前川健一 著作一覧

アジア雑語林(21)〜(30)  

アジア雑語林(30) 2003年9月5日

東南アジアの小説を巡る話 (3)

 東南アジアの小説をもっとも熱心に読んだのは、80年代なかばだった。食文化の資料として、ノートをとりながら次々と読んでいった。それ以前に出ていたタイの小説は当然すでに読んでいたが、食文化にポイントをしぼって読んでいくと、それまで見えなかった部分がより鮮明に浮かんできた。そして、旅をしてからまた読むと、訳注の説明もかなりわかるようになった。
 先日も、タイの淡水魚の利用について調べたくて、『東北タイの子』(カムプーン・ブンタヴィー、星野龍夫訳)を拾い読みした。1980年に出た本で、タイ旅行にも持って行っているから、すっかり黄変している。黄変米ならぬ、黄変本になってしまった主たる理由は、タバコの煙で燻蒸したからで、それはまあしかたがないのだが、小さな活字の二段組が少々つらい目になってきたと感じた。老眼鏡など使わなくてもまだ読めるが、長時間読み続けるにはちょっとつらい。
 「この本はすでに絶版になっていますが、別の出版社から出す気はありませんか」と星野さんに言うと、「それなら、改訳してもいいなあ」という。星野さんにとっても愛着のある作品だ。しかし、どこか別の出版社が出す可能性はほとんどない。売れないからだ。二段組264ページの本を、活字をやや大きくして一段組にすれば、上下二冊本になる。あるいは、かなり厚い一冊本になって、定価はおそらく5000円だろう。たとえ3800円だとしても、現在の読者はそれだけのカネを小説に対して支払わない。いや、値段の問題ではないかもしれない。ありえない仮定の話だが、井村文化事業社の「東南アジアブックス」が、筑摩か岩波の文庫になったとしても、たぶん売れない。
 小説嫌いの私が言うのは変かもしれないが、井村やめこんから出ている東南アジアの小説は、タイに限らずビルマのものも、あまた出版されている滞在記や旅行記を読むよりはるかにおもしろいし、雑学が身につく。観光案内はないが、そんなものは旅行ガイドを読めばいいのだ。できの悪い新刊書を数冊買うなら、そのカネで翻訳小説を買ったほうがいい。
 そう思えるようになったのは、東南アジアの小説をかなり読んだから言えることで、私とて読む前からわかっていたことではない。タイの小説は最初からおもしろく、次々に読んだが、フィリピンの小説となると、ちょっとてこずった。ホセ・リサールの『ノリ・メ・タンヘレ』は、リサール関連の文章を続けて読んだので、その延長で400ページ以上ある大著を買った。まだアジア文庫が開店する前なので、八重洲ブックセンターで買ったことまで覚えている。
「十月末のある日、カピタン・チャゴという名でひとによく知られているドン・サンチャゴ・デ・ロス・サントスが、晩さん会を催した。」
 この書き出しで、もうダメだ。何度か読んでみようとして、ついに1ページも読めなかった『戦争と平和』を思い出し、本を閉じて書棚に納めた。その後、何度か挑戦してみたが、基本的に小説と相性が悪い私はいかにも西洋の小説という感じの『ノリ・メ・タンヘレ』が読めなかった。
 ついにこの小説を読破したのは、長い旅から帰ってきたときだった。手持ちのカネは旅で使い果たし、新刊書を買う余裕はなかった。そこで、買ったものの読んでいない本を書棚から取り出して、片っ端から読み始めた。その一冊に、『ノリ・メ・タンヘレ』も当然入っていた。日本語の本に飢えていたということもあったのだろうし、ちょっと前までいたフィリピンを思い出していたということもあったのだろうが、たちまち読み終えた。おもしろかった。
 現在入手できる本は、絶版になる前に買っておいたほうがいい。「そのうち」などと考えていると、あとで読みたくなってもなかなか入手できない。それはどんな本でも同じなのだが、将来インドネシアであれ、タイであれ、ビルマであれ、どこかの国のことをじっくり調べてみたいと思っている人なら、なにを置いても、翻訳されたアジアの小説を入手しておくことだ。それが、いつか役に立つ。すでに絶版になった本が多いが、図書館で探すか、インターネットの古本屋で探すといい。現在販売中の本もいつ絶版になるやもしれぬ。いまのうちに、買っておいたほうがいい。


