前川健一 著作一覧

アジア雑語林(151)〜(160)

アジア雑語林(160) 2006年10月12日

色香に惑う少年

 1963年。
 東京オリンピックの1年前、春までは小学校4年生だった。4月に5年生になった。どうやら、その頃に、私は色香というものを全身に感じたらしい。
 あの時代は、小学生の男の子が芸能人に夢中になるというのは例外的な存在で、たいていの男の子は、野球かプラモデルか、鉄道模型か昆虫採集か切手収集か自転車に夢中になっているものだった。もちろん、色香が気になる年頃になりつつあったにせよ、部屋に女性歌手の写真を飾るには、まだ5年ほど早かった。
 私も写真や映像で色香を感じたのではない。視覚ではなく、もちろん触覚でもなく、聴覚だったらしい。視覚によるものではないから、「かわいい」とか「美人」だからというのではなく、なんとも色っぽい声と音楽に、あどけない少年はやられてしまったのである。
 2曲にやられたのだが、順序はわからない。どちらも、この年、1963年に発表された歌で大ヒットした。
 ラジオで音楽を聴くのは1950年代から好きだったが、もっぱら英語の歌か日本語の歌だった。いや、そんなことはないか。現在と比べものにならないくらい、さまざまな言語の歌が放送されていた。アーサー・キッドの「ウシュクダラ」はインチキなトルコ語風だろうが、トニー・ザイラーの「白銀は招くよ」は、当然ちゃんとしたドイツ語だ。トニー・ザイラーは、1956年のコルティナダンベッツォ冬季オリンピックでスキーの三冠王となったドイツの選手で、日本でも有名になった。1959年のドイツ映画「白銀は招くよ」の主演をつとめ、主題歌も歌った。幼少のみぎり、私もラジオから流れるこの歌は何度も聴いてる。1970年代に入っても、冬になると、ラジオからはこの映画のテーマ曲と、「白い恋人たち」が流れていた。
 たぶん、次にドイツ語の歌がラジオから何度も流れるのは、エンゲルベルト・フンパーディンク(60年代)で、次はネイナ(80年ごろ)くらいだろう。
 寒いのが嫌いな私は、映画「白銀は招くよ」を見ていない。しかし、つい最近、テレビでこの映画のワンシーンを見た。女性選手がスケートをやっているシーンだ。その選手こそ、1950年代に活躍したスケート選手、イナ・バウアーなのである。
 1950年代から60年代には絶えずシャンソンが流れていて、日本語詞が多かったがフランス語のままの歌もあった。だから、フランス語の歌は珍しくはないのに、シルビー・バルタンのハスキーな声の「アイドルを探せ」には、打ちのめされた。子供のクセに、本でも映画でも食べものでも「お子様向き」が嫌いな1963年の私は、大人の歌にやられてしまった。
 当時の大人から見れば、シルビー・バルタンは決して大人ではなく、「娘の歌」なのだろう。1944年生まれのシルビー・バルタンは、「アイドルを探せ」がヒットした1963年には18歳か19歳だった。私より7歳か8歳年上にすぎないのだが、少年にとっては充分に大人だった。
 芸能雑誌はもちろん、あらゆる雑誌を読んでいなかった小学生は、シルビー・バルタンの姿などまったく知らなかった。だから、すぐさまレコード屋に行き、ジャケット写真で金髪だと知った。小遣いを貯めて、まもなくシングル盤を買った。生まれて初めて買った、記念すべきレコードである。
 この年に、少年の体を悩ませたもう1曲は、「イパネマの娘」だ。ブラジル人主婦アストラッド・ジルベルトが歌うボサノバだ。彼女は、ブラジルの有名音楽家ジョアン・ジルベルトの妻で、少し英語がしゃべれるというだけのことで、アントニオ・カルロス・ジョビンのこの歌の英語詞を歌った。サックスがスタン・ゲッツで、アルバム「ゲッツ/ジルベルト」はベストセラーになった。
 このブラジル人主婦の歌は、日本に住む小学生の耳にさえ「へたくそ」に聞こえた。その理由はボサノバという音楽が、不安定な感じを与えるささやく歌だということと、実際にアストラッド・ジルベルトは素人そのままのヘタな歌しかうたえなかったのだ。しかし、それでも、紅顔の少年は、やられてしまった。スタン・ゲッツのサックスというジャズっぽさにもやられたのだと思う。
 魅惑の色香といっても、大人を惑わすような過剰なものはかえって嫌っていた。マリリン・モンロータイプはずっと好きになれない。ただし、映画俳優としてのモンロー本人の「帰らざる河」は、悪くない。
 ハスキー声が好きだからと言って、<ニューヨークのため息>ヘレン・メリルは苦手だった。大人すぎたのだろう。ヘレン・メリルが本当にいいなあと感じるようになったのは、40歳を超えてからだ。
 アストラッド・ジルベルトのあと、ブラジル音楽は「セルジオ・メンデスとブラジル66」を聞くようになるのだが、いずれもアメリカ経由だ。ミリアム・マケバという南アフリカ出身の歌手もアメリカ経由で聞いている。さきの「ウシュクダラ」だって、アメリカ経由だろう。しかし、ヨーロッパからも、イギリスだけでなくイタリアやフランスからも音楽が入ってきていた時代だった。
 日本では、まだかろうじて浪曲がラジオから流れる時代だった。アルゼンチンのフォルクローレ歌手・ギタリストの、アタウアルパ・ユパンキの初来日は1964年だ。ベトナムの歌手カン・リーが来日したのは、たぶん1970年だったと思う。
 私の色香アンテナは、女の色気ということもあるのだが、どうやら自然に非英米という方向に向かっていたらしい。きっかけなどない。自覚もない。意識して、非米・非英を決めたわけではなく、ただ、なんとなく、英語の歌じゃないほうが性に合うのであり、心地いいのである。外国に行きたいと漠然と思っていたが、多くの日本人とは違って、アメリカに行きたいとはまったく思わなかった。
 1960年代にレコードを数枚買っただけで、数十年買わずにラジオばかり聴いていたのに、世界の音楽を比較的聴いている。レコードを買わなかったのは、そんなカネがあったら旅行資金にしたかったからだ。
 1960年代当時の、日本の音楽世界がいかにすばらしいものか改めて思う。NHKーFMの平日午後は、かつてはバラエティーにあふれた音楽を放送していたのだが、いまやゴミ番組の背比べになってしまった。おそらく、私と同世代の音楽ファンは、この空しさと寂しさを共有してくれるだろうと思う。音楽は、ハードが貧弱だった時代のほうが、ソフトは豊かだったかもしれない。

