前川健一 著作一覧

アジア雑語林(141)〜(150)

アジア雑語林(150) 2006年7月2日

アドベンチャープラン

 前回に引き続いて、大学生の探検についてちょっと書く。というのは、前回も取り上げた『京大探検部』(京大探検者の会、新樹社、2006)に、気になる文章があったからだ。
 京大探検部OBの永井博記が書いた思い出話のなかに、次のような文章がある。
 探検部時代、梅棹忠夫(おそらく、当時顧問)から、「産経アドベンチャープラン」に応募を考えてみないかと提案された。そこで、永井らは「アフガニスタン遠征隊」案で応募したら、審査の結果合格した。遠征隊出発は、どうやら1972年だったらしい。
 そうだった。「産経アドベンチャープラン」とかいうのがあった。サンケイ新聞がおもしろそうな冒険旅行の企画を募り、合格すれば高額の資金を提供するというようなものだったと記憶するが、詳しいことは覚えていない。その当時、私は外国に行きたいと切に願っている貧しい若者で、できることなら、他人のカネで優雅に旅行したいとは思っていたが、第三者をおもしろがらせる旅行の企画を立てる自信はなかった。貧乏旅行ではあっても、誰にも束縛されず、誰にも責任のない、自由きままな旅がしたかったのだ。そういう気ままな旅に資金を出す者はいない。そういうわけで、この「アドベンチャープラン」は私と同世代のものだが、詳しい企画をまるで知らない。
 ちなみに、産業経済新聞社が出す「産経新聞」の題字は、1969年に「サンケイ新聞」に、1988年に「産経新聞」になっている。ここでは引用以外では「サンケイ」としておこう。 
 この「サンケイ・アドベンチャー・プラン」の全貌は、インターネットではまったくわからない。いつから、いつまでといった実施期間がわからない。合格者や合格プランのリストがあれば、1970年代初頭の若者の探検旅行の一例がわかり、しかもその若者がのちにどうなったかもついでに調べてみたいと思ったのだが、残念ながらわからない。
 全貌はわからないが、合格者がもうひとりわかった。朝日新聞記者の伊藤千尋だ。時代は、1973年。当時のことを、彼は自分のホームページで次のように書いている。

  大学4年のとき、朝日新聞を受けて内定の返事をもらった。聞いたとたんにもっと別のことをしたくなった。そのころサンケイ新聞が、「アドベンチャー・プラン」を募集していた。世界中どこでもいいから冒険して来い、採用の分には1000万円出すという。1カ月の下宿代が6000円の時代である。

 伊藤は「人はなぜ旅をするのか」をテーマに、東欧のロマ(ジプシー)を追うという企画で応募して、合格する。朝日への就職を蹴り、東大ジプシー探検隊を組織して、日本を出た。
 翌年にまた朝日新聞社を受験し、ふたたび合格し、「現在に至る」となる。
 そういえば、そういう若者がいたような記憶が、かすかにある。ホームページ「伊藤千尋の奇聞総解」でわかったもうひとつのことは、伊藤が学生時代に「キューバにサトウキビ刈り」に行っていたことだ。岡林信康も、このときにキューバに出かけているはずだ。裏方の仕事は、藤本敏夫が関わっていた。1970年前後、36万円の旅費を払って「キューバでサトウキビ刈り」をやるボランティアというのが、海外旅行に関心がある一部の若者のあいだで話題になっていた。
 『京大探検部』を読み終えて、気分転換にまったく別の本を読み始めた。『ぼくたちの七〇年代』(高平哲郎、晶文社、2004)だ。1949年生まれの著者の、「1970年代とぼく」とでもいった自伝だ。これがおもしろい。出版界や放送界、芸能界などの話題が満載だ。
 高平は大学生時代から、放送作家や出版社嘱託、イベンターなどをやり、卒業後広告代理店に就職する。1972年のある日の職場で、こんなことがあった。ちょっと、引用する。

 ある日、本さんが十枚ほどのレポート用紙を持って、
「高平、これちょっと読んで添削してくれないか」
とぼくらの部屋に来た。部屋にはぼくしかいなかった。
「産経新聞でアドベンチャー・プランていうのを募集しているんだ。その企画書だよ」

 同僚のデザイナーで、通称「本さん」の企画書には、「黄金を求めて――シアトルからドーソンまで」とあり、ジャック・ロンドンが金を探しに行ったコースを馬車でたどるという旅行案だった。しかし、この年、合格したのは京大探検部で、本さんの企画は落選した。
 本さんは、のちにイラストレーターになり、エッセイや小説も書くようになる本山賢司である。

 