アジア雑語林(29) 2003年8月21日

東南アジアの小説を巡る話 (2)

 日本人の友人が、中国系インドネシア人と結婚した。そこで、結婚祝いに「東南アジアブックス」の一冊、『タイからの手紙』(ボータン、冨田竹二郎訳)を送った。第二次大戦直後にタイに移住した中国人の半生を描いた作品なので、インドネシアの中国人世界にもなにか共通する部分があるだろうと想像したからだ。嫁さんは英語が堪能なので、バンコクで英語版も買っていっしょに送った。
 それから半年ほどして、その友人と会った。会ったとたん、「送ってくれたあの小説、おもしろかったよ」といったあと、「じつは……」と、ある人物の話を語り始めた。
 中国福建省の港から、13歳の少年がたったひとりで船に乗った。すでにイギリス領マラヤに移住していた姉を頼っての、出国だった。
 船がシンガポールの港に到着しようとしたその日、シンガポールは戦火に包まれた。日本軍の上陸作戦が決行されたのである。1941年12月のことだった。シンガポールに寄港できなくなった船は、インドネシアの島々をさまよい、やっとジャワ島東部のスラバヤにたどり着いた。シンガポールの港で姉と会い、マラヤでいっしょに暮らすという計画は戦争によって消え去り、少年はスラバヤで孤児となった。
 少年は福建出身者たちに助けられ、戦中戦後を生きてきた。製菓職人になった少年はジャカルタに出て、製菓業を始め、事業規模を少しずつ大きくしていった。
「それが義父なんだよ。だから、『タイからの手紙』は、義父の物語として読んだんだよ。日本軍によって自分の運命が変えられ、異国でたったひとりで生きていかなければならなくなったという話は、結婚するまでひとこともしゃべらなかったんだ。娘が日本人と結婚するということに対して、非難するような言動はまったくなかった」
 そのころ私は、東南アジアの食文化の本を書こうとしていて、友人にマレーシアの知り合いを紹介してもらった。私とほぼ同世代の男で、マレーシアの雑多なことを教えてもらった。その男と食事をしているときに、数年前の出来事を話しだした。
 ビジネスマンである彼は、仕事でジャカルタに出かけた。仕事相手との交渉を終えて、いっしょに夕食をとりながら、雑談のなかで身の上話をした。自分はマレーシア生まれだが、両親は中国生まれで、母の弟は中国を出たあと行方不明になっている。もしかするとインドネシアで生きているかもしれないのだがと、叔父の名を口にした。すると、「その男を知っている」と仕事相手が言った。その場ですぐに叔父に電話し、マレーシアの母にも伝えた。生き別れになっていた姉と弟が再会したのは、弟が福建の港を出てから、40年以上たっていた。友人が結婚するちょっと前のことだった。
 姉も弟も、戦乱に巻き込まれてすでに死亡したと互いに思い込んでいたうえに、身内を探す精神的・金銭的余裕が長らくなかった。
「で、『タイからの手紙』に対して、カミさんの反応は?」と友人にきいた。
「全然。だって、中国人移民の苦労話なんて、彼女にとってはいくらでも身近かにある話だからね」


アジア雑語林(28) 2003年8月11日

東南アジアの小説を巡る話 (1)

