前川健一 著作一覧


アジア雑語林(200) 2007年10月4日

石森章太郎の海外旅行 その1

 「快傑ハリマオ」の連載を終えた石森章太郎(のちの石ノ森章太郎)は、マンガ家生活6年目にして、「マンガ家はもういいや」という気分になっていた。1961年、石森23歳のときだ。
 石森は、マンガ家になりたくてマンガを描いていたわけではない。大学に行く学資を稼いで、大学を卒業したら新聞記者になりたかった。新聞記者でなくても、小説家か映画監督になりたかった。マンガはそのための準備にすぎないと思っていた。そのマンガで大成功しているのだが、このままマンガ家を続けて行く気にはなれず、ひとつここいらで仕切り直しをするきっかけに、憧れの西洋に行ってみようと思ったのである。
 ノンフィクション作家として好調なスタートを切った沢木耕太郎が、このままライター生活を続けたらいいのか悩み、日本脱出を考えたのと符合する。

 「憧れの外国旅行でもう一度自分を見つめ直すなんて、まさにうってつけじゃないか! マンガ界ではまだ誰も海外に行った人はいなかった。(マンガ家を)やめる記念に、僕が一番乗りしてやろう。どうせならできるだけ長く、できるだけたくさんの国を回って、映画で観た憧れの地を歩いてみたい。よし! 行き先はアメリカとヨーロッパ。期間は・・・・三カ月」(石ノ森章太郎『絆』鳥影社、2003年)

 ときは、1961年。海外旅行が自由化される3年前だから、「外国に行きたい」と思っても、簡単には日本を脱出できない。外国に出かけるもっともらしい理由や書類が必要だった。
 1961年8月に、アメリカのシアトルでSF大会が開催されることを知り、その会を取材するという目的を考えついた。旅の企画を集英社にもちこんで、「海外取材記者」という肩書きをもらった。三島由紀夫は、朝日新聞社の特派記者の肩書きで海外旅行をしている。外貨の持ち出しには厳しい制限がついていたが、マスコミ関連の取材には比較的制限が緩やかだったのを利用したのだ。
 日本脱出の書類は揃ったが、費用は自分で用意しないといけない。旅行代理店が作成した見積もりを見ると、あまりに高額でとても行けそうになかったが、銀行口座を確認すると、「なーんだ。これなら、あとちょっと借りればなんとかなるぞ!」と思った。その「あとちょっと」とは、200万円。小学校教員の初任給が1万1400円の時代の200万円だ。この初任給を現在20万円だとすると、約17倍の上昇ということになる。ということは、当時の200万円は現在なら3400万円ということになる。それを、「あと、ちょっと」という感覚が、売れっ子マンガ家であるが、まだ本当に「売れっ子」にはなっていない。
 石森は不足分の200万円を出版社からの原稿料前借りという方法でかきあつめて、日本を出発する。23歳の男にこれだけのカネを貸すのだから、やはりマンガはすごい。
 とまあ、ここまでは状況説明で、長くなったので本論は次回に回す。

 


アジア雑語林(199) 2007年9月26日

堂々の勝利宣言 へなちょこライターが勝ったぞ!!

