前川健一 著作一覧

アジア雑語林(31)〜(40)

アジア雑語林(40) 2003年11月16日

言葉の話 (1) 「上等」という言葉と沖縄

 インドネシアの女優、クリスティン・ハキムさんが来日して、自身が主演した映画について語る会があった。その映画は悲劇的な結末(意地悪い言い方をすれば、お涙頂戴の結末)で終わるのだが、私は「主役の女性は、どんな境遇でも、しぶとく、ずぶとく生き抜く女に描いたほうがおもしろかったのでは?」と、質問とも意見ともつかぬことを言った。彼女は、私の意見をおもしろがったが、その結末がいいとは言わなかった。 会が終わって、会場を出るとき、クリスティンさんが私に近づき、なにやら言った。すぐさま後ろにいた人が通訳してくれた。
「その服、どこで買ったんですか?」
「タイです」
 そう答えると、彼女は右手の親指を突き出し、「ジョートー!」と言った。
 出た。インドネシア人が「バッキャロ」(ばかやろう)と並んでよく知っている日本語、「上等」だ。
 なにかいい品物を、「上等な物だ」という言い方は年配者なら関東でもするが、どうも関東では日常的によく使うというほどでもないような気がする。現在でもよく使っているのが沖縄で、インドネシアの「ジョートー」は沖縄人が伝えたのではないかという仮説を思いついた。沖縄人がインドネシアに数多く移民したという話は聞かないから、ひょっとすると戦時中に沖縄出身者の部隊がインドネシアに渡ったのかもしれないという仮説も考えたが、まだ確認していない。「ジョートー」に関する考察はこれで終わり。日本語とインドネシア語の研究者にバトンタッチします。
 話はアメリカに移る。一部のアメリカ人の間にも日本酒が知られるようになり、彼らはそれを「サキ」と呼ぶ。なぜ、「サケ」でなく「サキ」なのか疑問に思っているときに、沖縄では酒を「さき」と発音すると知った。沖縄には母音「え」と「お」がないから、船は「ふに」になり、星は「ふし」と発音する。だから、酒は「さき」になる。沖縄なら、長期に亘ってアメリカ人が駐在しているから、アメリカ人が酒を沖縄風に「サキ」と発音していてもおかしくない。「サキ」は沖縄方言がアメリカに渡ったものか。なるほど、そうか、わかったと納得していたが、じつはそうではないらしい。
 英語に関する本を読んでいたら、「英米人は、語尾が e で終わる語をそのまま発音ができない」という話がで出てきた。take,date,made など e で終わる語は数多くあるが、発音は e で終わらない。だから、sake(酒)のように e で終わる外国語でも、「サケ」とは発音できずに「サキ」になってしまうというのだ。
 というわけで、ただ食い散らかしただけのコラムになってしまったが、あとは言語学者の専門的な考察を期待して、素人は退散することにしましょう。

 


アジア雑語林(39) 2003年11月9日

間違いやすいアジア

 アジア関係の本を読んでいると、さまざまな書き手が同じ事柄で間違っているということがある。ガイドブックなどの記述を鵜呑みにしたせいだったり、うっかり勘違いしたものもあるだろうが、こんな間違いがしばしば登場する。
●断食月……イスラム教徒は年に一回、ひと月にわたって断食をする。さすがに、一カ月間飲まず食わずに過ごすと誤解する人は少ないだろうが(夜明けから日没までの断食で、夜や夜明け前にたらふく食べる)、イスラム暦第9月に行なう断食を、太陽暦の9月だと勘違いしている人がある。イスラム暦は太陰暦で、一年は約354日。太陽暦の一年より、11日ほど短い。だから、年々ずれていき、太陽暦で1月だった断食月が8月になったりする。宗教行事や伝統行事は太陽暦以外の暦にしたがって行なわれることが少なくないので、要注意だ。
●二毛作・二期作……例えば、「インドネシアのように熱帯では、二毛作はおろか三毛作も可能だ」といった文章をときどき見かける。二毛作というのは、春から夏に水稲、秋には麦を栽培するといったように、違う作物を同じ場所で栽培すること。二期作というのは、同じ水田で年に2回稲の栽培をするようなことをいう。だから、例文は、「二期作、三期作」が正しい。
●僧侶の食事……タイを舞台にした小説に、「僧侶たちは、夕餉のしたくに忙しい」という文章があって、びっくりしたことがある。これに類似した表現もいくつかあった。まず、僧侶は日本と違って自分で料理はしない。労働はしないということになっているのだ。しかも、僧侶は正午以後食事をしてはいけないというきまりになっている。僧は、朝・昼の二食ということになっているから、この点でも間違い。
●ピラニア……東南アジアではピラニアを養殖していて、よく食べるといった記述を何度か見かけた。これは、ナイル原産のティラピアのことで、名前が似ているので間違ったのだろう。日本でも養殖が始まったとき、ピラニアと誤解されやすいということもあって、「チカダイ」という呼び名をつくった。
●雨季・乾季……「タイでは、雨季は5月から10月ころまで、乾季は11月ころから4月ころまで」といった説明がされることが多いが、これはバンコクがある中部以北の事情であって、南部では、地域によって違うが、雨季と乾季がほぼ逆になることもある。プーケットでは、雨が多く降る時期はバンコクとあまり変らないが、タイ湾側のソンクラーでは、バンコク以北ではもう乾季に入っている11月から1月ころがもっとも雨が多い。インドネシアのように広大な国土だと、ジャカルタの気候を知っているからといって、他の地方の気候を類推することはできない。なお、雨期・乾期という表記もあるが、「雨が多い季節」、「乾いた季節」という意味を表したいのか、アジア関係の本では通常「雨季・乾季」の表記を使う。
●ヒンドゥー、ヒンディー……これは私も混同し、かの松岡環師に指摘された。ヒンドゥー教、ヒンディー語と区別して覚えるか、ヒンディーの語尾の i は言語を表す接尾辞だと覚えてもいい。試しに広辞苑で「ヒンディー語」を調べてみると、長い説明のあと「ヒンドゥー語」になっている。そこで「ヒンドゥー語」を調べると、「ヒンディー語に同じ」となっていて、ああ。インド研究者は拒否する表記だろうが、「ヒンズー」なら一般的には言語にも宗教にも対応するらしい。

