前川健一 著作一覧

アジア雑語林(1)〜(10)

 


アジア雑語林(10) 2002年11月26日

『東南アジアの三輪車』をめぐる本 1

東南アジアの三輪車

 東南アジアの人力車や三輪車について調べていたころの話だ。
 東南アジアの人力車や三輪車に関する英語の本を読んでいると、しばしば引用される文献があって、そのなかでどうしても読んでおきたい本が三冊あった。東南アジアの都市交通に関する本と、ジャカルタの歴史の本と、バングラデシュの三輪自転車に関する本だ。ジャカルタの歴史の本は丸善で問い合わせると、すでに絶版になっていることがわかった。あとの2冊はネット上でもその存在が確認できなかった。
 バングラデシュに行こうかと思った。私が書こうとしている本では、インド亜大陸は範囲外として扱わないことに決めていたが、基礎知識を仕入れるためにはぜひ読んでおきたい本だった。バングラデシュは、かつて乗換えのためにダッカ空港で5時間ほど過ごしたことがあるだけなので、この機会に行ってみてもいいかと考え始めていた。
 そんなころ、バングラデシュで活動しているNGO団体「シャプラニール」の幹部である福澤郁文さんに会った。バングラデシュの三輪車の話をあれこれうかがうなかで、その本の話をした。"The Rickshaws of Bangladesh(バングラデシュのリキシャ)"(Bob Gallager,University Press,Dhaka,1992)という本だ。バングラデシュで出版された本だから、現地に行かないと入手できそうにない。
「ああ、あの本ですね。いま手元にあるけど、読みたければお貸ししますよ」
 ダッカに行っても手に入るかどうかわからないが、それでもとにかく探しに行ってみようかと思っていた本が東京にあり、書名を口にして1分後には、「はい、これ」と目の前にその本が姿を見せた。世の中にはこういうこともあるのだ。
 その本を借りて、さっそく読んだ。大事な本を貸してくださったのだから、すぐ読んですぐ返さないと申し訳ない。私は、本を借りたままにしている人に腹が立つから、自分が借りたときは、すぐ読んですぐ返すように心掛けている。しかし、この本の場合は厚い本であるにもかかわらず非常におもしろかったので、すぐに要点だけは読取れた。最重要だと思われる部分をコピーして、数日後には郵送した。
 この本の著者はバングラデシュで10年ほど暮らしたイギリス人の大学教授で、機械や交通の専門家である。人間工学的にみて、もっとも効率のいい三輪自転車の設計もしているし、三輪車(三輪自転車と三輪自動車)の歴史や文化についても言及しているので、この本は「バングラデシュの三輪車大全」とでもいった名著だった。
 この本を日本で読むことができたので、バングラデシュ旅行は中止して、乏しい取材費は東南アジア取材にあてることにした。私の代わりというわけではないが、蔵前仁一さんがガイドブック取材のために、バングラデシュに行った。帰国後、「おみやげです」と蔵前さんから送られてきたのが、この三輪車の本だった。本が痛むのが心配で、一部のページしかコピーしていなかったので、このおみやげはありがたかった。時間を気にせず、ゆっくりと再読できた。
 ジャカルタの歴史の本は、インドネシアの友人が一冊分をコピーしてくれた。あとの一冊はどうしても入手できなかったが、なんとか原稿が書けそうな気がしてきた。取材は充分ではなかったが、充分な取材などできるわけはないので、「よし!」と気合いを入れて一気に原稿を書いた。

 


アジア雑語林 (9) 2002年11月11日

タダの本でも

 ある出版社に行ったら、編集者が早急に片付けなければいけない仕事があって、ちょっと待つことになった。
「5分ほどで済みますから、ちょっとすいません。そのあいだ、ここいら辺にある本で好きなのがあれば、どれでも持っていっていいですから。あっちの会議室にも本がありますよ」
 「ここいら辺にある本」というのは、編集室の片側に並んだ段ボール箱が10個ぐらいはあっただろうか。会議室の机も、本が山になっていた。他社の新刊である。出版社では、雑誌編集部には書評用に本が送られてくるし、雑誌・単行本・新書なども出版社相互で送りあうという習慣があるようで、部屋には膨大な量の本が置いてあった。ちょうど年末で、不用な本を整理しようという時期でもあった。
 本が好きな者にとって、「どれでも、お好きなものを、お好きなだけどうぞ」という言葉は、福音である。さっそく段ボール箱の本をチェックしはじめたが、すぐに「だめだ、こりゃ」とわかった。どれも小説なのだ。純文学でもミステリーでも時代小説でも、とにかく私は小説にほとんど興味がないのだ。かつては定期購読していた「本の雑誌」を読まなくなったのは、あの雑誌が小説偏重だからだ。
 会議室の本は多少エッセイなども含まれていたが、触手を伸ばすような本は一冊もなかった。1000冊以上の本を前にして、読みたい本は、見事に、一冊もなかった。はっきり言えば、タダでもいらないという本だ。おそらくは生涯最初で最後の「本がタダ」というチャンスだったろうに、収穫はなにもなかった。
 神田のある古本屋の店頭には、本が入った箱があり、「ご自由にお持ちください」と書いた張り紙がついている。その書店は私の好きな本を多く置いているところで、箱のなかの本も私の好みとそう離れていないものも少なくないから、いつも箱の本をチェックする。しかし、欲しい本がそうあるわけでもなく、いままで岩波新書を一冊もらっただけだ。
 食料品がタダなら、持って行く人はいくらでもいるだろうが、本は欲しい人にしか魅力がない。

