前川健一 著作一覧


アジア雑語林(180) 2007年4月20日

国立国会図書館で遊ぶ(4) ポケット文春と「ある記」

 文藝春秋は創立40周年記念事業として、1962年9月に新書版の「ポケット文春」をだした。当時の社名は文藝春秋新社だ。「ポケット」というのは、当時すでに発行されていた「ハヤカワ・ポケット・ブックス」や「新潮ポケット・ライブラリー」の流れに沿うもので、この時代は新書版サイズの本が流行していたのである。
 新書版サイズであって、新書と呼ばないのは、小説もかなり含まれているからだ。ポケット文春の場合、山田風太郎、黒岩重吾、松本清張などの小説があって、古書市場ではノンフィクションよりもこうした小説のほうが重要視されている。
 ポケット文春の創刊事情はわかったが、いつまで出版されたのかがよくわからない。いったい何点出版されたのかもわからない。国会図書館の蔵書からリストを作ると、『香水のすすめ』(堅田道久、1962)から、『梶山源氏 ほへと・の巻』梶山季之、1972)まで206冊ということになるが、これが総数かどうかわからない。
 ポケット文春の全貌を明らかにするのがこのコラムの目的ではなく、国会図書館で遊ぶのが目的だから、詳しいことは気にしない。
 さて、小説以外で、書名から旅行や異文化事情などを扱ったと推察される本を書き出してみる。書名からの判断だから、とんだ勘違いもあるかもしれないが、まあ、いいや。

『素晴しいヨット旅行』(柏村勲、1962)
『太平洋ひとりぼっち』(堀江謙一、1962)
『世界無責任旅行』(末武正明、1962)
『エジプトないしょばなし』(田中四郎、1962)
『二人だけのアメリカ』(山川和子、1963)
『見本市船さくら丸』(小山房二、1963)
『世界けんか旅行』(富井軌一、1964)
『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三、1965)
『500日世界ドライブ』(芝康亘、1966)

 このシリーズで、私が初めて読んだのは『エジプトないしょばなし』だ。1960年代後半、神保町の古本屋のワゴンで見つけたのだと思う。そのあと、『太平洋ひとりぼっち』を買った。『世界無責任旅行』は、つい先日買った。ポケット文春のノンフィクションでもっとも話題になったのは、この『太平洋ひとりぼっち』か『野生のエルザ』(ジェイ・アダムソン、1968)だろうか。
 『ヨーロッパ退屈日記』はこのシリーズで読んだのか、あるいは文春文庫版になってから読んだのか、はっきりとは覚えていない。ポケット文春の『ヨーロッパ退屈日記』の初版初刷時は伊丹一三名義だったが、直後に改名したので、重版では「十三」名になっている。国会図書館にあるのは重版なので、「十三」名なのである。
 『ヨーロッパ退屈日記』といえば、そのなかで伊丹は「書物や記事の題名で、『なんとかひとりある記』とか『食べある記』といったたぐい」が嫌いだと書いている。そう書きたくなるほど、当時は「ある記」が多かったという記憶が私にもある。そこで、国会図書館遊びだ。
 「ある記」「1980年までの出版」で検索すると、ぞろぞろと87冊出てくる。
 第一号は、『駆ある記』(前橋耕圃、霜旦社執事、大正11)だ。戦後の本で、有名な書き手のものでは、こうなる。

『巴里ひとりある記』(高峰秀子、映画世界社、1953)
『世界飛びある記』(徳川夢声、桃園書房、1954)
『世界とびある記』(兼高かおる、光書房、1959)
『ぼくのヨーロッパ飛びある記』(高木彬光、日本文華社、1966)
『東京珍味たべある記』(富永一朗、柴田書店、1967)
『外国映画25年みてある記 アメリカ編』(双葉十三郎、近代映画社、1978) 

 以上が例外的存在で、高峰、兼高、富永の三冊はすでに読んでいる。残りはあとは自費出版かそれに近い旅行記か、あるいは団体の旅行報告書のたぐいで、わざわざ読む価値のない本だと思われる。とはいえ、『韓国青果業界駆けある記』(大沢常太郎、東京都青果物商業組合、1969)なんかはおもしろそうだ。1960年代の韓国の野菜事情がわかる日本語資料がほかにどれだけあるかわからないが、ちゃんとした報告書ならおもしろいはずだが、さあて、どうかなあ。いままで、期待をかなり裏切られているからなあ。

 


アジア雑語林(179) 2007年4月12日

国立国会図書館遊び(3) 竹村健一の本で遊ぶ

 戦後20年ほどの海外旅行事情に興味がある人は、それほど多くはないだろう。そのうちの、わずかな人は、もしかすると竹村健一の名が引っかかっているかもしれない。もうだいぶ前になるが、「旅行人」編集部が国会図書館の蔵書のなかから、おもしろそうな旅行書を探していて、若き竹村健一が書いた本を見つけたことがある。アフリカの本など、旅行の本を書いていた過去は私も少し知っていたが、次のような本も書いていたとは知らなかった。書名から類推して海外旅行に関連ありそうな本のなかから、1960年代末までに出版された本を書き出してみる。英会話など英語の本はあまりに多いので、省略する。

1955年 『千五百円世界一周記』(関書院)
1957年 『ある無銭旅行者の記録』(隆文館) 
1964年 『安く海外旅行をする法』(野田経済社)
      『海外の生活ガイド』(教学研究社)
1965年 『海外スマート旅行』(実業之日本社)
1966年 『体験的アメリカ旅行ガイド』(吾妻書房)
1967年 『世界の女は俺の手に』(桃源社)
1969年 『アフリカ』(白陵社)

