前川健一 著作一覧


アジア雑語林(190) 2007年7月11日

外国語の教育史

 以前、外国語学習の日本史を知りたくて、ちょっと調べたことがある。幕末に蘭語から英語に変わっていく事情は多少知っていたが、明治に入ってからが茫洋としていてよくわからない。そこで、東京外国語大学の資料を読んでみたのだが、『広辞苑』のように厚い資料をバッタバッタと読み始めたものの、あまりに詳しすぎてよくわからなかった。連続する組織再編に、私の根気と好奇心がついていけなくなったのである。
 そんなわけで、外国語学習史の調査は、ながらく手をつけていなかったが、ついさっき、ネットで調べ物をしていたら、ひょんなことから東京外国語大学のホームページに行き当たり、沿革がわかる年表をみつけた。かなり詳しいので、その資料をちょっと解読してみよう。
 東京外国語大学のおおもとは、1873年にできた東京外国語学校で、英、仏、独、露、清語の5学科だった。
 翌74年に、東京英語学校が設置されたことにより、英語学科がなくなって、4学科になる。学校ができて1年後に英語コースがなくなったのが興味深いが、それだけではない。85年には仏、独語も抜けている。80年に朝鮮語学科が加わっているので、5−3+1で3学科しかない。
 こうなった理由は、東京英語学校の組織再編と関係が深い。74年に設置された東京英語学校は、77年に官立東京開成学校と合併して、東京大学予備門となる。そして、86年第一高等中学校となり、94年には第一高等学校となる。当時の大学教育というのは、西洋の学問を日本に取り入れることだったので、高等学校は大学で外国語の本が読めるだけの充分な力をつける役割りを与えられた。旧制高等学校が英語とドイツ語かフランス語教育に力を入れた結果、東京外国語学校で学べるのは、97年までは、露、清、朝鮮語の3言語だけだった。
 その後学科はどんどん増えてゆき、1911年の時点では、13学科になっている。その13言語とは、英、仏、独、露、西、清、韓、伊、蒙古、暹羅、馬来、ヒンドスタニー、タミルだ。言語の表記は原文のママだが、1880年には「朝鮮語」としているのに、その後の1897年の記述では「韓語」になり、1911年には、「韓語学科から朝鮮語学科に改称」とある理由がわからない。疑問は改称だけではない。1927年には、朝鮮語は廃止されているのだ。反日運動が影響しているのかどうか、そのあたりの事情はわからない。
 言語名の改称ということでは、1913年に清語学科が支那学科になったのは、おそらく1912年に中華民国が成立したことによるものだろう。
 タイ語もややこしい。国名を簡単に変えてしまうからだ。
 1911年に「暹羅語学科」が生まれた。この漢字で、「シャム語学科」と読む。
 1939年に国名がシャムからタイに変わると、41年に暹羅語から泰語になった。
 1946年に国名がタイからシャムに変わると、46年にタイ語からシャム語に改称。
 1949年に国名がシャムからタイに変わると、61年にシャム語からタイ語に改称。

 こうしたこまごまとした資料をもとに、さまざまな言語の教育史を知りたい。例えば、『東京外語支那語部  ―交流と侵略のはざまで―』(藤井省三、朝日選書、1992年)という本がある。こういう傾向の本で、現在までの「中国語と日本人の歴史」や「朝鮮語と日本人の歴史」を知りたいのだ。現実でもイメージでも、1950〜60年代に朝鮮語や中国語を学んでいた者は共産主義者だと思われていた。あるいは朝鮮語がわかると、「在日」だと思われていたり、タイ語やタガログ語ができると「女遊びに精出す人」だと思われていただろう。そういうイメージも含めて、日本人の外国語教育・学習史を読んでみたいのである。

 


アジア雑語林(189) 2007年7月3日

『地球の歩き方』とアーサー・フロマー その2

 アーサー・フロマー(Arthur Frommer)は1931年、ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学でジャーナリズムを学んだあと、エール法科大学院に進み、「エール法律ジャーナル」の編集者となる。
 朝鮮戦争で徴兵されるものの、任地は朝鮮ではなく、ヨーロッパだった。1953年のことだ。彼は休暇のたびに任地ドイツからヨーロッパ各地へと旅行し、その経験を生かして、1955年に米兵向けの旅行ガイドを自費出版する。50セントで売り出した“The GI’s Guide to Traveling in Europe”は5000部も売れた。
 この本をインターネット古書店のサイトで調べてみたら、現在429ドルの値がついていた。アメリカ人の旅行スタイルにとって、旅行史上記念碑的な貴重本なので、このくらいの値段でもおかしくない。
 フロマーは退役後の1957年、米兵向けのこのガイドブックを民間人用に作り直して、ふたたび自費出版した。それが“Europe on 5 Dollars a Day”である。つまり、初版の1957年の時点でも、ヨーロッパを1日1ドルで旅行するのは、難しかったのだ。
 西川氏自身、「KAWADE夢ムック アジアン・トラベラーズ」(河出書房新社、2000年)のインタビューで、『ヨーロッパ一日5ドル』(アーサー・フロマー著)をモデルに、「地球の歩き方」を作ったと答えている。内容や読者投稿といった構成はもちろん、小口を青くするデザインも、アーサー・フロマーのマネだと告白している。新井氏はこの資料も読んでいないのかもしれない。あるいは、記憶を頼りに、いい加減な英訳で書名をでっち上げたということか。本の名を英語で書いたほうが格好いいと思ったのだろうか。
 私がアーサー・フロマーの本を初めて知ったのはいつのことやら、かいもく記憶がない。ヨーロッパの本ということで、関心がなかった上に、「何ドル」という数字が変わるので、書名をはっきりとは覚えていなかったのである。たしか、小田実の『何でも見てやろう』にも、アーサー・フロマーの本のことが出ていたはずだと調べてみると、こういう文章が見つかった。小田がヨーロッパを旅行したのは、1959年か1960年だろうと思う。

