前川健一 著作一覧


アジア雑語林(210) 2008年1月17日

DVD版「快傑ハリマオ」を買ったぞ

 この欄で、往年のテレビドラマ「快傑ハリマオ」の話をたびたびしてきた。ドラマ関連の資料を読むと、東南アジアロケをやったことはわかっているから、どういうアジアが写っているのか見てみたかった。DVDも発売されているから買えばいいのだが、1話が13回分あって全5話。DVDは1話が4枚で計3万円ほどする。3万円だして買うほどのことはないなあと思っていたが、2006年から事情が変わってきた。
 第1話「魔の城篇」や第2話「ソロ河の逆襲」が、神保町の書店で1枚500円で売っているのを見つけた。1話が4枚だから、1話が合計2000円ということになる。これならば買える。
 さっそく買って見ると、懐かしきテーマソングが流れてきて、たちまちのうちに気分は前髪を切りそろえた半ズボンの少年に戻ったのだが、内容はまるで受け付けない。それで思い出したのだが、当時の前川少年は、自分が少年であるにもかかわらず、子供向け番組が嫌いだった。子供向けの本も読む気がなかった。子供嫌いの子供だったのである。幼稚園児でも、荒唐無稽を受け付けないリアリズムのガキだったのである。だから、「子供だまし番組」は、数回は見ても、継続して見る気はしなかったのだ。
 そんなわけで、「快傑ハリマオ」は、1話と2話のDVD計8枚買って、お付き合いを終わりにした。そのはずだったのだが、先日秋葉原で、第3話の廉価版を見つけてしまった。海外ロケをした「アラフラの真珠篇」である。秋葉原価格は1枚485円で、もちろんすぐさま全4枚を買い求めて、ついに見た。海外ロケをした日本初のテレビドラマだ。
 「第1回 ハリケーンの来襲」が始まったとたん、まだタイトルが出る前に、象に載ったハリマオたちが写る。1960年のタイだ。明らかに海外ロケだとわかるのは、タイ(バンコクとバーンセン)と、カンボジア(アンコールワット)と香港で、だから私の知らない昔の風景が見られるのかと大いに期待して、画面をみつめた。1960年のアジアは、ほんのちょっと写るだけだ。外国はちらっと写るだけで、ほとんどは日本国内の「熱帯アジアということにしている風景」で、撮影しているのだ。ああ、がっかりだ。
 風景シーンだけでも長時間あれば嬉しいのに、なんとまあもったいない。車から街を撮影するだけなら、手間もカネもかからないのだから、そういうシーンを豊富に入れて、「さあどうだ、海外ロケだぞ!」と自慢してほしかった。膨大なカネを使って、せっかく外国に行ったのに、外国で撮影したシーンがとても少ないのだ。
 どうしてそうならなかったのか考えてみると、子供向けテレビ映画に、場の雰囲気を伝える風景シーンなど退屈なだけで、必要ないと考えたのだろう。そして、もうひとつ頭に浮かんだのは、風景の意味だ。
 バンコクの街のシーンが出てくる。路面電車が走っている。「ああ、これがバンコクの路面電車か」と思うのは、2007年の私であって、1960年代の前川少年は、もちろんそれがバンコクだということはわからない。ニューヨークやロンドンなら、日本人の誰でもどこに住んでいても、それが日本の街ではないとわかる。しかし、それがバンコクだとどうだろう。四国や九州の小さな町に住み、県庁所在地にさえ行ったことがない少年にとって、東京とバンコクの違いは、映画に一瞬でてくるシーンでは区別がつかなかったのではないだろうか。
 そう考えると、「さあ、どうだ。海外ロケだぞ」と自慢なのは、制作サイドの大人たちだけで、ドラマを見る少年たちにとっては、第1話や第2話に出てくる日本のなかの東南アジアでも、なんら問題がないだろう。悪党がいる植民地本部は、明治神宮外苑絵画館だし、表参道もよく登場する。築地本願寺も登場する。それらが東京にある施設だと現在の私は知っているが、1960年代の、地方在住ハナたれ小僧やガキ大将たちは、単純に「異国」だと信じただろう。あのころ、全国の少年たちにとって、東京は明らかに「異境・異国」だったのだ。
 そう考えると、同時期に海外ロケをした日活や東宝の映画が「異国」で撮影して、大人の観客たちに「異国情緒」を見せたのに対して、子供向けドラマにとって海外ロケは無駄な出費だったのかなあという気もしてくる。そんなことも含めて、「快傑ハリマオ」は、ドラマとしてはつまらなかったが、日本人にとっての異国を考える資料にはなった。
 いずれ、「快傑ハリマオ」の第4話、第5話の廉価版も発売されるだろうが、もういい。もう買わない。別のネタを探すことにしよう。

 


アジア雑語林(209) 2007年12月27日

池澤夏樹の「世界」は、こんなもの

 河出書房新社が今度出す「世界文学全集 全24巻」は池澤夏樹の個人編集を謳っている。何人かの編集委員が収載作品を選ぶのではなく、池澤夏樹たったひとりに作品選定を任せましたという「世界文学全集」だ。
 書店で、この文学全集のチラシを手に入れた。もともと池澤には何も期待していないから、失望したというわけではないが、チラシを読むと「なーんじゃ、これ」という選定だ。「池澤夏樹の世界」を知る資料にはなるだろうが、その「世界」がいかに狭く偏っているかがよくわかる選定だ。だから、この文学全集は正確には「西洋文学中心全集」なのである。
 「第1集 全12巻」の作品名に、作者名とその一応の国籍を記しておこう。「一応の国籍」というのは、現在国名が変わったり、移住したり、いろいろ移動もあるだろうから、正確な意味での国籍ではない、という程度の意味だ。第2集12巻の紹介は、長くなるので省略。興味のある人は、ネットなどで調べてください。