 勁草書房の社長だった井村寿二氏が、東南アジアの文学や社会科学論文を翻訳して出版する井村文化事業社を作ったのは、1970年代なかばだろうと思う。井村文化事業社発行、勁草書房発売というかたちで「東南アジアブックス」シリーズの刊行が始まるのは、76年1月の、次の2冊からだった。
『ノリ・メ・タンヘレ』(ホセ・リサール、岩崎玄訳)
『暁を見ずに』(ステヴァン・ハヴェリャーナ、阪谷芳直訳)
 図書購入帳を調べると、私が最初に買った「東南アジアブックス」は、タイの小説『生みすてられた子供たち』(シーファ、野中耕一訳)だった。この本が出版されたばかりの81年のことだ。しかし、それが最初に読んだ東南アジアの小説というわけではない。それ以前に、知人が買った「東南アジアブックス」を借りて、次から次へと読んでいた。それなのに、『生みすてられた子供たち』を買ったのは、「東南アジアブックス」がどれもおもしろいとわかったのに、友人がまだ買っていなかったからだ。この当時、「東南アジアブックス」をもっとも多く備えていたのは、八重洲ブックセンターだったのではないかと思う。その後、借りて読んだ本はすべて買い直した。神田の古本屋をていねいに歩けば、当時は「海外文学」の棚に「東南アジアブックス」が何冊か並んでいた。
 ほとんど小説を読まない私が、「東南アジアブックス」で刊行されるアジアの小説を好んで読んだのは、変な言い方かもしれないが「文学偏重」ではなかったからだ。作品の芸術性を第一に考えるのではなく、まず読んでおもしろい小説であり、その小説を読むことで、舞台となる地域に住んでいる人々の生活や考え方が日本人読者によくわかるようにする入門書として考慮されていたからだ。
 例えば、この『生みすてられた子供たち』が出版されるいきさつが、それを象徴している。
 翻訳者の野中耕一氏は、農業経済の専門家で、アジア経済研究所の海外調査員としてバンコクで駐在員生活を送っていた。仕事がら、本屋で農業に関係ありそうな本を見つけたら、片っ端から買って読んでいた。そんなある日に買ったのが、『カーオ・ノック・ナー』(田の外のコメ)という本だった。「カーオ」(コメ)という語にひかれて購入したものの、読んでみたら農業とはまったく関係のない小説だった。タイトルの意味は、田の外で勝手に育った稲ということから、「はみ出し者」「よけいな者」という意味になる。日本のように苗を植えるのではなく、籾を田にまくから、どうしても田の外に籾が飛ぶ。小説の内容を考えると、もしかすると、籾は子種の意味も暗示しているのかもしれない。
 この小説は、異父姉妹の物語だ。母はタイ人だが、父はベトナム戦争時代にタイに駐留したふたりの米兵。ひとりは白人で、もうひとりは黒人。この姉妹の成長の記録である。野中氏がこの小説を翻訳しようと思ったのは、混血児の問題を取り上げたかったのではなく、「作者が混血児の生い立ちを語る中に、現代のバンコクに住む人々の日常性が、まことに生き生きと描かれていたからである」(訳者あとがき)。自分の専門を越えても、日本人読者に伝えたいことがある小説を翻訳したいという情熱。これが、「東南アジアブックス」全体に行き渡っているから、小説が苦手の私でも全巻読んでみようという気にさせたのである。
 だから、文学研究者が「その高い文学性」を評価して翻訳した昨今の翻訳書は、私にはまるでおもしろくないのである。文学研究者が、他の文学研究者だけを読者にした翻訳書は、「外国文学紹介の成熟」だととらえる人がるかもしれないが、かつて「東南アジアブックス」にあったバイタリティーはもはやない。できる限り多くの日本人に読んでもらい、その地の文化を理解してほしいという熱意も感じられない。「東南アジアブックス」の翻訳者の多くが文学研究者ではないせいか、正直に言って訳文の日本語にかなり問題はある。読みにくい文章ではある。しかし、文学以外の専門家だから訳注が詳しく、内容の理解に役だった。

 