 (ヨーロッパでアメリカ人がたむろしている場所を探すには)アメリカでのかくれたるベスト・セラー『ヨーロッパ一日五ドル旅行』というのが大いに役たった。この本には、パリその他の観光地の安ホテル・安レストランのリストがかかげられていて、その指示どおりに暮らせば1日五ドルであがるしくみになっている。おどろいたことに、現今のアメリカ人旅行者はたいていこいつを持っているのであった。

 1957年に自費出版した本が、わずか数年でかくも普及したとわかる文章だ。1979年に『地球の歩き方 ヨーロッパ』が発売されるまでは、日本人もこのシリーズを使っていたのだ。
 日本語訳は、少なくとも2冊出たことはわかっている。著者名のカタカナ表記は、原文のママ。

 1963年 『ヨーロッパ(1日5ドル)の旅』(アーサー・フロンマー著、信木三郎訳、日本評論社)
 1981年 『ヨーロッパ1日4000円の旅』(アーサー・フローマー夫妻著、滝本泰行・文江訳、エンジョイ・エコノミック・クラブ発行、大学生協連「CO−OP海外の旅」発売)

 1980年代に団塊ジュニアたちを外国に連れ出したのは、生協ツアーと、DTS(ダイヤモンド・スチューデント・ツアー)だ。生協は、1981年にフロマーの翻訳を出し、DTSは79年にフロマーを翻案した『地球の歩き方』を出したあたりが、なんとも興味深い。リクルートはツアー路線のまま、ツアー広告雑誌「AB−ROAD」を刊行して、バブル景気に乗って、海外旅行者数1700万人時代へと突入していく。
 「1日5ドル」で始まったヨーロッパの旅は、その後どうなったのか。「○ドル」の数字の部分がどう変わったのか詳しいことはよくわからないので、わかったことだけを紹介しておく。
 このシリーズの1978−79年版では「10ドル」。82−83年版では、「20ドル」。86年版では「25ドル」。90年版では「40ドル」、93年版では「45ドル」。2000年版では「From 60 dollars」、2001年版では「From 70 dollars」。いくつかの情報では、1957年以来50周年を記念して、2006年に「From 95 dollars」(あるいは「From 90」という情報もある)で終わりにしたらしいが、なぜかアマゾンでも確認がとれない。
 アーサー・フロマーのガイドブックは、現在のロンリープラネットのような革新的ガイドではないが、「賢く程よい節約旅行」を目指した内容で、それがドル安のせいで、「1日100ドル」を越えるような本にはしたくなかったと、フロマー自身がインタビューで答えている。それが、この「1日○ドル」シリーズを終了させた理由だそうだ。

 


アジア雑語林(188) 2007年6月26日

『地球の歩き方』とアーサー・フロマー その1

 今回は、雑語林186号の続編ということになる。
 インターネットで『地球の歩き方』を巡る話を探していたら、「卒業旅行と『地球の歩き方』の深〜い関係」(2007年3月16日)という文章を見つけた。ヤフーのブログ「勝手にメディア社会論」のなかの一編だ。
 このブログの書き手は、文章を読めば宮崎公立大学助教授新井克弥氏だとすぐわかる。匿名にしているわけではなく、調べれば書き手の名がきちんと明かされていた。新井氏といえば、専攻はメディア論、社会学、旅論などであり、『カオサン探検 ― バックパカーズ・タウン』(双葉社、2000年)の著作もある。
 3月16日付けのこの記事は、「地球の歩き方」(ダイヤモンド・ビッグ社)誕生のいきさつを、現社長西川敏晴氏へのインタビューで明らかにしている。ちなみに、ちょっと解説しておくと、現在の関係でいえば、「地球の歩き方」の発行元がダイヤモンド・ビッグ社で、発売元がその親会社のダイヤモンド社である。
 1970年、すでにダイヤモンド社への就職が決まっていた大学4年生の西川氏は、ヨーロッパへの旅に出たという。その旅の部分を、ブログから引用する。