 このアジア雑語林の第103号「間違いやすい『日米会話手帖』」(2005年4月)に、最大のベストセラーの地位を長らく保った『日米会話手帳』のことを書いた。まずは訂正から先にやっておくと、その本の名を『日米会話手帖』と表記したが、『日米会話手帳』が正しい。不注意による誤記である。
 誤記を認めたあとでは少々書きにくいのだが、世間では『日米会話手帳』の発行元が誠文堂新光社としているものがほとんどだが、それは違うというのが先に書いた私のコラムの趣旨だ。
 ほとんどのインターネット情報も、読売新聞社、文藝春秋、新潮社も、国会図書館の資料でも、発行元を誠文堂新光社としているが、私は種々の情報を総合して、「科学教材社が正しい」と書いた。大マスコミや日本最大の図書館の知性に対して、チンピラ・へなちょこ貧乏ライターが挑戦を挑んだのである。常識的にいえば、一ライターなんぞに勝ち目はなく、賭けは成立しないということになるはずだ。
 私のコラムは、内容的に今一歩説得力がなかったかもしれない。きちんとした証拠を出して、証明したいと思っていたのだが、ついつい手を抜いてしまった。というか、すぐにも、追加情報を書いて、完璧な証明をしようと思っているうちに2年たってしまったのである。
 きちんとした資料を出せば、簡単な証明なのだ。『日米会話手帳』そのものは、国会図書館にも収蔵してないほどの貴重品だから、現物を手に入れて、奥付けを見せて「ほらネ!」というわけにはいかない。
 現物は手に入らないが、『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日新聞社編、朝日文庫、1995年)を読めば、簡単に謎解きができるのはわかっていた。古本屋に行けば、そこそこ簡単に手に入るだろうと思っていたら、なんとこの2年間では探せなかったのだ。それで街の古本屋で買うのをあきらめて、インターネット古書店で買うことにして、その文庫がさっき届いた。
 『日米会話手帳』の企画者は、誠文堂新光社の創業者にして社長の小川菊松。会話帳の企画は敗戦の日8月15日の夜で、10月発行予定で奥付けにはそう明示したが、9月には現物が完成し、たちまちベストセラーになった。
 誠文堂新光社は軍事関連の本を出していたので紙の配給があり、会話帳を発行することは物理的にできたのだが、「こんなチャチなものをいかに戦後とはいえ、誠文堂新光社が発行するのはどうかという意見が社内から起り」と、小川は社史『復刻版 出版興亡五十年』に書いている。もっとも強硬に反対していたのが「倅の誠一郎」だったので、「傍系会社の科学教材社から出せば良いではないか、ということになった」(同、社史)といういきさつがあった。
 朝日文庫の『「日米会話手帳」・・・』には、現物の『手帳』が写真で全ページ載っている。漢字を現在の表記に変えて、紹介しよう。

表紙
日米会話手帳
ANGLO−JAPANESE CONVERSATION MANUAL
1945

裏表紙が奥付けにもなっている。
昭和20年10月1日印刷
昭和20年10月3日発行
東京神田錦町2の5 科学教材社刊
定価八十銭

 さあ、どうだ。「発行は誠文堂新光社」としてきた新潮社よ、国会図書館よ。さあ、反論して御覧なさい。

 


アジア雑語林(198) 2007年9月19日

「世界の秘境シリーズ」人物中心飛ばし読み その6

 ■1965年2月号、第35集
 この号は人物ではなく、記事を紹介しよう。というのは、「創刊3周年記念企画」として、2コースの海外旅行を紹介しているからだ。「海外秘境の旅への誘い 主催:世界の秘境シリーズ 後援:日本交通公社」である。以下の地名は、原文のママ。

 Aコース 未知なる国中近東を行く 東京――カルカッタ――ダージリン――カトマンズ――ニューデリー――スリナガル――ペシャワル――カブール――テヘラン――イスファハン――アバダン――イスタンブール――ベイルート――東京
 全日程23日間 73万3000円
 Bコース バリ島からアンコールの廃墟へ 東京――マニラ――ジャカルタ――デンパサール――ジャカルタ――バンコック――プノンペン――シェンリープ――サイゴン――香港――東京
 全日程12日間 36万円

 ちなみに、1965年の小学校教員初任給は、1万8400円。だから、安い東南アジアコースでも、20カ月分の給料に当たる。期間が短いBコースでも、航空会社は7社にもなるので、添乗員は苦労しただろうなあと思う。
 この「世界の秘境シリーズ」がらみのエッセイも長くなってきたので、そろそろ先を急ごう。
 1965年6月号、第39集に、中田耕治「静かな動乱の街サイゴン」が載っている。中田耕治といえば、欧米事情に詳しい作家であり、アメリカ文学の翻訳家というイメージしかないから、サイゴンに姿を見せた理由、あるいはいきさつがわからない。
 第30集から始まっているらしい「日本海外調査探検隊の記録」は、無署名の連載。おもに大学の学術調査の記録を集めているもので、この第39集では、東京水産大学のガラパゴス諸島学術調査(1959年)をとりあげている。この連載がのちに1冊にまとまっているといいのだが、双葉社からでは無理だろうなあ。
 カラーページは「森繁 南海を行く」。写真解説では、「映画“ボロング”の撮影視察のため」南太平洋を巡ってきたという報告で、フィジーニュー・ヘブリデス諸島でのスナップ8点が載っている。ところが、「ボロング」という映画の記録は探せないのだ。森繁が企画して、しかし流れた映画企画だろうか。