1 「オン・ザ・ロード」 ケルアック(アメリカ)
2 「楽園への道」 バルガス=リョサ(ペルー)
3 「存在の耐えられない軽さ」 クンデラ(チェコ)
4 「太平洋の防波堤/愛人ラマン」 デュラス(フランス)
  「悲しみよ こんにちは」 サガン(フランス)
5 「巨匠とマルガリータ」 ブルガーコフ(ウクライナ)
6 「暗夜」 残雪(中国)
  「戦争の悲しみ」 バオ・ニン(ベトナム)
7 「ハワード・エンド」 フォスター(イギリス)
8 「アフリカの日々」 ディネーセン(デンマーク)
  「ヤシ酒飲み」 チュツオーラ(ナイジェリア)
9 「アブサロム、アブサロム!」 フォークナー(アメリカ)
10 「アデン、アラビア」 ニザン(フランス)
   「名誉の戦場」 ルオー(フランス)
11 「鉄の時代」 クッツェー(南アフリカ)
12 「アルトゥーロの島」 モランテ(イタリア)
   「モンテ・フェルモの丘の家」 ギンズブルグ(イタリア)

 さあ、どうです。アジア人作家はふたりいるが、「戦争の悲しみ」は、いろいろ問題を指摘されてきた井川一久訳だから、英語版からの重訳のはずだ。「アフリカの日々」にしても、「愛人ラマン」にしても、西洋人が見た植民地のアフリカでありインドシナだ。第1集の12巻17作品のうち、アジア文学2作品、アフリカ文学2作品が収められている。これが第2集になると、アジアとアフリカの代わりにほんの少し南米を加えた構成で、圧倒的に西洋中心であることに変わりがない。
 つまり、池澤が考える世界というのは、9割の西洋と「その他の地域」で成り立つ世界なのだと理解できる。「商売上、欧米ならやや売れる」という出版社側の都合があるだろうが、それだけで構成を決めるなら、たんなる名義貸しにすぎない。しかし、多分、名前を貸しただけではなく、「池澤夏樹の世界」がこういう、バナナのような形をした地球儀ということなのだろう。細い両端が、非西洋の「その他の世界」という地球儀だ。
 音楽における「世界音楽、ワールド・ミュージック」という考えが広まるにつれ、世界中の音楽を並列に聴いていく姿勢ができつつある。もちろん、まだ西洋の音楽が唯一無二、絶対的に優れた音楽、あるいは「音楽と呼びうるものは西洋にしかない」と信じ込んでいる人もいるにはいるが、さまざまな地域の音楽を同じように楽しんでいる人々もいる。しかし、文学となると、相変わらず西洋限定なんだと気がつくのである。
 翻訳の問題がある日本人にとって、「文学」というのは、国文学のほか、英、米、仏、独、露の文学という時代がまだまだ本流で、ロシア文学の代わりにイタリア文学が入ったくらいの変化しかないのだろうかと、文学にまるで関心も知識も読書体験もない私は思うのである。なにしろ、2007年に読んだ小説はたった2冊、ビルマの『漁師』(チェニイ、河東田静雄訳)と、カンボジアの『地獄の一三六六日 ポルポト政権下での真実』(オム・ソンバット、岡田知子訳)。いずれも大同生命国際文化基金発売の非売品で、2007年刊。

 


アジア雑語林(208) 2007年12月19日

1970年代のミニコミと建築家

 1970年代はミニコミの時代だったような気がする。60年代まではガリ版印刷が中心だっただろうが、70年代に入ると、活版印刷や表紙にカラー写真を使ったものまで登場するようになった。こうなると、ミニコミとは言い難く、しかしマスコミと呼べるほど大部数を発行しているわけでもなくという雑誌が出てきた。
 あのころ、マスコミ世界でも有名だったのは、「新宿プレイマップ」や「だぶだぼ」などがあり、じわじわと人気が出てきたのが「本の雑誌」だった。一般の読者にはほとんど知られていないが、熱心な旅行ファンに読まれていたのが「オデッセイ」だ。「ザ・個性的な旅」は世界ケチ研(これが正式名だが、元は世界ケチケチ旅行研究会だったような気がする)の機関誌だから、市販していなかったと思うが、もしかして、模索舎や喫茶店などで販売していたかもしれない。
 こうした雑誌群とは違って、単行本として少部数発行されていたのが、「あむかす・旅のメモシリーズ」だ。この名を出して、「ああ、あれね」とわかる人は、辺境旅行愛好者や大学の山岳部・探検部関係者や観文研(日本観光文化研究所)の関係者たちだろう。私はそのどこにも分類されないが、少しは知っている。
 「あむかす―あるくみるきくアメーバ集団」は、創設に参加した伊藤幸司氏(早稲田・探検部OB)によれば、全国の大学山岳部・探検部関係者たちの情報収集機関として、1970年に誕生したそうだ。観文研や現在の地平線会議などと深い関係があるのだが、それはさておき、「1974年ごろから『あむかす・旅のメモシリーズ』という手書きのガイドブックをつくりはじめる」(インターネット情報、「伊藤幸司略歴」による)そうで、紀伊国屋新宿本店や渋谷マップハウス(のちに神田の三省堂内)などで売られていた。
 私は、おそらくマップハウスが神田で独立した店舗を持っていた時代か、あるいは三省堂本店内に移転してからか、この「あむかす・旅のメモシリーズ」を何冊か買ったことがある。文庫サイズほどの赤い本で、手書きだった。読者のことを考えて、読みやすい字でていねいに書く、デザインを工夫するといった気遣いがあまりなく、とにかく読みにくかったのを覚えている。伊藤氏によれば、このミニ本は1974年から1988年までに89冊だして終了したというのだが、その全貌がわからない。その昔は、ほぼ全冊チェックをしているはずだが、なにしろもう昔の話だから、記憶がほとんど消えている。
 インターネットで、その全貌紹介、全冊リストが載ってないだろうかと探したが、見つからない。宮本常一蔵書データベースでは、数冊しか出てこない。宮本氏の関心分野と「あむかす」はかなり違っていたからだろう。各種図書館のサイトに当たったが、やはり国会図書館の目録がいちばん詳しい。
 詳しいといっても、全貌はわからない。全部で89冊出たそうだが、国会図書館の蔵書目録で確認できるのは、約半分の48冊だけだ。著者のなかには、高校教師にしてトルコの専門家の三輪主彦氏(都立大山岳部OB)や『アジアを歩く』の深井聰男氏(このメモシリーズでは、深井あきお名義)など、面識のある人もいる。あるいは、面識はないがイタリアの本で知られる矢島みゆき氏や、インドのカレー研究で知られる浅野哲哉氏(法政大学探検部OB)の名前も出てくる。そういう方々の名前に混じって、意外な人の名があった。