 西川はモスクワに到着すると、旅支度をはじめるために書店に出かけた。先ず英語版のヨーロッパガイドブックを手に入れようとしたのだ。そして、何冊かをあたっているうちに“One Dallers a day In Europe”という一冊のガイドブックにたどり着く。そこに書いてあったのは、タイトル通り「一日一ドルでヨーロッパを旅する」といった、まさにバックパッキングの指南書だったのだ。西川はこれを片手に数ヶ月のヨーロッパの旅に出た。
 実際にこれを使って見ると、すばらしいの一言。感動した西川は「ダイヤモンド社に入社したら、コイツの日本語版をつくってやろう」と決心する。

 この短い文章だけでも、頭の中が疑問符でいっぱいになってしまう。1970年のモスクワの書店に、ヨーロッパ旅行の英語のガイドブックを売っているかね? 当時、ソビエト人は自由に海外旅行などできないことは周知の事実。では、外国人に売るために英語のガイドブックを輸入していたのか。不自然だが、もしそうだとしても、高額の税金がかかっていたはずだから、西欧で買える本をわざわざモスクワで買うというのはおかしい。
 「モスクワで買った」と西川氏が言い、それを聞いたまま新井氏が書いたのなら、それはそれで、まあ、いいことにしよう。おかしいのは、モスクワで買ったというその本のタイトルだ。まず、「1ドルなら、ドルに複数のSがつくのかおかしいぞ」と思ってよく見たら、この綴りもおかしい。ドルは“daller”ではなく, “dollar”だから、“One Dallers”では二重におかしい。引用部分では日本語は勝手に校正したが、日本語の文章にも誤記が多い。ブログというのは、編集者のいない媒体だから、書き手が注意しないと、誤字誤記だらけになりやすい。大学の助教授だって同様だ。
 日本語の誤字誤記は、この私とて同様で、他人を批判できる立場にないが、この文章の内容は批判したい。
 旅行研究者であり、メディア論の専門家なら、1970年のヨーロッパが、一日一ドルで、はたしてまともに旅行できるだろうかと、疑いを抱く感覚がほしい。これが現在の大学生のレポートなら「致し方ないかもしれない」と諦めるが、1960年生まれの旅行研究者ならば、ちょっとは疑問に思い、調べて欲しかった。先生が、まず調べてほしかった。
 チンピラライターが調べてみました。
 まず、“One Dollar a day In Europe” という書名の本はない。もちろん、“One Dallers・・・”もない。
 これに似たタイトルの本は、海外旅行、とくにヨーロッパ旅行に強い興味を持っている中高年なら誰でも知っている、アーサー・フロマー(Arthur Frommer)のガイドブックだ。ヨーロッパのものは、“Europe on ○ dollars a day” というタイトルで、○のなかに数字が入る。その数字が「1」だった時代があるのか、あるいは1970年当時は何ドルだったのか、調べてみればいい。じつに簡単なことだ。時代によって、ドルが「$」と記号になっていることもあるが、それは内容とは関係ない。
 次回は、その詳しい話を書く。

 


アジア雑語林(187) 2007年6月17日

ガイドブックで紹介される国々(3)
韓国旅行とガイドブック

 いずれ調べてみたいと思っているテーマに、「日韓関係と旅行の歴史」というのがある。まだなにも手をつけていないので、すでに誰かが調べているかもしれないが、それならそれで結構、自分で調べなくてもすむから楽ができる。
 韓国が外国人観光客を受け入れるようになったのは、1964年10月からだそうで、64年の入国者数は2万5000人、73年には68万人になっている。64年の観光客受け入れ解禁に際して、ウォーカーヒルができたのが、1963年だった。このあたりの、朴政権下の対外政策や経済政策をさぐり、観光政策と結びつければ、修士論文くらいにはなる内容だろう。奥は深いのだ。
 さて、まずは手始めに、ガイドブックから日韓関係を探ってみよう。戦前期はともかく、戦後の韓国旅行のガイドブックで、1970年代末までのものを国会図書館の蔵書からリストを作ってみた。
 もっとも古いのは、『東南アジア』(日本交通公社、1966年)である。なぜ、「東南アジア」か。詳細を調べると、この本の正しいタイトルは、『東南アジア 韓国』らしい。私が持っているのは、1981年版のワールドガイド『東南アジア 韓国 インド』(1972年初版、日本交通公社)で、扱っている国を登場順に書き出すと、韓国、香港・マカオ、フィリピン、シンガポール、インドネシア、タイ、ビルマ、マレーシア、インド、ネパール、スリランカである。
 何か国分かをまとめたなかに韓国ガイドが入っているということなら、おそらく『外国旅行案内』(日本交通公社、初版は1952年)が最初だろう。しかし、手元の1956年版には韓国のガイドはない。その後の版では1968年版しか手元になく、これにはもちろん「大韓民国」として、10ページほどのガイドがついている。
 1970年代末までの時点で、一冊すべてが韓国ガイドになっている本を、リストにしてみる。