 ■1966年6月号、第51集。
 「“チャドルの国”イラン滞在記」の筆者黒木絢子の紹介記事が気にかかった。
 1962年11月から3年間イランに滞在。イランを中心に中近東諸国をまわり、各国のアクセサリーや彫金工芸について研究してきた。昭和7年生まれ。
 アクセサリーの研究のため中近東に3年間滞在というのは、この時代と場所を考えれば、留学というのは難しいので、企業駐在員夫人か大使館員夫人だったのだろうかと思って調べたら、インターネットで見つけた唯一の情報がこれだった。
 黒木絢子遺作展 2005年1月
 くろき・あやこ 1932〜2003
 以上、「世界の秘境」のシリーズは終わり。 

 


アジア雑語林(197) 2007年9月11日

「世界の秘境シリーズ」人物中心飛ばし読み その5

 ■1964年2月特大号、第23集。
 「わが青春放浪記」は徳川夢声だが、秘境らしい内容ではない。戦時中の外地の話題はまったくない。
 「アマゾニアの毒蛇」の筆者は、いまもしばしばテレビに出演している動物作家実吉達郎(さねよし・たつお)。55年から62年までブラジルで生活をしているので、アマゾンの話はお手の物である。

 ■1964年5月号、第26集。
 「西ネパール探検隊」(長沢和俊)や「旅人を招くツアモツ島の女」(岩佐嘉親)といったエッセイの中に、またしても細川護貞の文章があった。「至宝の島・セイロンの廃墟に立つ」という、特集関連の文章だ。そこで、企画の推移を想像してみる。
 まず、カメラマンなど数人からセイロンの写真の売り込みがあった。そこで、「ベンガル湾からインド洋へ」という特集を考えたが、さて、誰に原稿を依頼しようか。あれこれと書き手の顔を思い浮かべつつ、編集部の書棚から取り出したのが、『世界紀行文学全集 南アジア編』(修道社、1960年)。目次を見れば、「セイロン 細川護貞」とある。そこで、原稿発注という工程ではないだろうか。異文化体験と出版文化という意味で、修道社は特筆していい会社だろう。

 ■1964年10月号、第31集。
 この号から連載が始まった「世界の裏街を行く」(蜷川親博)の第1回は「意外なアメリカの女ごころ」。この筆者がちょっと気にかかった。昔の旅行記をネット古書店の目録でチェックしているときに見つけた、『クルマ気ちがい世界を駆ける』(実業之日本社、1963年)を思い出した。いったいどういう著者なのか調べてみたら、元東宝で助監督や新東宝で監督をやったことがある人だということはわかっていた。今回、ほかの著作を調べてみて、ナイロビを思い出した。『奔馬よアフリカを往け 65才サファリ・ラリーへの挑戦』(蜷川親博、現代創造社、1983年)という本がある。私がケニアにいたちょうどそのとき、サファリ・ラリーが行なわれていた。ナイロビでぶらぶらしている日本の若者たちが、「ニナガワさんって、元気なじいさんのドライバーがいて…」と、バーでビールを飲みながら話していたのを、ついさっき突然思い出した。そうか、あの「ニナガワさん」が、新連載「世界の裏街を行く」の蜷川親博だったのだ。

 


アジア雑語林(196) 2007年9月3日

「世界の秘境シリーズ」人物中心飛ばし読み その4

 ■1963年5月号、第14集。
 連載エッセイ「わが青春放浪記」は、アイ・ジョージ。父親はドイツの石油会社に勤める日本人。母親はスペイン系フィリピン人。父親の赴任先サンフランシスコで生まれて、マニラ育ち。マニラで母親が病死し、父と上海、香港、大連へと転々とするといった話が紹介されている。
 連載コラム「海外旅行ABC」では、「いよいよこの秋には“観光渡航の自由化”が実現しそうである」とあり、渡航条件などなしに海外旅行ができると伝えている。しかし、「この秋」というのは、1963年の秋という意味だ。実際に自由化されたのは、1964年4月だから、「この秋には」というのが誤報なのか、それとも自由化が翌年に延期されたのか、そのあたりの事情はわからない。