アジア雑語林(149) 2006年6月22日

アサヒ・アドベンチュア・シリーズ

 戦後の若者の海外憧憬を知る資料として貴重な本が出た。本多勝一が最初の部員で、のちに石毛直道などが入部する京都大学探検部の歴史を書いた『京大探検部 1956−2006』(京大探検者の会編、新樹社、2006年、2800円)がきわめておもしろい。
 この本の最初のところで、梅棹忠夫がインタビューに答えて、「朝日新聞社の『アサヒ・アドベンチュア・シリーズ』というのが次々出ているけど、あの仕掛けは、私と泉靖一です」と話している。そうそう、そういうシリーズがあり、私も何冊か読んでいる。新書版よりちょっと大きいサイズの本だ。その1冊が書棚の取り出しやすい場所にあるので、ページを開いてみる。泉・梅棹の連名で、「アサヒ・アドベンチュア・シリーズに寄せて」という1ページの文章がでている。全文を引用するには長すぎるので、前半部分だけを引用してみる。海外旅行の自由化(1964年)前夜の雰囲気がよくわかるいい文章だ。

 このシリーズの若者たちは、みんなまだ学校に在学中か、あるいは卒業して間なしの、ほんとうに若い人たちばかりである。(略)  
 現代日本の青年たちのあいだでの、旅行熱とくに海外旅行に対する情熱は、ひじょうなものである。かれらの胸には、さまざまなアドベンチュアの夢と希望が、大きく渦をまいているようである。しかし、じっさいにはなかなかそれを実現することはむつかしい。日本の海外旅行も、ようやくしだいに自由化される傾向にあるが、なお、若人たちが自由に世界を歩くには、まだ、さまざまな制約と困難がよこたわっているのである。だが、その困難をのりこえて、その意図をつらぬき通した者たちも、少なくない。このシリーズは、そういうパイオニーアたちの手でつくられたものである。(以下略)

 というわけで、『京大探検部』の書評はいずれやることにして、このシリーズのリストを作ってみたくなった。全部で11冊出たらしい。

『ブワナトシの歌』(片寄俊秀、1963)
『ヨーロッパをヒッチる』(礒貝浩、1963)
『忘れられた南の島』(高橋徹、1963)
『ヤワイヤ号の冒険』(大浦範行・河村章人、1963)
『中南米ひとり旅』(富山妙子、1964)
『あやまちだらけの青春』(加藤諦三、1964)
『マリとユリの留学記』(田中万里子・値賀由紀子、1964)
『アメリカ大陸たてとよこ』(吉村文成・嶋津洋二、1964)
『エスペラント国周遊記』(出口京太郎、1965)
『カンボジア訓練旅行』(鈴木治夫・大石敏雄、1966)
『ガネッシュの蒼い氷』(吉野熙道、1966)

 もっとも話題になったのは、映画化された『ブワナトシの歌』だろう。主演は渥美清。『忘れられた南の島』とはティモール島のことだ。
 個人的に交流がある人の名も出てくる。吉村文成さんといえば、私にとっては元朝日新聞の記者で、インドやインドネシアで特派員をした人で、その方面の著作もある。その吉村さんが京大探検部出身だということは、この『京大探検部』を読むまで知らなかった。
 10年ほど前に、吉村さんもよく顔を出していたある会で、建設会社のサラリーマンという人物と知り合った。その人物は、大阪市立大学の探検部出身で、フランス語ができるので、学生時代に調査隊のメンバーとしてカンボジアに行ったことがあるということを知り、話しているうちに『カンボジア訓練旅行』の著者のひとり、鈴木治夫さんだとわかった。1970年代に読んだ本の著者に、90年代になって出会ったわけだ。
 この時代の若者の探検・旅行本は数多いのだが、梅棹忠夫で思い出したのは、浪曼という出版社から出ていた本だ。オートバイ旅行者として有名な賀曽利隆の最初の本、『アフリカよ』(1973年)だ。あやふやな記憶だが、帯かどこかにに梅棹の推薦文があったような気がする。
 賀曽利の『アフリカよ』には「大旅行記シリーズ」とタイトルされていて、以下次々と探検・冒険記を出そうとしたのかもしれないが、このシリーズは『求む天国』(小野寺誠、1973年)が出ただけだ。この出版社の本で買ったのは、賀曽利のこの本と、『老ヒッピー記』(檀一雄、1974)と『アジアの憂鬱』(杉森久英、1974)の3冊だけだ。浪曼は林房雄の本を多く出した会社だ。

 