あむかす・旅のメモシリーズ576 『建築を中心にイベリア半島38日間』(1982年)
あむかす・旅のメモシリーズ587 『大陸の中に』(1986年)

 この2冊の著者は、鈴木喜一。偶然の同姓同名でない限り、建築家の鈴木喜一氏だ。私は雑誌「旅行人」の季刊化第1号の建築座談会で、光栄にもお会いしたことがある。著書も愛読している。
 建築家とあむかすの接点がどこにあるのか調べてみたら、関係がありそうな交差点が見えてきた。鈴木氏は、1976年に武蔵野美術大学を卒業後、80年まで同大学で助手。その後、世界建築巡りの旅に出ている。
 武蔵野美術大学といえば、宮本常一が教授をやっていた大学で、宮本氏は同時に観文研の所長でもあった。観文研関係者に武蔵美出身者も多いというあたりが、どうやら交差点ではないかと踏んだのだが、もちろん事実は知らない。
 あむかすの関係者の皆様、地平線会議のサイト内でもいいから、「あむかす・旅のメモシリーズ 全点紹介」のページを載せていただけるとありがたい。

 


アジア雑語林(207) 2007年12月7日

1958年、東京の外国料理店(2)日本最古のタイ料理店

 1958年に出た『この国あの国 ―― 肴になる話』(向井啓雄、春陽堂出版)を読むと、東京にはじつに多くの外国料理店があるらしいとわかる。そこで、1958年の東京の外国料理店事情を調べてみようとしたのが前回で、「タイ国料理」の店だけをまだ積み残している。偶然ではなく、もちろん意識してやったことだ。
 都内食べ歩きのガイドブックでも、インターネット情報でも、日本最初のタイ料理店は、「1979年開店のチェンマイ(日比谷)だ」ということになっている。誰かがそう書き、右にならえと皆が同じことを書いてきたわけだが、それが真実なら、1958年に出版された本に、東京に「タイ国料理店」もあると書いてあるのは、そもそもおかしいということになる。
 向井啓雄の文章が間違いだろうか。このあたりの謎解きをすでに活字ではやっているのだが(雑誌「旅」での連載、そしてその原稿をまとめた拙著『異国憧憬』JTB)、わたしの本は売れない上に、ガイドには興味はあっても、ほとんどの人は食文化史などにはいっこうに興味がないようなので、私の発見も黙殺されたままだ。
 そこで、ネット上に再度書いておこうと思う。
 古本屋で偶然手に入れた本が、情報源だ。『東京味どころ』『続・東京味どころ』(佐久間正、みかも書房、1959年)は、当時の食べ歩きと夜遊びのガイドだ。現在なら、「夕刊フジ」や「日刊ゲンダイ」の街ガイドのようなものだ。『続・・・』のほうを読んでいたら、バンコックというタイ料理店が紹介されていて、びっくりした。私も、日比谷のチャンマイが最古だと思っていたから、1959年の時点でタイ料理店があった証拠を偶然見つけて、ホントに驚いた。
 歌舞伎座の前に、今も日の出寿司がある。そのすぐ近くの三原橋ビルにバンコックというタイ料理店があった。当時の住居表示では東銀座だ。以前はエルベというドイツ料理店だったが、「数年前に」タイ料理店に生まれ変わったそうだ。1959年に出た本で、東京には「数年前に」できたタイ料理店の案内が載っている。したがって、1958年に出た『この国あの国』にタイ料理店があると書いてあっても不思議ではない。日比谷のチェンマイ以前に、東京にはタイ料理店があったことが、資料で確認できた。
 経営者はタイ人だそうだが、店員は日本人。「(壁に)ワニ皮をはりつけたり、ヤシの実をぶらさげたり、民芸品をならべたり、いろいろタイの情緒を出そうとしている」店らしい。

 エビのスープ(トムヤムクン 二百円)をまず注文。芝エビが十個以上はいっていたが、タカイというセロリより強い香りのもの、バイマックというこれも香り高い葉が入っていて、舌がしびれるような感じ。