 


アジア雑語林(38) 2003年10月31日

イギリス人、カレーを食べる

 宮本常一の『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』(平凡社ライブラリー)は、明治初めに日本を旅行したイギリスの旅行作家の作品を、民俗学者が解読し、解説した本だ。この本で、バードが秋田でカレーを食べたという記述があることを知った。『日本奥地紀行』(イサベラ・バード、高梨健吉訳、平凡社東洋文庫、1973年)はずいぶん前に読んでいるから、そんな個所があったという記憶がない。そこで本棚からその本を取り出して、秋田の部分を開いた。すると、カレーの部分に傍線が引いてある。

  当地における三日間はまったく忙しく、また非常に楽しかった。「西洋料理」 ―― おいしいビフテキと、すばらしいカレー、きゅうり、外国製の塩と辛子がついていた ―― は早速手に入れた。それを食べると「眼が生きいきと輝く」ような気持ちになった。

 このページの下部には、「秋田、1878年に!」という書き込みがあるうえに、付箋まで張ってある。それなのに、まったく覚えていなかったのにガックリきた。読み飛ばした部分ならまだしも、書き込みまでしていながら、まるで覚えていないという貧弱な記憶力にちょっと自己嫌悪になった。しかし、これなどまだいいほうで、数年前にある書店で石毛直道さんの新刊を見つけ、うれしくなってすぐ買い、帰宅して読み始めたら、つい数週間前に読みおえた本だと気がついた。安くない本だということもあって、これはかなり落ち込んだ。記憶力が減退すると、不経済である。ただし、同じ本を何度読んでも、初めて読む気になれるほどの記憶力なら、かえって経済的ともいえる。
 さて、カレーの話だ。この時代の秋田に西洋料理店があったというのに興味があって、秋田市のホームページ「あきた不思議発見伝」をチェックすると、バードのこの部分が引用され、解説がついていた。この西洋料理店は「明治11年開店の与階軒(與諧軒)だろう」としている。明治11年は1878年だから、開店した年にバードが食べたとこになる。日本では、明治以前から西洋料理店はあったが、西洋と関係の深い街での開店だった。なぜこの時代の秋田に西洋料理店があったのかというと、このホームページによれば、西洋志向が強い県令(県知事)がいたかららしい。
 イサベラ・バードとカレーの話は、『日本奥地紀行』よりずっとあとに出版された『朝鮮紀行』(イザベラ・バード、時岡敬子訳、講談社学術文庫、1998年)に出てくるのは記憶していた。バードが朝鮮半島を旅行したのは、1894年だった。用意した装備について、こう書いている。

  ぶざまで重たいこの荷物に加えて、わたしは鞍、寝具一式と蚊帳のついた簡易ベッド、 モシリンのカーテン、折りたたみ椅子、着替えふた組、わらじ、防水時計を持っていた。ほかに、緑茶、カレー粉、二〇ポンドの小麦粉を持っていくことにした。

 通訳と料理を含む雑用すべては、「清国人のウォン」が担当していた。

  白状すれば、昼食はいい加減なものであった。カレー用の鶏はいつでも手に入るというわけにはいかず、卵並に小さいこともしばしばで、漁をしている少年をつかまえてときどき分けてもらう川魚は、とても小さくて骨が多かった。

 この部分以外にもカレーが登場しているかもしれないが、記憶がない。装備は長崎で揃えたものや、朝鮮に着いてから入手したものや、イギリスから運んで来たものもあるだろうが、カレー粉は19世紀初めに製品化されたイギリス製のC&B社のものだろう。19世紀末のイギリスでは、カレーはすでにかなり普及した料理だった。