アジア雑語林(27) 2003年7月28日

アジアをめぐる「鳥」についての短い考察

 『インドネシア語の中庭』(佐々木重次編著、Grup sanggar)を読んでいたら、鳥(burung)は幼児のオチンチンの意味もあるという話がでてきた。辞書で確認すると、まさにそのとおりだ。さて、これは中国語の影響だろうか?
 中国語は、基本的には1語にひとつの音で、日本のようにひとつの漢字にいくつもの読み方があるということはないのだが、例外的にいくつかの語は複数の音がある。「鳥」もそのひとつで、niaoと発音すれば鳥のことだが、diaoと発音すると、オチンチンの意味になる。こういう雑学はすでに仕入れていたので、burungの隠語の意味が中国語起源ではないかと想像したのだ。
 『アジア英語辞典』(本名信行編著、三省堂)には、フィリピンで英語のbirdには、隠語で幼児のオチンチンの意味があるとでている。手元に詳しいタガログ語辞典がないので、意味の起源についてはわからない。
 タイ語で鳥は「ノック」というが、この語にはどうも隠語の意味はなさそうだ。森羅万象の語彙を織り込んだ「冨田辞典」こと、『タイ日大辞典』(冨田竹次郎、めこん)にも出ていない。隠語も詳しく紹介しているこの辞典に出ていないということは、多分「ノック」は鳥以外の意味はないということだろう。ちなみに、タイ語で鶏(カイ)には売春婦という意味もあるそうだが、中国語で鶏巴といえばオチンチンのことだ。発音は日本語の「千葉」に近い。
 なぜ、鳥が赤ちゃんのオチンチンなのかよくわからないが、おそらくその形からの連想ではないかと思う。袋の部分(陰嚢)を鳥の胴と考えると、たしかに小鳥に似ていなくもない。お菓子の「ひよこ」を思い浮かべるとわかりやすい。『インドネシア語の中庭』では、「なぜ『鳥』というのか」という問いに対して、インドネシアの女性が「だって、タマゴを抱いているじゃない」だって。インドネシア語ではどうか知らないが、タイ語ではカイ(タマゴ)は隠語で睾丸の意味がある。
 インドネシアやフィリピンの、鳥の裏の意味が中国語起源かもしれないという推測が、正しいのかどうか私にはわからない。東南アジアの食べ物関係の語は中国語起源のものが数多くあるのはたしかだが、だからといって中国語と共通する東南アジアの語彙がすべて中国起源だと判断してしまっては、中華思想にすぎるだろう。
 私は言語学についても素人だから、これ以上の考察はできない。ここはひとつ、専門家の論文に期待したい。

※『インドネシア語の中庭』は、品切れになりました。(アジア文庫)