 竹村は、1930年生まれ。1953年に大学を卒業し、毎日新聞社に入社するが、同年7月に第1回のフルブライト留学生としてアメリカに渡った。アメリカ文化の研究が目的だったそうだ。翌54年9月にフランスに渡り、年末までヨーロッパ、インド、香港を旅して帰国。55年から英文毎日編集部に復職した。帰国してすぐ、海外旅行と英会話の本を量産する。
 フルブライト留学といえば、小田実の名もすぐに思い浮かぶ。小田が留学したのは58年で、『何でも見てやろう』を出したのは61年だ。竹村の本はすぐに消えたが、小田の本は出版後46年たった現在でもまだ入手できる。若者にも広く読み継がれている。
 世間では、「量は質に転化する」とか「量は質を凌駕する」というが、それは間違いだと証明しているのが竹村健一だ。1960年代に50冊の本を出している。1970年だけで11冊。今日まですでに500冊以上もの本を出していながら、結局ゴミの山を作っただけで終わった。ゴミに飛びついた日本人がいたから、月刊誌のように次々と単行本を出していったのだ。こういう現実を知ると、日本人というのは「プロジェクトX」が描き出したほどには利口ではないとわかる。
 アホな読者を手玉にとって、本を買わせる竹村の腕は、ある意味、見事なものだ。粗製乱造というのは、ある種、才能である。粗製という粗悪品は誰にでも作れるが、その粗製を乱造と呼ばれるほど持続的に量産するには、並外れた才能が必要だ。出版社が相手にしないような粗製を作っていては、次が出せない。
 自分がいかにも大物であるか見せる術に長けているのだろう。英語の記事を日本語に要約するだけで、「さすが、先生、すばらしい」と、鄙の○○クラブや各種商工会議所会員を感心させるだけのハッタリも必要だ。大物ぶりを自己演出できれば、読者と出版社はついてきて、量産体制が整う。
 そういう商売力には優れているが、いい本を書く才能はないらしい。そうそう、竹村が商売を学んだのは山陽特殊製鋼だそうで、そう、「華麗なる一族」の会社ですよ。
 今回、竹村の著作リストを眺めて、私が初めて読んだ竹村の本を思い出した。『虹を追った男』(講談社、1969)は、サブタイトルが「チェ・ゲバラの猛烈な生涯」だ。ゲバラの評伝だと思って読み始め、たしかに評伝なのだが、文中、いきなり「私は・・」と竹村本人が登場して、「なんだ、これ!」と、思った。高校生でも、竹村のインチキぶりには気がついたのだ。定価380円の本を、神保町のワゴンセールで100円くらいだったと思う。さっき。ネット古書店で調べたら4200円の値段がついていたが、そんな価値のない本ですよ。騙されちゃいけない。

 


アジア雑語林(178) 2007年4月5日

国立国会図書館遊び(2) ワールドフォトプレスのガイドブック

 1970年代、海外旅行のガイドブックといえば、交通公社と実業之日本社が双璧だった。単発か、数冊止まりのシリーズはいくつもの出版社から発売されているが、まとまった冊数が出ていたものといえば、ワールドフォトプレスの「ワールドトラベルブック」だけだろう。双璧の2社と比べると、垢抜けないデザインだが、本によってはこの双璧よりも実用に徹しているから、こまごました情報が詰まっている。それが、今、貴重な資料となっている。たとえば、『タイの旅』には、バンコクのイラストマップがついていて、改訂版が出るたびにイラストも書き直されている。だから、1970年代末のシーロム通りやラチャパロップ通りにどんな店があったかが、よくわかるのである。
 点数があまりに多いので、アジアの旅行ガイドだけを年表風に書き出してみよう。ふたたび繰り返すが、このリストはあくまで国会図書館の蔵書リストであって、出版社のものではない。「出版年表がもしあったら。見せていただきたい」とワールドフォトプレスに電話したら、「そういうものはありません」ということだった。いつ、どんな本を出したか、当事者の出版社でもわからないのだ。だから、国会図書館の資料を使うしかないのだ。基本的には初版を取り上げるが、初版がわからないものは改訂版を書き出す。
 ちなみに、手元の『インドネシアの旅』の1986年版に載っているリストによれば、『ハワイの旅』から『ソ連・東ヨーロッパ』まで26巻出版されているとわかる。

1972 『香港・マカオの旅』
     『韓国の旅』
     『シンガポールの旅』
     『最新中国の旅』
     『最新東南アジアの旅』
1973 『インドの旅』
     『ポケットガイド 南ベトナム』 
     『ポケットガイド 台湾』
     『ポケットガイド バンコク』
1976 『インドネシアの旅』
     『中近東・アフリカの旅』
1979 『マレーシアの旅 改訂版』
     『インド・スリランカの旅 改訂版』
     『タイ・ビルマの旅 改訂第6版』
1980 『フィリピンの旅 改訂版』

 ちょっと解説を加えておくと、1972年と73年に出版された14冊は、発行がワールドフォトプレスで、発売は三修社となっている。74年にガイドブックの出版はなかったのか、あるいは、たんに国会図書館に保管されていないだけかわからないが、とにかく、74年は空白で、75年の『台湾の旅 改訂3版』以降は、発行・発売ともにワールドフォトプレスになる。
 アジア旅行に多少なりとも興味のある人なら、1972年の『最新中国の旅』が気になるはずだ。このガイドブックのサブタイトルは、「パンダちゃんから今日の中国まで全ガイド付き」となっている。1972年といえば、日中国交正常化の年で、パンダが日本にやってきた年でもある。田中角栄、周恩来、芧台酒、熱烈歓迎などがキーワードの年だ。
 だから、それに便乗した企画だろうが、中国旅行の自由化にはまだほど遠かった。親族訪問や友好団体の親善旅行などが細々と催行されたが、交通や宿泊施設などの不備が多く、中国は、旅行するにはまだ早すぎた。
 その証拠に、国会図書館の蔵書では、1972年と73年の2年間に発行された中国のガイドブックは、この『最新中国の旅』、たった1冊だけである。
 1973年の3冊の「ポケットガイド」もわからない。私の手元には『タイの旅』(1973年初版発行 1975年改訂第3版発行)があるが、そもそも『タイの旅』(1973年初版)というのはなかったと思われる。『ポケットガイド バンコク』が75年に『タイの旅』に変わり、間もなく『タイ・ビルマの旅』に変わっている。
 書誌学や図書館学の基礎も学んだことはないが、ガイドブックの奥付けというのは一筋縄ではいかない代物なのだ。

