前川健一 著作一覧


アジア雑語林(170) 2007年1月26日

続編 全国のタイ料理店

 この雑語林の135号(2006年2月8日)で、日本全国のタイ料理店事情を紹介した。インターネットの情報では、全国に451軒のタイ料理店があるというはなしで、数が多い順位ベスト10を紹介した。
 今回はその続編をやりたいと思う。きっかけは、タイ大使館のホームページに、タイ料理店のリストが載っていたからだ。タイ国商務省認定レストランが19店載っていて、それを含めて全国のタイ料理店リストが出ている。となれば、このリストを利用して、全国分布表を作ってみたくなるのがタイ問題研究者のはしくれというもので、さっそくやってみよう。
 ただし、例によって、このリストの正確さはまったくわからない。タイ料理専門店だけでなく、「タイ料理も出すアジア料理店」も含まれているかもしれないし、タイ人ホステスがいるスナックもリストに載っているかもしれないし、すでに閉店した店が載っていて、現在も営業している店が載っていないかもしれない。そういう不正確さはわかった上で、日本のタイ料理店の全国分布表を作ってみる。

北海道    5軒
青森      1
岩手      1
宮城      1
山形      1
福島      2

茨城     13
栃木      7
群馬      1
千葉     28
埼玉     22
東京    166
神奈川    37

山梨      9
新潟      2
長野     11
静岡      5
岐阜      1
愛知     11
富山      1

三重      7
京都      4
奈良      1
大阪     52
兵庫      8

岡山      2
広島      3
山口      1

福岡     22
佐賀      1
長崎      1
大分      1
熊本      5
宮崎      5
鹿児島     1
沖縄      6 
合計    445軒

 無医村ならぬ無タイ料理店県は、秋田、石川、福井、滋賀、和歌山、島根、鳥取、四国4県。
 熊本や宮崎で各5店というのは意外に多いと思い、店名を調べてみたら、熊本の「オリエンタルダイニングガンダータ」というのが、果たしてタイ料理店なのかどうかわからないし、宮崎の「エスニック料理 ハロハロ」はフィリピン料理店の感じだ。あるいは、茨城の「(有)フクノヤ商事」というのは料理店なのか、食材を売るだけの店なのかわからない。そういうことも承知した上での数字だ。
 ただ、気になるのは、135号で東京のタイ料理店が226店だと紹介したが、今回は166店に減っている。これは現実にかなり減少したのか、それとも調査の手法によるものかわからないが、合計数は今回が4店多い。東京以外で増加したということか。

 


アジア雑語林(169) 2007年1月15日

日本タイ協会

 ネット古書店で、こんな本を見つけてすぐさま買った。『タイ民衆の生活 ―伝統的世界・近代的世界―』(ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、小泉康一訳、財団法人日本タイ協会、1982年、非売品)だ。すでに井村文化事業社から出ている本と重なる部分があるのかどうかわからなかったが、この著者の本なら重なる危険性を犯してでも買っておこうと思って注文した。
 注文したときには版元のことなどまったく気にしていなかったが、本が届いてみると、この日本タイ協会という団体がちょっと気になった。いったい、いつまであった団体なのか知りたくなって、インターネットで検索してみた。すると、なんだ、まだ活動している団体じゃないか。私はもう30年以上タイと関わってきたが、この協会とはまったく接触がないので、情報もない。
 この協会は、おもにタイで活動するメーカーや商社や銀行などか参加する団体のようで、邦人会員が142社いるが、個人会員はわずかに12名という数字を見ていて、植木等のセリフが浮かんだ。
 「はい、お呼びじゃないのね」
 役員名簿を見ても、その名に見覚えがあるのは、元駐タイ大使の岡崎久彦氏だけだ。ほかの方々も、経済界では名士なのでしょうが、だからこそ私とはまったく関係がない。
 それはどうでもいいことなのだが、この協会の「沿革」を読んでみると、以前から疑問に思っていたことがちょっと解決した。
 1927年(昭和2年)の夏、男爵大倉喜七郎(1882〜1963。大倉財閥の二代目)がシャムを訪問したのを契機に、同年12月、東京で暹羅協会設立される。大倉のタイ訪問の目的は、まだ調べていないので、わかればいずれここで書きます。この協会の総裁は秩父宮、会長は近衛文麿だから、やはりじっくりと調べてみる必要はありそうだ。
 協会は1935(昭和10)年に、財団法人日暹協会と改称し、1939(昭和14)年にシャムがタイと国名を変えたので、財団法人日本タイ協会に改称。
 以上がAの流れで、次にBの流れがある。
 1935(昭和10)年に三井合名会社内に暹羅室を設立。
 1940(昭和15)年、三井合名会社から独立して、タイ室東京事務局と改称。
 1943(昭和18)年、財団法人に改組。
 1951(昭和26)年、財団法人タイ室と改称
 そして、1967(昭和42)年、財団法人日本タイ協会と合併して、現在の財団法人日本タイ協会となる。
 私が「疑問に思っていた」というのは、もしかすると日本最初のタイのガイドブックとなるかもしれない『暹羅案内』(1938年)の奥付けの編者と発行所欄に、「三井三号館 暹羅室」となっていたからだ。
 日本タイ協会を調べていて、副産物として星田晋吾氏の詳しい経歴がわかった。まだタイの資料などほとんどない1970年代から、タイについて調べていた者なら知らない人はいないと思える『タイ ― その生活と文化』(学研、1972年)の著者である。なんだか、いろいろやっている。
 星田氏の経歴を書き出してみる。面倒なので、西暦には直さない。