1972年 『韓国の旅』(ワールドフォトプレス)
1973年 『グリーンガイド 韓国』(山ノ内一夫、秋元書房)
1974年 『ブルーガイド 韓国の旅』(実業之日本社)
      『韓国旅行ガイド』(花曜社)
      『パントラベルガイド 韓国』(パン・ニューズ・インターナショナル)
1975年 『韓国』(日本交通公社)
1977年 『韓国史蹟仏蹟ガイド』(東出版)

 パントラベルガイドというのは、すでに忘れ去られたガイドブックかもしれない。じつは私も、昔から知っていたガイドではない。アジア文庫の小冊子「アジア文庫から」に連載しているわがエッセイ「活字中毒患者のアジア旅行」で、アジアの古いガイドブックをお持ちの方はゆずってくださいと、だいぶ前にお願いしたことがある。
 すると、奇特な読者がいらっしゃって、すぐさまアジア文庫にガイドブックを何冊か送ってくださった。その一冊が、『パントラベルガイド12 東南アジアの旅』(初版1969年、1972年改訂第4版、パン・ニューズ・インターナショナル)だった。いま、また改めて、御礼申し上げます。
 このガイドブックを見て、「ああ、あの出版社か」と思い出した。『ニューヨーク25時』(森田拳次)の出版社だ。この本は1970年代に買って読んだと思う。発売年を確認したくて国会図書館の蔵書検索をしたが、出てこない。パン社のガイドに森田の『ニューヨーク』というタイトルのガイドブックは見つかるが、『ニューヨーク25時』は見つからない。私の勘違いかと思ったが、パン社の『東南アジアの旅』には、書影つきで広告が出ているから、タイトルに間違いはない。この書名で、グーグル検索してもでてこないのはどうしてだろう。森田といえば、「丸出だめ夫」などで知られる有名漫画家で、仕事を中断して2年間ニューヨークに行ってしまったのだった。
 話を戻す。地球の歩き方が欧米中心路線で始まったのに対して、パン社のガイドはアジアもやや力点を置いている。
 というわけで、例によって、資料として、パン・ニューズ・インターナショナルのガイドブックリストを、国会図書館の蔵書分から紹介しておこう。改訂版は省略する。

1965年 シンガポール・ガイド。東南アジアの旅。
1969年 グァム・ミクロネシアの旅。
1970年 アメリカの旅
1974年 ニューヨーク。アラスカの旅。カナダの旅。ヨーロッパ。韓国。
1975年 南太平洋。ハワイ。
1976年 フィリピン。パリ。
1977年 海外ハネムーン。
1979年 アメリカ西海岸
1980年 香港マカオ。台湾。オーストラリア。
1981年 シンガポール・マレーシア。

 パン・ニューズ・インターナショナルという会社は、1985年8月刊の『芹沢博文の娘よ』を最後に、出版界から姿を消している。どうなったのか、その後の噂を耳にしない。

 


アジア雑語林(186) 2007年6月11日

旅行ガイドブックで紹介される国々(2)
地球の歩き方が選んだ国々

 「地球の歩き方」は1979年に初めて姿を見せた。『地球の歩き方 ヨーロッパ編 1980年版』と、『地球の歩き方 アメリカ・カナダ・メキシコ編 1980年版』の2冊で、ダイヤモンド・スチューデント友の会編著、ダイヤモンド・ビッグ社発売だった。細かいことだが、85年秋からは、現在のように地球の歩き方編集室編、ダイヤモンド・ビッグ社発行、ダイヤモンド社発売となる。じつは。もう少し複雑な経緯があるようだが、まあ、これでいいことにする。
 ここでまとめて、1986年末までのラインアップを調べてみよう。同じ地域の本で改訂版として発売された巻は省略し、各国や地域の初版を調べてみる。

1979年
 ・ヨーロッパ
 ・アメリカ・カナダ・メキシコ
1981年 
 ・インド・ネパール
1983年 
 ・オーストラリア・ニュージーランド
 ・ハワイ
1984年 
 ・中国自由旅行
1985年 
 ・東ヨーロッパ
 ・メキシコ・中米
 ・ヨーロッパのいなか
 ・モロッコ・チュニジア・アルジェリア
 ・パリ・フランス
 ・東南アジアA タイ
1986年
 ・東アフリカ ケニア・タンザニア
 ・ニュージーランド
 ・韓国
 ・オーストラリア
 ・アメリカドライブ
 ・成功する留学
 ・東南アジアB シンガポール・マレーシア
 ・トルコ・シリア・ヨルダン
 ・エジプト・イスラエル
 ・スペイン・ポルトガル