アジア雑語林(148) 2006年6月11日

小さな穴が大きくなって(3) ジンジロゲ ヤ ジンジロゲ

 久留島秀三郎のことを調べていたら、私の敵だとわかった。それは、こういうことだ。
 彼は、「日本」は「ニッポン」であって、「ニホン」ではないという主張の人で、そう思っているだけなら害はないのだが、ボーイスカウトの重鎮という職にあるので、日本のボーイスカウトの正式英語名を「ボーイスカウト・オブ・ジャパン」から「ボーイスカウト・オブ・ニッポン」とすべきだと主張し、1969年の全国大会で賛同され、定着したそうだ。私はこのコラムで何度か書いているように、「ニッポン」が大嫌いなのだ。
 こういう話がボーイスカウト関連の資料にあったので、現在はどうかと思ってボーイスカウト日本連盟のサイトを調べてみたら、英語の正式名は「スカウト・アソシエーション・オブ・ジャパン」だ。世界の人に「ジャパンじゃなくて、ニッポンだ」と認めさせるのは簡単じゃない。
 久留島のことを調べていてびっくりしたのは、このことではない。
 孫引きだが、『寮歌は生きている』(旧制高校寮歌保存会編、1965改訂増補版)に、久留島は次のような内容の文章をよせているらしい。
 1908(明治41)年のこと、三高生の久留島が京都ホテルの脇にある親類の造り酒屋に立ち寄ると、インド人が店に入ってきて酒を飲みたいという。店先で飲まれても困るので、八畳間に上げて酒を飲ませた。そのときにいっしょにいた兄の中野忠八がインド人がうたった歌を覚え、「マイソールの歌」としてボーイスカウト歌集に載せ、のちに「ヒラミルパニア」と改称されて歌い継がれた。
 三高の寮では、新入生歓迎会の行事として、「秘祭 ヂンヂロゲ踊り」というのをやっていた。これは、「ヂンヂロゲ島に伝わる結婚式」ということにした仮装行列とデタラメ踊りだったらしい。まあ、当時の言葉でわかりやすくいえば、「土人の踊り」である。そのとき、囃子言葉のように歌っていたのが、「ヂンヂロゲ」であり「ヒラミルパニア」であり、「印度人尻振りの歌」というものらしい。
 中高年の読者は、1961年の森山加代子の「じんじろげ」(作詞:渡舟人 作曲:中村八大)を思い出したに違いない。そう、あの歌の元歌は、一部インドの歌だったらしい。「ジンジロゲ・・・」という部分の意味はわからない。起源もわからないらしい。しかし、久留島たちが京都で耳にした部分は考証されている。あの歌は、雨季を喜ぶ歌だった。著作権の関係で、残念ながらここに歌詞を載せることはできないので、一行だけ。

 ヒラミヤ パニア チョイナダ ディーヤ

 というのは、「雨が降ってきた たちまち川となる」という意味らしい。そういえば、パニは水だなあ。
 というわけで、話はインドに戻った。こうして、ある人名からインターネットで調べていくだけで、いくらでもおもしろいことが見つかる。だが、ここから先に進もうと思うと、時間もカネもかかるノンフィクションの世界になる。その一歩を踏み出すかどうかが、おもしろい本になるかどうかの分かれ目だ。

 