明治32年生まれ
大正 6年 神戸市大蔵省税務監督局雇員
大正 7年 日本郵船神戸支社入社
大正14年 早稲田大学文学部哲学科卒業 神奈川県立平塚農業学校教諭
大正15年 早稲田大学大学院文科中退
昭和11年 早稲田大学大学院文科再入学 同年中退
昭和11年 財団法人日語文化協会立日語文化学校教員
昭和13年 外務省文化事業部の助成で、タイに渡航。タイ・日本協会幹事。日本・タイ文化研究所を創設し、主事。併設の日本語学校の理事。
昭和15年 読売新聞バンコク駐在記者
昭和16年 財団法人国際文化振興会南アジア文化事業委員会勤務
昭和17年 財団法人日本タイ協会調査部勤務
昭和23年 連合軍総司令部民事検閲部特殊通訳勤務
昭和26年 法務府特別審査局調査部法務事務官
昭和28年 法務省公安調査庁総務部資料課事務官
昭和30年 同省退職
昭和31年 在日タイ大使館勤務
昭和53年 肺炎により死去

 わからない事柄が少々わかった結果、調べたくなる事柄がまた増えてしまった。

 


アジア雑語林(168) 2007年1月7日

夢の古本屋

 定年退職したら古本屋をやりたいという夢を持っている人は少なくないらしい。あるいは、定年を待たずに副業として、インターネット古書店をやっているという人もいるらしい。世間一般では、古本屋というのは陰気な商売だと思われているような気がするが、一部の本好きには憧れの、夢の職業に見えるらしい。
 しかし、今回の「夢の古本屋」というエッセイは、古本屋になるのが夢という話ではない。初夢ではないにしろ、年明け早々の夢に古本屋が登場したという話だ。
 中学入学とほぼ同時に神田神保町に通い始め、地方都市でも外国でも、新刊古書を問わず、本屋に入り浸る習性のある私なのだが、夢で古本屋に行ったというのは初めてのことだ。まあ、夢のことだから、見ても覚えていないことが多いから、「覚えている夢の中で」と限定してのことだが、とにかく初めての夢の古本屋だ。
 その古本屋は、本屋という感じではなかった。四畳半にお似合いの、カラーボックスというような名前がついた背の低い棚に、50冊くらいの本が入っている。床に広げたビニールシートに、小山の本がある。本棚と両方合わせても100冊くらいしかない本屋だ。神田に詳しい人には、小宮山書店裏の駐車場を利用したあの古本屋を思い浮かべるとわかりやすい。心当たりのない人には、ガレッジセールを思い浮かべればいい。要するにビル1階の駐車場を利用した店だ。
 暗い空間に、古本が約100冊だ。陰気な古本屋で、プロローグもなにもなく、映像はいきなりその古本屋から始まる。なにしろ夢なので、「前回までのあらすじ」というのもなく、唐突に物語が始まる。
 外見は、駅のゴミ箱から集めてきた週刊誌を売っているような本屋だが、うれしいことに、私が好きな本ばかり並んでいる。全部英語の本で、世界各地の文化を写真で解説した本がある。ワクワクしながら10冊ほど買った。
 そして翌日、またその本屋に行ったら、きのうまでガラーンとしていた室内にスチール机が並べられ、古本屋は廃業したと知る。ああ、それなら、きのう、全部買っておけばよかったのにと悔しがっているところで、目が覚めた。
 なぜこういう夢を見たかというと、心当たりはある。年末にネット古書店で海外旅行・異文化・文化人類学といったジャンルの古本数万冊をチェックしたあと、別の古本屋で年末年始割引きセールをやっているのを発見した。これも、私の関心分野の本は数万冊ある。全部見るには時間がかかり、年が明けてもまだチェックしていて、調子に乗って次々と注文していった。
 ネット古書ファンはすでにご承知のように、かつて"EASY SEEK"といったサイトが「楽天フリマ」となり、昨年暮れには消えてしまった。いちおう「楽天オークション」と名がかわり存続しているのは事実だが、かつて旅行関連の本だけでも数万冊のリストがあったというのに、今はたかだか80冊である。「楽天フリマ」に出品していた古本屋はアマゾン古書部に移転したようなので、私にとっては実質上ほとんど変わりはない。
 というわけで、今年もネット古書店も大いに利用して、未知の本を探すことだろう。そのこぼれ話は、いずれこのページで紹介しよう。

 