 


アジア雑語林(159) 2006年10月3日

海外旅行と植草甚一の時代

 インターネットで検索していて、もっともよく出会うサイトは、じつはこの雑語林なのである。私がもっとも知りたい方面の事柄を探せば、この前川がもっとも関心がある事柄を書き続けているこのサイトがヒットするのは当たり前といえば、当たり前なのだが、苦労して検索していて、結局出会うのは自分の文章かよと思うと、「徒労」という語が頭に浮かぶ。
 しかし、それを逆用すれば、この欄を自分のメモ帖に使えるわけだ。ノートにメモしたら、それっきりで忘れてしまいそうだが、ここに書いておけば、いつか検索でひっかかる可能性がある。
 というわけで、『植草さんについて知っていることを話そう』(高平哲郎、晶文社、2005年)から、海外旅行に関係する部分を書き出しておこう。この本は、奥付けでは「高平哲郎著」になっているが、実際には、高平がさまざまな人と植草甚一をネタにして対談した本だ。ここで私が書き出すのは、植草甚一とは関係がない。日本人と海外旅行の歴史メモだ。
 この本で、石川次郎(1941〜 )が「平凡パンチ」の時代を語っている。石川は大学卒業後2年間ほど旅行社勤務のあと、平凡出版に入社し、「平凡パンチ」、「ポパイ」、「ブルータス」、「ターザン」、「ガリバー」などの編集を担当した。

 「実はぼくは二十六歳で編集者になったんですけど、仲間よりも二、三年遅れて、少しハンディキャップを抱えてのスタートだったんですよ。違う仕事をちょっと・・・・。実は六四年に学校を卒業して、まあほとんど学校で勉強なんかしなかったんだけど・・・。その時、なんとか外国に行く方法はないかと考えて、ええ。とにかく外国を見たいという気持ちが強くてね。当然お金もないし、楽に行ける方法はないかなあと考えたんですよ。それには、海外旅行関係の産業に就くのがいちばんじゃないかということで・・例えばエアラインとか海外専門のトラベル・エージェントに勤めたいなぁと強く思ってたんですよ、かなりイージーな発想なんだけど。
 ぼくが卒業する年に海外旅行が自由化するっていうこともあってね、当時、一年間で十万人も渡航者がいない時代ですよ。いまは千七百万人の時代になっちゃたけど。ぼくはその海外旅行ってのが、将来、大きなビジネスチャンスになるんじゃないかという直感があった。いや、素人っぽい予感ですけど。それと、アメリカです。アメリカが気になってしょうがなかったていうのがあったんですね。VANジャケットという会社がアメリカの匂いをまき散らしてさんざん刺激された。とにかく一回行かないと話しになんないっていう感じがあったんで、その手段として選んだのが海外旅行代理店。代理店業務に興味があった訳ではなくて、何とか行きたいと。それだけです。
 (略)
 でもね、初めて行った外国はアジアだったの(笑)。香港とかタイとか。でも、まあ、一歩日本から出たということで、近いうちにアメリカに行くぞっていう気はあったんだけど、結局、挫折したんです。代理店時代にはアメリカにいけなかった。ヨーロッパは行きました。アジアを繰り返し行きましたけど、なぜかアメリカ方面に行くチャンスはなくて、ハワイにさえ行けなかったんです」

 64年に創刊された「平凡パンチ」の社外モニターをやっていたというきっかけで、旅行代理店をやめた石川は、平凡出版に入社する。

 「(元海外旅行の代理店勤務だったという前歴を買われて)、それで、変な話ですけど、ぼくが海外取材担当になっちゃった。入社していきなり。(略)ぼくは挫折して海外旅行の会社を辞めたのに、新たに入った会社、出版社、そこで、『平凡パンチ』という編集部がちょうど海外取材をこれからやろうっていう時にポンと入っちゃった。それで、他の人間よりも多少あいつのほうが外国には馴染みがあるだろうし、動けるだろうということだけでぼくが担当者になったっていう、そういうことなんですよ」

 ヒッピーの時代のアメリカはやがて姿を変え、石川も別の雑誌を考える。ベトナム戦争が終わって、反抗や抵抗する相手がなくなり、自分を見つめ直そうと考えた。自転車、ジョギング、短髪の、クリーンなアメリカの若者。そういうアメリカを反映した雑誌が、「ポパイ」だった。

 次は、時代がもう少し前の話。話すのは渡辺貞夫(1933〜 )だが、引用ではなく、要約。
 渡辺は、1962年にアメリカのバークリー音楽院に留学している。その時、ナベサダ29歳。すでに妻も子供もいた。
 留学に尽力したのは、すでにアメリカに渡っていた秋吉敏子。彼女はバークリーを紹介して、フル・スカラシップ(多分、渡航費と学費・生活費の全額が支給されるという意味だろうが、よくわからない)が受けられるよう手配してくれたらしい。
 渡辺のジャズ仲間は、草月会館で歓送コンサートをやり、売り上げ金から20万円を餞別として渡辺に与えた。当時の20万円は、若いサラリーマンの年収分くらいだ。

 「当時アメリカは遠い国でね。それこそ、映画で憧れた摩天楼の世界のあの中に行けるなんて夢にも思ってなかったわけですから・・・・行きたい。ただ行きたかったけど、瞬間の逡巡はありましたよ。もう結婚もしてましたし・・」

 アメリカに渡った渡辺は、学校が始まるまでとりあえず秋吉宅に居候させてもらい、仕事も世話してもらった。餞別にもらった20万円は日本に残した家族の生活費に置いてきたから、アメリカで稼ぐ。 
 あのナベサダも、アメリカでは貧乏学生だったのだなあという1962年。

 