 余談をしておくと、この本の奥付上に、著者略歴がでている。

 イサベラ・バード(イサベラ・ビショップ) Isabella L. Bard (Isabella L. Bishop) 1831〜1904 イギリスの女性旅行作家。イギリス王立地理学会特別会員。1979年、結婚によりビショップと改姓。………

 「うん?」と疑問に思うでしょ。1904年に死んでいる人が、1979年に結婚するわけはない。「1879年」の誤植ではないかと調べてみたが、そうでもないらしい。1880年に婚約し、結婚は1881年。改姓した年号はわからないが、結婚前に姓を変えるかな。出版業界内部の話をすると、こういう著者紹介は編集者が書くことが多く、しかもあまり熱心に校正しない部分である。じつは、私の本にも同じような誤植があるから、他人事ではないのである。
 さて、バードの朝鮮紀行から20年たった1914年の南極に、イギリス人たちの探検隊がいた。南極横断を目指して出発したその隊は、船が氷に閉じ込められ、氷の圧力によって船が破壊され、しかし九死に一生をえて全員無事に帰国したことで話題になった。その過程を書いた『エンデュアランス号漂流』(アルフレッド・ランシング、山本光伸訳、新潮社、1998年)には、次のような文章がある。「南極・死の彷徨」をしているときの食事である。

  グリーンは夕食にアザラシのカレーをふるまって収穫を祝った。が、このカレーを一口食べるや、ほど全員が顔をしかめる結果となった。グリーンは通常の三倍もカレー粉を入れてしまったのだ。<飢えをしのぐためには、これを食べるしかなかった> マクリンは後に日記に書いた。<が、口の中がまるで石炭がまのようで、喉が焼けるように乾いた>。

 不勉強とはいえ、イギリス人が、19世紀の朝鮮旅行にも南極探検にも、カレー粉を持って行くほどカレーが好きだとは知らなかった。


アジア雑語林(37) 2003年10月22日

東南アジアのインド料理 サイゴン篇

 夕方のサイゴンをさまよい、うまそうな屋台を見つけて夕御飯を食べた。そのあと、いつものように腹ごなしの散歩をしていたら、住宅地のなかに「インド料理」という看板を見つけた。ベトナムとインドは、イメージのなかでどうも結びつかない。マレーシアやシンガポールはもちろんビルマや香港も、元英国植民地にはインド人(インド亜大陸)の出身者が住んでいても不思議ではないが、ベトナムのイメージのなかにインドの影はない。東南アジアのなかで、インド文化の影響をほとんど受けていないのが、ベトナムとフィリピンで、だからトウガラシをたっぷり使った料理がほとんどない。
 店の外観からして最近できた店らしいが、「これはひとつ、調査をしてみなければいけない」と食文化研究者の好奇心がムクムクと頭をもたげてきた。夕食を終えたばかりで満腹だが、チャイ(ミルクティー)なら飲めるし、その日の取材ノートをまとめておきたいという理由もあった。宿には机はなく、暗いから、書き物ができる場所が欲しかった。
 店には西洋人の客が二組いた。テーブルは全部で五つほどあった。店に入ると、メニューを持ってテーブルに近寄ってきたのは、インド人だった。もちろん国籍などわからないから、「インド亜大陸出身者のような顔をした男」というほうが正確だろう。
「チャイだけでもいいですか」
 英語でそう言い、男がうなずいたものの、彼が手にしたメニューに「samosa」という文字が見えて、それも食べたくなって注文した。
 サモサというのは、インドの代表的なスナックで、英語では「カレー・パフ」と訳されることが多い。汁けのない野菜カレーをパイ生地で包んであげたものだ。地域によって三角形や円錐形や半円形のものなどがある。インド料理を知らない人は、揚げ餃子だと思うかもしれない形状だ。インドの菓子は想像を絶するほど甘いのでほとんど食べないが、このサモサはほどよい辛さで甘いチャイと相性が良く、散歩に疲れた午後や長い鉄道旅行のときなどにしばしば口にした。
 バッグからノートとボールペンを取り出したところで、テーブルにチャイが届いた。日本の喫茶店のミルクコーヒーと変らない紅茶だった。つまり、味も香りもない。ここ数日に見聞きしたことをノートに書きながらサモサの到着を待っていたが、なかなかやってこなかった。10分たち、20分たっても、姿を見せない。サモサは注文があってから作る料理ではなく、あらかじめ作っておくものだ。客の誰も、揚げたてアツアツのサモサを期待してはいない。
 腹が減っているときなら、店主を呼んで催促するのだが、ちょっと前までたらふくベトナム料理を食べていたのだから、たいして腹も立たなかった。まずい紅茶をもう一杯注文し、サモサがまだ来ていないことをなんとなくほのめかした。
 その店で「サモサ」と称するものが姿を見せたのは、注文してから小一時間もたったころだった。皿にのったその料理は、とてもサモサなどと呼べるようなしろものではなかった。ホットドッグかと思ったね、ホントに。小麦粉を練って棒状にして、真ん中に切れ目を入れ、そこに野菜カレーを注ぎ、フライパンに多めの油を入れて焼いたものだ。だから見かけはホットドッグだが、練った小麦粉が発酵していないので、ガシガシに堅い。サモサが品切れならそう言えばいいのに、やっつけ仕事でこんなひどいものを作りやがった。店主がインド人なのに、このザマだ。
 帰国したら、松岡環さんから手紙が来ていた。私より先にベトナムに行っていたらしい。さっそく電話して、サイゴンのインド料理店の話をした。
「へえ、前川さんも行ったんですか?」
「ということは、松岡さんも?」
「ええ、行きましたよ。一応、インドものとなると気になりますから」
「で、どうでした?」
「ひどいもんでしたよ」
「やっぱり」
 ふたりは、しばらくサイゴンのひどいインド料理についてあれこれ語り合ったのが、話がかみ合わない部分があった。店の位置がまったく違うのだ。ということは、ひどいインド料理を出す店は、少なくとも二軒あるということらしい。