 ■1963年9月発売の臨時増刊号。
 カラー写真もたくさん入れて、定価を倍の200円にして「秘境画報 特集・人喰人種の世界 南海の楽園を求めて」を作ろうとしたらしいが、「欲が深すぎた。編集の成果は満足すべきものではない」と編集後記で自ら認めているように、大失敗号だ。
 外国の雑誌から「いかにも秘境」という写真と記事を集めて、文章をでっち上げるスクラップブック編集で1冊分のページを埋めることは不可能とわかったらしく、普通の海外体験原稿もプロに依頼している。以下、私でも知っている書き手の名をあげてみよう。

「アラビア虚無の沙漠」 西江雅之(肩書きは、アフリカ言語研究家)
「秘境アフガニスタンの旅」 細川護貞(元首相細川護熙の父)
「パリの貧乏留学生」 森乾 後述。
「二人の冒険映画監督」 筈見有弘(映画評論家)
「ほろにがいアリゾナ旅行記」 福田蘭堂
「ローマ貴族と雌豚と」 日影丈吉
「ハンブルグの夜」 檀一雄
「『続シルクロード』について」 深田久弥
「野生の呼ぶ声」 南洋一郎
「『じゃぱん紳士』の嘆き」 早川東三
「四国の狸と狐」 山田克郎(「快傑ハリマオ」の作者)
「ルクソールの美女」 松岡洋子

 前回紹介した西江の旅行記はあまりおもしろくなかったが、今回のエッセイはのちの名エッセイを思い出させるいい出来だ。
 早川東三は「じゃぱん紳士」物で知られていた。ちょっと色っぽい西洋エッセイだったような記憶があるが、なにしろ高校生時代に読んだっきりなので、はっきりした記憶はない。それにしても、のちに学習院大学学長になったときは驚いた。
 森乾は次のように紹介されている。

筆者は早大文学部卒業後、ソルボンヌ大学に留学。二年間、ヨーロッパ各地を彷徨。現在、成城大学講師を経て、中央郵政研究所講師。

 こういう経歴よりも、私には金子光晴と森三千代の息子として彼の名を知っているが、文章を読んだことはなかった。今回初めてこの「世界の秘境」で読んだが、パリの留学生生活の話がおもしろい。日本人留学生のために作ったパリの日本風建築の日本会館は、「女人禁制」になっていて、女子学生が来ると、よその国の会館を紹介しているというようなエピソードを紹介している。男女同じ建物の寮というのは考えられない時代で、だからといって女子寮を作るほど女子学生は多くない時代でもあるということだ。

 


アジア雑語林(195) 2007年8月25日

「世界の秘境シリーズ」人物中心飛ばし読み その3

 ■1962年11月号、第8集。
 ここにもアフリカの旅行記が載っている。「未知の国ソマリア沙漠縦断記」を書いているのは、かの西江雅之。筆者紹介には、こうある。

 筆者は昨年七月から今年の一月までアジア・アフリカの言語研究のためタンガニーカ、ケニア、ソマリア、セイロン、インドなど約十五ヵ国を旅行。

 西江は当時まだ早稲田の学生だったはずで、帰国後日本初の「スワヒリ語辞典」を書く。「世界の秘境」編集長が早稲田出身ということと関係があるのかどうかわからないが、前回紹介した後藤も、今回の西江も早稲田だ。外国に興味がある早稲田の学生やOB、そして教員などに、編集長が執筆を依頼したのではないだろうか。

 ■1963年2月号、第11集。
 「ピレネーの真珠アンドラ共和国」を書いているのが、日本最初のDJといわれる志摩夕起夫。1952年放送開始の「イングリッシュアワー」でDJをやったというが、私には記憶はない。しかし、ラジオでよく聞いた名前ではある。筆者紹介には、こうある。

 筆者は1962年5月から約4ヵ月にわたり、ソ連圏をのぞくヨーロッパ各国の風俗や民謡などの取材旅行を行ない、現在、日本テレビカラー番組でバラェティに富んだ紀行解説を入れて放送中。