アジア雑語林(167) 2006年12月27日

続・リバーサルフィルム

 雑誌の取材で、長野県の馬籠(まごめ)に行ったときだ。
 バス停近くを歩いていたら、前日の列車ですぐ近くの席に座っていた若い夫婦が、バスから降りてくるのが見えた。日本人の夫と西洋人の妻という組み合わせだ。
「おや、また会いましたね」
 ちょっと立ち話をしたら、妻はアメリカ人だとわかった。今夜はここに泊まる予定なのだが、いい宿の心当たりはありませんかと、日本人の夫がたずねた。
「いかにもアメリカ人が好きになりそうな、古い感じの旅館はありますが・・・・」
 ちょっと前にここに着いて、ひととおり散歩し、情報を仕入れている私は、昔の家を改装して旅館にした建物が気にかかり、外観の写真は撮っていた。雑誌の編集部が期待する「美しき日本の風景」にぴったりの建物だった。
「その『いかにも』っていうのが、いいですねえ。どのあたりですか」
「案内しますよ。すぐそこですから」
 その、「いかにも」の外観をした宿を、アメリカ人の妻は気に入り、日本人の夫もまんざらでもなさそうで、部屋を見せてもらうことにした。宿の内部を撮影したいと思っていた私は、渡りに舟だから、「すいません。私も、ちょっと、いっしょに行かせてください。部屋を見たいんで・・・」と小声でごにょごにょ言いつつ、彼らにくっついて部屋に行った。夫婦は部屋も気に入り、ここでの宿泊が決まったところで、日本情緒満点の部屋の撮影をさせてもらった。
 撮影機材をバッグにしまっていると、夫が言いにくそうに小声で、切り出した。
「あのう、彼女がですね、ずっとそのコダクロームを探していて、でもなかなか見つからなくて・・・・」
「ええ、そうでしょ。都会の大きなカメラ店じゃないと、コダクロームは売ってないでしょ」
 旅先で首からカメラをぶら下げていれば日本人といわれるその日本人は、ネガカラーを愛用しているが、西洋人はスライド用のフィルムを好む。旅を終えたら、家族や友人を集めてスライドショーをやるのが楽しみなのだろう。日本人にはそういう趣味はないから、コダクロームは日本の中都市でもあまり売っていない。
「そこで、ご相談なんですが、もし、予備のフィルムをお持ちなら、売っていただけないかと思いまして・・・・」
「ああ、いいですよ。差し上げますよ」
 バッグからフィルムを2本取り出して、手渡した。価格としては、3000円弱だが、フィルムは雑誌社から支給されたものだから、私の腹が痛むわけじゃない。「いや、おカネを払いますよ」というのだが、カネをもらうと横流しをして儲けたようで、後味がわるいので、カネを受け取らなかった。
 この夫婦はふたりともなんだか気が合い、このあと部屋を出ていっしょに昼飯を食べた。ふたりはコロラド州デンバー在住で、夫は建築家だといった。
 それが1979年の夏の出来事で、翌80年の夏に偶然にも私はそのデンバーにいた。妻は出かけているというので、電話で話しただけだったが、日本人の夫とは再会し、取材のお世話になった。

 


アジア雑語林(166) 2006年12月19日

リバーサルフィルム

 先日、タイで撮影したフィルムの現像が今日できる予定なので、買い物がてら夕方にでも店に寄ってみようかと考えていたら、いままで使ってきたリバーサルフィルム(スライド用フィルム)のことをいろいろ思い出した。というのも、今回のタイ旅行で初めて、従来のフィルム式カメラに加えて、デジタルカメラも使ってみたので、いずれ消え去るであろうフィルムに対してちょっと感傷的になっていたのである。
 私がタダの旅行者だったころは、写真などほとんど撮っていない。基本的に写真は嫌いなのである。撮影するのは面倒だし、撮られるのはもっといやだ。だから、仕事として旅行するようになって初めて、仕事として写真を撮らなければいけなくなったわけで、旅行中の、いわゆるネガカラーの記念撮影という時代がほとんどない。ライターになって、いきなりプロ用のリバーサルフィルムを使用するようになったのである。1970年代末によく使っていたのは、コダクローム64、プロはKRと呼んでいたフィルムだ。
 ASA感度64というのは、確かに「色が濃い」と感じさせる絶品フィルムであり、だからこそロングセラーなのだが、私のように旅をしながら撮影するにはつらいフィルムなのだ。スタジオで撮影するか、あるいはF1.4というような高額レンズを使う写真家ならば使えるだろうが、路地裏や市場専門のいいかげんカメラマンとしては、感度が64ではつらいのである。
 しかし、いま振り返ってみれば、「撮影がつらい」というフィルムも悪くないような気もする。現在のデジカメ時代になれば、やたらになんでも撮影可能ということになってきたが、光の具合で撮影がなかなか大変という状況だった昔は、撮影の可能性をさぐって工夫もしたし、時間もかけた。だから、撮影対象をよく観察したし、考えながら撮った。結果的に、いい写真が撮れたような気がする。
 あれは、ビルマ方面に行くときだった。雑誌などから依頼された旅行ではなく、のちに『東南アジアの日常茶飯』としてまとまる食文化取材に行くときだった。取材費も自腹という貧乏旅行だったから、編集プロダクションに勤める友人がフィルムを恵んでくれたことがあった。
「試しにASA25のフィルムを買って、使ってみたんだけど、やっぱり使いにくくてさあ。欲しければ、あげるよ」
 ありがたくいただいた。64よりもまだ濃い色で撮影できたが、炎天下でしか使えないフィルム」だから、屋内はもちろん、夕方近くなれば、仕事はもうおしまいで、怠け者にはなかなかいいフィルムだった。1983年以降は、フジクローム100が発売されて、夕方でも仕事をするようになった。
 雑誌などから依頼されて撮影する場合は、フィルムは現物支給ということが多かったので、フィルムの値段が高いということは知っていても、気にはならなかった。しかし、のちに自分の企画で撮影旅行をするようになると、その値段がつらかった。はっきりとした値段は覚えていないが、コダクローム64が1980年代初頭あたりで、ヨドバシカメラあたりでも1本1300円から1400円くらいはしたような気がする。そして、現像代はそれよりちょっと安いくらいで、合計すれば1本あたり合計二千数百円くらいかかった。10本撮れば、二万数千円、100本撮れば、二十数万円である。これは、いまもほとんど変わらない。しかし、もしデジタルにすれば、フィルムがいらないわけで、この費用がほとんどタダになる。貧乏カメラマンや貧乏出版社がデジタルカメラを喜ぶ理由のひとつが、この費用の差だ。
 外国で買えば安いのではないかと思い、タイで値段を調べたことが何度もある。最初に調べたのは、1980年代初めで、このKRが1本270バーツもしていた。安宿1泊が20から30バーツという時代で、1バーツは約12円だった。円高の1990年代になると、フィルムはタイで買うようになった。値段は多少安いという程度だったが、日本から大量に持っていくのは重いし、カサばるからでもある。
 「フィルムが重い」という感覚は、旅するプロカメラマンでないと実感したことがないだろう。フィルムの3本や5本なら、「重い」とは感じないだろうが、30本もあれば、ずっしりと重いのである。カサもけっこうある。移動のたびに、「撮影するたびに軽くなるフィルムがあればなあ」と思ったものである。現像前も、現像後も、温度にも湿度にも気を使わないといけないのがつらく、スライドの整理整頓もまた大変なのである。
 こうして、フィルムの話をあれこれ思い出していたら、馬籠の一日が思い浮かんだ。その話を次回に書こう。