アジア雑語林(147) 2006年6月3日

小さな穴が大きくなって(2) 日本のアンデルセンの娘婿

 朝日新聞のパリ支局長が書いた『ヨーロッパ手帳』(小島亮一、朝日新聞社、1961年)の「あとがき」に出てきた「三つくらいの時から久留島武彦先生の早蕨幼稚園にはいった」という部分にひっかかたのは、「久留島」という苗字に心当たりがあったからだ。
 1939(昭和14)年に出版されたアジア旅行記、『印度・印度支那』(非売品だが、1940年に相模書房から発売している)の著者が久留島秀三郎だ。変わった苗字だから、記憶の底に残っていたのだ。調べてみると、秀三郎の義父が武彦だとわかった。
 久留島武彦(1874〜1960)は、大分は玖珠の生まれ。明治27年に日清戦争に従軍し、戦地から投稿した作品が、「少年世界」の主筆・厳谷小波(いわや・さざなみ)に認められて軍事物を書き始めた。のちにお伽噺を創作するようになるが、創作よりも人前で話す「口演童話」を一生の仕事とした。
 また、中野忠八らとともに日本のボーイスカウトの基礎をつくったり、1910年に早蕨幼稚園を開設している。そういう有名人だ。
 中野忠八は、京都の薬卸問屋の長男に生まれ、父の急死により三高卒業と同時に家業を継ぐ。青少年の教育にも熱心で、ボーイスカウトの前身である少年義勇団活動にかかわり、京都少年義勇団団長をしていたときに、久留島武彦と出会う。そして、忠八の弟秀三郎が武彦のひとり娘の婿となり、中野秀三郎は久留島秀三郎となる。
 久留島秀三郎(くるしま・しゅうざぶろう)は、1888年京都生まれ。三高から九州帝国大学採鉱学科を卒業し、兵役のあと農商務省鉱山局に勤務する。1920(大正9)年から1937(昭和12)年までの17年間にわたり満州に滞在して、さまざまな会社の役員をしていたらしい。1937年に日本に戻り、昭和鉱業社長、1946年には同和鉱業の社長となる。
 久留島秀三郎の著書『印度・印度支那』は、手描きの絵が入った布で装丁されたやや豪華な本で、戦前にアジアの旅行記を自費出版した男はいったいどんな人物なのか少し気になっていたのが、少しずつ見えてきた。『印度・印度支那』を買ったのはもうだいぶ前で、そのころはまだコンピューターを持っていなかったから、著者の素性を調べなかったということもあるが、じつはこの本はそれほどおもしろいわけではない。だから、「よーし、調べてやろう」という熱意に欠けていたのだ。
 ただ、日本人の手による戦前期のインド旅行記はそう多くはないので、この機会にこの本についてちょっと触れておこう。なお、この『印度・印度支那』は古書店で容易に手に入る本で、売価も安い。つまり、その程度の需要という本だ。
 久留島は、「はしがき」にこう書く。
 旅から帰って書店に行くと、「蘭印に関する書物は存外ある。そのおつきあいに仏領印度支那についての記事もある。フィリッピンに関する書物は四、五出ている。だが、英領印度に関してはカンヂーだとか革命だとか、印度のほんの一面だけを扱ったものはある」(現代語にかえてある)。
 だから、「東亜の盟主を以って任じている人達が、支那と満州国だけを対照に考えているとさえ思える」が、それではまずいだろうと、秀三郎は考えた。英領や仏領の事情を日本人に知らせるために、この旅行記を書いたのだそうだ。
 秀三郎はすでに、『珈琲を啜りながら』(1931年)という南米紀行を出し、『馬賊を語る』(1939年)を出している。秀三郎にとって3冊目の紀行文が、この『印度・印度支那』である。名目上は視察とか出張という旅行なのだろうが、彼は戦後も旅行を続け、旅行記を出している。
 秀三郎の経歴がわかれば、この本に「バーンとベンガルの製鉄所とその炭鉱」とかバラジヤムダの鉄山とタタ製鉄所」といった項がある理由が納得できる。だから、その方面の資料としては使えるのかもしれない。ちなみに、終戦直後に社長となった同和鉱業がもっている鉱山のひとつが、花岡事件で知られる秋田の花岡鉱山だ。
 ほかにも、久留島秀三郎に関連する事柄を調べていくと、興味あることがいろいろ出てくる。 もっともびっくりしたことを、次回書く。

 


アジア雑語林(146) 2006年5月26日

小さな穴が大きくなって(1) 朝日新聞パリ特派員

 インターネット古書店で旅の本を探ることを、年に何回かしている。対象となる本の数は多いから、毎回テーマを決めてチェックしている。たとえば、アフリカの本だとか、船旅の本だとかいった具合だ。先日やったのは、地域はどこでもいいが、古めの本を探すというのがテーマだった。
 何千冊もの本のなかから目が止まったのは、『ヨーロッパ手帳』という本だった。著者は小島亮一というが、その名に心当たりはない。版元は朝日新聞社で、1961(昭和36)年の発行だ。これだけの情報だと、東南アジア本なら買ってみようと考えるが、ヨーロッパの本だと通常は無視する。それなのに買ってしまったのは、売値が300円だったからだ。送料込みで600円程度なら、つまらない本でも諦めがつく。
 著者は朝日新聞パリ特派員だそうで、61年に「朝日ジャーナル」に連載された文章を一冊にまとめた本で、まだ全部は読んでいないが、内容はあまりおもしろくない。だから、300円なのかとも思ったのだが、「あとがき」に書かれている著者自身の半生のほうがおもしろい。自伝を書けば、ずっとおもしろい本になったのに。
 小島亮一は1909(明治42)年、東京・青山の生まれ。「三つぐらいの時から久留島武彦先生の早蕨幼稚園にはいった」そうだ。久留島の名に引っかかったが、それはあとまわしにして先に進む。
 青山師範学校付属小学校から暁星中学に進むが、1923(大正12)年の関東大震災で両親を失う。そこで、中学生にして家業の呉服屋を継ぎ、「バカ旦那の限りをつくし」つつ、、専修大学経済学部に入る。
 大学を卒業した昭和初め、「金解禁の余波」をうけて、呉服屋を廃業することにした。店をたたんだら、手元に1万円残った。ここで、本格的に勉強しようと決心して、遠縁にあたる人にILOの職員に従って、その1万円を持ってジュネーブにいった。1931(昭和6)年のことだ。
 1932年にパリ大学で社会学を学びはじめた。「2年したら、先生が日本の勤労階級の生活態度というテーマで論文を書いて見ろというので」、論文を書くため、資料探しにジュネーブのILO図書館に行った。そこで、ILO日本代表の吉阪氏と知り合い、それが縁でILOの職員になった。
 ILOで働き始めて5年後、日本はILOから脱退して、小島も退職することになった。そこで、同盟通信社の特派員として職を得て、翌1940年にフランス人と結婚した。
 ここからがすごいと思うのだが、戦時中もヨーロッパで仕事を続けて、スペインで終戦を迎える。普通なら日本に強制送還されるところだが、妻の父親がいろいろ手を使ったらしく「1946年2月、スペインからフランスへ舞い戻ってシャムパーニュ地方の寒村で百姓をはじめた。この農民生活が約5年間つづいたが、その間、朝日新聞に入社し、はじめは野良仕事の合い間に欧州通信を送った」
 1951年にパリに支局を開設し、60年まで特派員を勤め、30年ぶりに帰国した。