アジア雑語林(158) 2006年9月26日

昭和30年代ブームを疑え

 「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が大ヒットしたらしい。進駐軍兵士となった日系アメリカ人2世の物語でもないのに、英語の題名をつけるその植民地根性、英語かぶれ思想が気に食わない。輸出時の英語タイトルというわけではなく、日本人向けに公開するする日本映画に、「英語を使えば、かっこいいだろ」という発想が、恥ずかしく、嘆かわしいのだが、今回は英語の話ではない。いや、たった今思い出したことがあるので、ついでに書いておこう。恥ずかしい英語と映画の話だ。
 2005年に多少は話題になった映画に「北の零年」があった。映画会社が、吉永小百合でまだ客を呼べると期待した作品だ。さて、この映画の題名だが、素直な人なら「きたのれいねん」と呼ぶはずなのだが、映画会社は「きたのぜろねん」と読ませた。ゼロ? なんで英語なんだ。ゼロといえば、戦闘機の零戦は戦時中には当然英語まじりの「ゼロせん」などと呼ぶはずがなく、「れいせん」だったはずと推測して調べてみたが、どうやら戦時中でも前線では「ゼロせん」と呼んでいたそうで、ゼロはむずかしい。
 それはともかく、この映画の話をもっと複雑にしているのは、武士がでてくる北海道開発物語映画に、飾りにすぎない英語タイトルがついているのだ。
 ”YEAR ONE IN THE NORTH”
 英語世界ではまだゼロは発見されなかったようで、こういう英語を使う意味があったのかといえば、飾りとしての意味は充分にあったということだろう。英語が見えると、「なんだか、かっこいいぜ」と思うような日本人が、「小学校から英語を教えるべきだ」などと主張するのだ。そう、英語は飾りなのだ。
 さて、話を戻す。「ALWAYS」という映画の宣伝文句は、ポスターなどにこう書いてある。
 「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう」
 「バカをいってるんじゃない」と反論しておこう。昭和30年代前半に携帯電話もパソコンもないんだよ。存在しないものを、「ないからくやしい、さみしい、つまらない」とは思わないだろ。テレビは登場してきた時代で、だから多くの日本人はテレビを楽しみにしていた。テレビが欲しかった。だから、ある年齢以上の人は、テレビが自宅にやってきた喜びを覚えているのだ(私は、「その日」をよく覚えていないが)。
 だから、あの時代の人は当然携帯電話もパソコンも知らなかったのだから、「それらがないのに、楽しかったのは不思議」と考える広告屋および関係者を、「アホ!」と罵倒しておこう。
 ふたたび、「ALWAYS」から、DVDの解説文を紹介しておこう。
 「昭和33年――日本はけっして裕福ではなかったけれど、人々は明るくきらめく未来に向かって懸命に生きていました」
 アジア文庫の愛用者や、アジア本をある程度読んでいる人なら、どうして私が「昭和30年代ブーム」にイライラしているのか、きっとわかるはずだ。素人や素人同然の人が書いたアジア旅行記には、しばしばこういう記述が登場する。
 「この国はたしかにまだ貧しいが、日本人がとうの昔に失った心の豊かさがここにある。家には電気製品など何もないが、のんびりとした生活と、家族の会話がある。テレビの代わりに、星空の下で、老人たちが語る昔話がある。子供たちの目は、どうしてこんなにも澄み切っているのだろうか」  
 などという文章とともに、農村で遊んでいる子供の笑顔写真を載せるというのが、豊かな日本人が貧しい国を訪れたときのベタな発想、常套手段なのである。「良心の塊のような人間」だと自他ともに認める日本人が、例えば農村に住むカンボジア人についてのこうした発言は、2006年の日本人が、貧しかった1958年の日本人に対して「モノがなくても、心の豊かさはありました」という発言と、基本的には同じなのだ。
 カンボジアの農村生活レベルも昭和30年代の生活レベルもまったくの他人事で、発言者は2006年の最先端文明生活を享受しているのだ。携帯電話もパソコンもテレビも、エアコンも自動車も電子レンジもDVDプレーヤーも、なにもかも手にしたうえで、「素朴な生活がすばらしい」だの「あのころは貧しくても、楽しかった」と発言しているのだ。「あの、貧しい生活」には戻らないことを前提として、貧乏生活を賛美しているのだ。
 1947年に網走で生まれ、父親はばくちに狂い、母親は子供を置いて逃げ去り、子どもたち4人で暮らしていた永山則夫少年にとっての昭和30年代は、「昭和30年代ブーム本」が描く楽しく優しい時代だったのか。永山少年が集団就職で北海道を出て、どういう行動をしたのかという説明は、このコラムの読者には不要だろう。永山則夫は特定の個人だが、「ながやま」のような少年や少女はいくらでもいた。そういう元少年少女に向かって若者が、「集団就職の時代って、楽しくすばらしい時代でしたね」と言って、「そうだね」と言ってもらえると思っているのだろうか。
 どぶ川も糞尿臭も煤煙もなく、練炭や豆炭の匂いもなく、「交通戦争」ということばが生まれた時代なのに交通事故死もない「昭和30年代ブーム」の本。時代の負の部分を書かないこの手の本を、「おかしいぞ」と気がつく出版人はどれだけいるだろうか。

 


アジア雑語林(157) 2006年9月15日 【追記】 9月19日

「沈没」なる語について

 いままでにその名を聞いたことが一度もないのだが、同朋大学という大学があるらしい。インターネットでちょっと調べ物をしていて、「同朋大学同窓会文化講演会」の報告がパソコンのモニターに姿を見せた。講演会が行なわれたのは2002年11月で、講演者は「旅行人」編集長にしてライターの蔵前仁一氏である。
 「講師 蔵前仁一氏プロフィール紹介」に、こうある。

  「(前略)また、旅先で一箇所の場所にいつ居てしまう事の形容語『沈没』は、蔵前氏の作り出した言葉としてあまりにも有名、バックパッカー(リュックを背負って世界を旅する人々の形容語)を愛する人々に脈々と語り継がれています。」(原文ママ)