 


アジア雑語林(165) 2006年12月11日

『世界の旅』時代の執筆者

 海外旅行が自由化されたのが1964年だが、その少し前に、中央公論社から『世界の旅』(編集委員/大宅壮一、桑原武夫、阿川弘之 定価360円)という10巻本が刊行された。もう少し時代があとなら、このような企画でカラー写真を多く使った「見るだけのガイド」が各社から出版されるようになる。海外旅行は制度的には自由になっても、金銭的にはまだまだ不自由な時代だったから、「使える旅行ガイド」は、まださほど必要なかったのだ。中央公論社の『世界の旅』シリーズの場合は、そのまた以前の状態で、カラー写真さえない。見る本ではなく、読む本だ。ガイドになる文章も載っているが、おおむね旅行の心構えと、教養を基本とした内容だ。旅行本の内容を時代の変化であらためて見ていくと、まずは頭を刺激する本が出て、次に目を刺激するビジュアル本がでて、その次は手や足や口を動かす実用ガイドの時代になるのだ。だから、1960年代初頭のこのシリーズは、教養本の時代である。
 具体的に、全巻の構成を紹介してみよう。刊行年は第1巻だけが1961年で、残りは9巻は1962年の刊行だ。

1 日本出発
2 インドから熱砂の国へ
3 アフリカ大陸
4 西ヨーロッパ紀行
5 ソ連と東欧諸国
6 北米大陸
7 ラテン・アメリカ
8 中国・東南アジア
9 南極とヒマラヤ
10 日本発見

 たぶん、70年代に入ったころだろうが、この第1巻だけは古本屋で買っている。日本脱出の準備をしているときで、その資料として買ったのだと思う。そして、つい最近、1960年代の日本人の東南アジア知識がどの程度だったのか知りたくて、ネット古書店で第8巻の「中国・東南アジア」を買った。「ネット古書店」で、とあえて書いたのは、詳しい内容がよくわからずに注文したということだ。
 数日後に送られてきた第8巻の目次を書き出してみると、こうなる。

菊の花、河、大地  十七年ぶりの中国  武田泰淳
中国の旅                 中野重治
敦煌への旅                北川桃雄
辺境の町ウルムチ             浜谷浩
モンゴル紀行               坂本是忠
近くて遠い国、北鮮            木下順二
四川紀行、ジャヴァの十日間        桑原武夫
フィリピン、シンガポール、マラヤ、タイ  大宅壮一
アンコール                藤島泰輔
ベトナム、ラオス縦断旅行         梅棹忠夫
解説「発展しつつある国」の現実      桑原武夫

 東南アジア部分の解説をしておく。桑原の「ジャヴァの十日間」は、雑誌「世界」(1960年5月号)からの再録。1959年に開かれたユネスコの国際会議に出席したときの紀行文だ。
 ジョクジャカルタの宿が、「部屋もよく、なかなかうまい三食つき一日百八十ルピア(千八百円)だから、食堂にハエの多いくらい文句はいえまい」とある。つまり、安ホテルなんだから、ハエが多いのは当たり前といいたいのだろうが、当時の日本では、若いサラリーマンの月給が2万円くらいだから、1800円はそれなりに価値がある金額だ。つまり、日本円が安かった時代は、東南アジアの物価はときに日本より高かったのであり、ほかの社会主義国同様インドネシアも外国人に法外な料金を請求していた時代でもあるのだ。
 大宅の紀行文は、『黄色い革命』(文藝春秋新社)からの抄録。
 藤島の「アンコール」は、『アンコールの帝王』(展望社)からの抄録だそうだが、元々興味のない書き手だから、それはどうでもいい。
 梅棹の「ベトナム、ラオス縦断紀行」には、こういう解説がついている。「書き下ろし。近く『東南アジア紀行』として中央公論社より刊行」。実際に『東南アジア紀行』が出版されるのは2年後の1964年である。 
 こういうわけで、東南アジア部分に関しては、すでに読んでいる文章と元々読む気のない文章が並んでいるわけで、買う価値はあまりなかった。多分この巻だけじゃないだろうが、海外旅行モノを編もうとすれば、どの社から刊行するのであれ、執筆者は同じになってしまうという時代だったのだ。外国に行ったことがある人は少なく、しかもそのなかでまともな文章が書ける者で、しかも知名度もある者となれば、同じ人選になるのもしかたがない。
 ただし、意外な付録がうれしかった。1970年代に買った第1巻は、函なしの裸のままで買ったので、付録のことは知らなかった。今回買った第8巻は函入りで、「世界旅行読本」という24ページの付録がついている。毎号ついている付録らしいのだが、第8巻は「特集 海外出張社員心得帳」で、無署名の文章がついている。おそらく、交通公社社員のアルバイト原稿だろう。署名原稿では、「土地カン養成法」(小田実)がある。このシリーズの第1巻では、小田の「かしこい旅、・強い旅」という40枚くらいの書き下ろし文が載っている。
 おそらくは、生活費稼ぎのために書いた文章だろうが、1960年代の若者の海外旅行感を知る意味でも貴重な原稿だと思う。この手の原稿が、小田の全集に入っているかどうか、調べてみたくなった。