アジア雑語林(26) 2003年7月7日

マイナーとメジャー

 例えば、あるライターが「ブルキナファソの本を書こうかと思うんですが……」と編集者に言ったとする。編集者が普通の日本人なら、ブルキナファソが人名なのか芸術のあるジャンル名なのかまるでわからないだろう。もし世界地理に詳しい人なら、それがアフリカの国名だということがわかり、きっとこう言う。「そんなマイナーな国の本を書いたって、誰が読むんですか。売れませんよ。」
 「マイナーな国」とは、日本人のほとんどが知らないとか、日本人がほとんど旅行したことがないということだろう。そういう意味では、ブルキナファソはたしかにマイナーであり、酔狂な出版社が出版を決めたとしても、読者はきわめて少ないと思う。しかし、それではメジャーな場所なら出版点数が多いのかというと、そうとも言えないのだ。
 もっともわかりやすい例は、ハワイだ。長年にわたり日本人がもっとも多く訪れる外国旅行地がハワイだが、書店にいってみればガイドブック類だけは山ほどあるものの、それ以外の本はあまりない。年間200万人ほどの日本人がハワイを訪れているが、その訪問者数に見合うだけの出版点数はなく、内容的にもたいしたことはない。研究者向きの本なら多数あるのだろうが、書店ですぐ手に入る本となると、質・冊数とも、とてもメジャーとは言えない。グアムもシンガポールも同様だ。東南アジアでもっとも多くの日本人が訪れていたのはシンガポールだったが、タイがその地位を抜くのが90年代末のことだ。しかし、出版物でいえば、おそらくシンガポールがタイを抜いたことはないだろうし、その差は広がるばかりだ。ジャカルタには2万か3万人の日本人が住んでいるらしく、だからけっしてマイナーな場所ではないはずだが、ジャカルタに関する本はほとんどない。
 メジャーとマイナーの関係を、旅行者の違いで見てみると、こんなことがわかる。
@リゾート客は、その土地になんの興味もない。ガイドブック以上の情報など必要ないのである。
A買い物目当ての旅行者は、買い物情報以外なんの興味もない。ガイドブックや雑誌の情報だけで充分で、それ以上本を読んでみようとは思わない。
 ハワイやグアム、シンガポールの本があまりないのは、このふたつの理由によるものだろう。ジャカルタに滞在している日本人のほとんどは企業などの駐在員で、観光客は少ない。だから、仕事に直接関係のないインドネシアの話など読みたくないのだろう。読者がいなければ、本は出ない。
 メジャーとマイナーというのは本のジャンルでも同様で、日本でもっともメジャーなスポーツは野球だが、野球関係の本が質・量ともに充実しているとは思えない。「海が好き」という人は多いが、だからといって海関係の本が充実しているわけでもない。メジャーな分野だからといって、多くの本が出版されよく売れるというわけでもないのである。


アジア雑語林(25) 2003年6月27日

こんな本はいやだ(2) カラー写真

 むかし、そう1960年代でも雑誌のカラーページの色はくすんだ感じだった。映画はまだ「カラー」より「総天然色」という言葉で宣伝している時代だった。「総」というのは、映画の一部がカラーになる「パートカラー」ではなく、映画全編がカラーという意味だ。
 その後、カラーページはめざましく鮮やかになっていった。タイでは80年代では、色が汚いカラー写真の雑誌もあったが、90年代に入って格段にきれいになった。多分、ベトナムやカンボジアでは、まだ薄汚れた感じのカラー写真が普通だろうと思う。
 ところが、ここ数年の日本の出版物で、カラー写真がひどく汚いものが目につくようになった。気がつきました? 初めは超低予算の自費出版物だろうと思ったが、版元は中堅のちゃんとした出版社などだ。そこで、次の推理は、素人が撮影したカラープリントを使っているから色が汚く、コントラストがおかしいのだろうと思った。それも原因のひとつだが、カラープリントを使ったものでもそれなりに色がでている例も知っているから、この推理は必ずしも当たらない。
 三番目の推理は、デジタルカメラ原因説だ。デジタルカメラの性能が悪いにもかかわらず、その便利さから多用し、結果的にひどい色のカラー写真を本に載せることになる。私はデジタルカメラを使ったことがないので、こういう説を考えてみたのだが、ある編集者に話すと、それは冤罪だそうだ。
 安いデジタルカメラでも、その性能は高く、写真を単行本で小さく使うくらいなら、従来のフィルム式カメラと遜色ないという。それならば、汚い写真の犯人は誰だ。
 その編集者によれば、根本的な原因は低予算にあるという。
 「ぴあ」などをはじめ、雑誌はカラーページが豊富でしかも価格が安いのが普通になると、活字が詰まっただけの単行本はなかなか売れないと考える。だから、単行本にもカラーページをたっぷり入れたいのだが費用がかかる。制作原価がとてつもなく高くなる。カラー写真の製版料は高いので、印刷屋に依頼せずに編集者が社内のコンピューターを使ってやるようになった。高度な技術をもった人がやればきちんとできるのだが、未熟な者がやると、色調がおかしいカラー写真が印刷されてしまうというのだ。
 カラー志向と低予算が原因で、日本の出版物は40年前に逆戻りしてしまったのである。