 「海外旅行とマスメディア」の関連に興味があるのだが、この「日本テレビ」の番組がなにか、まだ調べがつかない。ある番組のコーナーだろうか。「11PM」は、半分は日本テレビだが、放送開始は65年だから、ちがう。さて?
 「不老長寿の国フンザ探訪記 神秘の国を紹介したA.E.バニク博士」を書いている白川竜彦という名に記憶はない。ただ、この記事のプロローグがちょっと気になった。73歳でフンザを訪問した日本女性が書いた『七十三歳の青春』(宮田文子)という本の紹介から、このエッセイが始まっている。
 現在でも気軽に行ける場所ではないのに、海外旅行が自由化されていない1960年代前半に、73歳でフンザに行くというのは「眉唾」ではないかと思って調べてみた。『73歳の青春』の版元は朝日新聞社で、この宮田文子は私が知らないだけで、大変な有名人らしい。山崎洋子の『熱月(テルミドール)』のモデルであり、群ようこの『あなたみたいな明治の女』でもとりあげている。いわば、「とんでもない明治女」の代表のような人物らしい。ネット上でも詳しく紹介されているから、興味のある人は自分で調べてみればいい。まあ、一筋縄ではいかない波乱万丈な人生ですよ。
 宮田文子はいったいどんな本を書いているのか、著作を調べてみたら、知っている本が見つかった。あの本を書いた人か。『刺青と割礼の食人種の国 ―黒いコンゴ』(講談社)は、我が家のどこかに眠っているはずだ。おもしろかった、とか、よくできているといった読後感はない。どだい、「食人種」という語をタイトルに入れている本が、よくできているわけはない。
 それはそれとして、前回紹介した小倉薫子や、今回の宮田文子、そして、「世界の秘境」に登場しているかどうか知らないが、辰野嘉代子という豪傑もいる。過去の旅行記のほうが、ずっと過激である。

 


アジア雑語林(194) 2007年8月18日

「世界の秘境シリーズ」人物中心読み飛ばし その2

 古本屋で手に入れた「世界の秘境シリーズ」の13冊を、執筆者を中心に読み飛ばしてみよう。記事の内容をいちいち紹介すると、あまりに長くなってしまうから執筆者の話だけ書くことにする。署名のない原稿はでっちあげのきわどい原稿で、「未踏の喰人地帯探検行」といったようなおどろおどろしい話題には興味がないので、無視する。じつは、そういうおどろおどろしい記事こそ「世界の秘境」の背骨なのだが、わたしは軟体動物を選ぶことにする。ということは、「世界の秘境」の本質を紹介するエッセイにはならないことをおことわりしておく。あまりインチキ臭くない記事の、書き手の紹介だ。
 今回入手した創刊第2集(2号ではなく、2集とするのがこの雑誌だ)には、創刊号の詳しい目次がついていて、「この雑誌はバックナンバーでお揃え下さい」と呼びかけている。創刊号も第2集も、執筆者にそれほど変わりはないので、まず大物から紹介してみよう。
 自分の若き時代を書くエッセイ「わが青春放浪記」の第一回は、福田蘭堂。画家青木繁の息子にして、石橋エータローの父親。随筆家、作曲家、尺八奏者、釣り師。団塊世代には、「ひゃらーりひゃらりこ〜」(笛吹童子)の作曲者として知っているだろう。
 世界の珍談奇談を集めた「信じようと信じまいと」は、書誌研究家で作家の庄司浅水。彼の本は読んだことはないが、古本屋ではよく見る名前だ。この連載エッセイは、タイトルからもわかるように、“Believe It or Not” の無断翻訳・翻案だろう。
 なんと別雑誌の現役の編集長が他誌に原稿を書いている。「旅」(日本交通公社)の編集長岡田喜秋(1951年から71年まで編集長)が、堂々と「日本の旅・忘れられた風土」という連載を引き受けている。ほかの号では、岡田の前に「旅」編集長を勤めた戸塚文子も寄稿している。
 作家黒沼健の名もある。「おどろおどろ世界」では有名な作家だ。今回調べてみて、少年時代に何回か見たことがあるテレビ番組「海底人8823」の原作者だとわかった。昔のよい子は8823で「ハヤブサ」と読むのだと知っていたのですよ。
 連載「世界の私娼窟」を担当しているのは、ご存知清水正二郎。のちの直木賞作家胡桃沢耕史。
 動物物や戦記物で知られる作家戸川幸夫は、創刊号と第2集の2回にわたって「孤島に星は流れる」を発表している。これを原作に映画化したのが、「間諜中野学校 国籍のない男たち」(日活 1964年 主演:二谷英明)だ。
 創刊号の目次に、{女ひとり秘境を行く}として2本の原稿がある。その1本「アフリカ大陸80日間冒険旅行」(後藤薫子)の作者に心当たりがあるが、けっしてひとり旅じゃなかったはずだ。
 1958年3月に、ケニアからコンゴへ80日間の自動車旅行をした早稲田大学赤道アフリカ遠征隊の記録、『アフリカ横断一万キロ』(朝日新聞社、1958年)を読んだことがある。男女混合9名の隊員のなかで、「日本女性として初めて6000メートル級の登頂に成功した後藤・鈴木の両隊員」と、写真つきで紹介してある、その「後藤」というのが、後藤薫子である。
 なぜ彼女を覚えていたかと言うと、私には「旅のその後」を知りたいという性癖があって、この『アフリカ大陸・・・・』という記録を読んだときも、隊員たちのその後を調べてみた。その結果、唯一後藤氏のその後だけがわかったのである。
 後藤薫子(ごとう・のぶこ)、現小倉薫子は、1932年生まれ。父は日本山岳会名誉会員。早稲田の山岳部出身。卒業後、婦人画報社に入社するものの、山岳部OBとしてアフリカ遠征隊に参加。その後も、南米やサハラやオーストラリアの山に登ったりドライブをしたりという日々を送っているそうだ。そういう大活躍した人だということがわかって、後藤薫子という名を覚えていたのだ。
 「世界の秘境」の話は、まだまだ話は続く。