 まだ、こんなことを書いている人がいたのだ。
 旅先にしばらく腰を落ち着けることを、旅行者のあいだでは「沈没」という。この語が蔵前氏の造語だというトンチンカンなことを言い出したのは、これまたトンチンカンな偽論文「旅人たちのマユコスモロジー アジア放浪紀行本における日本人のアジア観」(竹内祐輔 1998年)が最初かもしれない。このトンデモ論文はいまでもネットで読めるが、研究者だってこんなにひどい文章を書いているという例証(冷笑)である。
 蔵前氏は、いままで一度たりとも、「『沈没』という語は、この私が作ったのだ」などと語ったこともなければ、書いたこともない。無知な学者が勝手に書き、それをそのまま信用する者がいたということだ。 
 さて、蔵前仁一と沈没との関係は、『旅ときどき沈没』(本の雑誌社、1994年)と『沈没日記』(旅行人、1996年)のように書名で使っているが、もちろん彼が作った語ではなく、一般的な日本語としては古くから(明治からか?)使われているし、話題となったのは、最近再映画化された『日本沈没』である。小松左京の小説は、1973年に光文社から出版されている。その当時、「沈没」という語はちょっと流行語になったという話を聞いたことはある。それが事実かもしれないが、旅行者用語としては関係ないと思う。
 Wikipediaというフリー百科事典がある。この事典で、「バックパッカー」を検索すると、この「沈没」なる語が蔵前氏の名とともに登場する。

  「『沈没』は、バックパッカー用語で、一都市に長期に渡って留まることを言う。若いバックパッカーの中には1週間程度で沈没という者もいるが、2週間を超える滞在で使用するのが好ましいとされる。中には数年にわたって一つの地に留まっているバックパッカーも存在する。蔵前仁一が広めた。」

 「蔵前仁一が広めた」という説は、まあまあ正しいかもしれないが、「沈没とは、ある土地に2週間以上滞在すること」と定義しているなんざ噴飯ものだ。「沈没」という語は「2週間を超える滞在で使用するのが好ましいとされる」と独断で決めた者は、一歩前に出て名を名乗れ。ウィキペディアという百科事典はおおむね好ましいのだが、旅行関連の書き込みはこの程度だから残念。
 さて、「沈没」という語だ。1970年代から旅を始めた私の体験では、移動を続けてきた旅行者が、とりたてて特に目的もなくある場所に腰を落ち着けることを、「沈没」と呼んでいたように思う。この「とりたてて特に目的もなく」というのが重要で、例えば「3ヶ月間、ロンドンの英語学校に通った」とか「足を骨折して、アテネで2ヵ月療養」というような滞在を「沈没」とは呼ばない。旅行者によって「沈没」の意味合いは違うだろうが、私の認識では、ただ、なにをするでもなく、だらだらと、旅先で知り合った旅行者たちと遊んでいるうちに、いつしか時が流れてしまい・・・・というような状態や、現地の女に惚れこんで全財産をつぎ込んでしまい、今は親からの送金を待っているというような自堕落な状態を、「沈没」と呼んでいたような気がする。
 私の記憶では、1970年代にはすでに使われていた語だと思うが(まあ、記憶力に自信はないが)、それよりも古くから使われてきたことが、1964年に出版された次の本でわかる。

  「私の旅は、これで終わったわけではない。終るつもりでマドリを発ったのだが、またもやロンドンでチンボツしてしまった。ユースホステルの友達を手伝ってワイシャツのセールスをしていたら、そこのお得意さまが、緊急にハウス・ヘルパーがほしいというので、、それでは、ということで一ヵ月間住こんでしまったからだ。」  『パンとぶどう酒と太陽と』(神原くにこ、大泉書店、1964年)

 ちなみに、この本は最近復刊されたが(鈴木くにこ著、碧天舎)、私が持っているのは旧版。1964年2月10日の発行で、手元にあるのは、同じ64年の3月25日発行の「五版」と奥付けにある。出版事情を知っている人なら、「うん?」という本である。
 それはさておき、1960年代前半にヨーロッパを旅行した若者が書いた本に登場する「チンボツ」という言葉だから、もしかすると戦前期のパリや上海あたりでゴロゴロしていた日本人が「チンボツ、あるいは沈没」という語を使っていた可能性はある。というのも、1960年代以前だと、外国でゴロゴロと「沈没」するような若者がまだほとんどいない時代で、そうなれば戦前期から使われていた語ということになる。

追記
 山歩きに詳しい友人から、「沈殿」という山岳用語を教えてもらいました。インターネットの山岳用語辞典などで確認すると、だいたい次のような意味があるようです。
 沈殿・・・・登山者がよく使うことばで、天候不良などで、テントや山小屋から動けずにじっとしていること。あるいは、それが転じて、キャンプ場や山小屋の風景などが気に入って、長逗留すること。ネットの情報では、キャンプできなくて駅で寝ることという説明もあり、使う人によって、定義にゆらぎはあるが、海外旅行者用語の「沈没」に似ている部分もある。
 1950年代から60年代の、若者の海外旅行者には、大学の山岳部、ワンダーホーゲル部、そして山岳部から分かれる形で誕生した探検部の活動がかなり影響している。これについては、「京大探検部」など別項ですでに書いているが、いずれまた書く予定だが、とにかく、山岳部員や探検部員が使っていた「沈殿」という語が、「沈没」に転化した可能性はある。ただし、それを証明するには、「沈殿」という語が、「沈没」より古くから使われていたことを確認しなければいけないわけで、簡単にはいかない。
 どなたか詳しい事情をご存知の方は、アジア文庫まで情報をお知らせください。うまくいけば、こので「沈没」の謎が解けるかもしれない。

 