 タカイというのは、タックライ(レモングラス)、バイマックはバイ・マックルート(コブミカンの葉)のこと。「トムヤムクン」などと、このタイ料理をカタカナ表記したのも、もしかして、この本が日本最初かもしれない。料理はだいたい1皿200円。デパートの地下でサンドイッチとコーヒーで80円。天丼が100〜150円くらいした時代だ。
 知人の話によれば、戦前に東京は芝あたりにタイ料理店か、中国系タイ人がやっている料理屋があったと想像できる根拠がいくつかある、という話を聞いたが、いまだ調べはついていない。情報をお持ちの方は、アジア文庫までご連絡ください。

 


アジア雑語林(206) 2007年11月27日

1958年、東京の外国料理店(1)イタリア料理店やドイツ料理店など

 向井啓雄が書いた『この国あの国 ―― 肴になる話』(春陽堂書店、1958年)を古本屋で手に入れた。向井の本は、インターネット古書店の目録で、『とつくにびと ―― 風變りな旅行者』(文藝春秋新社、1956年)で初めて知った。海外旅行記なのだろうが、あまりおもしろそうではないので、注文をしなかった。この本を古本屋で安い値段で見つけ、そのとなりに同じく向井の『この国・・・』があり、ついでに買ったというわけだ。著者紹介によれば、向井は国際文化会館勤務というから、鶴見良行の同僚だったということになるのだろうが、鶴見とはまったく違う世界の本だ。
 ざっとみて、まあ、2冊とも、買わなくてもよかった本だとわかったが、すでに買ってしまったのだから、どこかおもしろそうな個所を見つけようと探していたら、『この国・・・』にこういう文章があった。「食べものへの興味」と題したエッセイからちょっと、引用する。

 フランス料理、アメリカ料理、イギリス料理のほか、東京では実に多くの外国料理が食べられる。ちょっとかぞえあげてみても、中華料理、ドイツ料理、ハンガリー料理、インド料理、イタリー料理、メキシコ料理、スペイン料理、蒙古料理、ロシヤ料理、タイ国料理、朝鮮料理などと十指にあまってしまう。

 この本は1958年、昭和33年の出版だということを忘れないで欲しい。戦争が終わって13年、東京にはすでに外国料理店がいくらもあったらしい。その頃の各国料理店事情を探ってみようというのが、今回の趣旨だ。
 まず、フランス料理だが、これは帝国ホテルなどいくらでもあるから特に触れる必要はないだろう。アメリカ料理は、ニコラスのようにピザの店はすでにある。ハンバーガー・イン(六本木)は1950年の開店。港区の芝公園近くに在日アメリカ人のたまり場になっていた「ジョージ」というレストラン・バーがあった。イギリス料理は、パレスホテルに「グリル・シンプソン」というイギリス料理店があった。当然ローストビーフが売り物だが、パレスホテルの開業は61年だから、この本の「イギリス料理」は別の店だ。帝国ホテルのようなホテル内にイギリス料理店かパブがあったかもしれないが、調べ切れなかった。ちなみに、帝国ホテルなど高級ホテルは、1952年まで連合軍に接収されていて、日本人の利用は許可されなかったから、ホテル内に連合軍兵士用の飲食店が多数あっただろう。
 中華料理店は戦前からすでにいくらでもあるから、省略。ドイツ料理店は、アルト・ハイデルベルグ(青山)、ケテル(銀座)、ラインランド(麻布)、ローマイヤー(銀座)などいくつかあった。ちなみに、第一次大戦で中国の青島で捕虜になったドイツ人ローマイヤーが、日本に永住し銀座に店を開いたのは、1925年である。ケテルのほうは、1927年の開店。日本のドイツ料理店史やハム・ソーセージ史を調べて行くと世界史に関連してくるので、なかなか興味深い。興味があれば、ネット上でもいいから、調べてみるといい。
 ハンガリー料理店は、銀座に「ハンガリヤ」という店があった。1950年の開店。ハンガリー人の店主は、戦前の来日。
 インド料理店といえば、1950年に開店し、いまも営業している歌舞伎座近くのナイルだ。九段のアジャンタも、1957年に開店している。
 イタリア料理店は、六本木にニコラスやシシリアが開店したのは1954年。キャンティは1960年開店だから、『こんな国・・・』で取り上げた「イタリー料理」には入らない。相模大野のアントニオが六本木で店を開くのは1959年だと思う。
 メキシコ料理店は、新橋駅近くのガード下にパパガヨという店があった。メキシコ料理店ということになっているが、ナイトクラブでもあり、ストリップショーもあったという。経営者はポーランド系イギリス人だったそうだ。のちに、虎ノ門に移転している。1968年のメキシコ・オリンピック前後に、東京にメキシコ料理店が数店できたらしいが、1958年の時点ではまだ少ない。
 スペイン料理店探しは簡単にはいかない。伊勢丹会館のエル・フラメンコは古かったなあと思って調べてみたら、1967年の開店。資料では、60年代末に歌舞伎町にヴァレンシアという店があったことはわかっているが、58年の時点ですでに営業していたかどうかは不明。「日本最初のスペイン料理店」という宣伝文句を使っているのが、神戸のカルメンで1956年の開店だそうで、この情報が正しいとすれば、1958年にはスペイン料理店がまだなかった可能性もある。結局、東京最初のスペイン料理店はわからなかった。
 戦後、どういうわけか蒙古料理、ジンギスカンのブームがあった。成吉思荘(高円寺)馬上杯(新宿)など多数。通称「ジンギスカン鍋」を使った料理は、満州事変(1931年)頃から東京に登場したらしい。
 引揚者やシベリア抑留者などが、日本でロシア料理店を開く例があった。カチューシャ(神田)、コザック(六本木)、バラライカ(神田)、ロゴスキー(渋谷)など多数。加藤登紀子の両親が新橋で開いたスンガリーは、1957年の開店。現在は新宿で営業している。
 朝鮮料理店といっても、焼肉屋と呼んだほうが似合っているようだ。大昌園(銀座)や板門店(上野)、徳寿(新橋)などがある。
 タイ料理店については、次回にじっくり書く。