 


アジア雑語林(164) 2006年11月30日

『建築家なしの建築』

 紆余曲折ののち、ひとまわりして1979年のあの日に戻ったらしい。 
 1979年のその日、私は知り合いの編集者と雑談していた。彼は、雑誌の新企画をあれこれ考えているところなんだと言って、1冊の建築雑誌を見せた。
 「こういうような内容で、特集ができたらいいなあと思っているんだけどさあ、なかなかうまくいかなくて・・・」
 その建築雑誌には、えらく暗い写真ばかり載っていた。私は「街の普通の建築物」に興味があったので、その雑誌で紹介している泥の家や穴倉の家には、大して興味がなかった。それでも、その雑誌の奇妙なタイトルはいつまでも忘れなかった。『建築家なしの建築』といった。
 1970年代前半の国内外の旅の資金は工事現場で稼いだせいか、建築には親しいものを感じていたが、深い興味を持つようになったのは1980年代に入ってからだろう。特に何か、特別なきっかけがあったわけではなく、旅先で見かける建築にふと興味を持ち、建築物の読み方を知りたくなり、建築の本を読み始めたのだった。実用書以外の建築の本には、当時はおもしろいものは少なかった。
 芸術作品というのは作者の名がはっきりしているもので、作者が明記されていないものは工芸品に分類されることがある。芸術家の名は明記されるが、職人の名は明記されない。建築においても、設計者がはっきりとわかっている建築物は、メディアでは、あたかも名画鑑賞のような扱いを受け、設計者を明記しない建造物は、鑑賞に値しないモノとして扱われてきた。だから、建築の本と言えば、西洋建築史上有名な建造物の賛美と有名建築家の作品鑑賞がほとんどで、音楽世界が「音楽と言えば西洋音楽」という枠から出られないのと同じだった。
 私の読書体験では、1980年代後半ころから、アジアやアフリカの建築に関する本が少しずつ読めるようになってきた。それはちょうど、音楽の世界で「ワールドミュージック」というジャンルが認められるようになり、西洋音楽だけが音楽じゃないと宣言しはじめたたように、建築の世界でも「西洋と日本」という枠が少しずつ外れていった。こうして、私は1990年代から現在まで、本格的にアジアやアフリカや、あるいはヨーロッパでも設計者の名前などわからない普通の住宅に関する本ばかり読んできた。
 その種の建築の本を読んでいると、しばしば出てくるのがバナキュラー(Vernacular)という語だった。「風土的」などと翻訳されるが、要するにその土地の風土に合った建築を考えるという発想だ。そして、そういう語がでてくる本で必ずと言っていいほど言及されているのが、あの『建築家なしの建築』なのだ。 
 それならば、あの日に戻ってみようかと思った。建築の旅の「ふりだし」に戻ってみようと思い、『建築家なしの建築』(バーナード・ルドフスキー著、渡辺武信訳、鹿島出版会、1984年、1800円)を買った。
 その本の説明を、ちょっとしておこう。著者ルドフスキーは、1905年にウィーンで生まれたアメリカ人建築家。1964年にニューヨークの近代美術館で、「建築家なしの建築」という写真展が開催された。日干しレンガの家や地中の家や高床の家や、土地ごとの気候風土に合った建築物の写真展だった。
 それらの写真をもとに、「都市住宅」別冊として「建築家なしの建築」が1975年に出版された。知り合いの編集者が私に見せたのがこの雑誌だ。その後、鹿島出版会からSD選書の1冊として、1984年に単行本として出版された。先日買ったのが、この単行本だ。読んでみれば、私がこの20年以上考えていたことがちゃんと書いてある。
 「これまでの建築史に含まれるのは地球上のごく小部分に限られ、その範囲は20世紀に西洋人によく知られていたヨーロッパ、エジプト、小アジア(トルコとアジア地域)からほとんど出ていない」
 日本の場合は、基本的には、西洋に日本の建築が加わるだけだった。
 さて、ルドフスキーが問題にしなかったことがある。「風土的」な家というのは伝統的な家で、その土地の風土に合ったもっとも快適な住まいなのかという問題だ。「伝統はすばらしい」と言いたい人には、例えば「日本人は日本の伝統的住居に住むのが一番いいのだ」という発想だ。たしかに、明治時代に西洋建築をそのまままねて、レンガの家を作った人がいるが、湿気がひどくとても住めたものではなかったらしい。では伝統的日本住居、例えば江戸時代の住宅は快適だったかと言えば、家は夏向きにできているから夏は比較的快適でも、冬の寒さはつらかっただろう。だから、家は夏向きではなく、冬向けの構造のほうが快適なはずだ。現在でも、農村の木造住宅なら冷房なしでも暮らせるが、暖房なしではつらい。
 ベトナムでは、その暑さを無視して、中国文明を模倣して、暑さに弱い家をあえて建てている。これをどう考えるかだ。
 こういうことを考えつつ、『湖上の家、土中の家』(益子義弘+東京芸術大学益子研究室、農文協、2006年、2800円)を読んだ。