 


アジア雑語林(177) 2007年3月29日

国立国会図書館遊び(1) JTBのガイドブック 

 国会図書館には、一度しか行ったことがない。
 図書館の静けさというのがどうにも苦手で、圧迫されているような気分になって、長居ができない。国会図書館の場合は、利用者が勝手に書棚から本を選べる開架式ではなく、カウンターで係員に読みたい本を請求して倉庫から出してもらう閉架式だから、山のような本に圧倒・圧迫される重圧感はないものの、息苦しくなることには変わりない。
 貴重な本をピンポイントで探し、読むには、国会図書館は日本一すばらしい施設だとは思うが、私のようないい加減な読者には向いていない。本を読むなら、図書館よりも神田神保町あたりの喫茶店のほうが私にはふさわしいし、そして喫茶店よりも電車のほうがもっと集中して読める。
 国会図書館には、余程の事情がなければ今後も行かないと思うが、インターネットのNDL―OPAC(国立国会図書館蔵書検索・申し込みシステム)はよく利用している。例えば、ある作家の著書リストを見たいときだ。あやふやな記憶の書名や発行年の確認や、著作年表も確認できる。あるいは、昭和初めころの人物で、名前しかわからない人物をこのシステムで検索すれば、著作リストが出てくることがある。これで、その人物のヒントをつかむ。
 このシステムで検索できるのは、もちろん蔵書リストからの検索であって、全出版物から検索できるわけではない。国会図書館に保存されていなければ検索できない。
 今夜は、国会図書館の蔵書検索システムを使って、日本交通公社(以下JTB)の海外旅行ガイドブックを調べてみたくなった。「ブルーガイド」を出している実業之日本社にはちゃんとした出版年表があって、日本人の海外旅行史の取材時には厚いコピーをいただいたのだが、JTBにはきちんとした出版年表というものはどうもないらしい。雑誌「旅」の仕事をしていたときに、少なくても1960年代あたりまでの出版年表を見せてほしいと編集部にお願いしたのだが、不完全なリストしか見せてもらえなかった。国会図書館にJTBの全出版物が保存されているわけではないが、「旅」編集部でもらった出版リストよりも、国会図書館の蔵書リストのほうが役に立ちそうだ。
 旅行代理店や海外出張がある企業や団体用の『外国旅行案内』(1952年〜 )と、その書名を変えた『海外旅行案内』(1977〜82年)を除いた一般的な旅行ガイドブックを調べてみる。
 1960年代末までに出版されたJTBの海外旅行ガイドブックは、国会図書館に9冊ある。改訂版などの版違いをいっしょにすると、次の6冊だ。
 『東南アジア』(1964)、『ハワイ』(1969)の2冊は改訂版しか保存されていない。初版がいつなのかわからないのだが、おそらく海外旅行が自由化される1964年の前年である63年だろうと思われる。ほかに『異国の街』(1965)、『世界フレッシュ旅行 1、2』(1967)、『ヨーロッパ』(1969年)がある。
 1960年代は、国内編といっしょに「JTBガイドブック」というシリーズ名になっているが、70年代になると、「海外ガイド」として外国編が別枠になる。1971年の『ハワイ』から、1975年の『メキシコ』までリストには24冊載っている。全部を紹介すると長くなるので、アジア編だけを初版年といっしょに紹介してみよう。

1972年 『香港・マカオ・台湾』
1973年 『バンコク・シンガポール・バーリ』(この本の現物を持っているので、バーリではなく、「バリ」だと確認できる。国会図書館側の誤記だ)、『インド』
1975年 『韓国』、『フィリピン』

 このガイドシリーズは、わずか160ページほどの薄いもので、1970年の『阿蘇・南九州』から始まった「交通公社のポケットガイド」の外国編という位置だったと思われる。のちに外国編もポケットガイドに入り、途中「JTBのポケットガイド」とシリーズ名が変わり200点ほど出版されている。「ポケットガイド」シリーズ初期のアジア本は、次のようになる。

1979年 『インド・ネパール・スリランカ』、『香港・マカオ・台湾』、『韓国』、『タイ・マレーシア』、『シンガポール・インドネシア』
1980年 『フィリピン』
1983年 『東南アジア』、『中近東・エジプト・パキスタン』

「ポケットガイド」と平行して、「ワールドガイド」という一風変わったガイドブックシリーズで、43冊出ている。
そのいくつかを紹介してみる。

『ヨーロッパスキー旅行』(1970)
『中南米・メキシコ・カリブ海』(1975)
『ヤングのヨーロッパ旅行』(1976)
『ヨーロッパ鉄道旅行』(1977)
『ヨーロッパの美術館博物館』(1977)
『ヨーロッパでの暮し方』(1978)
『アメリカ留学ガイド』(1980)