 


アジア雑語林(36) 2003年10月15日

東南アジアのインド料理 バンコク篇

 インドには都合3回行った。最後に行ったのは1978年だから、長らく行っていないことになるのだが、なにか特別な理由があるわけではない。「行きたい」という情熱がまったく湧いてこないだけだ。東南アジアの安楽・平穏・微笑に慣れてしまうと、我田引水・唯我独尊・百戦錬磨・手練手管のインド世界にはどうしても足が遠のいてしまうのだ。
 いまもインドに行きたいとは思わないが、本場のインド料理を食べたいという欲望がときどき顔をのぞかせる。だから、タイにいるときは、バンコクのインド人街にときどきでかけて行った。インド人が作るインド人のための料理なのだが、何品食べても、私には塩辛いだけでうまくはなかった。食堂で同じテーブルに座った老人はカシミールの出身だといい、その店の味は母国のものと変らないと言うのだが、私の舌には合わなかった。カシミールには行ったことはないが、でも、こんなにまずいかなあという疑問が残った。客であるインド人がうまいと言うのなら、よそ者の私がどう感じようと関係のない話なのだが、どうもタイ化したインド料理ではないかという気がする。
 マレーシアでもシンガポールでもインド人街に行った。シンガポールのインド料理はなかなかのもので、私の好みに合った。しかし、うまいインド料理を食べるためにシンガポールに行くというのは本末転倒で、それならインドに行ってしまったほうがいい、などと考えても、なかなか東南アジア世界を離れられない。
 うまいインド料理は身近なところにあったと気がついたのは、バンコク生活がかなり長くなってからだ。私が間借りしていたのは、三階建ての西洋長屋(タウンハウス)の一室だった。その長屋で雑用係をしていたのが、「バブー」と呼ばれるインド人だった。この語は、多分インドのことばで「門番」「守衛」といった意味だと思うが、タイ人たちは彼を「バブー」と呼び、彼も自分を「バブーは……」と自称していた。
 知人の話によれば、バブーは1970年代にタイにやって来て、工場で働いた。その工場の社長が不動産業に手を出して、建設したばかりの長屋の雑用係にしたらしい。ただし、給料はないらしい。その長屋にはかなり広い駐車スペースがあったから、昼も夜も駐車場係として働き、客からチップをもらっていた。そのほか、住人から頼まれる雑多な用をこなして、チップをもらっていた。長屋の一軒は、あるレストランチェーンの従業員寮になっていて、そこの庭の軒下に折り畳みベッドを置き、24時間勤務をしていた。いつもヒマな私は、バブーとときどき世間話をするようになった。訛りの強いタイ語で、しかもいつも口にキンマの葉を入れてチューインガムのようにかんでいるから、発音がいっそうあいまいだった。
 ある日、家を出ると、いい匂いがした。カレーの香りだ。バブーのもとにインド人が数人やってきて、料理を作っているところだった。吸い込まれるようにバブーに近づき、あいさつをして、ガスコンロの前に座り込んだ。鍋にはチキンカレーがもうすぐできるところだった。使ったスパイスをたずねると、トウガラシ、クミン、ターメリックの3種だけだ。それなのに、出来上がったカレーは感動的にうまかった。チャパティーも手づくりで、焼くのをやらせてもらったが、均一にうまく焼くのは難しかった。ちょっと油断するとこげてしまい、まわりのインド人を舌打ちさせる結果になった。
 バブーのカレーが「感動的にうまい」と感じたのは、気のせいだろうか。タイ料理に飽きた舌が、新鮮な刺激に反応したのだろうか。
「インドで食べた料理のすべてがうまいとは言わないが、イスラム料理もベジタリアン料理も含めて、じつにうまかったという印象があるけれど、これは幻想かねえ?」
 蔵前仁一さんにそう言うと、「気のせいでしょう」と即座に返事があった。旅費があまりに乏しく、いつも腹を減らしていた若者には、なんでもうまいと感じたのだろうというのが、蔵前さんの考察である。
 まあ、そうかもしれないな。


