あれは、誤植なんですよ」
「著者名が誤植なんですか?」
「そうなんですよ」
 あの本で,「西澤晴彦 1953年生。桜美林大学在学中」と紹介されているのは、現在、武蔵大学教授の西澤治彦氏だったのだ。
 これで、著者4人のうち2人の消息はわかった。
「あとの2人は、いまどうしてらっしゃるんですか?」
「さあねえ、まったくわからないんですよ」

 


アジア雑語林(42) 2003年12月3日

言葉の話(3) 2時間のフィリピン語

 1980年代初めにケニアに行ったのは、スワヒリ語を学ぶためではないが、しばらく滞在していれば、とりたてて努力などしなくても、ある程度はできるようになるだろうと楽観していた。
 実際にナイロビで暮らし始めてみると、このアテがはずれた。普段ナイロビで接する人たちは、みな英語が堪能で会話に不自由することはなかった。外国語に興味はあっても、それをコツコツ学ぶような勤勉さに欠ける私は、スワヒリ語を学ぼうという意欲はなくなった。これから半年か一年、スワヒリ語を学んだとしても、現在の英語力を抜くことはないだろう。それならば、スワヒリ語を学ぶ時間を、英語でのおしゃべりに使ったほうが楽しい。カタコトのスワヒリ語で、内容のない会話をするよりも、英語で実りある会話をしたほうが楽しい。この明解な論理によって、スワヒリ語は学ばないことにした。
 とくになにをするという予定のない滞在だったから、いつもヒマだった。その退屈しのぎに、日本から持ってきたスワヒリ語の教科書を広げてみた。単語集はざっと目を通したことはあったが、文法の教科書のページは、そのとき初めて読んでみた。それは、スワヒリ語の勉強をしたくなったというより、日本語で書いてある文章を読みたくなった、というほうが正しい理由かもしれない。
 スワヒリ語の文法は、とんでもないものだった。「えっ、なんだこの文法は!」と驚愕の声をあげてしまうほど、奇異なものだった。奇異というのは、つまり、いままで知っているどんな文法とも関連がないというもので、多分、初めて日本語を学ぶイギリス人だって、同じような声をあげるにちがいない。
 スワヒリ語の文法がどんなに複雑か、手元にまだ教科書があるから引用して説明することもできるのだが、そんなことはしない。とにかく、ドイツ語やロシア語とは別な意味で、学習意欲をなくす文法なのである。
 フィリピンの場合もケニア同様、英語が広く通じるので、フィリピン語(ピリピーノ語、あるいはその元になるタガログ語も)の勉強はまったくしなかった。勉強しなくても、旅をしていれば食べ物の名前などいくつか覚えていくが、スペイン語をそのまま使っている語もあるので、なんとなくわかる言葉もあって、フィリピン語の学習を迫られる状況にはなかった。いくつかの単語を覚えただけで、文法を学んで、ちゃんとした文章をしゃべろうという意欲はまったくなかった。
 あれはフィリピン映画を見たあとだったか、フィリピンに対するそれまでの私の姿勢があまりに冷たかったのではないかと少々反省し、書店に行って言葉の本を買った。
 『フィリピン語の日常基本単語集』(和泉模久、ナツメ社、1993年)を選んだ理由は、衣食住に関わる日常生活の単語が多く集めてあるから、原稿を書くときの参考になるのではないかという気がしたからだ。
 初めて文法の項を読んで、びくっりした。こんな言語があるとは思わなかった。基礎知識がまったくないが、フィリピン語は、文法的にはマレー語などと近いのではという予感があったのだが、まったく違う。ちょっと紹介してみよう。
 「山田氏は日本人です」という日本語は
 Hapones si Yaamda.になる。
 「少年は本を読んでいる」は,
 Bumabasa ng aklat ang bata
  読んでいる を  本   は  少年
 主語が最後にくるなんていう言語があったんですね。書き言葉では、主語を頭にもってくる語順の文もあって、それを「倒置語順」というそうだ。
 浅学ゆえに、世界の言語知識に乏しく、だから絶えず新鮮な驚きがあるのだが、その驚きをきっかけに本格的にその言語を学ぼうという意欲に著しく欠ける性格の私は、せっかく買ったフィリピン語の本を、うつらうつらした時間も含めてのべ2時間ほど目の前に置いただけで、本棚に居場所を移した。
 それから数年後、バンコクの友人宅でフィリピンをめぐる雑談をしたことがある。友人の母はフィリピン人なので、馬車の話から食生活や芸能や教育などさまざまな話をした。
「ところで、フィリピンの言葉は勉強したことがあるの?」
 友人の母が私にたずねた。
「いや、まったく。ただ、2時間ほど、ちょっと単語だけを……」
 しどろもどろにそういうと、彼女は意味ありげな笑顔を浮かべた。
「ふーん、2時間ねえ。なるほど。先生はきっと美しい方でしょうねえ、もちろん」
 「2時間」というと、そういう連想をされてしまうのか。もしも、そんな個人授業を受けていれば、食べ物の単語をいくつかしか知らないという状態ではないはずで、だから、居眠りしながらフィリピン語の本を2時間開いただけなんだって。
 そう反論したら、「まあ、いいから、いいから」と、とりあってくれなかった。