 


アジア雑語林(145) 2006年5月17日

まず、日本語を(2) 電話セールス

 午前中の電話はセールスだと、ほぼわかっている。わかってはいても、電話にでないわけにもいかず、しかたなく受話器をとる。電話に対して、昔は「はい、前川です」と礼儀正しく接していたのだが、セールス電話が増えるにつれて名乗らなくなった。
 受話器をとると、猫なで声が聞こえてくる。テレビのワイドショーのアナウンサーのような気味の悪い声で、ていねいだがウサン臭い話が始まる。かつては一応相手の話は聞いていたが、毎日のことなので、しだいにこちらも凶暴になって、無言で受話器を置く。
 向こうだって、こう言ってきたら、こう言い返すというマニュアルがあるのだから、「カネがない」とかグダグダ言っても、「いや、今なら割安で…」とかなんとか、話を続けようとする。そんな話につきあうのは面倒だと思ったら、セールス電話だとわかった時点で、すぐさま受話器を置いたほうがいい。セールス電話は人の性格を悪くする。現在もっともうるさいのが、NTTの代理店だというセールス電話だ。光ファイバーのセールスらしい。
 もう、10年くらいまえになるだろうか。受話器をとったら、例の猫なで声で、「お住まいのシロアリ駆除のご案内でございます。シロアリの被害は…」というセールストークが始まったので、すぐさま受話器を置いた。目が机の本に戻ったら、また電話の呼び出し音がなった。無言で受話器をとったら、怒鳴り声が聞こえた。
 「てめー、黙って電話を切るんじゃねえよ。バカヤロー。いらねーならいらねーって、はっきりと言えよ」ガシャン!!
 なにかと問題の多いシロアリ駆除業者だから、私の行為で化けの皮がはがれたというわけだ。あの会社の名前は覚えていない。そもそも覚える気などないが。
 つい先日の電話には、びっくりした。ついに電話の世界にまで侵食してきたのだ。
 呼び出し音
「ハイ…」(受話器をとる)
「あの〜(若い女の声だ。これだけで、セールスかどうかわからない)、そちらは、前川健一さんのお宅でよろしかったでしょうか?」
「ハイ」(編集プロダクションのアルバイト社員ということもある。まだ、正体はわからない)
「こちら、アメリカン……」保険会社の名前をいったので、すぐさま受話器を置いた。
 私はあまり外食はしないし、ましてやファミリーレストランのようなところでは食事はしないのだが、それでも、店員が料理をテーブルに運んできて「こちら、Bランチでよろしかったでしょうか」とか、「スパゲティー・ボンゴレになります」という奇妙な日本語を耳にしたことがある。
 テレビも出版界も「日本語ブーム」だといっているが、あれはばかげている。顰蹙だの、粛々だの、赤口だの、急遽だのといった漢字や、当て字の動植物名や外国の地名などが読めるかどうかのバラエティ番組だが、日本での生活に本当に必要なのは、「コーヒーになります」とか「ラーメンでよろしかったでしょうか」という言い方がおかしいとわかる知識と感覚なのだ。
 民間テレビは教育機関ではなく娯楽だとはわかっているが、どうも根本を忘れているような気がする。それは、食べ物番組が多いが、箸の持ち方など気にしていないことと似ている。
 まずは日本語だ。小学校で英語を教える必要はない。アメリカ人のような発音を身につけさせる必要はない。英語を教える時間的余裕が小学校にあるなら、日本語を教えなさい。日本語で自分の意見を人前で話せるような訓練をするべきだ。難易度の高い漢字は、つまり使用頻度が極端に低いのだから、そういう字を覚えさせる前に、基礎的な日本語を徹底的に教えればいい。外国語を学ぶのはそのあとでいい。