アジア雑語林(35) 2003年10月7日

神田神保町 聖橋口から

 何年も神田を歩いていると、しだいにその巡回路がだいたい決まってくる。決まりきったコースはおもしろくないので、ときどきコースを変えるものの、立ち寄る本屋はだいたい決まっている。
 JR御茶の水駅の聖橋口を出て、まず三進堂へ。旅の本と外国事情の本が比較的安く売っている。最近では用がなくなったが、外国語の教科書や辞書のいくつかはここで買った。店主が、いつも「指で貧乏ゆすり」をしているのが気になる。それがどんなものか、行ったことがある人なら皆わかる。でしょ?
 丸善にはほとんど寄らずに、丸善とニコライ堂の間の坂を下っていくと、左手に草古堂。店頭に「ご自由にお持ちください」と書いた札がついたかごが置いてある。多くの人にはゴミでしかない本も、ある人には宝になる可能性もある。私は、昔の岩波新書を2冊もらったことがある。ここも旅の本が比較的揃っているが、安く売っているために回転が早いから、絶えずチェックしていないといけない。ここでは、旅の本のほか芸能・映画、古いNHKブックス、民族誌、出版関係書などをチェックする。欲しい本がたくさんあるので、1冊も買わずに店を出ることはあまりない。
 靖国通りに出て、ブックブラザー。1階と地下にある古本屋だ。地下の武内書店は、昔から西洋の雑誌や写真集などを立ち読みしたあと、エッセイと古い旅行ガイドブックを買ってきた。デザイナーなどには有名な古本屋で、米軍関係者などから仕入れた雑誌も大量に置いてあった。80年代には70年代のガイドブックが買えたが、21世紀になってしまうと90年代のものも「古いガイド」になってしまったので、最近は欲しい本がなくなった。英語のアジア料理やアジア旅行の本もあるが、欲しいものはすでに現地で買っているので、これまた最近はほとんど買わなくなったが、それでも立ち寄りたくなる店だ。1階(中二階の感じだが)の源喜堂は美術の本が揃っている。私にはほとんど縁のない世界だが、たまに寄るとインドの看板写真集などが見つかる。グレゴリ青山の世界が好きな人なら、この2店はきっと気に入る。
 駿河台下の交差点に出ると、建築の南洋堂に寄りたくなるが、しばし我慢。欲しい建築の本は多く、値段の高い本が少なくないので、南洋堂に寄ってしまうと、財布がカラになってしまい、古本屋巡りがここでお終いになってしまう可能性が高いからだ。それで、南洋堂をいつも後回しにしてしまうため、時間と経済的理由で結局は寄らずに帰宅することも珍しくない。
 三省堂の2階で文庫と新書の新刊を買い、1階の旅行書コーナーをチェックしたあと、神保町2丁目の日本特価書籍まで安売り新刊書をチェックしながら歩く。出たばかりの本が半額で売っていることもあるから、欲しい本があっても一応古本屋をチェックしてからでないと、悔しい思いをすることになるからだ。そういう体験を何度もしているから、古本屋歩きは、まずは新刊チェックから始める習慣になっている。
 出たばかりの本が半額で売られる理由はいくつもあるだろうが、雑誌編集部から流出する本もかなりあると思われる。書評や紹介を期待して、新刊書を雑誌編集部に送るというのは日常ごく普通のことで、販売部数の多い雑誌なら、大量の本がたまることになる。そういう本が、古本屋に流れるのである。私が買った本に、「乞う 御高評!」などと印刷された紙がはさまっていたことがある。
 日本特価書籍まで来れば、帰路は古本チェックの番だ。矢口、古賀、豊田で映画や音楽・芸能の本をあたり、大雲堂2階の叢文閣でアジアの古書をチェック。バブルのころは高かった古書も、このごろではそれほど高くもなくなった。私が持っている戦前の本はほとんどここで揃えた。中国を中心にした専門古書店だから、格安の掘り出し物というのはないが、適正な値段で興味深い本が手に入る。タイの本屋には、万引き防止のため入り口でバッグを預ける形式の店が少なくないが、この叢文閣は日本では珍しくその方式を採用している。いい店だが、客の質は良くないということか。
 このほかいくつかの古本屋を巡って東京堂へ。古本屋になかった新刊書を買って、アジア文庫へ。三省堂などで見かけたアジアの最新刊は、「どうせならアジア文庫で買おう」と思って後回しにしていると、アジア文庫にはまだ入荷していないということも少なくない。日本最大にして唯一のアジア専門書店も、全書店のなかでは零細書店に入る経営規模だから、零細書店など相手にしない大出版社の本はなかなか入荷しない。
 まだ時間が早かったら、ミロンガでタンゴを聞きながらコーヒー。時間があまりない場合は、水道橋駅方面に歩きながら、古本屋を覗き、ドトールでコーヒー。そして、早じまいの町・神田神保町では遅くまでやっている旭屋で仕上げ。南洋堂やキントトに寄れなかったなあと後悔しつつ、電車に乗るのである。