 


アジア雑語林(205) 2007年11月13日

ある読者が、じつは訳者で、名訳を・・・

 アジア文庫のこのページや、小冊子「季刊 アジア文庫から」で「活字中毒患者のアジア旅行」というエッセイを連載しているが、読者のことはまるでわからない。読者はそれほど多くないことはわかるが、どういう人たちが読んでいるのか、もちろんわからない。
 先日、アジア文庫気付けで封書をいただいた。アジア文庫で書いているエッセイの読者だという。封書を手にして、差出人がどういう人かすぐわかった。まだ一度も会ったことはないが、その名はよく知っている。ビルマ文学の土橋泰子さんじゃないか。次のような翻訳がある。ほかにもあるだろうが、私が読んだことがあるのは、この4冊だ。

 『世界短編名作選 東南アジア編』(新日本出版社、1981年)
 『母・道なき道を手探りで』(モゥ・モゥ他、井村文化事業社、1982年)
 『12のルビー』(マウン・ターヤ他、段々社、1989年)
 『ビルマの民衆文化』(ルードゥ・ドー・アマー他、新宿書房、1994年)

 土橋さんからの手紙は、私が「季刊 アジア文庫から」に書いた、タイのピブーンソンクラームの最晩年のころのエピソードに関するものだった。
 そのあと、何度かメールのやりとりがあって、「やっと、翻訳を終えまして・・」という言葉とともに、1冊の本が送られてきた。『ビルマ商人の日本訪問記』(ウ・フラ、土橋泰子訳。連合出版、2007年)はその書名どおり、1936年のビルマ人の日本旅行記だ。
 西洋人の日本旅行記や滞在記は、あまた翻訳出版されている。アジア人では中国人の手によるものがいくつか出版されている程度で、東南アジア人のものは少ない。
 この日本訪問記は、偽インド人の偽滞在記とは違って、1939年にラングーンで実際に出版され、書影もついている。ビルマ人商人ウ・ラフは1900年生まれ。貿易に従事し、1936年に業務視察のため日本を訪問した。
 読みかけの本を脇に置いて、さっそく読んだ。おもしろい。じつに興味深い。
 ウ・ラフがたえず気にかけているのは、植民地下のビルマの将来だ。外国人はなぜビルマで豊かになっていくのか。ビルマ人は、なぜいつまでたっても貧しいのか。そういう疑問を解く鍵が日本にあるのではないかと考えた。商人が日本に行った理由は、日本製品の買い付けや商売事情調査ということもあるが、日本と日本人に強い興味を持っている。
 私好みの細かい事柄を書き出していくときりがないし、ビルマとは関係ないが、興味深い記述がいくらでもある。例えば、神戸でのこと、著者はミルクティーを飲み、通訳はアイスコーヒーを飲んだという記述があって、1936年にアイスコーヒーがあったのかと調べてみると、大正末から昭和の初めにはすでにあったことがわかった。ビルマのことを調べようとしていて、日本の過去のことも調べてしまった。私の読書はこういう具合調べつつ読むから、なかなか進まない。
 ビルマ関連でいえば、この当時すでにビルマでは、スプーンとフォークを使って食事をしている人がいたこともわかった。諸物価は、物によっては、ビルマのほうが高いものもあって、土地は日本が高いが、鉄道などの交通費は日本のほうが安いという。また、すでに、ビルマのロンジー(腰布)は日本でプリントしていることもわかった。
 意外に思った記述は、「日本人は時間を守らない」というものだ。9時に会う約束なのに、10時になって来ることもあるという。現在の日本だって、時間を守らない人はいくらでもいるから、そういう人に出会ってしまったのか、それともビルマ人との約束だから、いい加減でいいさという差別意識の現われだったのかどうかわからない。
 この本を読んでいてびっくりするのは、翻訳者の手間のかけ方だ。著者がある本に触れると、その原本に当たって、確認している。この熱心さがいい。できるかぎり本の読者に情報を提供したいという、翻訳者の情熱が伝わってくる本に仕上がっている。
 この本の原著は、外国を見てきた商人が次世代のビルマ人に「外国を見よ。視野が広なれば、国の水準が上がる」という思いで書き上げたのだが、日本の翻訳者もまた、同じように、日本人の視野を広げようという思いで、翻訳を進めたのだろうと思う。労作に感謝である。

 