アジア雑語林(24) 2003年6月16日

こんな本はいやだ(1) 厚い本

 通常、単行本の原稿量は400字詰め原稿用紙にして400枚から500枚くらいだろう。800枚とか1000枚もあると、2段組にするか、上下2巻にしたりする。
 原稿量が多くなれば本は厚くなり、少なければ薄くなる。それが自然なのだが、薄いと「高い」という印象を与え、書店の棚でタイトルが読みにくくなるということもあって、無理やり厚くすることがある。そのテクニックは次のようにやる。
・文字を大きくする。
・字間(文字と文字の間隔)をあける。
・行間(行と行の間隔)をあける。
・紙面の上や下に余白をつくる。
 こういうデザインにすると、どうなるか。よく言えば老人用大活字版だが、そういう意図で作成した本ではないので、本をあけると幼児向けの本のような印象を与える。
 私がいままでに読んだことがある本で、記憶に残る駄本といえば、フレデリック・フォーサイスの『ハイディング・プレース』だ。カネ欲しさにでっち上げた愚作だ。この本は、内容がスカスカというだけでなく、原稿量が少ないから児童書のように紙面がスカスカなのだ。字が大きく、行間がスカスカだ。読みやすいことはたしかだが、味気ない。
 たまに昔の新潮文庫や岩波文庫を書棚から取り出すことがあるが、ページを開いてビックリすることがある。活字が小さく、ビッシリ詰まっているのだ。中学生でよくこんな本を読んだものだと、自分のことなのに感心する。あれだけ小さいと、もはや読む気がしない。だからといって、活字が大きければいいというわけではない。ちょうどいい大きさというものがある。
 見た目がスカスカにならず、しかも厚い本のように見せるテクニックは、紙を厚くすることだ。紙は、基本的には厚くなればそれだけ高価にはなるが(正確には重くなるほど高くなる)、とにかく本は厚くできる。150ページの本も、紙を厚くすれば250ページくらいかと錯覚する厚さになる。
 そういう本が、嫌いだ。両手でページを押さえておかないと読めないのだ。しかも、しっかり押さえようと力を入れると、「バッシッ」とばかりに本がこわれる。コピーをとるときにも、この手の本はこわれやすい。
 写真をきれいに見せたいという意図なのだろうが、紙面がテカテカと光っている本も、読みにくいからいやだ。明朝体以外の書体で組んである本も、読む気を失う。


アジア雑語林(23) 2003年6月5日

外国語学習の歴史

 世の中には、「ちょっと前までは考えられなかった」というようなことがいくつもある。コンピューターや携帯電話といった工業製品はもちろん、アジア関係のものごとでもそういった例はいくつもある。例えば、外国語学習の場だ。
 大宅賞を受賞した『北朝鮮に消えた友と私の物語』(萩原遼、文春文庫)を読んでいて印象に残ったことのひとつが、著者の朝鮮語学習遍歴だ。
 1950年代末の事情をこう書いている。
「当時の天理大には現職警官に朝鮮語を教える『別科』なるものがあり、現職警官が公然とキャンパスに出入りしていた日本で唯一の大学だった」
「当時日本人で朝鮮語を勉強するのは警察と公安と相場がきまっていた。密入国者の尋問や左翼の朝鮮人を取りしまるためである」
 朝鮮語をきちんと学ぶには、当時は天理大しかなかったらしい。そこで、萩原は当時は誰でも入学できるほどやさしい大学であった天理大を受験するが、不合格になった。警察のために作った学科に、共産党員である著者はとうてい入学できるわけはないということらしい。そこで、朝鮮青年同盟の朝鮮語講座に通うことになった。そこは、北朝鮮に帰国する青年に朝鮮語を教えるための講座だった。そして、1963年に新設された大阪外国語大学朝鮮語科に入学し、最初の学生となった。東京外大には、まだ朝鮮語科はなかった。
 朝鮮語と中国語は政治的な問題もあって、学習施設が少なかったのだが、他のアジア言語の場合は、ただ単に学習者が少なかったからだ。いや、アジア言語に限ったことではなかった。街に英会話学校はいくらでもあるが、イタリア語やポルトガル語を学びたいと思ったら、教育施設は少なく、長時間かけて通学するか独習することになる。
 1980年代でも、タイ語やインドネシア語を学びたいと思ったら、外語大に入学するか、あるいは教科書を買って独習するか、大使館や観光局に行って語学教室を紹介してもらうしかなかった。インターネットが普及していなかった時代は、語学講座を探すのも大変だったが、その時代はそもそも講座じたいがあまりなかったのだ。
 1950年代に、東京外語大のタイ語科で学んだという知り合いの話をひとつ。
 彼がタイ語科を選んだのは、英語科やフランス語科では難しいすぎて到底入学できそうもないから、もっとも希望者が少なそうなインドネシア語科かタイ語科にしようと考えて、「ええい、どっちでも同じようなもんだ」とタイ語科を選んだ。授業が始まると、タイ語とインドネシア語が「同じようなもの」ではないことがわかった。
「タイ語もローマ字だと思ってたんだよなあ。しまったと、悔やんだよ」
 彼が特別だったわけではない。タイにはタイ文字があると入学前に知っていた学生は、たったひとりだけだったそうだ。当時はタイ語を教えられる日本人教師がほとんどいなかったから、先生はおもにタイ人の留学生だったそうだ。