 


アジア雑語林(144) 2006年5月4日

まず、日本語を(1) 外国語のカタカナ表記

 ずっと前から、韓国語(朝鮮語)のカタカナ表記について、文句を言ってきた。キムチはKIMUCHIではなく、KIMCHIのようにMに母音がないから、キムチのムは小さく表記すべきだというおかしな考えの人が韓国関係者に少なからずいる。
 これについてなんども書いているが無視されっぱなしなので、また書いておく。子音だけで、母音がないからという理由で小さなカタカナで表記するなら、お前らBOOKはどう書く? HOTでもHATでもいい、すべての外国語も同じように表記するなら、それはそれとして統一はとれているが、韓国語だけどうしてこういう奇妙な、独りよがりの、語学教科書みたいな表記をするのか。どうしてもやりたければ、教科書だけでやりなさい。
 こういう話は以前に書いていることなのに、また書きたくなったのは、さっき新聞の映画広告を見ていて、「クォン・サンウ」という俳優の名が見えたからだ。
 さあ、このコラムを読んでいらっしゃる皆さん、「クォン」は発音できましたか。韓国語の発音を知らない人が発音しようとすれば、「クオン」か「コン」にしかならないでしょ。「クォン」と「クオン」の違いをきちんと発音できますか。知ったかぶりをして「クォン」と表記したところで、「クオン」としか発音できないじゃないか。
 韓国人名の変なカタカナ表記はどれだけあるだろうかと思い、『韓国映画俳優事典』(韓国「スクリーン」編集部編、田代親世監修、久保直子訳、ダイヤモンド社、2005、2200円)の人名索引にあたってみた。変だと思うのを書きだしたので、発音してみてください。

 アン・ソックァン(アン・ソックアンとどう違う)
 キム・イングォン(キム・インゴンではない発音はできましたか)
 クァク・ジミン(カク・ジミンでしょ)
 チェ・グァンイル(どうしても、チェ・グアンイルと発音してしまうでしょ)
 そして、クォン姓の俳優が7名並んでいる。

 つまり、クァ、クィ、クゥ、クェ、クォがいけないのだとわかる。なまじハングルが読めるものだから、日本語のことよりハングルからカタカナへの移し変えに神経がいってしまうのだろう。
 いまではもう昔の話になったが、タイ語でもこういう表記をする人がいた。『食は東南アジアにあり』を書いた星野龍夫さんだ。汁物の総称「ケーン」を「キェーン」などと表記していた。実際に聞こえてきたタイ語をカタカナで表記することにだけ神経を奪われ、日本人の発音には気を配れなかったのだ。「キェーン」なんて、どうがんばったって「キエーン」か「ケーン」としか発音できないじゃないか。タイ語にしても、韓国語にしても、その言語ができる人ほどヘンテコリンなカタカナ表記をしたがる。これは、外国語学習に熱心なあまり、日本語に対する配慮ができないからだ。
 アジアの言語だけの話ではない。「ヴァレー」とか「ヴァイオリン」などと表記する無神経さと同じだ。かっこつけて「ヴィトン」などと書いたって、日本人は「ビトン」と発音しているのだし、もし、日本人が日本語の会話の中でV音をそのままV音で発音したら、おかしいだろ。「ヴァラエティ」などと表記している人が、「エレベーター」とか「オーバー」などと書いている。変だろ。そして、フランス語やデンマーク語やその他多数の言語でも、B音とV音の違いをカタカナで書き分けるのか。できっこないよ。

 おまけの話。
 『韓国映画俳優事典』は、韓国で出版された本の翻訳だから、構成は基本的に韓国版のままだろう。だから、韓国での映画俳優の地位がよくわかるので、おもしろい。
 アン・ソンギは序文も書き、最初のページに登場し、紹介に2ページ使っている。重鎮だから、当然だ。チェ・ミンシクも2ページで、同じような2ページグループにはチャン・ドンゴン、イ・ヨンエ、イ・ビョンホンなどが入っているが、チェ・ジウやペ・ヨンジュンは1ページだ。ソ・ガンホも1ページだが、2ページ組に入れてやりたい。脇役から出発したから無理なのか。
 テレビ俳優より映画俳優を重視することも、こういうページ構成になる。最初から日本で編集すればまったくちがう構成になるはずで、そういう意味でこの韓国版をおもしろく点検した。