 


アジア雑語林(34) 2003年10月1日

ヨルダンのアメリカ人

 1975年の晩秋、私はヨルダンの首都アンマンにいた。
 ある日の朝、バスで死海のほうに行ってみようかと思って宿を出たものの、バスターミナル近くで若者に出会い、世間話をしているうちに彼の車でドライフすることになり、いくつかの遺跡を巡り、結局その夜は彼の家に泊めてもらうことになった。珍客の到来を知った彼の親戚や友人たちがやってきて、紅茶を飲みながら話をした。爆笑のバカ話にはまったくならず、「イスラム教と仏教とは、なにか共通するところはあるのか」という質問や、「パレスチナ人の現状」といった解説を聞いたりして、かなり堅い話になったがそれはそれなりに興味深いものだった。
 翌朝、アンマンのユースホステルに戻ると、ドミトリー(大部屋)に客がいた。前々日は、二段ベッドが3台あるその部屋の客は私だけだったが、私が外泊した日に客がひとり増えたらしい。中年のその男は、長期旅行をしているという風体ではなく、かといってビジネスマンといういでたちでもなく、正体がつかめなかった。
 雑談をしているうちにわかったのは、彼はアメリカ人で、アメリカ文学を専攻する大学教授だということだった。ちょうど、ジャック・ケロアックの「PIC」を読み終えたところだったので、私の英語力では理解できなかった箇所をいくつか教えてもらった。理知的で、誠実そうで、静かにしゃべる人だった。どこの文学であれ、私の不得意な分野ではあるのだが、いくらか読んだことがある黒人文学に関する質問をして、場をつないだ。
 部屋に男が入ってきた。30代くらいで西洋人の顔つきだが、頭にアラブ人がかぶっている布を巻いていた。男と教授はアメリカ英語で話し始め、しばらくすると突然アラビア語に変わり、またアメリカ英語に戻り、男は部屋を出て行った。私に聞かれてはまずい話だから、アラビア語に変えたのだろうか。それにしても、アメリカ文学の教授が、なぜアラビア語を?
「それは、私がパレスチナ出身だからですよ」といって、簡単な経歴を話しているときに、あの男がまた部屋に来て、ふたりは部屋から出て行った。
 その夜、教授は部屋に戻ってこなかった。翌日、私は南部のアカバをめざして旅立った。以後、教授に再会する機会はなかった。
 日本に帰国してしばらくして、雑誌「世界」を読んでいたら、パレスチナに関する論文が載っていた。もう30年近く前のことだから、その論文が本当にパレスチナに関するものだったかどうかは、いまとなってははっきりしないのだが、「世界」だったのはたぶん正しいと思う。その論文の「筆者略歴」に目を通すと、アンマンで出会った教授の経歴とまったく同じだった。筆者であるエドワード・サイードの略歴と同じだった。サイードの名はそれ以前から知っていたが、その経歴はまったく知らなかった。
 それからまたしばらくして、サイードの顔写真を見た。すでに記憶があいまいになっていたから、「完全に同一人物だ」といえるほどの確証はないが、似たタイプの顔つきだった。「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールの骨格を連想させる印象だったことを思い出した。
 あの教授が、ユースホステルの宿泊客だったかどうかもわからない。知り合いをたずねて来ただけかもしれない。彼はベッドに座っていたが、荷物があったという記憶はない。
 サイードの訃報を聞いて、教授のやさしい口調とともに、丘の多いアンマンの街と、その丘の上にあるユースホステルは、アラビア語で「バイト・シャバーブ」だったなあなどということを思い出した。