アジア雑語林(204) 2007年11月5日

ビルマ小説『漁師』

 さて、ビルマの小説『漁師』(チェニイ、河東田静雄訳、財団法人大同生命国際文化基金、2007、非売品)だ。この財団が出している「アジアの現在文芸」シリーズは、市販はされていないが、大きな図書館などにあるので、借りて読むことは出来る。日本語への翻訳では、タイ篇は13冊、マレーシア篇が4冊、インドネシア篇が5冊、ビルマ篇6冊、ラオス篇が1冊、ベトナム篇3冊、カンボジア篇が2冊、パキスタン篇が7冊、インド篇6冊、バングラデシュ篇が1冊でている。このほか、日本語からさまざまなアジアの言語に翻訳された日本の本もある。
 ビルマの小説『漁師』はその題名どおり、漁師を主人公にした短編の連作小説だ。アジアの小説というと、私の読者体験でいえば、主人公は都会のインテリか農民ということが多いような気がするから、漁師を主人公にした小説は珍しいように思う。私がいままで読んだなかで漁師小説といえば、タイのアッシリ・タマチョートの短編「ナーンラム」が思い浮かぶくらいだ。これも、やはり大同の「アジアの現在文芸」の1冊、タイの短編小説集・詩集『ナーンラム』(タイ国言語・図書協会編、吉川みね子編訳、1990)にはいっていて、表題作の「ナーンラム」をはじめアッシリ・タマチョートの作品がいい。
 『漁師』のおもしろい部分の紹介はあとにして、先に文句を言っておこう。訳者の河東田(かとうだ)さんとは面識があるし、お世話になったこともあるのだが、しかし、やはり書いておかねばならない。この奇妙なカタカナ・ビルマ語のことだ。
 主人公の名は、「ダァゥンセィン」、その女房の名は「メェセィン」というように、誰にも発音できない奇妙なカタカナが次々に出てくる。ビルマ語の綴りや発音のニュアンスなど、カタカナで表現する必要はない。ビルマ語がわからない日本人読者のために日本語に翻訳しているのだから、ビルマ語がわかる人のために凝りすぎた(だから誰も発音できない)カタカナ表記を作り上げることはないと、韓国語やタイ語の翻訳についても何度も書いているが、これからも飽きずに書き続ける。
 さて、『漁師』だ。小説の登場人物たちは、イラワジ川のデルタに住んでいる。小説の粗筋はさほど重要ではないから、関心のある人は自分で読んでもらうとして、ここでは興味深い細部を少々紹介したい。

■「尿意を催した彼はへさきの端にしゃがむと、湖を守護するナッの神々に、どうか、怒らないで下さいと断ってから、薬缶から水を注ぐように小便をした」(P12)

 しゃがんで小便をしているのは、小舟に乗っているからだとも考えられるが、ロンジーという腰布を巻いているせいでもあるような気がする。足首まである腰布を巻いている文化圏では、立小便はあまりしない。
 この小説の場合は、湖に小便することを、精霊ナッに謝罪しているが、私は仏教の戒律を思い出した。僧が守らなければならない戒律は227条あって、その第7章「衆学」の第4項「雑」には、こうある。

第1条 僧は病気でもないのに、立って大小便をしてはならない。
第2条 僧は病気でもないのに、大小便や唾を植物にかけてはならない。
第3条 僧は病気でのないのに、大小便や唾を川の中に流してはならない。
 『タイ―その生活と文化』(星田晋五、学習研究社、1972年)より引用。

 小便のことだって、調べればおもしろそうなネタはどんどん出てくる。僧に限らず仏教徒には不殺生の戒律があるなかで、漁師は差別されているというのが、この小説のテーマのひとつである。植物に小便をかけてはいけないのは、そこに虫がいると殺してしまうからだが、そういう世界で、日常的に魚を食べている普通の人々が、魚をとることを職業にしている人々、つまり漁師を差別しているのである。僧は魚も肉も食べていいが、虫さえ殺してはいけないというのが、この地域の仏教だ。深い関心のある人は、本を読んでもらうとして、次に行く。こんどは食べる話。

■「残り飯に魚醤油をかけて握り飯にして葉に包んだ弁当を手に提げて家を出た」

 これで、貧乏漁師の弁当がどんなものかわかる。ビルマの飯は、タイのうるち米よりもやや粘りがあるような気がしていて、それならば握り飯にできるわけだ。これが人間の飯だが。魚の餌は、こうなる。

■「針を曲げて作った釣針に、粘りが出るまでこねた米飯に魚醤と米糠を混ぜて固めた餌をつけていた」

 川のある場所に魚を集めるには、まず川にタマリンドの枝を沈め、魚が集まってきたら、米糠をまくそうだ。
 このほか、行事食、魚の干物の作り方、魚醤油の作り方、食用の魚油の取り出し方など詳しい描写があるので、ビルマ文化研究者だけでなく、漁労文化や食文化などに興味のある人にも参考になると思う。

 