 


アジア雑語林(22) 2003年5月23日

「お世話になりました」

 宮脇俊三の鉄道旅行記を何冊か読んだことがあるが、どれもそれほどおもしろいとは思えなかった。鉄道マニアが書く旅行記ならば、文章の随所に鉄道知識がちりばめられていると期待したのだが、鉄道マニアでなくても書けそうな普通の鉄道旅行体験記だった。私が期待したのは、その鉄道の目的や、開通によって沿線の社会がどう変わったのかといった社会的なことや、機関車や客車の来歴といった鉄道マニアならではの情報だった。あるいは、ポール・セロ−の作品の、例えば『中国鉄道大旅行』(文藝春秋)のように、鉄道そのものの情報はなくても、独特のアクとユーモアがあれば、それはそれで読み物として楽しめるのだが……。
 彼の文章が私の期待するようなものではなかったから、一般の雑誌に掲載され、単行本が売れたのだろうが、私にとっては数冊読んだら「あとはいいや」という気分だった。
 その宮脇氏に会うことになった。『アフリカの満月』(旅行人、2000年)がJTBの紀行文学大賞・奨励賞に選ばれ、授賞式に行ったときのことだ。式のまえに控え室で待機していると、賞の選考委員のひとりである宮脇氏が部屋に入ってきた。顔は写真で知っていた。体調がかなり悪いらしく、よろよろと歩いてきた。受賞者としては、一応ご挨拶しなければいけないだろう。
「前川健一です」
「ああ、前川さん、いつぞやは大変お世話になりました」
 そのことばの意味が、まるでわからない。会ったこともないのだから、お世話などした記憶がないのだ。私を、誰かほかの人と勘違いしているのだろうか。なんと言葉をかえしていいものやら考えあぐんでいた。
「あなたが、むかしお書きになったアフリカのガイドブックねえ……」
「はい、『東アフリカ』ですね」
「ええ、あれを持ってケニアに行ったんですよ。当時はほかにガイドブックがまったくなくてねえ、ほんとにお世話になりましたよ」
 『東アフリカ』は1983年に出版した本だ。ケニアでその本の取材をしているようすを『アフリカの満月』に少し書いた。
「前川さんにおわびしなければいけないと思うんですが、奨励賞は新人に贈る賞なんですが、それをベテランの前川さんに贈るという失礼なことになって、申し訳ないと思います。このことは、授賞式でもはっきりといいます」
 授賞式の選評で、その言葉を添えて『アフリカの満月』を紹介してくださった。どうやら、私の本を強く推薦してくださったのが宮脇氏らしいと気がついた。
 あれから2年後に、新聞で宮脇氏の訃報を見つけたとき、授賞式のことを思い出した。あのとき、すでに「体の具合が悪くて、もう原稿は書けなくなりました」と寂しそうに言っていた。その弱々しい口調が耳に残る。