アジア雑語林(156) 2006年9月5日

世界の吉野家

 海外の吉野家についてちょっと調べたいことがあって、吉野家のホームページに当たったら、これがおもしろい。外国の吉野家全リストがある。
 アメリカにはニューヨークとカリフォルニア州各地にあるが、最初の海外支店となったデンバー店がなくなっていることに気がついた。あいまいな記憶だが、牛肉を手に入れるために、牧場に近いデンバーに第一号店を作ったという話を耳にして、デンバーに行ったついでにその店を覗いてみたことがある。1980年のことだ。住所などは知らないから、ただぶらぶらと町を歩いていて偶然みつけた。お茶が出ないこと以外、日本とまったく同じシステムと味と食器で営業しているその店で牛丼を食べながら、ちょっと食文化の観察をした。店を出て、食後の散歩をしていたら、歩道の向こうから歩いてきた男たち数人が私に向かって、
 Hey,where is a beefbowl?
 と聞いてきた。「ビーフボウル」というのは、牛丼の英語名だということは、ほんのちょっと前に、吉野家で知ったことなのだが、散歩をしている私を見て、いきなり「ビーフボウル」はないだろうと思うが、吉野家の所在地をちゃんと知っているのだから、私に声をかけたのは大正解というわけで、複雑な気持ちだった。 
 現在の海外店は、国や地域でいえば、アメリカのほか、中国、台湾、香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、オーストラリアで、なかでも中国がすごい、北京市だけで43店もある。中国では、北京や上海といった大都市だけではなく、なぜか内蒙古自治区にも支店がある。ちなみに、台湾全土で40店、香港には29店ある。
 吉野家のHPには、各国独自の商品が値段とともに写真で紹介しているので、食文化研究の資料になる。香港には「東坡肉飯」(豚バラ肉の蒸し物)などがある。詳しく知りたい人は、直接HPを読んで欲しい。
 さて、そもそも海外の吉野家について調べたくなったきっかけは、日本で勉強している韓国人留学生たちとの雑談だった。彼女たちと、「もし、ソウルで日本の食べ物屋をやるとしたら、何を商えば成功の可能性が大きいか」というテーマで、語り合った。留学生をAさん、Bさんとして、その世間話を再現してみよう。

A 「私、いまスープカレーにはまっているの。韓国でスープカレーの店を出したら、きっとうまくいくと思うんだけどな」
B 「スープカレーはクセがあるから、一般受けはしないと思うな。普通のカレーショップは、うん、どうかなあ。だめかもしれない」
A 「だめな分野を考えるとね、立ち食いソバのたぐい。立って食べるのは、韓国じゃだめ。それから、吉野家もだめ」
前川 「それは味?」
B 「味もダメだと思う。私、日本で食べたけどダメだった。でも、味よりもダメなのは、ひとりで食べるっていうこと。カウンター席は、韓国じゃダメなんですよ。屋台なら、ひとりでもいい。けど、食堂とかレストランで、ひとりで食べるってのはダメ。向かい合って食事をしたいから、カウンターで並んで食べる吉野家みたいな店は、韓国じゃだめなんです」

 などと、まずは否定的な部分から話を始め、「これがいい」「あれがいい」と話が盛り上がっていったのだが、それはまた別の機会に。話したいのは、このことではない。
 じつは、1997年にソウルとバンコクに吉野家が次々に店を開き、そして次々に閉店してしまったという過去がある。その当時、私は食文化の問題が大きいと考えてきたのだが、中国・台湾・香港でも、シンガポールでも大成功していることを考えると、食文化の問題よりもむしろ、合弁先の現地企業の問題だろうと思うのである。食文化の問題があるにしろ、そんなものは企業の力(カネの力)でどうにでもなるものだというのが、正解ではないかと思うようになった。
 昔風の考えでは、中国人は「冷や飯は食わない」と思われていたが、中国のコンビニでは弁当が売れている。中国人は「農作業を手助けしてくれるから」という理由で、牛肉はほとんど食べなかったが、いまはしゃぶしゃぶだろうがステーキだろうが、牛丼だろうが食べるようになってきた。上海などの大都会の話だが、中国人がおにぎりを食べながら、日本茶を飲むという時代なのだ。
 もう30年も前になるが、台北のインテリがこんなことを私に語った。「台湾には安くてうまいものがいくらでもあるんですから、ハンバーガーなんて、流行りません。あんなものは、アメリカかぶれの日本人が喜んで食べているだけです」
 その後数年して、マクドナルドが登場し、成功している。
 考えてみれば、「生の魚を食べるのは日本人だけ」だと、日本人が考えていた数十年前、すしや刺身を初めとする日本料理が外国でもてはやされるようになると想像した日本人はほとんどいない。外国の日本料理店は、日本人及び日系人相手の店だと考えられていた。外国人が、生魚をいかに嫌うかをよく知っているインテリ、なかでも食文化の知識が深ければ深いほど、「日本料理は海外では到底受け入れられないものだ」と確信していた。日本のお茶を、外国人も飲むようになるなどと誰が想像したか。
 あるいは、「日本人は辛いものが苦手で、ほとんど食べられません」というのは、日本人客を扱う旅行社の常識で、だから、旅行中の食事には辛いものは避けるというのが常識だった。その日本に、タイ料理店や韓国料理店が数多くあり、けっこう繁盛しているのである。現代の日本人は、「魚なしでは生きていけない」人よりも、「肉なしでは生きていけない」人の方が多くなったと思う。
 最近の食文化の変容は、学者の想像力を超えている。だから、食文化の知識をあたかも万古不変の「公式」として信じないようにしようと、自戒している。

 


アジア雑語林(155) 2006年8月24日

1985年の日韓

 本を読み始めたら、その1行目で中断してしまった。
 『韓国道すがら 人類学フィールドノート30年』(嶋陸奥彦、草風館、2006年、2300円)は、1985年に出版した『韓国農村事情』を第一部に再録し、第二部はそれ以降の事情を加筆して一冊にまとめたものだ。その『韓国農村事情』は、次のような文章で始まる。

 このところ韓国関係の本がずいぶん出版されている。ちょとしたブームともいえるほどだ。

 「このところ」というのは、1985年ごろということだが、「1985年前後」ではなく、「1985年までの数年間」の意味だと解釈すべきだろう。仮に、1983、84、85年の3年間ということにして、さて、そのころに「ブーム」といえるほど韓国関連書が数多く出版されただろうか。
 私は韓国・朝鮮問題研究家ではないので、「このころ」にいったい何があったのかよくわからない。、1988年のソウルオリンピックを前に、韓国関連本がどっさり出ていることは、体験的によく覚えている。しかし、それはオリンピックの数年前、つまり1980年代後半だったはずで、たしかに玉石混交、次々に本が出て、ほとんど売れずにすぐ絶版になった。テレビも、線香花火のようなひと騒ぎをやって、オリンピックが終わったら韓国から目をそらせた。
 さて、1985年ころの韓国本の大事件といえば、アレかなと書棚を調べると、やはりこれだった。関川夏央の『ソウルの練習問題』と『海峡を越えたホームラン』は、ともに84年の出版だった。たしかに、この2冊はアジア、とくに韓国に関心がある者や、ノンフィクション好きの間では話題になったが、さて、韓国書の「ブーム」といえるほど多数の本が出版されたのだろうか。そういうことが気になってしまい、『韓国道すがら』の先が読み進めなくなったのである。
 というわけで、書棚の韓国・朝鮮本をひっくり返して奥付けを確認して、韓国関係の本のちょっとリストを作ってみた。アフリカや中東や南米の本と違い、韓国関係の本は1985年に出版された本だけ多数あるので、私が読んだ本だけをリストにしてみた。