 さて、このリストを読んでみよう。他社のガイドブックシリーズとの違いは、「ハワイ」よりも早く、第3巻目として「インド」が登場していることだろう。その理由はふたつある。まず、このガイドブックのシリーズが、若者向け格安旅行のガイドとして創刊されたことだ。そのため、ツアー客相手の当時の旅行ガイドとは、まったく違うラインアップになっている。もう一点は、編集者が元々リュックサックを背負って旅した若者だということで、やはり従来のガイドブック編集者とは違う旅行体験をしていることだ。そういう経歴が、オーソドックスなガイドブックとは違う国選定をしている。
 しかし、このリストを見てわかるように、欧米中心が基本だ。欧米のキリスト教文明の国々の若者が、新しい精神的活路をインドに求めて、インド詣をしてきた西洋人の旅行体験をそのままコピーしたラインアップともいえる。日本の若者が、自らの意志でアジアに出たのではなく、西洋の若者の間にインドが流行っているから、じゃあ、インドに行ってみるかという風潮だった。
 その証拠に上記22冊のなかで、アジアのガイドはまだ少ない。香港・マカオ、台湾、フィリピン、インドネシアもまだない。西洋人が興味を持たないアジアは、日本人も興味を持たなかったのだ。1971年の「アンアン」でインドやネパールを特集したのも、1977年に横尾忠則が『インドへ』を出したのも、結局は西洋人のマネである。
 ここで、日本人の訪問先国別ベスト5のアジア編を、ちょっと調べてみよう。

1975年 1980年 1985年 1990年
1 台湾 1 台湾 1 韓国 1 韓国
2 香港 2 香港 2 香港 2 香港
3 韓国 3 韓国 3 台湾 3 シンガポール
4 マカオ 4 シンガポール 4 中国 4 台湾
5 フィリピン 5 フィリピン 5 シンガポール 5 タイ

 1985年当時の日本人訪問者数ベスト5の国で、地球の歩き方がカバーしているのは中国だけである。地球の歩き方と当時の若者は、アジアを嫌っていた。そう思う。嫌っていた理由は、当時のアジア、東アジアや東南アジアは「おっさんの売春旅行地」であり「農協のおばさん、おじさんのみっともない団体旅行地」というイメージが、当時の若者にも出版社側にも、濃厚にあったからだ。だから、若者向けのガイドブックとしては、アジアは敬遠されたのだ。そういう時代の雰囲気を、私は旅行者として実感している。
 若者に限らず、当時の日本人は、日本より文明が劣った国、不潔な国には、基本的には興味はなかったのだ。多くの人にとって、観光旅行とは、日本より優れた文明国を見て、感心・感動する行為だった。
 こうした意識を変えようとしたのが、1983年から刊行が始まる「宝島スーパーガイド・アジア」(JICC出版局、現在の宝島社)である。若者の旅行ガイドということでは、地球の歩き方はメジャーであり、宝島スーパーガイドはマイナーである。
 ガイドブックにおける「アジア再発見」は、1980年代だという事がわかる。80年代前半は、宝島スーパーガイド。後半は、その動きを見て地球の歩き方が動き出し、87年には「バリとインドネシア」「ビルマ」「台湾」「タイ」などを出し始める。
 前回と今回のコラムは、ダイヤモンド・ビッグ社の西川社長らの創刊関係者の目には入らないだろうが、時代の当事者として、ぜひ記録を残してもらいたい。上下2段組400ページの『地球の歩き方風雲録』と『HIS血風録』の2冊が世に出れば、若者の海外旅行史の骨格部分はできあがる。もう一冊マイナー編として加えるなら、『オデッセイから旅行人へ』だろう。
 と書いて、インターネットで旅行関連の情報を探っていたら、「地球の歩き方 創世記」というサイトで、すでにその歴史を追う連載記事が載っていた。時間の流れがよくわからず、資料的にも乏しいが、とにかく、自分たちの歴史を書き残しておこうという姿勢に、一応の敬意を払っておこう。連載はいつ終わるともなく続くのだろうが、日本の戦後史をふまえた文章を期待する。

 


アジア雑語林(185) 2007年6月3日

旅行ガイドブックで紹介される国々(1)
ダイヤモンドハンディガイドの場合

 ある出版社が、海外旅行ガイドブックをある程度まとめて出すとする。例えば第一期10冊出すなら、どういう国を、どういう順序で出すかを考えるわけで、それは当然、売れるだろうと思われる順に選定しているはずだ。売れる順は、一般的にいえば、日本人訪問者数が多い国や地域が優先される、はずだ。
 この順序が、いつの時代も変わらないというわけではない。中国のように、かつて自由に旅行できなかった国は、その時代は選定されない。また、オリンピックブームなど時代の流行というのもあって、選択する国が変わることもある。あるいは、出版社のカラーやそのガイドブックのシリーズとしての特色によっても、選ぶ国に違いが出てくる。
 というようなことをふまえて、ガイドブックが選んだ国や地域の話をしてみよう。