アジア雑語林(203) 2007年10月29日

雑語林の誕生

 この欄のエッセイが200回を越えているので、記念というわけでもないが、私の考え方を書いておこうと思う。
 この連載が始まったきっかけは、アジア文庫がホームページを作り、そのちょっとあとに私がパソコンを買ったからで、まあ、パソコンで文章を書く練習にもなるので、連載を引き受けたと思っていたが、どうやら違うようだ。いま連載の最初のあたりを読み直してみると、どうもそうじゃなかったらしい。いやはや、己の記憶力のなんと情けないことよ。
 雑語林を始めた2002年当時の文章を読んで、「ああ、そうだった」と思い出した。あのころはパソコンは検索限定使用で、とくに多用したのが国会図書館の検索だった。原稿はワープロ専用機で書き、出版社にもアジア文庫へもフロッピーディスク(ああ、なつかしき言葉。いまも、買い置きしたディスクがひと箱以上ある)を郵送していた。
 原稿をパソコンで書かなかったのは、書きにくかったからだ。いまはメールで原稿を送るようになったから、しかたなくパソコンで原稿を書いているが、いまだワープロ専用機のほうが書きやすいと思う。
 パソコンで原稿を書くようになったのは、タイの雑誌に連載するようになったからだ。その連載も、最初はワープロ専用機で書き、ファックスで送っていたが、遅いファックスだから、A4紙1枚をタイに送るのに500円ほどかかり、その電話代を毎回郵便局に支払いに行かないといけないのが面倒だった。編集者のほうも、ファックスされた原稿を打ち直して自分のコンピューターに入れるのは面倒で、多忙な編集者を煩わせてはいけないと思い、アジア文庫の大野さんや旅行人の蔵前さんのアドバイスを受けて、メールで原稿を送るノウハウをマスターした。
 アジア雑語林でなにを書こうとしたのかというと、もちろんアジアの雑事だったのだが、いまとなっては「アジア」をつけなかったほうがよかったかもしれないとも思う。
 それはともかく、2002年ごろだと、まだブログという言葉はなかったかもしれないが、私はブログ的な身辺雑日記を書く気はなかった。なぜなら、その手の文章を、私自身がおもしろいとは思わないからだ。ほかの人が書くのはまったく自由で、そのことについてとやかく言うつもりはないが、自分では書く気はない。多分、冗漫になりすぎて、書く緊張感というものを感じないからだろう。
 だから、雑誌に書くように、幾分硬めの文章にした。調べてわかることは、できるだけ調べた。書き飛ばし雑記ではなく、原稿として書いた。そういう緊張感が、好きなのだ。
 書いているうちに意識するようになったのは、「記録」や「保存」ということだ。私がある人物の名をここで書いておけば、いつか誰かが検索すれば見つけてくれるかもしれない。その人の名をネット上に書くのは、もしかして世界で私ひとりかもしれないが、とにかく書いておけば、検索した人が見つけてくれるかもしれない。現実には死んでしまった人でも、インターネット上では生きていて、その名を忘れないかもしれない。あるいは、誰かが、私に代わって調べてくれるかもしれない。忘れて欲しくない人の名、私に代わって誰かが再調査してほしい事柄、そういうことを書いておけば、もしかして誰かが参考にして、わたしの文章よりもよっぽどいいレポートにしあげてくれるかも知れない。そういう期待を込めた検索ネタをばら撒いておきたいのだ。私自身の日常身辺雑記では、検索に引っかかるような語句はでてこない。
 インターネット上の文章は、印刷物と違って、残りにくいという欠点があるが、検索しやすさという利点を生かして、いくつもの資料を提供してきた。わずかだがいるらしい読者が、はたして喜んでいるかどうかわからないが、まあ、それは私にはどうしようもないことだ。私にできることは、ただ、好きなように書いていくことだ。

 


アジア雑語林(202) 2007年10月20日

石森章太郎の海外旅行 その3

 3カ月の海外旅行を終えて2年後、石森は旅行記を出版した。『世界まんがる記』(三一書房、1963年4月)は、のちに同じ書名のまま中公文庫に入った(1984年)。今回はこの旅行記をネタに話を進める。
 1960年代初めの若者が、外国旅行をどう考えていたのかがよくわかる文章がある。

 「人間“死”に関する限りは、ハイそれまでヨで、誰にも条件は同じだ。が、やりたいことをやって後での死と、何もしないで迎える死とでは、気持の上でベラボウな相違がある。ボクは、生きている間にやっておきたいことの手始めに、子供の頃からの淡い夢であった、外国旅行を選ぶことにしたのだ」

 当時の普通の日本人にとって、海外旅行など生きているうちにできるとは思えないものだったが、売れっ子マンガ家になった石森には、23歳ではあっても、無理をすれば可能な選択肢のひとつに入った。
 旅を終えた石森に、友人たちがいろいろ批判している。
 「旅行なんかする金があったら、土地を買って・・・・、家でも建てた方が利口じゃないか?」
 現在の感覚では、海外旅行か家かを同列には考えられないのだが、海外旅行が高価だった当時は、場所によれば「旅行をやめて家を建てる」という選択肢はありえたのである。
 1964年の新聞から不動産広告を眺めて、場所とひと坪あたりの値段を書き出してみる。

四谷三丁目 徒歩10分  16万円
代々木上原 徒歩6分   10万円
牛込柳町  徒歩5分   16万円
武蔵境   徒歩12分   3万3000円(三鷹市)
上大岡   徒歩10分   1万9000円(横浜市)

 こういった資料をいくつか読んでわかるのは、東京23区でも練馬区あたりなら、駅から近い土地でも、坪数万円で買えたことがわかる。交通が不便な土地なら、1万円未満でも買えた。石森の全旅費が300万円だったとすれば、100坪くらいの土地が買える金額に相当する。家の建築費にも300万円かければ、ちょっとした豪邸になっただろう。石森の海外旅行というのは、そのくらいの金銭的価値があったということだ。
 『世界まんがる記』から、エピソードをいくつか拾い読みしてみよう。
 石森が旅に出る直前に、NHKの番組に出演したという。海外旅行をテーマにした座談会だ。出席者は、これから海外旅行に行く石森章太郎と、海外旅行体験者である小田実(『何でも見てやろう』)と桂ユキ子(『女ひとり原始部落を行く』)。司会は東大助教授山下肇。
 1961年に取得した石森のパスポートは第400875号、職業は「株式会社S社社員」。S社というのは、集英社である。私は、集英社の雑誌編集部から派遣されるフリーの記者という身分かと思ったが、じつは「社員」という資格になっていたことがわかる。
 やはり、海外旅行自由化前の話だが、玉置宏がテレビ(ハワイ特集の番組だったか?)でこんなことを話した。
 「もう時効だからしゃべっていいでしょうが、石原裕次郎がハワイに遊びに行くとき、『観光旅行』の名目では行けないので、Tという工務店、えーい、いいでしょ、書類上は竹中工務店の社員が出張するということになっていたんですよ」
 この話を聞いて、当時の裕次郎のハワイ旅行の資料を探したが、こういう裏事情がわかる資料はまだ見つけられない。このあたりの事情がわかる資料をご存知の方は、ぜひ教えてください。
 当時の海外旅行は、カネだけでなく、強いコネも必要だったという話である。
 旅行記を読んでも、私の想像どおり、特に豪華な旅をしているという印象はない。値段がわかりそうな記述を探すと、こういう文章があった。特別な1日らしい。
 「西ベルリンでは最新最大のヒルトンホテル」に泊まり、「俄成金は」調子にのってホテルのレストランで食事をして、「二十マルク(約二千円)をまき上げられてガックリときた」。
 このヒルトンホテルの公式料金は、シングルで約13〜26ドル。日本円にすれば、4680〜9360円だから、宿泊費と比べれば、それほど高い食事代とも思えない。それはドルで考える相対的判断であって、日本円で考えれば、「二千円の食事」は若いサラリーマンの月給の6分の1、現在なら3万5000円くらいの感覚だろう。
 旅行記を読んでも、とりわけ豪華とは思えない理由は、日本円は安く、ドルなど外貨は高かったからなのだが、もし石森が闇ドルを日本で買って持ち出していれば、1ドル400円くらいの価値しかないことになる。ということは、20ドルのホテルは7200円ではなく8000円だから、日本円のつかいでが余計にないのだ。
 石森がニューヨークで、店員がいないのに買い物ができる箱を路上で発見している。自動販売機というものを知らない日本の読者に、詳しく説明している。いまでは、路上の自動販売機は日本的風景のひとつになっているのだから、時代の変化というものだ。ちなみに、中高年はよくご存知の、ビンを自分で取り出すスタイルのコカコーラの自動販売機の日本初登場は1962年。石森が帰国後のことだ。
 『世界まんがる記』には映画の話など、おもしろい記述はまだまだあるが、きりがないのでこれくらいにしておく。