1983年
『はじめての朝鮮語』(渡辺吉鎔)
『隣の国で考えたこと』(岡崎久彦)
『オンドル夜話 現代両班考』(尹学準)
『韓国社会を見つめて』(黒田勝弘)
『韓国服飾文化史』(柳喜卿・朴京子)

1984年
『ハングルの世界』(金両基)
『朝鮮の食べもの』(鄭大声)
『ソウル 街を読む』(榎本美礼)

1985年
『韓国食卓アラカルト』(小野田美紗子)
『ちょっと知りたい韓国』(草野淳)
『ソウル・ラプソディ』(吉岡忠雄)
『ソウル発これが韓国だ』(黒田勝弘)
『ソウル実感録』文庫版(田中明)
『私の朝鮮語小辞典』文庫版(長璋吉)
『日韓ソウルの友情 理解への道part2』(司馬遼太郎ほか)
『もっと知りたい韓国』(伊藤亜人編)

 ざっと調べたら、こういう結果になった。1980年代後半の、怒涛のような出版を考えれば、1984年前後あたりの韓国関係書の出版は、とても「ブーム」などと呼べるようなものではなかったと、今ならわかる。
 だから、リストにあげた程度の出版事情でも「ブーム」だと感じるほどに、1980年以前の韓国・朝鮮関連書の出版事情が、それはもう淋しいものだったと想像できるわけだ。
 しかし、少ないといっても、ある程度は出版されているわけで、私は出版点数を云々したくない。要は、内容だ。1960年代から70年代の韓国・朝鮮本が、あまりに政治的で観念的で、「屁理屈の純文学」のような退屈な本が多かった。だから私は、朝鮮半島に深入りせずに、熱帯アジアと仲良くなろうと考えたのである。そのほうが絶対楽しいと思ったのである。

 


アジア雑語林(154) 2006年8月15日

1972年に何が起きたのか、あるいは何が起きなかったのか

 坪内祐三の『一九七二』は違和感の多い本だった。歴史的事実の間違いも気になった。もともとこの本は「諸君」の2000年2月号から2002年12月号まで連載された文章をまとめ、2003年に文藝春秋から単行本として発行したものだ。したがって、雑誌連載時と単行本化のときに、著者はもちろん編集者や校閲者の目もくぐっているはずなのに、間違いが少なくない。
 この単行本が、2006年4月に文春文庫に入ったので、こんどこそ訂正されているだろと思ったが、直っていない。そこで、この場で一応指摘しておこうと思う。気になる個所はいくつもあるが、1972年の海外旅行事情について書いた次の文章を、仔細に点検してみよう。

 「この年海外旅行者は初めて百万人を突破し、前年比四四.八パーセント増(十年前と比べれば何と七倍増)の百三十九万人を記録した。しかもこの内の百四万人までが観光旅行者だった。ドルショックによる円高や外貨持ち出し限度額の撤廃、旅券法の改正、さらに、パック旅行の登場など理由は幾つかあった。つまり、この頃から、日本人にとって海外旅行は当たり前の時代になった」。

 まずは、海外旅行者数について考えてみる。1972年前後の海外旅行者数も紹介してみよう

 出国者数[1000人未満は切り捨て]  (  )内は前年比
 1969年   49万2000人(43.6%増)
 1970年   66万3000人(34.6%増)
 1971年   96万1000人(44.9%増)
 1972年  139万2000人(44.9%増)
 1973年  228万8000人(64.4%増)
 1974年  233万5000人   (2%増)

 こういう統計の数字でわかるのは、72年に出国者が100万人を突破し、それが前年比44.8パーセント増だというのは事実ではあるが、72年が決して特別な年ではないということだ。71年も前年比44.9パーセント増であり、73年は64.4パーセントの増加である。したがって、72年だけの数字をあげて、この年に海外旅行者が急増したというようなことを書くのは、恣意的な誇張である。
 次は、10年前との比較だ。1972年の出国者は「十年前と比べれば何と七倍増」と書いている。1972年の10年前といえば、まだ海外旅行が自由化されていない1962年ということになる。ここでも、62年前後の数字もあわせて、出国者数を紹介しておく。

 1960年   7万6124人
 1961年   8万6328人
 1962年   7万4820人
 1963年  10万704人

 この数字で計算すれば、62年から10年後の72年の出国者数は「七倍増」どころか、18.6倍の増加なのである。まあ、海外旅行が自由化される前の62年とくらべようという発想が、どだい無理なのだ。
 さて、次、「ドルショックによる円高」というのは正しい。1971年12月に、それまでの1ドル=360円が308円になった。わからないのは、「外貨持ち出し限度額の撤廃」である。資料を調べれば、たしかにそれらしきことが書いてある。が、しかし、73年には限度額が3000ドルに戻り、74年には1500ドル以内に限定されている。いくらオイルショックがあったからとはいえ、3000ドル以内がいきなり「無制限」になり、すぐにまた3000ドル以内に戻り、2年後には1500ドル以内に押さえるというのは、あまりに変化がありすぎる。だから、72年の「限度額撤廃」というのはなにかウラがあるように思えるのだが、調べてもわからなかった。しかし、坪内が書いているように、もし現在と同じように、持ち出し外貨が完全に無制限だったとしても、そのことで海外旅行者数が急激に増えたとは、とうてい思えないのだ。
 次の、「旅券法の改正」というのは、まったくわからない。旅券法を読んでも、1972年に大きな改正があったという事実が見つからない。だから、この年に何か改正があったとしても、海外旅行事情には大して影響がない改正だろう。
 次の、1972年に「パック旅行の登場」したというのは、重大なミスだ。海外旅行が自由化された1964年4月に、日本交通公社の「ヨーロピアン・ジェット・トラベル」をはじめいくつものパック旅行が羽田を出発している。したがって、1972年に海外パックツアーが登場したとする坪内説は、まったくの間違いである。
 最後の、1972年ころから「日本人にとって海外旅行は当たり前の時代になった」という文章は、「どうも違うなあ」という気がするのである。その当時、外国に行きたいと思っていた私にとっては、「海外旅行が当たり前の時代になった」とはけっして思えなかった。100万人が外国に行ったということは、計算上は日本人の100人にひとりが外国に行ったということだ。海外旅行者総数が300万人になっても、100人に3人という計算になる。通勤電車1両にせいぜい10人という人数は、「海外旅行は当たり前の時代になった」といえるほどの割合なのだろうか。
 「間違い探し」というクイズがある。そのクイズ本として、『一九七二』はかなりの材料を提供してくれそうだ。1970年代研究として、けっこうためになるはずだ。