 


アジア雑語林(193) 2007年8月6日

「世界の秘境シリーズ」人物中心飛ばし読み その1

 近所の古本屋に寄ったら、店頭に古雑誌が山と積んであった。ほこりまみれの古雑誌を点検していたら、「世界の秘境シリーズ」(双葉社)があった。全部で13冊、1冊100円だ。保存程度がよければ、1000円から1500円くらいが相場らしいが、この13冊はかなり痛んでいたり書き込みがあったりするので、捨て値の商売というわけだろう。
 この雑誌は、おそらく正式には「ノンフィクションマガジン 世界の秘境シリーズ」(以下、「世界の秘境」と略)ということになるだろう。創刊の1962年には月刊誌で、のちに季刊となって、72年の100号で終わっている。
 「ナショナル・ジオグラフィック」のような民族誌のコレクターだった大学生が、双葉社の編集者になって、会社の命令で作らされたのがこの雑誌だ。写真は「ナショナル・・・」などから勝手にいただき、文章は翻訳かでっちあげたものが中心で、それにちゃんとした署名原稿が加わる。書き手は海外事情に詳しい学者やジャーナリストで、無署名の海外ネタのエロ原稿は、新聞記者などのアルバイトだろうと思う。
 編集長竹下一郎は60号まで出して退職し、大陸書房を設立した。竹下氏と「世界の秘境」については、『ニッポン秘境館の謎』(田中聡、晶文社、1999)という名著があるので、そちらを参照してもらいたい。著者のインタビューに答えて、「インチキだった」と元編集長が認めている雑誌だ。
 いつか外国に行きたいと思っていた前川健一少年は、書店でときどき立ち読みし、たまに買うこともあった。のちの「川口探検隊」のような胡散臭さを売り物にする記事は好みに合わないが、海外旅行の記事が出ているというだけでうれしかった。私よりちょっと年長の平尾和雄さんは、勤め人をしながらこの雑誌を読んで海外への夢を膨らませていたと、『スルジェ』(旅行人)で書いている。アジアやアフリカや南米などに興味を持っている1960年代の青少年は、雑誌「世界の秘境」やテレビ番組「すばらしい世界旅行」に心を動かされたはずだ。
 近所の古本屋で買ってきた13冊の「世界の雑誌」を発行年別に整理してみようと思ったが、簡単ではない。奥付けのようなものがない。表紙などに「○年△月号」といった表記がない。裏表紙に小さく書いてある「第2巻第8号・・・」とか「第三種郵便物・・・・」の部分を見なければいけないのだが、すれていてよく見えない。それでもなんとか工夫をして、一応の整理ができた。通巻表示は「号」ではなく、「集」になっている。