 


アジア雑語林(163) 2006年11月21日

年表は、恐ろしい。

 この雑語林の156号で、デンバーの吉野家のことを書いた。あの店が吉野家の海外第一号店だということは知っていたが、いつ開店したのかは知らなかった。はっきり言えば、そこまで詳しく調べてみようとは思わなかったのだ。それが、ひょんなことでわかった。開店は1975年2月だった。たまたま古本屋で見つけた、『日本の食文化と外食産業』(財団法人 外食産業総合調査研究センター編、ビジネス社、1992年)についている「年表 外食産業の歩み」(川口和治・作成)に出ていたのだ。
 食文化の年表といえば、すでに『近代日本食文化年表』(小菅桂子、雄山閣、1997年)を持っていて、両方の年表を見比べると、『食文化年表』は「外食産業の歩み」も資料に使っていることがわかるのだが、両方の年表を読みながらつくづく思うのは、「年表は恐ろしい」ということだ。私も海外旅行関連年表を作ったことがあるからよくわかるのだが、資料によって年月がバラバラだったり、説明があやふやだったりして、解読に時間がかかるのだ。どの資料が正しいのかという問題は、原典にあたるとか当事者に聞くということで解決できることもあるだろうが、何千もの項目について、「原典から」という調査は不可能なのだ。そういうことを頭に入れつつ、「年表 外食産業の歩み」から興味深い項目を拾い読みしてみよう。

●東京では、1960年代後半から、札幌ラーメンが姿を見せたらしい。65年に、「札幌や」第一号店が渋谷にオープンし、67年には「どさん子」が両国にオープンしている。

●1967年11月「立食そばの誠和食品が大阪へ進出。この頃、立食い形式(スタンド食堂)がブーム」というのだが、それ以前にももちろん立ち食いそばはあったはずだと調べてみると、都内の駅に立ち食いそばができるのは、わかっているだけで、64年品川駅、66年荻窪駅、70年新宿駅というのだが、駅以外にも立ち食いそば店はあったわけだが、それを年表という形で取り上げるのは難しい。年表は、ある出来事を時間軸のある一点のこととして定めないといけない。これが年表作りの難しいところだ。歴史を線や面ではなく、点で記述するしかないのが年表なのだ。

●1967年12月6日付けの日本経済新聞によれば、「100店舗を超える外食チェーン企業は、不二家(180店)、養老乃瀧(156店)、伯養軒(130店)、アートコーヒー(109店)の4社」。まだ、吉野家も、マクドナルドもない時代だ。まあ、それはいいとして、この「伯養軒」というのがわからない。この名にまったく記憶がない。そこで、インターネットで調べてみたら、現在は社名がかわっているが、かつては駅弁の製造・販売をしていた会社らしいのだが、実情がわからない。駅構内の駅弁売り場を「店舗」として計算しているのか、そのあたりがわからないのだが、そこでつかえてしまうと先に進めない。けっきょく、書いている本人が理解できないまま、この情報を書き写すことになり、その情報をまた誰かが別の年表に書き入れる。年表はそのくりかえしだ。

●1967年の部分に、こういう記述がある。「『まわる元禄寿司』第一号店が東京・錦糸町にオープン。一皿3コで50円。いわゆる回転ずしは、元禄寿司が同年夏に船橋ヘルスセンターに実験店舗をつくり、わずか一か月後に錦糸町への出店になったもの」
 多少なりとも回転寿司の歴史を知る者は、この文章が間違いだとわかるはずだ。
 回転寿司を生み出したのは、大阪の立ち食い寿司店の主人白石義明で、ベルトコンベアーにヒントを得て作った「まわる寿司」の店第一号は、1958年大阪の近鉄布施駅北で誕生している。これが、元禄寿司だ。引用文にある「まわる元禄寿司」ではなく、「廻る元禄寿司」である。では、この錦糸町の店とはなにかというと、仙台の会社で、元禄寿司とは別会社なのに契約で元禄寿司を名乗っていた会社で、現在は契約が切れて「平禄寿司」となっている。
 というわけで、わずか4行の記述の確認をするのに、えらい時間がかかる。だから、きちんとした年表を作ろうとすれば、大変な年月がかかる。その辺の年表を寄せ集めて、「はい、一丁上がり」というわけにはいかないのだが、現実はそういう年表が少なくない。

●1978年12月「王将チェーン(ぎょうざなど中華料理の低価格販売)が東京進出第一号店を新宿のホテル・ワシントンパレス1階にテナント出店」。
 新宿をちょっと知っている人だと、「ワシントンパレス? 聞いたことないなあ。ラブホテルか? でも、その1階に餃子屋かよ」と思うだろうし、もう少し新宿を知っている人なら、「これは、ワシントンじゃなくれ、ラシントンだよ」とわかるだろう。正解は、いろいろ話題に満ちていたラシントンパレス(どういう話題かは、自分で調べてください)。その王将は、ホテルの建物解体にともない、2006年1月に閉店した。
 というように、校正するのも大変だ。合併や統合などによって、社名がころころ変わると、1970年時点では、どの社名で表記すればいいのかなどと考えたら、頭が痛くなる。