 


アジア雑語林(153) 2006年8月4日

おぞましき合併を記念して ― 有名な市町村 ―

 ずっと前から気になっていたのは、全国レベルで有名な市町村はどこなんだろうという疑問だ。全国の市町村は、村おこし・町おこしで、知名度向上運動をくりひろげているところが多いのだが、さて、その成果はどうだろう。今回のタイトルを「おぞましき合併」とつけたのは、なじみがある地名が消えてしまったからだ。私が少年時代を過ごした町も、父が生まれ育った町も、地図から消えた。だから、「おぞましき合併」と呼びたいのだ。まあ、それはともかく、この知名度判定は、私が知っているかどうかではなく、「世間の知名度はこの程度だろう」と私が想像したにすぎない。
 わかりやすく言えば、誰かから手紙が来て、その差出人住所の県名が省略されていても、それがどこの県なのかわかるのが「有名な市町村」ということだ。例えば、北海道に住んでいる人に、高校時代の友人から手紙が来た。封筒の裏には「寝屋川市」と書いてあるが、さて、それ、どこだ? 関西の人にとって寝屋川はバツグンの知名度はあっても、北海道にずっと住んでいる人にはまったく知らない地名だろう。では、全国的な知名度がある市町村はどこだというのが、私の疑問なのである。
 市といっても、県庁所在地なら全国レベルの知名度なのだが、青森県と青森市のように県名と都市名が一致していれば、どの県の市なのか一目瞭然なのだが、盛岡市、前橋市、宇都宮市、松山市というように、県名と違う名の市だと、さて、すぐに県名が思い浮かぶだろうか。テレビのクイズ番組に出題されれば、正解率は50%を超えないような気がする。
 そういうことも考えつつ、合併後の全国の市町村一覧表を眺めてみると、いろいろなことに気がつく。県庁所在地以外の有名な市はどこかを考えながら表を読んでみた。
 まず気がついたのは、北海道の圧倒的なパワーだ。北海道の都市はほとんど全国レベルなのだ。函館、小樽、夕張、室蘭、釧路、網走、苫小牧、稚内などいくらでもある。ドラマで有名になった富良野は、富良野市のほか、空知郡に上富良野町、中富良野町、南富良野町があると初めて知った。
 北海道に比べたら、ほかの都府県なんざ知名度においてマイナーだとよくわかる。青森県なら、全国レベルの知名度があるのは弘前市や十和田市くらいか。岩手だと、花巻、宮古、北上くらいか。こうやって、都府県をいちいち眺めていくときりがないのだが、興味深いことに、東京や京都に知名度バツグンの市がないとわかる。
 「東京の23区部分を除いて、知っている市を答えなさい」という質問を、首都圏以外の場所でアンケート調査をしても、「無回答」というのが一番多いのではないだろうか。回答率が比較的高いのは、武蔵野市や国立市などかもしれないが、小樽や稚内のような知名度はない。
 京都府も同様で、京都市は世界レベルに有名な市だが、「京都市以外に知っている市の名をあげなさい」という質問を近畿以外の地でやると、ほとんど無回答になるような気がする。「地名表から京都の市を選び出せ」という質問なら、ひょっとして舞鶴や宇治、長岡京といた地名を選び出す人はいるだろうが、八幡市や向日市(宮崎だと思うよなあ)という市が京都府にあるなんて知っている人は、京都とその近辺の住人だけではないか。
 大阪府だと、堺、岸和田、吹田などいくつかある。これが兵庫県だとぐっと増えて、姫路、明石、西宮、芦屋、赤穂、宝塚などは全国レベルだろうと思う。
 全国的に知名度のある市というと、県庁所在地以外では1都市か2都市というのが、どうやら全国平均ではないかと思う。ただし、名前を知っているということと、その市について具体的に何か知っているということとは、かならずしも関係ない。川崎市は神奈川県にあると知っている人は多いと思うが、では、「川崎の何を知っていますか」と質問すると、答えられる人がどれだけいるか。こういう質問に対して驚異の回答率を発揮するのが、高校野球ファンとJ2にも詳しいサッカーファンだ。鳥栖市というのが佐賀県にあり「とす」と読むなどと知っている人は、佐賀県民以外ではサッカーファンだけだろう。静岡県の磐田もサッカーのおかげで地名が全国レベルにあがったような気がする。
 そう考えると、高校野球やサッカーが知名度向上に貢献していることがよくわかる。
 全国で一番有名な町名は、長野県北佐久郡軽井沢町だと、とりあえず決定しておく。対立候補はいくつもある。北海道のニセコ町や、神奈川県の葉山町や湯河原町も有名だ。福井県の永平寺町も全国的地名だ。島の名が町名になっている例は多いから、沖縄県の竹富町や与那国町などもわかりやすい。したがって、異論反論などございましょうが、その歴史も考えて、軽井沢を選定しておく。
 全国でもっとも有名な村となると、決定的・圧倒的な村は思い浮かばない。明日香村(奈良)、白川村(岐阜)、嬬恋村(群馬)、小笠原村(東京)、大潟村(秋田)、白馬村・野沢温泉村(いずれも長野)などいくつか候補があるが、世界遺産ということで白川村を「もっとも有名な村」にしておこう。

 


アジア雑語林(152) 2006年7月23日

全国アジア料理店調査をやってみようかと思ったが・・・

 ブックオフ調査に続いて、今度はアジア料理店だ。すでにタイ料理店の調査はやっているので、今回はインドネシア料理店とフィリピン料理店を調べてみることにした。調査法は例によって、インターネット情報だ。
 日本におけるアジア料理店としては、中国、朝鮮(韓国)料理に次いで、インドネシア料理店の歴史は古い。戦前の東京にタイ料理店があったという未確認情報はあるが、戦後でいえば、インドネシア料理店が古くから営業している。ただし、問題は、その数がタイ料理店に比べて、なかなか増えないことだ。厳密に「インドネシア料理だけ出している店」という限定はなかなかできないので、おおよその傾向だと思っていただきたい。