 


アジア雑語林(143) 2006年4月25日

ブックオフの地方分布

 日本のタイ料理店調査に引き続き、日本のブックオフ分布を調べたくなった。ブックオフというのは、古書業界では「新古書店」と呼ばれる新しいタイプの古本屋で、「本の内容は無視し、新しくきれいなら買い取る」というシステムで運営されている。
 こういう調査をやろうと思うと、インターネットというのは本当に便利だ。2006年3月現在の数字がインターネットですぐにわかる。例によって数え間違いもあるかもしれないが、店舗数の傾向はわかると思う。まずは、都道府県別の店舗数を多い順に並べて見た。

 都道府県別店舗数

都道府県 店舗数
1 東京 120
2 神奈川 68
3 愛知 59
4 埼玉 52
5 北海道 42
6 大阪 41
7 福岡 39
8 千葉 35
9 静岡 28
10 新潟 24
11 長野 21
12 宮城 19
13 福島 18
栃木 18
兵庫 18
16 茨城 17
17 岐阜 15
京都 15
群馬 15
鹿児島 15
21 山形 13
山梨 13
23 滋賀 12
24 三重 11
広島 11
26 岡山 9
熊本 9
28 奈良 8
愛媛 8
30 石川 7
福井 7
山口 7
香川 7
34 秋田 6
富山 6
徳島 6
沖縄 6
38 佐賀 5
大分 5
宮崎 5
41 岩手 4
島根 4
鳥取 4
44 和歌山 3
長崎 3

 さて、このリストをどう読むかだ。東京がダントツに多いということは想像どおりだが、東京に比べて大阪が少なすぎないか。東京都の人口を1200万人、大阪府を880万人としても、大阪の店舗数が少ない。スーパーマーケットやコンビニのように、地域によっての業界分布があるのかもしれない。新古書店はブックオフだけではなく、ブックマークやブックマーケットというチェーン店もあるから、それぞれの店舗分布も調べてみたが、大阪ではブックオフ以外の新古書店が多いということはない。単純に少ないということらしい。大阪府と神奈川県の人口はだいたい同じなので、そのことを考えても大阪府の店舗数は少ない。
 大阪よりもまだ意外だったのは、京都だ。京都といえば大学が多いので、ブックオフの店舗数も多いのかと思ったが、それほどでもない。15店で17位だ。京都にはもともと古本屋が多いので、新古書店が増えないという説は、神田や早稲田の古本屋街がある東京のことを考えれば成り立たない。つまり、京都の学生も本を読まないということか。
 逆に、意外に多いとわかったのが、北海道だ。想像で書くが、北海道の地方都市では新刊書店が減って、新古書店が増えているということか。
 誤解のないように書いておくが、「ブックオフが多くある都道府県は偉い」という格付けをしているわけではない。そうではないが、どんな本屋であれ、とにかく本屋が多くある街がうれしいと思う。すばらしいと思う。
 店舗数の多い都道府県ベスト10は、北海道と10位の新潟を除いてほぼ予想どおりだった。少ないほうでは、リスト作成前には、沖縄と島根・鳥取あたりが少ない3県に入るだろうと思っていたが、ちょっと外れた。沖縄は健闘している。

 おまけの話。リストでわかるように、東京にはブックオフが多いのだが(区別では世田谷区が圧倒的に多い)、意外な空白地帯が神田近辺だ。家賃が高いということもあるだろうが、おそらく、神田の古書組合との軋轢を避けて出店しないのだろうか。ちょっと前になるが、神田といっても淡路町のほうにブックマートが開店したことがあったが、1年以上営業していただろうか。閉店の理由が営業不振だとしても、あの場所でなぜ不振だったのか知りたいものだ。

 