 年表作りは辞書作りと同じくらい大変な作業なのだが、同じように手間もカネもかけないから、同じように評価されないのです。というわけで、今夜は外食産業年表で遊んでしまった。

 


アジア雑語林(162) 2006年11月7日

校閲読書

 最近、本を買う量は「やや多い」という程度なのだが、読み残しが多すぎる。棚の未読コーナーには、順番を待っている本が常に5冊程度はあるのが普通だったが、いまは棚に入りきれず、床に十数冊積んである。
 読む速度が落ちた理由はいくつかあるのだが、そのひとつが「校閲読書」をしてしまうからだ。校正というのは、おもに漢字や表現など日本語の問題を扱うのだが、校閲というのは内容まで踏み込む。読んでいてわからないところがあると、ついつい調べてしまうのだ。「わからないところ」というのが、ある事件のあらましとか、ある人物の生涯の調査ということもあるが、それよりも、書かれていることの確認ということが多い。
 私の校閲読書を、具体的に紹介してみよう。ネタにするのは、たまたま床に積み上げてあった本の山が崩れて、久しぶりに姿を見た文庫だ。ちょっと読み始めて、「あれ?」と思ったので、これをネタ本にすることにした。
 立松和平の『アジア偏愛日記』がネタ本だ。この本は、1997年までのアジア旅行の日記を、1998年に東京書籍から単行本で出版し、それが2002年に徳間文庫に入ったという経歴で世に出た。つまり、最低ふたりの編集者の目と、いたかどうかわからないが何人かの校正者の目も通過している可能性のある文章だ。
 さて、いくぞ。

 日記は、1997年2月9日のジャカルタから始まる。「今回はインドネシアの食を訪ねる旅である」そうだ。以下、気になった個所を箇条書きにしていく。
■「油で揚げるとジャガイモのような味がするジェンコ豆」・・・・こういうマメは知らないので、調べる。インドネシア語辞典を調べると、jengkol という語がどうやらそのマメらしいので、各種の植物事典で調べる。Pithecollobium lobata ほかいくつかの学名がある。和名は一応キンキジュというらしい。便利な世の中になったもので、インターネットですぐカラー写真を見ることができるのだ。
■「クルプと呼ばれる揚げせんべい」・・・kerupuk
■「テンペは納豆の一種であり、豆腐のように固めてある」・・・というのは、違うだろ。テンペは豆腐とちがって、ダイズは粒のままだから。
■「ジャムーと呼ばれる香料」・・・香料じゃない。伝統薬だ。
■パパイヤの山は「パパイヤ酒工場に持っていくそうだ」・・・ええ、パパイヤの酒? それをインドネシアの工場で作っている? マユにつばをつけたくなる。
■「すっぱい野菜(サユール・アサム)や他の野菜をいれる」・・・たしかに、サユールは「野菜」、アサムは「すっぱい」だが、これはタマリンドで酸味をつけた野菜スープをさす料理名であって、野菜の名前ではない。
■「ケツンバアという山椒に似た香料を石でつぶしてすりこみ」・・・インドネシアの山椒? という方向で考えたので時間を食ってしまった。ケツンバアに音が似たインドネシア語を探りつつ、インドネシア料理の本をあたると、クトゥンバル(ketumbar)だとわかった。コリアンダーだが、山椒に見える?
■「角バナナを、熱湯にいれてゆでる。こうするとピサン・ルグス(ゆでバナナ)になる」・・・インドネシア語の「ゆでる」は、redus だから、ルグスではなくルブス。

 これで、まだジャカルタの一日分が終わらない。なんてこった。調べるのにくたびれたので、ページを飛ばしてタイ編をパラパラ読む。
 あれっ?
■「マカムは火焔樹の実だ」・・・マカームは、タマリンドのことだから、まったく違う。日本で火炎樹あるいは火焔樹と呼んでいる植物は2種類あって、ひとつはマメ科のホウオウボク、もうひとつはノウゼンカズラ科のカエンジュである。ホウオウボクの英語名はフレームツリー(炎の木)だから、ややこしい。ホウオウボクは雨季と乾季がはっきりしているインドシナに多く、カエンジュのほうは年中雨が降っているマレーシアやインドネシアに多い。こういう情報を、『東南アジア樹木紀行』(渡辺弘之、昭和堂、2005年)で、確認する
■「覚醒剤とは、タイの言葉でヤー(馬)マー(元気)、馬なみに元気という意味である。しかし、最近では、ヤー(馬)マー(頭がおかしい)ということになっている」・・・どちらも「ヤーマー」では、日本語としても理解できないはず。覚醒剤は、ヤー(薬)マー(馬)、つまり馬薬と呼んでいた。馬のように元気になるという意味だろう。薬(やく)がヤー、馬(うま)がマーだから、日本人にはわかりやすい。覚醒剤がタイでも大問題になり、「こういう、優しい名だから罪悪感がないのだ」という理由で、たしか政府主導で、1990年代末に「ヤーバー」と呼ぶことになった。ヤー(薬)バー(バカ)、つまり「バカ薬」という意味だ。