1 東京     20店
2 大阪     12
3 京都     11
4 北海道     6
5 兵庫      5

 以上がベスト5で、ほかは奈良が3、宮城・愛知・静岡が2店。他の9県に1店舗ずつあるようだ。
 これらの店に電話で存在を確認をしたわけではないので、すでに閉店している可能性もある。だからあくまで、傾向です。北海道に6店もあるというのが少々意外だということを除けば、まあまあ順当な傾向か。
 さて、フィリピン料理店だ。これがわからないのだ。東京に15店、千葉・神奈川にそれぞれ5店といった数字はあるが、その正確さがなんとも言えないのだ。ましてや、全国のフィリピン料理店事情となると、まったくわからないのだ。
 おそらく、「フィリピン料理店」と称しているところも、大部分は「フィリピンパブ」がその実態ではないかと思う。
 かねてからの私の疑問は、日本に多数のフィリピン人が住んでいながら、フィリピン料理店がいっこうに増えないのはどうしてなのかということだ。この疑問を、フィリピンに詳しい知人に尋ねると、こういう説明だった。
 「フィリピン人はフィリピンにいても、フィリピン料理を外食することはほとんどない。外食するなら、西洋料理や中華料理や日本料理などだ。だから、家庭で食べられるものを、わざわざカネを払ってレストランで食べようとは思わないのだ。だから、フィリピンには、実はフィリピンレストランは少ないんだ。数少ないフィリピンレストランは、外国人観光客向けのレストランなのです。だから、日本にいても、フィリピン人は、フィリピン料理を店で食べたいとは思わないんです。」
 知人はこう説明し、脇でやりとりを聞いていた彼のフィリピン人の妻も、「そうそう」と同意した。
 在日外国人の民族別人数と彼らの民族食レストランの数は、けっして正比例しない。在日中国人がいまほど多くない時代から、中国料理店は多かった。かつてイラン人が多く住んでいたが、イラン料理店が次々に開店したということはない。すでに書いたように、在日フィリピン人は多いが、フィリピン料理店は少ない。それに対して、在日タイ人の数に比べてタイ料理店は異常に多いといえる。
 観光の影響を考えると、バリ風のレストランが増えたのは明らかにバリ帰りの観光客が増えたせいだが、ロコモコなどの料理を食べさせる「ハワイ料理店」は、ハワイに行く観光客数ほどには多くない。こういう考察も、きちんとやれば学問になる。卒論向きか? でも、けっこう広い知識が要求されるので、それほど簡単なテーマではない。

 


アジア雑語林(151) 2006年7月12日

リーゼントのキャロル

 長髪派少年だったから、短髪青少年が大嫌いだった。
 丸坊主、角刈り、スポーツ刈りの青少年の、単純な頭脳構造が嫌いだった。年齢による秩序、絶対服従の構造。それでいて、コソコソとごまかして、センパイがいないところではうまく立ち回ってごまかすという行動形態は、私はもちろん体験してはいないが、大日本陸海軍内部そっくりなような気がした。ウソだとわかっているくせに、運動部を「さわやかな存在」として売り物にするマスコミも嫌っていた(今も、スポーツと芸能にはほとんどジャーナリズムはないと思う)。高校野球が嫌いなのも、インチキを隠した胡散臭さにあるのかもしれない。
 短髪派同様に嫌っていたのは、リーゼント派だ。あの60〜70年代の用語でいえば、「暴走族」であり、「つっぱり」だった。あいつらが嫌いな理由は、徒党を好んでいるからだ。ひとりじゃなにもできないくせに、徒党を組むと、やたらに偉そうに肩をいからせる。ヤクザと同じである。自分の頭で考えないヤツら、同調者がいないと行動できないヤツらが大嫌いだった。いや、今でも嫌いだ。
 だから、私はキャロルが嫌いだ。なぜ、「だから」という接続詞を使うのかという理由は、あの時代を知っている人はわかるだろうから、それでいい。矢沢永吉もキャロルというバンドも、「いいなあ」と思ったことがない。日本語を英語風に発音すれば「カッコイイだろ」という発想が貧困だ。
 それなのに、たった今、私はそのキャロルの演奏を生で見ているのだと知った。他人事みたいだが、本当に記憶がないのだ。
 今となっては伝説のバンドとなったキャロルを見たのは、1974年6月12日、場所は神田共立講堂だ。それを教えてくれたのは、前回にも引用した『ぼくたちの七〇年代』(高平哲郎、晶文社)だ。
 6月12日、発売元が晶文社からJICC出版局(現・宝島社)に変わった雑誌「宝島」の「宝島復活大興行 ―― 君も散歩と雑学が好きになるだろう集会」が神田共立講堂で行なわれ、読者であり、散歩と雑学が好きな私は当日会場に行った。
 司会は藤本義一。ゲストは五木寛之、矢崎泰久、片岡義男、浅井慎平、沢竜二、一龍斎貞水、チャンバラトリオなどが出演したあと、トリとしてキャロルが出演してヒット曲を歌いまくったらしい。この会に行ったということは覚えているが、なにしろ32年前なんだから、詳細なんか忘れている。それでも、キャロルのファンなら一生忘れられない一夜になったはずだが、私はまったく覚えていない。
 キャロルは、翌75年に解散している。結成は72年だから、74年のこの当時は人気絶頂の時代だ。そのキャロルの演奏を見ているのに覚えていないのだから、ファンからすれば「なんと、もったいない!!」と憤慨するところだろうが、まあ、世の中そういうもんだ。
 この雑語林の101号「新宿・鈴平」に、この「宝島」復活イベントのことを少し書いた。あの原稿を書いているとき、責任編集長であるはずの植草甚一が壇上にいたという記憶がなく、さて、どうしたわけだといぶかしく思っていた。そのなぞも、今回わかった。この復活イベントが行なわれたとき、植草甚一は初めてのニューヨーク長期滞在をしていたのだ。

 


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