 


アジア雑語林 (8) 2002年10月29日

高価買取

 古本屋には「高価買取」という看板がつきものだが、本当に「高価」だったためしはない。私は高校時代から古本屋で本を売っているが、店のオヤジはいつだって、「いま、本が安くてねえ」だの、「チリ紙交換で、本が安く仕入れられるから……」などと言って、予想よりはるかに安い値段を付けられる。10年ほど前だが、売れそうな本ばかり選んで段ボール箱2個に入れて、近所の古本屋に持って行ったら、総額がなんと1200円というので、「それなら、燃えるゴミの日に出してやる!」と言って持ち帰り、半分は本当にゴミに出し、あとの半分は捨てきれずにまだ家にある。
 先日、ある古本屋に行ったら、「文庫・単行本高価買取表」なるものが紙袋に入っていた。著者名と書名のリストだが、私が読んだことがある本は、みごとに一冊もない。それどころか、名前も知らない書き手が何人かいる。アジアが関係する本は『マレー鉄道の謎』(有栖川有栖)くらいしかないが、著者名だけでも書き出してみよう。
 宮部みゆき、森博嗣、京極夏彦、東野圭吾、高村薫、竹山健治、法月綸太郎、山田正紀、浦賀和宏、殊能将之、舞城王太郎、高田嵩史、乙一、小野不由美、逢坂剛、真保裕一、大沢在昌、馳星周、浅田次郎、江國香織、桐野夏生、塩野七生、村上春樹、宮城谷昌光。
 著者名を書き出すだけなら簡単だと思ったが、変換が面倒なものが多く、そういう変なペンネームを使うような人が書いた本が売れているということでもある。ミステリーのファンなら、どんな作品がリストにあるか簡単にわかるだろう。
 高価買入とは逆に、古本屋が買いたがらない本のジャンルは、宗教団体の出版物や自費出版の句集や歌集、そして古いコンピューター関係書などだろう。時期はずれの経済書やビジネス書が古本屋で寂しく棚に納まっているが、あんな本を誰が買うのだろう。
 「誰が買うんだろう」なんて言ってはいけないな。アジアやアフリカの本だって、興味のない人には「誰が買うんだ」という本だろうから。

 


アジア雑語林 (7) 2002年10月19日

情報の万引き

 もう10年くらい前になるだろうか、新宿の紀伊國屋の社会科学の書棚で変な声が聞こえた。話し声ではなく、小声で早口でしゃべる声だ。なんだろうと思って声の方を見ると、30代初めくらいの男がふたり棚の前に立っていた。ひとりは分厚い事典を開き、記事を読んでいる。もうひとりはノートをとっている。この事典は専門的な本だから、ふたりはおそらく大学の講師だろう。 図書館と本屋の区別がつかない人がいるようだ。
 ある書店員の話では、店の本をカウンターに持ってきて、「ここのページをコピーしてくれ」と言った人がいたという。
「それはできません」
「いいじゃないか。コピー代は払うんだから」
「それは商品ですから」
「コピーしたって減るもんじゃなし、売れなくたって返品すりゃいいんだから、ケチなことを言うんじゃない」
 紀伊國屋で目にした事典は、知人が編集したものなので、その知人と会ったときに事件の顛末を話した。すると、こんな話をしてくれた。
 ある日、ある新聞社から電話があった。やはり知人が編集した事典に関する問い合わせだと思った。「はい、現在も発売中ですので、書店で探すかご注文ください」と答えると、「いや、○○と××の項目の部分をコピーして、ファックスで送って欲しいんですよ」。その新聞記者も、書店のアホな客と変わらない。
 図書館と本屋の区別がつかない人がいるようだ。
 つい先日、新宿南口の紀伊國屋で、携帯電話をかけている若い女がいた。「まったく……」と思っていたが、会話の内容からどうもただの世間話ではないことがわかった。各社の旅行ガイドブックを次々に手に取り、ある項目を読んでいるのだ。彼女は多分ライターか編集者だ。原稿を校正するために書店に来たらしい。
 情報を売って生活している人たちが、書店で情報を万引きしている。