第2集  1962年5月号  特別レポート 南太平洋・謎と魅惑の島々
第8集  1962年11月号 特集 廃墟は生きている!
第11集 1963年2月号  特集 『失われた大陸』を求めて
第14集 1963年5月号  特集 中部太平洋の秘めたる島々
臨時増刊 1963年9月号 特集 人食人種の世界
第23集 1964年2月号  特集 幻想のアラビア沙漠とその周辺
第26集 1964年5月号  特集 ベンガル湾からインド洋へ
第31集 1964年10月号 特集 カイバル峠から隊商の国へ
第35集 1965年2月号  特集 南海の楽園ポリネシア
第36集 1965年3月号  特集 漂流船その戦慄の記録
第39集 1965年6月号  特集 アラスカからアリューシャンへ
第43集 1965年10月号 特集 “喰人の島”ニューギニア
第51集 1966年6月号  特集 インドの未開種族

 というわけで、次回から執筆者中心に内容を追ってみよう。今回を含め、全5回の資料紹介だ。

 


アジア雑語林(192) 2007年7月27日

韓国語・朝鮮語など その2

 韓国語・朝鮮語のことを調べていて見つけた、TJF(国際文化フォーラム)の不思議な資料の話の続きだ。「四年制大学の開設状況」というタイトルで、全国の大学での朝鮮語教育事情のリストがついているこの資料の出ところを、探らなくてはいけない。TJFというのは、講談社を中心に作った民間団体の「The Japan Forum 財団法人国際文化センター」のことで、そこが出している機関誌「国際文化フォーラム通信」に載った記事を、私がネットで見つけた資料だ。日本全国の4年制大学で行なわれている朝鮮語教育の実状に関する資料で、大学名、大学での科目名、開設年、協力関係にある韓国の大学名の順でリストになっている。
 このリストを見ていて、むらむらと調査の炎が燃え上がってしまった。「大学は、あの言語をいったいどう呼んでいるのか」という調査だ。私のこの原稿では、いままで「朝鮮語」や「韓国語・朝鮮語」などと書いてきたが、どう呼んでも批判される難しい言語名だ。学科名や科目名として、大学はどういう名をつけているのだろう。一覧表を見ながら「正」の字を書いて、仕分けしてみた。資料の注釈に、学部等よって呼称がことなることがあることがわかる。したがって、同じ大学でも、学部によって複数の呼称があるらしい。

韓国語 117
朝鮮語 100
ハングル 49
コリア語 27
韓国・朝鮮語など 30
ハングル語
その他

*「韓国・朝鮮語など」には、韓国朝鮮語、朝鮮韓国語、韓国(朝鮮)語、朝鮮(韓国)語、コリア語(韓国語)といった表記を含む。「その他」には、外国語と文化・韓国、韓国事情と文化、韓国の言語と文化、ハングル・韓国語、朝鮮言語文化特論、言語と文化(韓国・朝鮮)、ハングルと文化、世界の言語と文化(韓国語)、韓国のことばと文化、といった表記がある。

 こういうテーマになるといつも気になるのが、「ハングル」である。皆様ご存知のように、ハングルというのは、韓国語(韓国のことばという意味)で朝鮮の文字のことで、北朝鮮では「ハングル」とはいわない。したがって、「ハングルを読む」ことはあっても、「ハングルを話す」人は世界にひとりもいない。そういうことはわかった上で、NHKは「ハングル」を言語名として扱っている。だから、「アンニョンハシムニカ ハングル講座」では、講師が「さあ、この日本語をハングルで言ってみましょう」などと平気でしゃべっている。韓国語といっても、朝鮮語といっても抗議がくるから、「ハングル」にしようとNHKは決めたのである。
 その悪影響が大学に及び、朝鮮語の科目名を「ハングル」にしている大学は49あり、もっとひどい「ハングル語」にしているのが5校ある。諸悪の根源はNHKである。「ハングル語」などとするトンマな大学はどこなのか、TJFの資料で明らかにしておこう。ただし、この資料は2003年のものなので、現在も同じかどうかはわからない。
 「ハングル語」を採用している大学は、旭川大学、札幌大学、山形県立保健医療大学、常盤大学、平成国際大学の5校。
 ついでだから、「ハングル語」が書名に入っている本を国会図書館のリストから探すと、6冊見つかった。

『ハングル語入門』金昌根、クライド・ジョーンズ、泰流社、1988
『ハングル語会話集』泰流社編集部 泰流社、1993
『ハングル語単語集』泰流社編集部、泰流社、1994
『外国人労働者ハンドブック・ハングル語版』千葉県商工労働部労政課、1995
『ハングル語の部屋』澄川盈男、日本図書刊行会、1996
『イラスト旅会話ハングル語』高野紀子ほか、アップオン、2004