アジア雑語林(33) 2003年9月24日

神田神保町 成人篇

 高校を出て建設作業員になったから、金銭的余裕はできたが、稼いだカネは国内旅行に使ってしまい、相変わらずの貧乏だった。海外旅行のために貯金をしなければいけないということはわかっていても、ある程度のカネがたまると国内旅行に使ってしまった。本を好きなだけ読みたいという欲望は変わらずあり、20歳のころは「いつか1万円持ってこの街に来るぞ」と思っていた。そのころは、財布に1万円札が入っていることはあったが、そのカネを全部本に使う気はなかった。
 私は、本を買うのが好きなわけではない。古本マニアでもないし、コレクターでもない。買い集めた本を棚に並べて悦に入る人間でもないし、持っている本の量や質を自慢するために本を買うタイプの人間でもない。読みたい本を買うだけのことだ。
 だから、読まない、あるいは読めないとわかっている本を買うことはない。結果的に読まなかったという本はあるものの、読まないとわかっていて買うことはない。読みたい本はたくさんあり、そういう本を買うだけでも金銭的に大変なのだから、ただ書棚に陳列して自慢するためだけに本を買う余裕などない。所有欲というのもないから、「あの人の本を持っているだけでしあわせ」という感情もない。全集を全部揃えようという気もない。読みたい巻だけ買えばいいのだ。初版本に熱狂するのもバカげていると思う。 それなのに、図書館にほとんど行かないのは、図書館には私好みの本があまりないことと、ライターという仕事上、深夜でも調べ物をしなければいけないので、必要な本は手元に置いておかなければならないからだ。しかも、私が書くテーマは多岐にわたっているので、種々雑多な本が必要になる。どの本が突然必要になるかわからないのである。だから本を買うのであって、本を買うのが目的でもないし、買うことが楽しいわけでもない。基本的に、手元のカネが減るのは好きではないのだ。古本屋に少しでも高く売りたいという気もないから、本に傍線も引けば書き込みもする。タバコの煙で黄変しようが気にしない。本は、読めればいいのだ。だから、装幀が美しいというだけの理由で本を買うこともない。
 70年代に入ると、以前ほど神田には行かなくなった。早稲田や中央線沿線の古本屋を巡ることが多くなったからだ。その理由は、やはり「神田はお高くとまっている」という印象が抜けきらなかったからだ。神田の古本屋もいまではだいぶ変ったが、かつては現在よりももっと「学術書・専門書の店が並んでいる」という印象が強かった。大学の図書館にありそうな本が多かったから、そういう本に縁のない私には、中央線沿線の本のほうが魅力的だった。そして、専門書でなく一般書でも、神田は高い値段をつけていた。
 「読みたい本は多いが、どれも高いなあ」と感じていた晶文社の本も、中央線の古本屋では神田よりもずっと安かった。学術的ではないアジアの本も、中央線の古本屋にはいくらでも並んでいた。
 80年代に入ってふたたび神田に戻って来たのは、その学術書を求めるようになったからだ。私はライターになり、東南アジアの文化について本格的に調べるようになり、基礎となる勉強をしなければいけなくなったからだ。そして、84年のアジア文庫開店。前アジア文庫期は、都内の古本屋・新刊書店を巡って、出版点数の少ないアジア本を探していた。まだインターネットもない時代だから、新刊情報の入手はほとんど不可能だった。後アジア文庫期になると、既刊本はいつでも買えるし、新刊も確実に入荷した。私が神田に通う理由のひとつは、アジア文庫の存在が大きい。もし、アジア文庫が早稲田にあれば、おそらく毎月早稲田に通うだろう。高円寺にあれば、毎月中央線沿線の古本屋巡りをしているだろう。
 しあわせにも、その気になれば毎日でも神田に通える所に住んでいるが、もし北海道や四国にでも住んでいたら……と想像することがある。隔月に上京し、ヒルトップホテルに泊まって、本の買い出しをやるなんていいなあと思うが、あのホテルはかなり高額なので、もっと安いホテルに泊まってその差額分で、もっと多く本を買ったほうが利口だ。大きなバッグを肩に古書街を歩き、まとめて買った店で発送の手続きをして……と、その姿を想像していたら、なんだバンコクでやっていることと同じじゃないかと気がついた。


アジア雑語林(32) 2003年9月17日

神田神保町 高校篇

 60年代末から70年代初めが、私の高校時代だ。高校生になると、神田に行く機会が多くなった。小遣いを多少多くもらえるようになったこともあるが、本と映画以外にカネを使わなかったせいでもある。級友たちは、レッドツェペリンだ、サンタナだとロックのレコードを買っていたり、VANだJUNだと服にカネをかけたり、あるいはオートバイにカネを注いでいたが、私はそんなことに興味はなかった。音楽はラジオで聞くだけで充分だった。深夜までラジオを聞いていれば、ジャズもロックも民族音楽だってタダで聞くことができた。
 多分、高校二年生だったと思うが、毎週土曜日の午後は東京のある名画座で映画を見ていた。そのあと神田に出ることもあった。神田では、もうはっきりと外国滞在記や旅行記、あるいは外国の文化に関する本を中心に買っていた。本多勝一の極地もののほかに、こんな本を買った。
『正続 南ベトナム戦争従軍記』(岡村昭彦、岩波新書)、
『ふうらい坊留学記』(ミッキー・安川、カッパブックス)、
『ソ連なんでも聞いてみよう』(ノーボスチ通信社、新興出版社)、
『未開民族を探る』(吉田禎・、社会思想社)、
『エジプトないしょばなし』(田中四郎、文藝春秋新社)、
『アフリカの魔法医』(本田一二、毎日新聞社)
『アフリカ大陸』(今西錦司、筑摩書房)
『とらいある・あんど・えらー』(名手孝之、東京中日新聞社)
そして、『800日間世界一周』(広瀬俊三)を初めとする白陵社の本を買っていた。
 あの ころの神田の本屋は、はっきりとした記憶ではないが、どこも木造だったのではないか。東京堂はすでにコンクリートのビルだったかもしれないが、記憶はあいまいだ。高校生になると、カネはなくても平気で店内に足を踏み入れる強靭な精神力を身につけて、カビ臭い棚を点検するようになった。よく足を踏み入れる店と、いつも素通りする店があったが、どちらにしろ店の名前はよく覚えていない。神田古書街を歩き始めてそろそろ40年になろうとしている現在でも、じつは店名はあいまいなままだ。店の様子で記憶しているから、その名前をいちいち覚える必要はないのだ。店の看板がよく見えるほど顔を上げて本屋巡りをしている者はいない。路上では、特価本にまず注意するから、視線はいつも下向きなのだ。だから、看板の文字が目に入らない。店の名前を覚える必要などない。
 ある日の土曜日のことだった。私はいつものように映画館に行こうとしたら、友人たちも行きたいと言いだし、映画を見たら、神田の古本屋も見てみたいと言いだした。そこで案内をしたのだが、あまり興味はなさそうだった。世界一の古書街を見て、「すげーぞ」と驚いて欲しかったのだが、感動するセリフは出てこなかった。そこで、白山通りと靖国通りの交差点近くにある店に案内した。どういうわけか、その店の名前は覚えていた。芳賀書店だ。
 友人たちは、この店で初めて「すっげー!」と感嘆の声を上げたが、その声があまりに大きかったので、店の人に「高校生がそんな本を見るんじゃありません」と注意されてしまった。