 こういうリストを眺めてみれば、「一生に一度の海外旅行」という夢をかなえた上流階級の人たちにとって、2度目は自分の好みに合った旅行をしたいという希望をかなえるガイドブックがこれだろう。「好みに合った」といっても、まだ個人旅行の時代ではなく、スキーツアーといった団体旅行や、滞在型ツアーの自由時間に美術館巡りをするという旅だろう。
 それと同時に、海外旅行が若者にも少しずつ浸透してきたということだ。『ヤングのヨーロッパ旅行』が出た1976年ごろには、すでに大学生向けの卒業旅行のツアーが企画されていた。そのあたりのことを書くときりがないので、省略する。

追記:1960年代のガイドブックに『アロハハワイ』(JTB 1963)を書き忘れたので、追加しておきます。

 


アジア雑語林(176) 2007年3月20日

外国語学習の変遷

 日本人の外国語学習史に興味があって、ときどき気になって調べてみたくなる。英語学習史を研究している人は大勢いるだろうが、私が知りたいのは英語も含めた外国語の学習史だ。つまり、日本人はさまざまな外国語をいつから、どのように、どの程度学習してきたのかということだ。1980年代でさえ、タイ語が学べる教室は全国でもそれほどなかったのである。タイ語だといかにもマイナーだと思うだろうが、イタリア語やポルトガル語だって、簡単に勉強できたわけではない。
 日本人の外国語学習は、漢文という特殊例を別にすれば、幕末の一時期にオランダ語時代があり、そのあとは現在までずっと英語が第一外国語だろうと思う。
 問題は英語以外の言語で、時代状況によって、人気不人気の差がでてくるのだろう。
 ある大学の教授と話していたら、彼の大学ではすでに「仏文科」というのは廃止されたという。ドイツ文学科もなければ、英米文学科さえなくなったという。専修コースとか専攻コースという形では残っているが、つまり「文学」なるものに人気がなくなったのだという。それだけではなく、かつて学習者が多かったドイツ語やフランス語にも、学生が集まらないのだという。小説は読んでも、文学には興味がないということだろう。
 文学には興味がなくなっても、日本人は外国語にはまだ興味があるはずだ。
 このあたりの事情を具体的に知りたいと思ったが、資料がない。東京外国語大学の専攻言語ごとの競争率という統計を見つけたが、資料が「前期日程」「後期日程」に分かれていて、その数字にかなりの違いがある。その違いがわからない。こういう統計を読み取る力のない私には、使いこなせない資料だ。
 先日、偶然に読んだ『近くて遠い中国語』(阿辻哲次、中公新書、2007)に、関連する資料が出てきた。著者は、中国文化史を専攻する京都大学教授。この本は中国語のテキストでもウンチク本でもなく、1951年生まれの著者が体験した、戦後日本における中国語学習史であり、教員になってからの中国語教育事情が前半の内容。後半は、中国における中国語事情が書いてある。
 さて、前半の部分に、興味深いグラフが載っている。「京都大学の『初修外国語』選択者数の推移」というタイトルがついている。わかりやすくいえば、京都大学に入学した全1年生が、どんな外国語を選択したかという資料である。時代が1996年から2006年までと短いのが難点だが、ないよりはいい。京都大学の学生が選択できる外国語は、英語、ドイツ語、中国語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ロシア語で、2000年から朝鮮韓国語が、2002年からアラビア語が加わった。
 英語以外の外国語事情を見ると、意外にもドイツ語が第1位だ。1年生2800人ほどのうち、1200人ほどがドイツ語を選択しているのが不思議だ。私がドイツ語をおもしろくない言語だと思っているせいでもあるが、もはや学習者など急落してほとんどいないだろうと予想していたのに。著者の解説では、学生の半数は理科系で、医学部や理学部では中国語が選択できないといった理由もあるらしい。理科系では、いまだドイツ語信仰があるのだろうか。
 選択外国語第2位は、中国語だ。著者が学部で中国語を学び始めた1970年代は、わずか50人ほどが中国語を選択したそうだが、現在は800人ほどに増えている。
 ドイツ語が急落していないのが意外なだけでなく、フランス語も同じように学習者は落ちてはいるが、急落ではない。イタリア語や朝鮮韓国語が急上昇していないのが不思議だが、いわゆる偏差値の高いおりこうさん大学の学生は、流行で外国語を選んだりしないということなのだろうか。将来を考えたら、英語のほかに、ドイツ語、中国語、フランス語のうちどれかを選ぶのが賢明だと、多くの学生たちは判断したのだろうか。ということは、中国語を除けば、戦前と同じじゃないか。なーんだ、つまらん。
 おそらく、日本人の外国語学習者の変遷を調べるのは、NHKのラジオとテレビの全外国語講座の過去から現在までのテキスト販売数の変化といった資料があれば、それがもっとも実情を反映しているだろう。しかし、そういう資料があったとしても、部外秘だろうな。
 NHK以外では、「カルチャーセンターの外国語教室の受講者数の変遷」という資料があればいいのだが、これも残念ながら部外秘だろうなあ。
 というわけで、今回はグチだ。

 


アジア雑語林(175) 2007年3月12日

マギー・シーゾニング・ソース

 『世界の食文化 モンゴル』(小長谷有紀、農文協、2005)に、次のような文章がある。

  「ツォー」という醤油の単語は、明らかに中国語起源ではあるけれども、現在のウランバートル人の記憶によれば、醤油が一般の人にとって利用されるようになったのは、一九七〇年代初頭にチェコスロバキアから「マギー」という商品が入ってからだと言う。小瓶に入ってい赤い蓋部分の小さな突起をハサミで切って口を作り、振りかけるとわずかに一滴ずつ出てくる。