 


アジア雑語林(41) 2003年11月25日

言葉の話 (2) タイ語改革委員会の設置を、ぜひ

 タイ文字がややこしいということは、タイ語を勉強したことのない人でも、あの文字を見ればわかるだろう。インドネシア語なら、まったく勉強したことのない人でも、最初から辞書がひける。ayam という語がわからなくても、辞書をひけば「ニワトリ」だとわかる。なんだ、インドネシア語はこんなに簡単なのかと安心していると、学習が進むと語形変化した語は辞書には載っていないとわかってくる。接頭辞や接尾辞の知識がないと辞書がひけないから、そんなに簡単ではないのだと気がつくのだが、それにしても、タイ文字を覚える苦労に比べたら、まあ、大した苦労ではない。とはいえ、私はいまだにインドネシア語の語形変化を覚えられないのだから、困ったものだ。最近、またしてもポルトガル語の勉強を始めたのだが、語形変化のことを考えると、タイ語や中国語は楽だなあと思うのである。やたらに変化する西洋語が、うっとうしくなる。
 それはさておき、タイ文字のややこしさを説明すれば、きりがないくらいある。
 文字そのものを一応覚えるのに、私の場合ひと月以上かかった。そのレベルを越えても、まだまだ壁がある。その壁のなかで、「勘弁してくれよ」と嘆きたくなるほど「ややこしさワースト3」に入るのは、ほぼ同音の文字がいくつもあることだ。例えば、ローマ字なら k で書くべき文字が、タイ語では6つもある。 t は8つだ。 s は3つ、 r が2つという具合に、やたらに文字が多い。まあ、有気音と無気音の別ということもあるから完全に同じ音ではないのだが、いくらなんでも数が多すぎる(と、なまけものの日本人は思う)。だから、あるタイ語を耳にしても、その綴りが簡単には想像できないのだ。複雑な発音のタイ語を、正確に聞き分けられる耳を持っていれば、やや楽なのだろうが、鈍耳の私にはつらいのである。
 「ややこしさワースト3」には、ほかに外来語の表記法をあげたい。タイ語にはインド系言語が多数入っているのだが、その綴りが元の綴りをできるだけそのままタイ文字に移そうとしている。例えば、タイにはナコーン・サワンをはじめ「都」を意味するナコーンという語がつく地名が多いのだが、この「ナコーン」の綴りをそのままローマ字で書けば、nkr である。母音がない。語尾の r は n の発音に変るというややこしい決まりもある。サンスクリットの綴りが nkr だという理由で、「ナコーン」と発音させるのはあまりに教養主義的すぎる。この「ナコーン」は、インドネシア語のヌガラ(国)と同じ語源である。ワースト3のもうひとつは、どれにしようか迷うので、省略する。そのくらい不満があるということだ。
 かつて、そんな話を在日タイ人留学生に訴えたことがある。
 すると、彼は苦笑いしながら言った。
「まあ、お気持ちはよくわかりますが、私としては日本語の、この複雑な表記をなんとかしていただきたいと思っています。漢字の読み方の複雑さを、なんとかしてくださいよ」
 そうだろうと思う。私だって、頭が痛いのだから、他の国の言葉に文句が言えた義理ではない。
 ただ、かつて、タイ語の大改革が行なわれたことがある。1942年のことだ。ときの首相ピブーンは、国粋主義の思想から、主にインド系の外来語にしか使わない文字を廃止した。これだけだって、かなりすっきりする。しかし、1944年に失脚すると、守旧派がこの改革を破棄してしまった。教養人は、自分が苦労して獲得した教養を誇示したいばかりに、簡素化に反対するのである。これなど、日本でも同じだろう。一般人が読めないような難しい漢字をできるだけ多く使えば、それだけ教養ある人物だと示せると思っっていた人がいくらでもいた。それが今は、西洋語を多く使えば教養人だと思うヤカラに代わっている。
 蛇足を書いておくと、ピブーンは1938年から44年と、48年から57年まで首相をつとめ、タイでもっとも長く首相をやった政治家だが、政変で失脚して日本に亡命し、64年に相模原市で死亡した。日本時代のピブーンについて詳しく書いた文章は、まだ読んだことがない。

 

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