 


アジア雑語林 (6) 2002年10月7日

気になる言葉

 ある言葉を「間違いだ」というのは難しいもので、かつては「間違い」とされた言葉でも、時代の変化で「正しい」とされる例などいくらでもある。それはわかった上で、それでもひとこと言っておきたくなることがある。
 例えば、「アルファベット」という語だ。このアルファべットという語をローマ字の意味で使う人がいる。「タイ語で書いてある看板の下に、アルファベットでも表記してある」といったような使い方をしたものにときどき出会う。これが気になる。アルファベットとは、日本語なら「あいうえお」の五十音、英語なら「abc……」の26文字の体系のことだろう。だから、アルファベティカリーという英語は、「アルファベット順、abc順」という意味だ。日本語や中国語をローマ字で書くことは、「ローマナイズ」(ローマ字化する)であって、「アルファベット化する」とは言わない。
 先日、朝日新聞を読んでいたら、コンピューター関連の記事のなかに、「日本語とアルファベットの切替えが……」といった文章があって、ついに新聞までこんなことになってしまったのかとガックリきた。広辞苑で確認すると、(1)「文字が音素を表す文字体系の総称」 (2)「ローマ字、特に英語で用いる26文字のこと」となっている。この(2)の説明は承服できない。
 英語といえば、英語の新聞を「英字新聞」というのもいやだ。「フランス字新聞」だの「ドイツ字新聞」などとはいわないのだから、「英字新聞」という表記はおかしい。かつて、原稿に「英語新聞は……」と書いたら、編集者が誤字だと思って勝手に「英字新聞」と書き替えてしまったことがある。「英字新聞」という表記が慣用になっているのは承知しているが、だからといって慣用に従う気はない。
 そういえば、コンピューター用語の「コンピュータ」とか「プリンタ」といった表記も嫌いだ。「嫌いだ」と言っても、世の趨勢はどんどん嫌な方向に進んでいくだろう。官僚や大企業の人間や広告業界の連中が、やたらに外国語を使ってわけのわからないカタカナ語を増産し、次に理科系の連中がコンピューターを広める過程で日本語を破壊している。だから、「私はそういう言葉は使わない」というだけのささやかな抵抗をしているのである。

 


アジア雑語林 (5) 2002年9月26日

ガイドブックの制作費

 スマトラのある街で、イギリス人の若者に会った。ハーバードの留学生である彼がスマトラに来たのは、旅行でも研究のためでもなく、仕事のためだった。ロンリープラネット社のガイドブック『インドネシア』の改訂版のために、旅行情報の確認作業を2カ月だったか3カ月かけてやっていると言っていた。彼の担当はスマトラで、ジャワやバリなどでも何人かが長期の取材をしている。
 日本の出版社が出すガイドブックなら、スマトラだけでこんなにカネと時間をかけて再取材はしないだろう。世界をマーケットにしている英語の本は、さすがにやることがデカイ。日本語というマイナー言語で出版するとあまり売れないから、どうしても制作費を押さえることになる。
 そう思っていたのだが、どうやら無知ゆえの誤解であったようだ。
 ガイドブックを出している出版社の編集者に、「もし制作費が現在の2倍に増額されたら、そのカネをどう使いますか」とたずねてみた。
 A社では、「全ページカラーにして、カメラマンが撮ったちゃんとした写真を使いたい」といった。B社では、「増額分をそっくり宣伝費に使いたい」といった。つまり、制作費を豊富に使えるようになっても、取材費に振り分けるという発想はないのである。例えば、スマトラ取材に2カ月かけて、100ページ分の立派な原稿ができたところで、それを喜ぶ読者はほとんどいない。だから、その取材は結局無駄遣いということになる。インドネシア語が堪能で、インドネシアの文化や社会にも詳しい研究者に高額の原稿料を支払って、現地取材をしてもらい、内容の濃い原稿を書いてもらっても、そういう文章を喜んで読む旅行者はほとんどいない。時間と手間とカネをかけてガイドブックを作っっても、それがセールスポイントにはならないのである。 読者が求めないものは、作らない。「制作費を2倍に増額」というのは、ガイドブックに関していえば、結局「宝の持ち腐れ」である。