 食文化に興味があって、世界のあちこちを旅している人なら、この「マギー」の姿がすぐ思い浮かぶだろう。茎が伸びたタマネギのような形のビンで、下部は四角い。黄色と赤のラベルに、"Maggi Seasoning Sauce" と書いてある。日本の法律や食品業界の習慣で、この調味料を醤油の一種に含めているかどうかわからないが、味は「濃い口醤油に近い調味料」だとは言える。だから、「醤油類似調味料」とも言える。この調味料と醤油の距離は、どこで味をみるかによる。日本なら、「なんだ、こんなもの」という気分になるだろうが、インドやアフリカの田舎でしばらく暮らしたあとだと、その距離はぐっと縮まり、「ほとんど醤油だ」と喜ぶに違いない。
 私がこの調味料の存在をはじめて知ったのは、ネパールのポカラだった。湖に面して、納屋を改造したような宿が数軒あるだけの頃だった。ここで出会った日本人旅行者と食事をしていたら、「オレ、これがないとだめでさあ」といって、バッグからビンを取り出した。醤油のような黒い液体が入っていて、そのときラベルに「マギー」という名が見えた。すでに「マギー・ブイヨン」というキューブのスープは知っていたような気がする。マギーが西洋の会社だとわかっていたから、なぜ西洋の会社が醤油を作っているのか不思議で、ラベルを見ると、スイスのネッスル社製だとわかり、もっと驚いた。もう、30年以上前のことなので、記憶は定かではないから、勘違いしていることもあるかもしれないが、大筋ではそういう記憶がある。
 脳内深くに埋まっていた記憶が、『世界の食文化 モンゴル』によって呼び起こされて、この際、マギーについて調べてみたくなった。
 ジュリアス・マイケル・ヨハネス・マギーは、1846年に製粉所経営者の子としてスイスで生まれた。成長して、父の製粉所を継いで営業をしつつ、食品の研究をして、1885年に粉末の豆スープを開発した。1908年には、それまで顆粒状だったブイヨンをキューブ状にして発売した。1947年に同じスイスの食品企業ネスレが買収し、マギーは同社の1ブランドになった。
 ちなみに、この会社を日本ではかつて、英語読みで「ネッスル」と呼んでいたが、1994年にフランス語読みで、「ネスレ」に変更された。創業者の名前が、アンリ・ネスレである。
 というわけで、ネスレの日本語ホームページを見ると、マギーを紹介するページがあるが、なぜかソースにはまったく触れていない。日本で販売している商品リストにシーゾニングソースがないせいだとしても、無視するというのは変だ。
 英語のサイトに、"Maggi -The Company's History" という詳しい年表を見つけたが、これまたソースに関する記述はない。
 諦めずに探って行くと、少しは資料が見つかった。
 ジュリアス・マギーは、1880年代に、穀類を原料にして作った植物蛋白水解物(ハイドロライズド・ベジタブル・プロテイン HVP)を利用してソースを作ったらしい。醤油に似た風味なのは、原料が醤油と同じだからか、初めから醤油に似せて作ったからか、どちらかわからない。
 結局、マギー・ソースについて調べてみたが、ほとんど何もわからなかった。ただ、驚いたのは、英語でも日本語でも、このソースを検索すると、タイ料理関連サイトに行き当たることが多い。もちろん、タイでマギー・ソースを使うことは知っているが、ナムプラーなど数多くある調味料のひとつという認識しかない。しかし、考えてみれば、不思議だ。魚を原料にしたナムプラーがあり、中国風の醤油が何種類かあり、カキ油もあるというのに、それに加えてマギーを使いたがるタイ人は・・・・、と書いていて、日本人もこの手の液体調味料は大好きだよなと気がついた。ただ違うのは、マギーのソースをタイ人は受け入れ、日本人は拒否したことだ。
 ベトナム系アメリカ人のエッセイに、「目玉焼きに数滴落とす」という記述を見つけて、「ああ、そうだった」と思い出した。小鍋で作った目玉焼きに、バゲットに甘いコーヒーというベトナム式朝食には、マギーのソースがよく似合う。

 


アジア雑語林(174) 2007年3月5日

戦後史の闇の部分に、足をちょっと・・・・

 あいかわらず、戦後史の本を読んでいる。『誰も「戦後」を覚えていない 昭和20年代後半篇』(鴨下信一、文春新書、2006)に、「松本清張の他に、朝鮮戦争関連のことを作品に書いた人がほとんど見当たらない」とあって、「うん、なるほど、そうか」と納得した。隣国の戦争は、文字通り「対岸の火事」だったらしいとわかる。同時代に生きていなかった者には、「他人事の戦争」という感覚がわからない。わからないから、本を読んで少しでもその感覚をつかみたいと思う。私の場合、過去の旅行や、アジア事情の本から資料を得る。最近読んだ2冊の本から、意外な展開があったという話をしてみよう。
 キリンビールの重役にして、エッセイストが本を出している。『東南アジアの旅』(三宅勇三、春秋社、1966年)は、函にタイの寺院の絵が入っているが、雑文集で旅行記は一部しかない。タイの水上市場に行った日の日記に、こうある。

 「米を積んだ大型の船がたくさん繋留してあるが、ここからはしけで外国船に積み込む。これは華僑の事業。大阪の富士車輌の倒産の原因となった橋梁が見えてきた。ガイドが富士車輌を富士重工と間違えて説明していたので、拙著『玉川上水』を渡して訂正しておいた」