  ■ダイヤモンドハンディガイド 世界の都市シリーズ
 かつて、ダイヤモンド社がこんな旅行ガイドを出していたとは知らなかった。もしかして古本屋で見かけたかもしれないが、記憶は一切ない。
 記録では、1968年と69年の2年間に8冊出していることがわかっている。8冊以上あるかもしれないが、どうもはっきりわからない。とにかく、その8冊のラインアップを紹介してみよう。

1968年出版
・サンフランシスコ・ロサンゼルス
・ストックホルム・コペンハーゲン・アムステルダム
・ニューヨーク・ワシントン・ボストン
・ベルリン・フランクフルト・ハンブルグ
1969年出版
・マニラ・バンコック・クアラルンプール・シンガポール
・モスクワ・レニングラード・キエフ
・ロンドン
・ローマ・ナポリ・フィレンツェ・ミラノ・ベニス

 この8冊のラインアップを眺めて、旅行に多少なりとも興味や知識がある人は、「なんだ、この選定は?」と首をかしげるに違いない。ハワイ、韓国、フランスが欠けているのに、北欧が入っている。ということは、8冊ではなく、もっと出ていたのではないかと思われるのだが、確認のしようがない。オランダや北欧が入っているのは、KLMやSASが協力したのだろうかなどと考えてみるのだが、よくわからない。
 この時代のオーソドックスなガイドブックでは、どういう国が選ばれているのかブルーガイド(実業之日本社)で確認しておこう。
 1960年代(66〜69年)に出版されたブルーガイド海外版は、次のようになる。

1 香港・マカオ・台湾
2 スイス・オーストリア
3 ヨーロッパ一周の旅
4 ハワイの旅
5 メキシコの旅
6 世界一周 空の旅
7 パリとフランス
8 イギリスの旅
9 ドイツの旅
10 ヨーロッパ・ユースホステルの旅

 初期のブルーガイド海外版は、実質的には日本航空執筆、実業之日本社編集・発売といった体制だったので、日航やジャルパックの営業と連動している。「世界一周 空の旅」という本が出たのは、1967年に日航が世界一周便を飛ばしたからだ。「メキシコの旅」は、68年のメキシコオリンピック関連で登場している。
 上にあげたガイドブックを作っていた時代の、日本人旅行者の渡航先はどうだったのか。1967年の「訪問先国別・日本人海外旅行者数」のベスト10を調べてみた。

1 西ドイツ    9万4364人
2 香港      8万5512
3 台湾      7万2063
4 アメリカ本土  7万8776
5 イタリア    6万5100
6 スイス     5万5369
7 イギリス    3万7400
8 マカオ     3万6154
9 ハワイ     2万6915
10 タイ      2万4124

 この数字は各国の政府観光局の調査をもとに、日本の国際観光振興会がまとめたものだが、なぜかフランスの数字が「不明」になっている。1970年代以降の資料で見ると、フランスに行った日本人はイタリアに行った人よりやや多いというくらいなので、暫定5位がフランスかもしれない。

 


アジア雑語林(184) 2007年5月24日

ガードマンの海外渡航(2)

 ザ・ガードマンのシリーズに海外ロケをしたものがあると知ったのは、DVDの紹介を見たからだ。「TVシリーズ・リバイバル 『ザ・ガードマン』海外ロケセレクション(1)」(発売元スパック)というのがあるそうで、海外ロケをした6作がセットになって収められているらしい。DVDの解説によると、以下のようになる。

第92話  「ロンドンの青い霧」(1966年放送、ロケ地:ロンドン)
第93話  「東京・ロンドン応答せよ」(1967年、アムステルダム)
第96話  「アムステルダムの女」(1967年、アムステルダム)
第157話 「ガードマン、パリで大奮闘」(1968年、アムステルダム、パリ)
第158話 「ガードマン、スイス追撃作戦」(1968年、パリ、スイス)
第161話 「恋のアムステルダム」(1968年、アムステルダム、西ドイツ、スイス)

 このDVDは2003年6月にでているが、続編の(2)が出た形跡はない。そこで、全350話から、タイトルに外国の地名などが出てくる作品のリストを作ってみたくなった。タイトル名だけから選んだので、海外ロケ作品かどうかはわからないが、一応参考までに。

 1969年放送
第208話 「逃亡のアムステルダム」
 1970年放送
第253話 「逃亡のカサブランカ」
第256話 「アムステルダム空港の女」
第261話 「モロッコの真っ赤な太陽」
第284話 「ヨーロッパで顔を失った男」
 1971年放送
第300話 「ひとりぼっちの坊や、ハワイ珍道中」
第313話 「素晴らしいハワイ! 恋とビキニと殺人」
第314話 「おんな二人、ヨーロッパ珍道中」
第333話 「フランスで死んだ女」