 


アジア雑語林(4) 2002年9月16日

タイでロケした日本映画

 前回の「太陽への脱出」に引き続いて、タイでロケした日本映画の話をしよう。ここ10年の映画なら「熱帯楽園倶楽部」などいくつかあるが、どれもあまりおもしろくない。古い映画なら、古い時代のタイの様子がわかり、それだけでも利用価値がある。というわけで、日本映画黄金時代の作品から、いくつか紹介してみよう。
 『写真集 東南アジア』(丸山静雄、修道社、1961年)を読んでいたら、侍姿の長谷川一夫がタイの寺院で撮影している写真があって、「これはなんだ!」とびっくりして調べたら、こんな映画があるとわかった。「王者の剣・山田長政」(大映、59年、長谷川一夫、市川雷蔵)だ。日本人がタイ人を演じている不自然さは、アメリカなら当たり前のこと。ワット・プラケーオらしき寺院でのチャンバラが笑える。
 「バンコックの夜」(東宝、66年、加山堆三)は、コロンボ計画(南・東南アジアの開発を目的とする経済協力機構)から派遣されて、熱帯病治療のためにタイにやってきた青年医師の物語。65年公開の「赤ひげ」の東南アジア版という計算でしょう。バンコクでロケしているが、シーンの長さでは台湾のほうが重要らしい。まあ、どうということもない。
 「波濤を越える渡り鳥」(日活、61年、小林旭)は、例の無国籍アクション作品の一作だが、これはタイをはっきりと舞台にしている。なにしろ、小林はタイ育ちで、戦後日本に引き上げたという設定になっているから、けっこううまいタイ語をしゃべる。ところが、タイ人のタイ語が変なのだ。日本のスタジオで撮影したものは、ことばの訛りから察するとどうやらカンボジア人留学生がタイ人役をやったのではないかと思う。「太陽への脱出」に出てくるタイ人警官もまたひどいタイ語で、この場合は英語ができるということでフィリピン人がタイ人の役をやったのだろうと推測している。このタイ人警官が裕次郎とドンムアン空港でからむシーンは、「カサブランカ」だろうかなどと考えながら映画をみるのも、音楽でいう「カバー」や「パクリ」が多いこの時代の映画ならではの楽しみである。ちなみに、「カサブランカ」の全編カバーは「夜寒よ今夜も有難う」(日活、67年)である。
※神田のアジア映画(03−3234−2202)で、ビデオがレンタルできる。


アジア雑語林(3) 2002年9月4日

バンコクの週末市場

 バンコクのドン・ムアン空港から都心に向かう途中にチャトゥーチャックという地区があり、そこに週末市場がある。初めはおもに食料品と衣料品を売る露店が多かった。店は巨大なビ−チパラソルのような傘を立てるか、簡単なテント張りのものだったから、雨が降ると、テントの低い部分に雨水がたまりテントが倒れたり、滝となって雨水が降り注いだ。
 週末市場に人気が集まり、人出が多くなると、次第に恒久的な建物が作られるようになり、雨の心配はなくなった。市場での商売はやり方しだいでは確実に儲かることがわかり、出店の権利が高額で取引されるようになった。いまでもこの市場は拡大を続け、裏側にも新しい店舗が生まれている。ちゃんとした建物で日本料理店もできていたから。もはや「週末」だけの営業ではなくなったようだ。
 この週末市場は、もともとは王宮前広場で開かれていたものだ。その起源はどうやらタイ各地の物産販売を目的としたものらしい。1982年に「バンコク遷都200年祭」の行事が王宮前広場で開催されることになり、週末市場は現在の地に移転した。ここ20年ほどのバンコクしか知らない人は、往時の週末市場は沢木耕太郎の『深夜特急』でしか、その様子をうかがうことができない。そう思っていたのだが、先日、息を飲んだ。懐かしの週末市場の映像を偶然目にしたのである。
 日活映画「太陽への脱出」のビデオを見たのだ。これは1963年の作品で、主演は石原裕次郎。タイでロケしたアクション映画で、内容はけっこういい。裕次郎は謎の武器商人の役で、割とうまいタイ語をしゃベっている。63年当時のバンコクの風景が出てくるのも魅力のひとつで、そのなかに王宮前広場の週末市場を歩くシーンが出てくる。私が知っている70年代のものと変わりがない。予想も期待もしていなかったシーンなので、テレビの画面を見つめながら、心が熱くなった。
 このビデオは、3800円で今でも手に入る。レンタルはないらしい。タイでロケした日本映画はいくらもあるが、この作品がもっともよくできている。それだけでなく、往時のタイの風景を映像で確認できることでも、買って損のないビデオである。