 さて、富士車輌とは、なんだ。そんな会社を知らない。三宅がタイを旅したのは1965年で、その当時の「水上市場」は、現在のダムヌーン・サドワックではなくトンブリの方だから、「橋梁」はチャオプラヤー川にかかる橋をさしている。1965年のちょっと前にに完成している橋といえば、次の3橋。
  クルントン橋    1958年
  ノンタブリ橋    1959年
  クルンテープ橋   1959年
 水上市場観光で見たということから橋の位置を考えれば、三宅のいう「橋梁」とは、オリエンタルホテルのずっと南にあるクルンテープ橋をさしているらしいと思われる。
 引き続き調べると、1962年3月2日の、第40回国会予算委員会の議事録に「富士車輌」の名が見つかった。質問者は、社会党の横路節雄。北海道出身の国会議員横路孝弘の父親だ。質問の内容は、タイの軍部や政治家と特別円がからむ「カネと権力と商売」の話だ、要約するのは長いので、興味のある人はこの議事録を読んでいただきたい。しかし、実を言えば、読んだってわからないのだ。日本の企業とアジアの権力者のベタベタのカネの関係は、わからないことが多いのだ。
 とはいえ、一応、要点だけ書いておくと、日本企業はピブーン派のパオ警察長官にコネをつけたところと、サリット元帥につながる企業があった。1950年代のタイは、軍と警察が権力争いを続けていて、火気を使った紛争もあった。今から考えれば、メチャクチャな時代だったのだ。1957年にサリットはクーデターを起こし、ピブーン政権を打倒し、ピブーンは亡命したから大変というわけだ。これにより、タイ国軍は権力を掌握し、敗れた警察は、軍に見下される組織となったのである。
 権力とカネのそうした話はともかく、国会で「サリット」だの「ピブーン」だのといった名前が登場した時代があったのだなあと感慨深い。
 もう1冊は、友人がバンコクの古本屋で買った本を、借りて読んだ。『これが東南アジアだ』(倉地武雄、言論時代社、1962年)だ。巻末の「著者紹介」によれば、著者は元朝日新聞記者で、戦前・戦中にアジア旅行をしている。執筆当時は著述業ということらしい。
 この本の内容は、1961年の東南アジアの旅行記にはなっているが、外務省などの資料を多用しているので、臨場感はあまりない。まだ海外旅行が自由化してない時代の話なので、著者がどういう資格で、誰のカネで旅行したのかがわからない。そこで、著者を調べると、こんな事実が浮かび上がった。
 1965年4月9日 東京都千代田区の自宅で、言論時代社社長倉地武雄(58)が、アイスピックで全身めった刺しにされ死亡。犯人は三男(25)で、遊ぶカネ欲しさの犯行という。
 この事件は、謎の多い殺人事件だ。被害者は、ダム汚職の証人として、国会喚問されたばかりで、政治の匂いがする。
 1966年の国会法務委員会(3月11日)でも、この殺人事件が取り上げられている。質問者は、社会党の神近市子。九頭竜川ダム汚職事件やそのほか胡散臭い事件と、この殺人事件の関係を質問している。石川達三が、この汚職事件を描いた「金環蝕」を発表したのが、1966年。1975年には山本薩夫が映画化している。倉地は古垣という名で登場し、義弟に殺されたと描かれている。
 ちなみに、倉地が殺されるちょっと前に、山陽特殊製鋼が倒産している。そして、この会社を描いた映画「華麗なる一族」(1974年)の監督をしたのも、山本薩夫である。その翌年の75年に公開されたのが、「金環蝕」というわけだ。

 


アジア雑語林(173) 2007年2月24日

タイにピラニア出現?

 東南アジアの魚を紹介した文章に、突然「ピラニア」が登場することがあった。これは、どう考えたってテラピアの勘違いだと思っていたが、「あれれ」というのがきょうの話題だ。
 タイ在住の友人、酒井さんからメールが来た。近所の市場でピラニアを買ったというのだ。値段は、キロあたり25バーツというから、安い。その魚の名前は、市場の売り手は「プラー・チャラメット・ナーム・チュート」だといった。直訳すれば「淡水マナガツオ」で、扁平な魚ではあるが、素人が見たってマナガツオではないことはすぐわかる。酒井家の近所の人は、「ペーフーと言うんだよ」と教えてくれたそうだ。
 世の中便利になったもので、その魚の画像も送られてきたので、調べてみたくなった。しかし、魚に疎い私には、かなり手ごわい調査だ。
 『タイ日大辞典』(冨田竹二郎編、日本タイクラブ発行、めこん発売)のページを開いてみたが、新参者の俗称だから、載っていない。予想どおり、名前からの調査はできない。
 手持ちの魚類図鑑といえば、『東南アジア市場図鑑 魚貝篇』(河野博、弘文堂)だ。この本の編集に関わった記憶では、酒井さんが送ってきた魚の姿に見覚えはない。それでもすべての写真を調べたが、見つからなかった。
 『原色魚類検索図鑑』(阿部宗明、北隆館)にもなく、タイで買った各種魚類図鑑にもなく、インターネットに頼ることにした。
 「まさか、ほんとにピラニアじゃないよなあ」と思いつつ、「WEB魚図鑑」で調べてみると、「レッド・ピラニア」という魚の写真が、酒井さんが市場で買った魚に似ている。