 こうして、リストを作ってみたら「な〜るほど」とわかってくることがある。ヨーロッパのなかでは観光地としてはマイナーなアムステルダムがタイトル名に入っているのが4作ある。ということは、ザ・ガードマン海外ロケのバックには、KLMオランダ航空がついていたと想像できる。そのあたりをインターネットで調べると、出演者がKLMのショルダーバッグを肩にして登場というシーンもあるそうで、私の勘は大当たりらしい。
 1966年というのは、一般の日本人にはまだまだ海外旅行は縁遠いもので、テレビ番組もまだ海外ロケが手軽にできる時代ではなかった。
 この時代のオランダと日本の関係で、すぐに思いつくのは1971年に開業したホテル・オークラ・アムステルダムであり、同じ年に昭和天皇がオランダを訪問している。そうした事情と、ザ・ガードマン海外ロケと関係があるのかどうかまだわからないが、調べてみればなにか情報が出てくるかもしれない。そういえば、松本清張の『アムステルダム運河殺人事件』が、「週刊朝日カラー別冊」に発表されたのが69年。単行本は翌70年だった。

 


アジア雑語林(183) 2007年5月15日

ガードマンの海外渡航(1)

 私はどうやら虚構というものが苦手らしい。小説を読まないだけではなく、テレビドラマもほとんど見ていない。とくに、ウソ臭いことで知られる大映テレビのドラマ(だから大好きという人もいて、とにかくアクが強いものが多い)は、まるで受けつかない。子供のころから、学園ものが嫌いということも関係しているのかもしれない。
 ドラマが嫌いといっても、映画は見るのだから、単純に「虚構嫌い」というわけでもなさそうだ。ベタで、臭いドラマが嫌いということかもしれない。だからプロレスも楽しめないのかもしれない。因縁の対戦とか、マイクパフォーマンスなんざ、わざとらしくて、恥ずかしくて見ていられないのだ。
 映画は見るが、テレビドラマは見ないという性癖のせいで、「日本映画と海外ロケ」の調査はかなりやったが、テレビドラマのほうは、かつてこの雑語林で「快傑ハリマオ」や「月光仮面」の話を書いただけで終わっていた。簡単に説明すれば、この雑語林の129〜133回でハリマオなどの話をした。1960年から始まった「快傑ハリマオ」は日本のテレビドラマ史上特筆すべきは、最初のカラー作品であると同時に、海外ロケをした最初のテレビドラマだということだ。そこまで調べはついていた。
 ところがさっき、偶然にも「ザ・ガードマン」の資料を見かけたら、ちょっと調べてみたくなった。66年放送分以降、たびたび海外ロケをしているというのだ。「快傑ハリマオ」からは6年遅れてはいるが、連続テレビドラマで海外ロケというのは珍しい時代だったはずだ。これは自称海外旅行史研究者、あるいは自称異文化接触史研究者としては、調べなくてはいけないという気分になってくるではないか。
 ザ・ガードマンは有名だから、もちろんその名は知っているが、おそらく一度も見たことがないと思う。そこで、ちょっと調べると、こういうドラマだったらしい。
 1965年4月から1971年まで全350話も続いたTBSの人気テレビドラマで、製作は大映テレビの前身である大映テレビ室。放送当初から47話までは「東京警備指令 ザ・ガードマン」というタイトルで、以降は「ザ・ガードマン」になる。
 日本で生まれたばかりの警備保障会社(日本警備保障、のちのセコム)をモデルにして、主なレギュラー出演者は、宇津井健、藤巻潤、川津祐介、倉石功ほか。最高視聴率は41%だったというから、今では信じられないお化け番組だったということになる。
 ここから先は長くなるので、次回にまわすことにする。

 


アジア雑語林(182) 2007年5月6日

青江三奈から始まって(2) わかれの空港

 歌謡曲の世界で、わかれの場といえば、1960年代までは波止場、港、駅だろうが、70年代に入ると空港になるのだろうか。海外旅行史研究者としては、歌謡曲のなかの空港が気になっていた。
 青江三奈の「国際線待合室」は、歌詞に「よその国」「異国」ということばが出てきて、外国に行った人を思う感情がはっきり出ている。異国に行ってしまったというのだから、たんなる観光旅行ではなく、移住なり赴任で外国に行くことをイメージしているのだろう。あるいは、旅行ではあっても、帰国がいつになるかわららない長期の旅行をイメージしているのかもしれない。
 空港の歌といって、私が思い浮かんだ唯一のものが、その名も「空港」(テレサ・テン、1974年)なのだが、歌詞では国内線か国際線かの区別がつかない。男が自宅に帰るのを、愛人である私が空港で見送るという歌詞で、「外国」はなにも感じない。
 同じ台湾出身の歌手がうたった歌が見つかった。「空港」よりも3年も前に出た「雨のエアポート」という歌は、聞けばわかるかもしれないが、題名に記憶はなかった。欧陽菲菲が歌った1971年の歌だ。橋本淳の歌詞を読むと、「明日はよその国・・・」とあって、明らかに国際線だとわかる。恋人が外国に旅立っていく、その悲しみを歌ったものだ。
 さて、ここでちょっと疑問が浮かんだ。
 74年のテレサ・テンの歌には国際線が出てこない。
 それより前の、71年の欧陽菲菲の歌には国際線が出てくる。
 ふたりは台湾出身、日本人ではない。
 だから、国際線?
 でも、1971年?
 あっ、そうか。わかった。
 1971年の国連。中華民国(台湾)ではなく、中華人民共和国が正式・唯一の「中国」であると決議された年だ。1972年には、その中国と「国交正常化」というのを行い、日本もアメリカも台湾を捨てた。そう考えると、好きなのに、あなたは去って行くという歌詞は、意味深い。レコード会社や作詞家・歌手に、そういう意図があったかどうかわからないが(多分、ないだろう)、じっくりと歌詞を政治的に読むと、「なるほど」という内容なのである。
 ほかにも空港関連の歌はあるが、なにか書きたいという暗示はなにも感じなかった。どうも、空港という場所は、歌とは相性がよくないのだろうか。
 空港で、ときどき考えることがある。日本人だけのことを考えても、利用客のなかには、50年ぶりに日本に帰国した人もいれば、生まれて初めて日本に来た日本人もいるだろう。空港での別れが、一生の別れになることがわかっている別れもある。さまざまな出会いと別れがありながら、ドラマや歌になりにくいのは、空港があまりに近代的すぎて、情感に乏しいせいかもしれないとも思う。