アジア雑語林(2) 2002年8月19日

パソコン導入

 機械があまり好きではないから、できることなら機械から離れて暮らしたいのだが、事情があってついにパソコンを導入した。事情というのは、膨大な調べものをしなければいけない連載を始めたのをきっかけに、やむなく導入を決意したのである。
 もっとも多く利用するのは、国会図書館のサイトで、出版物の情報を得るには大変重宝だ。ある書き手がどんな本を書いているのか知りたかったり、ある本の出版社や出版年を確認したいときに、とても便利だ。文庫の場合、親本に関する情報が一切書いてないものもあるので、そんなときにこのサイトが実力を発揮する。
 企業のホームページも、企業によってだが、かなりの情報が手に入る。例えば、永谷園のHPは過去に発売した商品が、写真とともに、発売年などの情報が入っているから、貴重な資料が簡単に手に入った。
 個人が作っているHPの書籍情報は、ほとんど何の役にも立たない。書名と著者名の羅列だけというものも多く、リストに徹するなら徹底的にやってくれればいいのに、最近出版された、たかが10冊か20冊の書名をあげただけで「タイ関係書一覧」と名乗られると、困惑する。一般に、インターネットの情報は現在に強く、過去に弱いという特徴がある。
 インターネットは利用するが、メールはしない。原稿をメールで送ることもしない。パソコンのキーボードが使いにくいのと、つまらんメールがやたらに来る日々が耐えられないからだ。知人・友人のなかにも私と同じ人が少なくないらしく、「メールを送っても一切読みません」と宣言している人もいるし、「連絡は手紙で」とHPに書いている人もいる。毎日メールをチェックして、返事を書くというのが面倒だとか、機械に使われているようでいやだという理由だ。私は郵便が好きだ。
 というわけで、この原稿もファックスで送っている。編集者には気の毒だとは思うが、原稿の内容を最低限このレベルに保ちたいと思うと、パソコンでは原稿が書けない。パソコンで原稿を書いたからといって、原稿のレベルが向上するわけではないのだから、一番書きやすい手段を選ぶのが書き手の務めだろう。


アジア雑語林(1) 2002年8月14日

旅本の編集者

 この夏、ひとりの編集者が現場を去った。
 旅行記がまとまって文庫で出版されるようになるのは、おそらく講談社文庫からではないだろうか。とくに、アジアの旅を、ほとんど書き下ろしで出版するという形態は、90年代なかばの講談社文庫からといっていいだろう。出版事情を多少知っている人は、「文庫編集部に、旅行ファンでアジアマニアの編集者がいるのだろう」と想像するだろう。他社の場合はたしかにそういう編集者がアジア本を手掛けるという例が少なくないが、講談社文庫の場合はまったく違う。
 書籍宣伝で長らく仕事をしていた谷章さんは、旅の本を作りたくて文庫編集部に移動してきた。しかし、彼は学生時代からの筋金入りの旅行者というわけではなく、熱烈なアジアファンというわけでもなかった。ただ、旅行記を読むのが好きだった。勤務先は出版社だが、編集者ではなく、宣伝を扱うサラリーマンだった。普通の人の感覚が、講談社の旅文庫を作ったのである。
 彼が文庫編集部に来て、最初に企画したのが、『ホテルアジアの眠れない夜』(蔵前仁一)だ。凱風社から1989年に出版された親本の文庫化である。この本に、文庫版旅本の将来が託された。この本が売れれば、次が出る。売れなければ、この一冊で終わるという運命を蔵前仁一の本に賭けたのである。1994年にこの文庫が出版されると、爆発的に売れ、おかげで下川、日比野、前川などの文庫が次々に出版されることになったのである。
 「売れる本を作りたいんです。私をカネの亡者だと思うかもしれませんが、違うんです。売れるなら、どんな本でも出したいなんて思ってませんよ。でもね、『売れなくてもいいから、いい本を出す』なんて思っていたら、その一冊で終わりなんです。次が出せません。好きな書き手の本を、たった一冊だけで終わらせたくはないんですよ」
 こうして、谷さんはなるべく多くの旅本を出すためにさまざまな工夫を凝らし、常に書き手の側に立ち、書き手の希望を最大限に実現することを心掛け、昼夜かまわずがむしゃらに働き、ついに体をこわした。命か、編集者か、という二者択一を迫られるところまできて、ついに現場を離れる決心をした。
 10年間の、過酷な編集者生活だった。

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