 


アジア雑語林(201) 2007年10月11日

石森章太郎の海外旅行 その2

 石森の海外旅行話を読んでいて、「旅費の不足分が200万円というのは、いくらなんでも費用のかけすぎではないか」という疑問から、今回の文章を書いてみようと思ったのである。
 日ごろ、貧乏旅行の本ばかり読んでいて、「どうすれば安く旅行できるか」ということが書いてある本を資料として読んでいるが、石森のような大名旅行のことはよくわからない。23歳の若者の旅と考えるとよくわからないが、売れっ子の芸能人の旅と同じようなレベルの旅だと考えたらいいのだろう。
 金銭的に、石森の旅はどんなものだろうか。
 アメリカとヨーロッパに行くという。全行程の飛行機代はわからないが、この当時、東京・ニューヨークのファーストクラスは約30万円、東京・ロンドンは約32万円だった。ということは、アメリカ国内便やニューヨーク・ロンドンの航空運賃などを加えても、とても100万円にはならないことがわかる。
 滞在費はいくらかかるか。実際にいくらかけたかはわからないが、だいたいの目安としてどのくらいかかるのかはわかる。
 海外旅行自由化以前の唯一にして最高のガイドブックは、日本交通公社が毎年出していた『海外旅行案内』である。その本の、1958年版に「滞在費などの査定基準」という表がある。外貨の割り当てを受けるために、「これだけ滞在費がかかるので、それに相当する外貨を持ち出したい」と申請する基準である。つまり、この程度なら外貨も持ち出しができるという基準額の目安である。海外観光旅行というのは法律上認められていない時代なので、海外旅行というのは、基本的に業務旅行である。次の者の1日当たりの滞在費の目安はこうなっている。

1、資本金10億円以上の会社の会長・社長およびこれらに準ずる者 27〜35ドル
2、大会社の重役およびこれに準ずる者 22〜29ドル
3、大会社の部局長、中会社の重役およびこれらに準ずる者 18〜25ドル
4、大会社の課長、中会社の部局長、小会社の重役およびこれに準ずる者 17〜23ドル
5、上記1から4までに該当しない者 15〜20ドル

 国によって物価は違うが、1日最低15ドルあれば、宿泊費・食費・交通費その他をなんとか賄えるという目安である。もちろん、遊興費やみやげ代は別である。
 売れっ子マンガ家の石森が、大会社社長並の大名旅行をすると仮定して、1日30ドルの枠で考え、旅行日数を100日とすれば、合計3000ドル。1ドルが360円時代だから、3000ドルは108万円。まあ、100万円だ。100日100万円という旅は、今日の目で見ると、それほど贅沢な旅ではない。スイートルームに泊まって、毎食高いワインを飲みながら豪華なディナーを楽しみ、ハイヤーで移動という旅ではない。想像で言えば、現在の大会社の課長の出張のほうが待遇がいいかもしれない。日本は貧しく、外国の物価は高かったのである。
 全航空機代が100万円。基本的な滞在費に100万円。通訳やガイド、オペラやミュージカルなどの入場料や買い物に、100万円。これが、石森章太郎23歳の初めての海外旅行だろうと、根拠もなく想像してみた。
 さて、石森が明かしていない大問題は、たんまり用意した日本円をどうやって外貨に両替したかだ。日本円から外貨に自由に両替できない時代だから、1ドル400円くらいで入手できる闇ドルを買って行ったのか、あるいはさまざまな裏の手段を用いたかはわからない。
 『外国旅行案内』から、世界の物価が多少ともわかるリストがついているから、おまけとして紹介しておこう。

物価が高い国・・・アメリカ、フランス、スイス、イタリア、ベルギー、イギリス、ギリシャ、アルゼンチン、インドネシア、フィリピン。
やや物価が高い国・・ドイツ、スウェーデン、エジプト、ポルトガル、オランダ、ブラジル。
物価の安い国・・・オーストリア、スペイン、ノルウェー、デンマーク。

 インドネシアが「物価の高い国」に入っているのは、ホテル代がドル払いで、しかも異常に高額に設定してあるせいだ。フィリピンに関しては、事情がよくわからない。

 


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