 


アジア雑語林(181) 2007年4月29日

青江三奈から始まって(1) 国際線待合室

 録画したままになっていた青江三奈の特番(NHK・BS)をやっと見た。青江のファンというわけではないが、あのハスキーボイスは好みで、この番組を機会に、彼女の全貌を聞いて見ようと思ったのである。ヒット曲や、ニューヨークで録音したジャズなどを聞いたが、どうもしっくりせず、あらためてCDを買おうという気にはならなかった。元クラブ歌手というのは、器用だが個性に欠けるという難点がある。
 ただ、1曲、「国際線待合室」(1970年)という歌が、気にかかった。いままで一度も聴いた記憶がない歌だ。旅行研究者のアンテナが、この歌に異変をキャッチしたのである。
 国際空港を思い浮かべて欲しい。国際線待合室というのは、乗り換え客が時間をつぶす部屋か、VIP専用待合室だ。それに加えて、ゲート付近の待合室も含めていい。
 さて、この「国際線待合室」(作詞:千坊さかえ)は、わかれた男を恋しく思う女ごころを歌ったものだ。
 あの人とわかれた空港の、あの国際線待合室にまたひとりで来て、あなたを思い出して、ああ涙の国際線待合室、という内容なのだが、そもそも見送りの人が、出国審査後にある国際線待合室までは来られないのだし、上野駅じゃないんだから、「あの人」の思い出の待合室に、ふらりとひとり淋しくやって来ることもできないのだ。作詞家もレコード会社やプロダクションの関係者も、まだ国際空港がよくわかっていない時代だから、駅や国内空港と国際空港との区別がつかなかったのだと思う。
 この「国際線待合室」という歌は、映画「女の警察・国際線待合室」(日活、1970年)の主題歌として発売されたものだ。梶山季之の小説を映画化したもので、全シリーズ4作の3作目がこの「女の警察・国際線待合室」だ。主演は小林旭。青江三奈は4作ともバーのママ役で出演している。
 さて、映画「女の警察・国際線待合室」のあらすじは、こうだ。行方不明になったホステスは、商社の専務の手でシンガポールの私娼窟に売られていたことがわかった。そこで、「女の警察」こと小林旭が動き出す。なんだか、「特命係長・只野仁」(テレビ朝日)のようなものだ。「小林旭とアジア」という方向に話が進むと大きくずれるので、ここでは触れない。
 さて、こういうストーリーなら、旅行研究者とアジア研究者の両方のアンテナが動き出す。
 いつからあった都市伝説かはわからないが、日本の女が誘拐されて、アジアや北アフリカに売られるという噂があった。洋服屋の試着室に入ると、鏡がドアのように開いて連れ込まれ、袋に入れられて貨物船に乗せられて、異国に送られるというのが基本で、それに薬物中毒にするとか手足が切り取られるといった噂が加わる。洋服屋ではなく、みやげ物屋やレストランのトイレで誘拐されるという筋書きもあったようだ。
 英語のSHANGHAI(上海)という語が、受身の形で使われ「誘拐される」という意味もあったらしいが、若い女が誘拐されて国外に転売されるという都市伝説は、いったい、いつ、どこで生まれたものだろうか。
 そういえば、若山富三郎主演の「旅に出た極道」(東映、1969)に、香港に向かう船の底に、香港で売られる日本人ダンサーたちが閉じ込められているというシーンがあった。だから、海外旅行史や異文化研究の資料としても、この時代の映画がおもしろいのだ。しかし、映画ではなく現実はどうかというと、誘拐されたどころか、カネ欲しさに密航し、現地で不法滞在・不法就労していたのだ。
 1960年代でも、日本はまだ貧しかったのだ。

 


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