アジア雑語林(31) 2003年9月11日

神田神保町 中学篇

 初めて神田に足を踏み入れたのは、1965年だった。中学1年生だった。
 同級生に本の好きな男がいて、なにげなく「一度、神田に行ってみたいね」と言ったら、「じゃあ、今度の日曜日に行こうか」ということになった。彼もまだ行ったことがなかったから、神田に初めて行く田舎者のほとんどがそうであるように、我々もまた国鉄神田駅で下車し、駅の周辺を歩いたが古本屋の一軒も見つからず、商店で「古本屋街はどこですか?」とたずね、その人は嫌な顔もせず、「あっち」と指さした。
 日曜日の神田古書街があんなに寂しいものだとは知らず、三省堂と東京堂を覗いて帰った。何を買ったのか、それとも何も買わなかったのか、まるで覚えていない。
 それ以後は、年に何回かひとりで出かけた。古本屋に行きたかったから、夏休みや春休みなどの平日にでかけることにした。財布には、あまりカネが入ってなかった。小遣いは少なく、地元の本屋で新刊書を買うこともあったから、なかなかカネがたまらなかった。そこで、昼食用にともらった50円をためて、神田遠征の費用にしていた。あのころ50円あれば、パンが3個か、食パン半斤と2個のコロッケが買えた。当時の岩波文庫には定価が明示されてなく、☆印で示していた。☆ひとつなら、50円だった。だから、昼飯を一回抜くと、薄い岩波文庫が一冊買えて、それを読むのに数日かかったから、あとの昼飯代は神田買い出し旅の費用に蓄えられる計画だったが、食欲には極めて弱い体質・気質のため、カネはなかなか貯まらなかった。
 だから、中学時代は年に数回行くだけだった。神田に行っても、店のなかにはほとんど入れなかった。敷居が高かったからであり、勇気をふりしぼって陰気な店に入れば、やはり陰気で因業そうで神経質そうな店主ににらまれたような気がして、純情な少年は萎縮した。古本屋の店内にあまり足を踏み入れなかったのは、こうした精神的障害もあったが、金銭的障害のほうがはるかに大きかった。
 神田往復の交通費を除いた残金は少なく、目と足はいつも店頭の特価本コーナーばかり探していた。だから、買うのはたいてい文庫か新書だった。考えてみれば、高い単行本は地元の本屋で買い、もともと安い文庫や新書を神田まで行って買うというのは変な話なのだが、当時はそんな矛盾には気がつかなかった。本がたくさんある場所を歩くのが楽しかったのだろう。買える本はほとんどなく、図書館と違って自由に読めるわけでもなく、それでも神田古書街を歩いているのは楽しかった。
 中学生時代に買った本は、すでにのちの進路を暗示する傾向が読み取れる。
『これが世界一だ』(竹内書店)を知っている人は、私と同世代では少ないかもしれない。上下二巻本で出たこの本は、のちの『ギネスブック』だ。世界の雑学に興味があったのだ。小学館の『世界の旅』シリーズも買っている。買ったのは『ドイツ/スイス』、『北ヨーロッパ』、『エジプト/アフリカ』、『インド/西アジア』、『スペイン/ポルトガル』の5冊を買っている。定価は480円で、これは新刊で買っている。神田で買ったとはっきり覚えている『アデウスにっぽん』(大槻洋志郎・本間久靖、本田書房)は、若者の南米旅行記。『サンドイッチ・ハイスクール』(植山周一郎、学習研究社)は、アメリカの高校留学記。そんな本を買って、いつか世界を旅しようと思っていた。

 

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