 レッド・ピラニア  カラシン目カラシン科 Serrasalmus nattereri

 しかし、本当にピラニアをバンコクの市場で売っているのだろうかという疑問が頭を離れず、再度調べてみた。すると、ピラニアに似た魚が見つかった。

 タンバキ  カラシン目カラシン科  Colossoma macropomum

 説明にはこうある。「見た感じは、同じカラシン科のピラニアにそっくりだが、口は小さく、性質もおとなしい。貧栄養の水でも平気で、病気にも強く、養殖されることが多い。水産重要魚類である」
 インターネット情報では、タイで養殖されているという情報はつかめなかった。サバのように、海外から輸入しているのでなければ、タイ国内で養殖しているのだろう。ということは、今後はテラピアに加えて、ピラニアに似た魚もいて、話がややこしくなってきた。それにしても、タイの市場にアマゾンの魚が並ぶ時代になったのですねえ。
 それはそうと、養殖を調べるには、「タイ」という国名は、まことにややこしく、めんどうだ。これがマレーシアだったら、検索は楽なのになあと、いつも思う。タイ国関連の事項を検索すると、いつも魚のタイがひっかかってしまう。
 こういう原稿を書いて、「WEB魚図鑑」に載っていたレッド・ピラニアとタンバキの写真をタイに送った。すると、意外な返事が返ってきた。
 「私が日本に送った写真は、料理をするためにウロコを取ったあとのものです。バンコクの市場で売っている姿で比較すると、タンバキよりもレッド・ピラニアに近い。やっぱり、タイでピラニアを売っていたんだ」
 というわけで、酒井さんの判断では、レッド・ピラニアにより近いそうだ。詳しい事情をご存知の方は、アジア文庫までご教授ください。

レッド・ピラニア? 撮影:酒井聡

 


アジア雑語林(172) 2007年2月15日

『バンコクの好奇心』の時代がやっと来た  その2

"Very Thai"に、「トゥクトゥク」という項目がある。東南アジアの三輪自転車と三輪自動車を研究している者としては、ぜひとも精読しなくてはいけない。で、読んでみると、これはいけない。一部を要約して、前川の解説をつける。

●トゥクトゥクはいまや世界に輸出されている。ヨーロッパはもちろん、ブラジル、エジプト、モロッコへと輸出されるようになって、それまで車体後部に付けていた"SUZUKI" "DAIHATSU"といった看板は、"THAILAND"に変わった。

 →"SUZUKI"という看板は、ありえない。個人が勝手につけたかもしれないから、「皆無だ」と断定できないが、そうした説明なしに"SUZUKI"と書くべきではない。また、原文でははっきりしないものの、"THAILAND"という表記になったのは21世紀に入ってからのような書き方をしているが、もっと古い。いつからと、はっきりとはいえないが、1980年代からボツボツ変わり始めたと思う。

●トゥクトゥクの歴史を振り返る。1833年に日本人が人力車を発明し、1872年にタイに輸出された。のちに、日本人は人力車にエンジンを取り付けて、南アジアや東南アジアに輸出した。1959年、タイは31台のダイハツ製三輪自動車を輸入し、1960年には合計4000台になった。長い顔つきの初期モデルは、まだアユタヤで走っている。1963−64年には、TOHATSUはバーハンドルを丸ハンドルに代え、ドアを取り外した新型車を導入した。

 →1833年という数字が唐突で、理解不能。1872年に人力車がタイに渡ったという説はタイに残る記録だが、総合的に見て信憑性に欠ける。
 "Very Thai"の著者が誤解していることはいくつもある。まず、トゥクトゥクは、人力車にエンジンがついたものが原型だと思っていること。元はダイハツ・ミゼットだ。そのミゼットには前期型と後期型があって、バンコクで走っているのは前期型。バーハンドルで、ドアはない。オリジナルの姿とはちょっと変わっているが、アユタヤで走っている顔の長いタイプが後期型で、丸ハンドルだ(映画「三丁目の夕日」などでよく登場する車。インドネシアでは、オリジナルのまま走っている)。ところが、著者は前期型と後期型を取り違えている上に、TOHATSUという謎の自動車メーカーを登場させている。
 人力車やミゼットなど日本が関連しているテーマは、非日本人にはわかりにくいことはある。もし、この本の著者が三輪車に興味があるなら、拙著『東南アジアの三輪車』の年表でも英訳して送ってあげようかと思いつつ、巻末を見た。どういう参考書を使ってこのコラムを書いたのか、知りたくなったからだ。2冊の書名があげてある。

Surakiart Sathirathai , cited by Rungrawee Pinyorat , "Fog threatens view of Royal barges"(TN,22/07/2003)
Maekawa Ken-ichi , "Three Wheeled Vehicles of SE Asia"(Ryokonin 1999 , Japan)

まさか、拙著を参考にしているとは思わなかった。だって、間違っているんだから。謎なのは、著者が多少なりとも日本語が読めるのか、それとも日本語が読める人に読んでもらったのか、あるいは読まずに書名だけ参考文献として書いておいたのか。そのあたりが、わからない。
 版元の旅行人を、「Ryokonin」と表記しているのも謎だ。拙著の奥付けには、URLに「ryokojin」とは書いてあり、もちろん「Ryokonin」とは書いてない。とすると、旅行人を知らない不注意な日本人が、「りょこうにん」と音読したらしいと推察される。
 まあ、そういうことはどうでもいい。トゥクトゥクについて間違った文章を書いた著者を責める気はない。それよりも、日本の情報を外国に伝えなかった日本の責任について考えた。日本文化といえば、能や歌舞伎や生け花や盆栽という発想で、その種の資料が英語で発表されるのはよくあった。いまは、ビジネス書と並んで、村上春樹などの小説もかなり翻訳出版されている。しかし、マンガやアニメの研究書はまだだと思う。人力車関連の資料では、最大の参考書である『人力車』(齋藤俊彦、クオリ、1979年)が翻訳されれば、全世界の乗り物研究者は多いに参考になる。そうしないと、「明治天皇が人力車に乗って東京都内を走ったのがきっかけで、日本国中に普及した」なんて、とんでもない記述をするライターもいなくなるはずだ。
 横のものを縦にする(外国語を日本語にする)のが近代の日本だが、そろそろ縦のものを横にすることを考えてもいいような気がする。こういうテーマのコラムは、じつはずっと以前から書いてきて、例えば映画研究者の松岡環さんの文章を読みたい外国人は、少なくないはずだ。