 アマゾンでもほとんど同じだが、アマゾンではなぜか「NHKラジオハングル語講座」のテキストということで、「ハングル語」の語が使われている。しかし、97年の1冊とか2001年のテキスト3冊だけが「ハングル」でなく、「ハングル語」としているとは考えられず、アマゾン側の間違いだろう。

 


アジア雑語林(191) 2007年7月19日

韓国語・朝鮮語など その1

 前回の復習になるが、東京外国語大学の前身である東京外国語学校が設立されたのは1873年で、そこに「朝鮮語学科」が加わるのは1880年のことだ。単なる想像でいうが、これが日本最初の朝鮮語教育所だった可能性は高いと思う。
 戦後だと、たしか天理大学が早かったはずだなあと思い調べてみると、「なるほど」という事実がわかった。天理大学のそもそもの始まりは、天理教を海外に布教する人材の育成機関である天理外国語専門学校だ。開校した1925年当初から、朝鮮語教育が始まっていた。戦後になると、49年に専門学校から大学に変わり、50年には朝鮮語教育が始まっている。
 のちに大宅賞作家となる荻原遼は、1950年代後半当時、朝鮮語に興味をもつ高校生だった。荻原によれば、朝鮮語が学べる大学は当時、天理大学しかなかったそうだ。成績優秀な高校生だった荻原は、自信満々で受験したにもかかわらず不合格になった。試験の結果には自信があったから、彼の思想が問題にされたのだと当人は書いている。当時、天理大学の朝鮮語学科は共産主義者の取り締まりや、密入国者を取り締まる警察官の養成機関でもあった。一方荻原は、高校生にしてすでに日本共産党の党員だったというから、そういう高校生を入学させるわけはない。そういう話が、『北朝鮮に行った友と私の物語』に載っている。
 天理大学に入学を拒否された荻原は、塾のような組織を見つけ出す。北朝鮮に帰国する朝鮮人の日本人家族に朝鮮語を教える、朝鮮総連の朝鮮語塾だった。共産主義者ゆえに天理大学の入学を拒否された荻原は、こんどは日本の公安のスパイを疑われて、厳しい身元調査をされたそうだ。
 結局、荻原は大阪外国語大学の戦後最初の朝鮮語学科に入学する。1963年のことだ。入学まで浪人生活が長かったので、卒業したら30歳になっていた。
 1960年代、いや70年代に入ってからでも変わらなかったかもしれないが、この時代、ある言語を学ぶことは、たんに「おもしろそう」では済まされない政治的立場を要求された。ドイツ語やイタリア語を学ぶならとりたてて問題はないが、朝鮮語や中国語を学ぶ者は、共産主義者か、その共産主義者を取り締まる公安側の人間だと受けとられた。
 朝鮮語を学ぶ者は、北朝鮮のシンパである共産主義者か、あるいは米帝(アメリカ帝国主義)と手を組む韓国の手先か、対極のイメージで受け取られた。中国語でも同様で、中国語を学んでいても、中国派か台湾派か、態度をはっきりとさせる必要があった。
 戦後の大学での朝鮮語教育の歴史は、1950年の天理、63年の大阪外国語大のあとはどうだったのだろうか。TJF(国際文化フォーラム)という組織に、日本の大学における朝鮮語教育の歴史がわかる詳しい資料が載っているのだが、大阪外国語大学で朝鮮語教育が始まるのが「1961年」としているなど、どこまで信用できるものか不明ではあるが、ほかの資料も使いつつ、1980年代末までの事情を書き出してみよう。これは「朝鮮語科」といった学科の新設だけでなく、学べる外国語のなかに朝鮮語が加わった年だ。

1950 天理大学
1963 大阪外国語大学
1968 京都精華大学(開学と同時)
1974 九州大学
1976 筑波大学
1977 東京外国語大学、桃山学院大学
1978 富山大学
1979 日本大学
1985 関西大学
1986 恵泉女学園大学、創価大学
1987 北陸大学(外国語学部新設時)、神田外語大学(開学と同時)
1988 法政大学、明治学院大学、花園大学、新潟産業大学、

 1980年代末に増えるのは、88年のソウル・オリンピックと多少の関連があるようだが、朝鮮語を教える大学が一気に増えたのは、2000年前後だ。

 


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