 


アジア雑語林(21) 2003年5月12日

ものすごくおかしいぞ、千葉敦子

 仕事上の必要があって、千葉敦子の本を初めて読んだ。「ガンと戦いながら書きつづけたジャーナリスト」という面が強く宣伝されていたのは知っていたが、その著作は一冊も読んだことがなかった。
 今回読んだのは、『ちょっとおかしいぞ、日本人』。単行本は新潮社から1985年。新潮文庫に入ったのが1988年。私が買ったのは2000年の「25刷」(!)の版。ベストセラーになっているこの本は、じつは相当におかしいのである。あまりにおかしな本だから、出版時に誰かが指摘しただろうと思うが、私は読んでいないので、過去は気にせずに書く。
 この本を読みながらふと思ったのは、千葉敦子というのはアメリカ人のペンネームじゃないのかということだ。イザヤ・ペンダサンの逆で、外国人が日本人になりすまして原稿を書いたのではないかと疑った。文庫の著者略歴によれば、東京新聞の記者からアメリカに留学し、のち海外紙誌の東京特派員になったそうだから、どうやら日本人らしい。
 なぜそんなことを思ったかというと、この本の骨格となっている思想、あるいは論理は、アメリカにあって日本にないものは日本が遅れている証拠であり、日本にあってアメリカにないものは日本が遅れている証拠であるという考え方である。それを骨子として、めちゃくちゃな理屈をこねる。
 「アメリカ万歳」理論の例には、こんなものがある。
 スリッパというものは寝室で使うものなのに、日本人は玄関にスリッパがあるのは変だとしながら、金髪の西洋人がホテル・オークラでキモノを着てハイヒールを履いている姿は批判しない。
 日本の雑誌のタイトルが外国語かそれ風のものばかりという批判は私と同意見なのだが、彼女の批判理由は、「LEE」は日本人が発音できないからダメという理屈だ。日本人は外国語をやたらに使うと批判している当人が、これまた本文でやたらに英語が出てくる。「外国人は、よく日本人のこうしたmeticulousnessを嫌ったり……」といった具合だったり、「名刺はあくまでreminder」とか、「ああいうcoyness」とか……。こういう文章は嫌だ。英語の教科書じゃないんだから。
 あるいは、アメリカのスーパーマーケットには十数種類のシャンプーがあるが、日本ではあまり種類がない。これは人生の選択の幅が狭いということだという論理。めちゃくちゃだぜ。例えば、文房具について言えば、日本のほうがはるかに種類が多い。例を変えれば、この論理は簡単に崩れる。
 本文2ページ目に、こんな文章が出てくる。
「いずれの国民もそれぞれにいろいろなクセを持っていますが、日本人はクセの多い国民だといわれます」
 おい、おい、誰がそんな非論理的なことを言ってるんだよと、ツッコミながら読み進むと、あとの部分の、日本人は自己主張をしないと強く批判している文章で、その例として発言者を明確にしない「………といわれていますけど」という言い方を挙げている。こういうのを、日本では「天に唾する行為」という。他を批判しようとして、自分に批判を浴びることになるということだ。
 この本で唯一よくできていると言えるのは、中山千夏の解説だ。なぜ中山がこの文庫の解説を引き受けたのかわからないが、けっしてほめてはいない。それどころか、「千葉さんが、ほかの国、ことに近隣の外国に住む時間を持てなかったことが、とても残念だ」と書いている。千葉の「外国」とはすなわちアメリカであり、外国人とはアメリカ人を中心とする西洋人のことだった。そんな狭い視野から日本批判をでっちあげた。中山千夏には、その欠点がはっきりとよく見えていた。
 こんな本がベストセラーになるのだから、その点ではたしかに「ちょっとおかしいぞ、日本人」である。

 

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