 


アジア雑語林(171) 2007年2月5日

『バンコクの好奇心』の時代がやっと来た その1

 2006年秋にバンコクに行った。例によって、やることはいつもと同じ本屋巡りだ。もっとも期待していたのは、移転して新装成ったチュラロンコーン大学の本屋だったが、これといってめぼしい本はなかった。タイに行けば必ずこの本屋に行き、学術書や論文集など他の本屋では手に入らない文書を手に入れるのだが、今回は一冊も買わずに店を出た。こんな不漁は、めったになかったことだ。ついでにガッカリ話をもうひとつ書いておけば、サイアムスクエアーのDKブックスは、おもしろくなさそうなタイ語の本だけを集めたような本屋になりはて、さびれた印象を受けた。平日の昼下がりのせいかもしれないが、客の姿はなく、閑散としていた。
 毎日のように本屋巡りをしていて気がついたのは、不遜にもほどがあるといわれそうだが、時代はやっと拙著『バンコクの好奇心』に追いついてきたということだ。
 イラストいっぱいのタイ旅行雑学本があった。紙面に記憶がある。フランスのガリマール社から出ていた旅行雑学本で、日本では「望遠郷」のシリーズ名で同朋舎出版から何冊も出た。そのシリーズのタイ編は『旅する21世紀ブック 望遠郷 3 タイ』として1994年に発売されている。私がバンコクの書店で見たのは、このシリーズの英語版だが、既刊の縦長の英語版とは違い、正方形にやや近い版型だった。この雑語林で書名など書誌学的データが書けないのは、既刊の本と内容に変わりはないだろうと思い、詳しくチェックしなかったからだ。買う気のない本には、冷たいのだ。
 タイの民具など道具類を集めた本も見つけた。
"Things Thailand" Tanistha Dansilp & Michel Freeman , Asia Books , Bangkok , 2001
 という本で、まあ、悪いできじゃないが、すでにタイ語と英語二言語による
"Directory of Thai Folk Handicrafts Book of Illustrated Information" Pub. by The Industrial Finance Corporation of Thailand , Bangkok , 1989
 という民具百科事典のような厚い本をすでに持っているので、買わなかった。
この2冊よりももっと『好奇心』よりなのが、次の2冊。
"Bangkok Inside Out" Daniel Ziv & Guy Sharett, Equinox Pub. Jakarta, 2005
"Very Thai Everyday Popular Culture" Philip Cornwel-Smith & John Gross, River Books Bangkok, 2006
 この2冊とも、基本的方向は我が『好奇心』と同じである。交通や食べもの、建築や芸能など種々雑多な事柄に関するコラムと写真で構成されている。我が『好奇心』と決定的に違うのは、この2冊とも全ぺージカラー で、したがって高価だということだ。英語の本でも、我が『好奇心』に遅れること15年で、やっと追いついてきたのだという感慨とともに、さっそく読んでみた。表面的には『好奇心』に似ているのだが、文章の方向が違う。2冊の英語本は、さまざまな事柄のスケッチである。あるいは、新聞記事を参考にしたエッセイだ。わかりやすく言えば、彼らは今しか見ていない。「美人コンテスト」を取り上げたページでは、テレビのこぼれ話程度の内容で、「なぜ」がない。「過去」がないのだ。だから、取り上げるテーマはおもしろいのだが、参考になる記述がない。「なるほどそうだったのか」と敬服、感服させられる内容がないのだ。
 例えば、なぜ、美人コンテストをするのか、いつから始まったのか。それが書いてない。
 私の場合、どんなテーマでも、基礎知識を得るために、いつもその歴史を調べることから始める。この2冊の本を書いたふたりだけでなく、タイを書く日本人ライターたちも、ある事柄の現状の印象記だけを書き、過去からのいきさつに触れないのが不思議でならない。過去があって現在があるのに、過去を調べもしないライターの姿勢がわからない。調べた過去を原稿に入れるかどうかは、それぞれ書き手の判断しだいだが、調べる気のないライターがいるというのが、わからない。
 例えば、バンコクのバスについて書く人は多いが、その過去に触れる人は、さて、どれだけいたか。
 タイ語でバスは「ロット・メー」という。ロットは車という意味だ。メーは、タイ語をちょっと知っている人なら「母さん」のことかと想像するかもしれない。しかし、タイ語の綴りを読めば、「母さん」ではないとわかり、調べれば、英語のMAIL、つまり「メール」のことで、ルが落ちて「メー」になったのだ、つまり、「ロット・メー」とは「郵便車」という意味で、この場合の「車」はじつは馬車の「車」なのだとわかってくる。ロット・メーはもともと郵便馬車で、郵便といっしょに人も運ぶ馬車がのちに郵便自動車になり、乗り合い自動車に変わる歴史を一応頭に入れて、タイのバス事情を書きたいと私は思うのだが、どうも他の人はそうではないらしい。読者も過去のことには興味がないらしいので、おおかたの人にはそれでいいのかもしれないが、私が読者になると、どうにももの足りない。
 あるいはまた、次のような「過去」がある。興味深いとは思わないのだろうか。
 例えば、タイの美人コンテストが、憲法と深い関係があるといったら。1932年に制定されたタイ最初の憲法発布を記念して、内務省主催で行なわれた記念式典で「ナンサーオ・サヤーム」(ミス・サイアム)コンテストが行なわれた。これが、タイにおける最初のミス・コンテストである。そのあたりのことを調べたらおもしろいと、私は思うのだが、私の興味の方向とほかのライターの興味の方向は違うようだ。
 長くなったので、続きは次回とする。

 


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