 たった数ページ読むのに、これだけ調べるのだから、読了するのは大変なのだが、この手の本は内容がないので、読了する必要はない。しかし、「アジアの勉強」の練習問題集だと考えれば、アジア研究専攻の大学生のテキストに充分使える。本文のどの部分が、どうおかしいのか気がつくだけでも、けっこう知識が必要で、「おかしい」と思う個所の校閲をやるには、もっと深い知識と根気が要求される。皮肉で言っているのではなく、校閲は本当に勉強になる。「人のふんどしでお勉強」である。
 と、まあ、こういうことを書くと、立松和平を笑い者にしているだけじゃないかと感じる人がいるかもしれないが、私の意図はそこにはない。小泉武夫はインチキ教授だから、大いに批判するべきだと思うが、立松のこの文章については、同業者として同情する気持ちが少しはある。耳で聞いただけの外国語をメモし、それをカタカナ表記で原稿にそのまま使うのはたしかに軽率ではあるが、私だってアラビア語やシンハラ語なら同じことをやってしまうかもしれない。私は売れないライターだから、極力確認は取ろうと思えば、その時間もたっぷりあるが、世のライターは私のようにヒマではないし、担当編集者だって、私を担当した編集者たちのように熱心ではないだろうから、間違いを見つけて指摘するような面倒なことはしないだろう。とくに、文庫本は著者が訂正しない限り、差別語をチェックするだけで親本のまま文庫化することが多いようだ。もちろん、出版社による違いもあれば、編集者の熱意の違いもある。
 だから、立松批判というより、「明日はわが身」という気持ち、いや、「明日」どころかいままでだって、無知と不注意によって、かなり間違いを犯しているのだから、「いつもわが身」である。

 


アジア雑語林(161) 2006年10月25日

日本橋上空

 いつのことか思い出せないが、初めて日本橋を見た時の印象は、「ああ、なんてことをしてくれたんだ」というものだった。橋の上を高速道路が覆っている。日本の役人は、こういうことを平気でできる神経の持ち主なのだ。いや、役人だけじゃないだろう。東京オリンピックを前にして、人々は浮かれまくっていた時代で、当時の映画を見ると、意味もなく都内の高速道路をドライブするシーンが出てくる。煙突から出る煙が、繁栄のシンボルに思えていた時代で、「近代的」はすべてプラスの評価だった。
 今年になってからだと思うが、突然、日本橋を覆う高速道路を取り払えという運動が、話題を集めた。私の想像なのだが、韓国の影響ではないかという気がするのである。
 ソウルを流れる清渓川は、日本の植民地時代からドブ川だったのだが、1960年代には暗渠になり、その上を高速道路が覆った。
 このドブ川の整備工事が2002年から3年がかりで行ない、高速道路を取り払い、ルートを変え、河川公園として美しくよみがえった。
 この工事が始まったことを、テレビのドキュメント番組で知った。商業施設建設のためではなく、国威発揚のための工事でもなく、ドブ川を公園に変身させる工事だと知って、驚いた。環境整備のためにソウル市が大金を投じるという。韓国も、そういう時代になったのだ。
 高速道路撤去工事を終えて、川岸を散歩することもできる公園として生まれ変わったのが2005年10月。そして、日本人が「日本橋が問題だ」と騒ぎ始めたのが2006年春だった。どうやら、関係がありそうな気がするのである。韓国だって、大胆に工事をやったのに、日本人が東京の、そして日本のシンボルとも言える日本橋を、高速道路が覆いつくしたみっともない姿のままにしておいていいのか。韓国人以下でいいのか。そういう意識を持たせたのではないかという気がするのだ。
 高速道路撤去問題について、石原都知事はこう発言した。
「高速道路を撤去? そんなのはセンチメンタルにすぎん。4000億か5000億か使って、そんな無駄な工事をすることはない。橋が欲しいんなら、別の場所に新しく作ればいいじゃないか」
 あらゆる石原発言に同意したことがない私は、「また、無神経に、バカをいいやがって・・・」と思っていたが、改めて考えてみれば、「でも、そうだよなあ」と同意できる。石原発言に同意するのは、生まれて初めてだ。
 私の意見は、こうだ。いまの日本橋はそのまま残す。国の重要文化財を高速道路が覆っている光景を「負の遺産」「日本人の恥知らずの記念碑」として、後世まで残しておけばいい。そして、その日本橋からそれほど離れていない場所に、江戸時代の日本橋を復元すればいい。完全木造の観光用の橋だから、自動車は通れない。この橋に5億かかるか10億かかるかわからないが、5000億円かかることを考えれば、安いものだ。
 公共工事は何のためにやるかといえば、「市民・国民のためではなく、工事関係者とそういう人々に支えられた役人と政治家のためにやる」というのが公式だから、高速道路撤去計画というのも、日本橋の美観云々よりも、「工事がしたい。工事費が欲しい。工事費の一部を懐に入れたい」というだけだろう。
 さて、『なるほど! これが韓国か 名言・流行語・造語で知る現代史』(李泳釆・韓興鉄、朝日選書、2006年)には、この清渓川と周辺の改修工事のいきさつがでている。こちらも、「美しい景観のために」というセンチメンタルな工事ではなかったとわかる。
 ソウルでは、手抜き工事が原因で、橋が落ちたり、デパートが倒壊したりといった大惨事が起こった。このような、「いつ崩壊してもおかしくない建造物」のひとつが、清渓川の上を走る高速道路だったらしい。だから、安全のために、この高速道路はできるだけ早く撤去しなければいけなかったのである。
 そして、こういう工事を実施したソウル市の市長は、現代建設の元社長だそうだ。ということは、手抜き工事をやって会社が儲け、税金でその穴を埋める韓国現代史の構造がわかる。
 だから、日本橋問題に限らず、高速道路の建設であれ撤去であれ、「工事をするべきだ」と主張する者の、腹のなかを覗け。もっともらしい言説に、だまされるな。

 


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