アジア雑語林(142) 2006年4月12日

HIBACHI

 あれは多分、1980年代の初めころだったと思う。英語で書かれたインドネシア料理の本を読んでいて、次のような文章にびっくりした。よく覚えていないが、著者はアメリカ人かオーストラリア人だったような気がする。
 サテはHIBACHIで焼くとうまくできます。
 サテというのは、日本でいえば焼き鳥のようなもので、肉を串焼きにする料理だ。もともとインドネシアやマレーなどのイスラム教徒の料理なので、肉はヤギかニワトリかウシを使うことが多いが、中国人相手ならブタを使うこともある。サテは、インドネシアでは SATE とつづり、シンガポールやマレーシアでは SATEY とつづる。タイでも同じ「サテ」の名で、都市部では非常にポピュラーな料理だ。
 サテそのものは、その本を読むずっと前から食べているから、サテそのものに対する疑問はその歴史以外なにもないのだが、日本人としてはどうしても HIBACHI のほうにひっかかる。なぜここにヒバチなんだ。インドネシア料理とヒバチ(火鉢)との奇妙な取り合わせが気にはなるが、インドネシア料理には直接関係ないし、「まあ、とりあえず今は、どうでもいいや」ということにして、本のページは先へ先へと読み進んだ。それ以来20数年間、ヒバチのことはまったく忘れていた。それが、つい先日、アメリカ人が書いた本で、あのころを思い出したのだ。
 アメリカ人の詩人で翻訳家、日本語で書いた詩集で中原中也賞を受賞しているアーサー・ビバードのエッセイ集『日本語ぽこりぽこり』(小学館)に、HIBACHIが出てきた。
 彼はこう書く。ミシガン州で生まれ育った少年にとって、「ウルトラマン」以外に知っている唯一の日本語が「ヒバチ」で、自宅にもヒバチがあった。
 そのミシガンの少年が成人し、日本に来て、彼が知っているHIBACHIが、日本語の「火鉢」とは違うのだとわかって、日本語の先生にHIBACHIの説明をした。
 「HIBACHIというのは、野外でバーベキューするためのグリル、つまりコンロで、もっと小さくて、鉄の網をのっけてハンバーガーとかフィッシュとか焼くんだよ」
 先生とのやりとりでわかったのは、彼が知っているHIBACHIは日本では「七厘」と呼ばれているものだとわかったというのだ。
 これで、二〇数年来の疑問が少し解けた。サテを焼くのに便利だというのは、火鉢じゃなくて七厘だったというわけだ。でも、ミシガンの家庭にも七厘がごく普通にあるというのは、知らなかった。私が知っているのは、日本語ならバーベキュー器とでも呼ぶのだろうか、ドラム缶をタテ半分に切って横に置いた道具で、下半分に炭を入れ、金網を乗せて肉を焼く。上半分はフタになる。缶の大きさはいろいろある。こういう道具でハンバーグを焼くと、ちょっと燻製風になって、うまい。
 それはともかく、七厘がなぜヒバチと名を変えたのか著者にもわからないようだ。もちろん、私にもわからない。
 わからないついでに書いておくと、インドネシアでもどこでも、サテを焼く道具は、日本で焼き鳥やウナギを焼く道具と同じものなのだ。串焼きという料理法も、焼く道具も同じというサテの歴史を知りたいものだ。料理法の解説などもういいから、こういう料理史の話を誰か書いてくれないものだろうか。

 


アジア雑語林(141) 2006年4月3日

テレビの話(3) バリ島への道

 1991年から97年までNHKの会長だった川口幹夫が書いた『冷や汗、感動50年』(日本放送出版協会、2004年)を読んでいたら、気にかかる文章に出合った。
 著者は1962年7月の人事異動でテレビ音楽部副部長になったのだが、この辞令が出たとき、「私はインドネシアのバンドンに出張中だった」と書いている。その出張とはどんなものだったのか、ちょっと長いが引用してみよう。

 当時の長沢局長の勇断で、発足草々のテレビの特別番組として海外取材のドラマやミュージカルを作ることになったのだ。 
 たしか第一作はイタリアを舞台にしたドラマ、その次がミュージカル「バリ島への道」であった。同時進行でドラマ「真夜中の太陽」、同じくドラマ「アラスカ物語」と続けたのだが、このシリーズ、正直にいってあまり成功したとはいえない。
 「海外取材で新しいものを作る」というコンセプトだけでスタートしたのだから、間に合わせの企画と準備不足の制作になったから結果はほとんど成功しなかったのである。

 このミュージカル「バリ島への道」のインドネシアロケは53日間に及んだという。まだ海外渡航が困難だった1960年代初めに、こんな作品がNHKで作られていたとはまったく知らなかった。そこで、ちょっと調べてみた。
 第一作の「イタリアを舞台にしたドラマ」は、「二つの橋」というタイトルだった。ロケ地は、ベニス、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、カイロなど。出演は安井昌二、北村和夫、ベーラ・ベズッソほか。音楽は富田勲。どういう内容だったかわからないが、俳優が登場するものの、外国の景色が写っていればいいという程度のものだろう。
 放送は、1962年4月9日から7月2日までで、毎週月曜日午後9時から30分の放送だったらしい。この当時、同じ時間帯の他局ではどんな番組が放送されていたのかというと、「プロボクシング東洋ウェルター級選手権」(NTV)、「咲子さんちょっと」(TBS)、「スター千一夜」、「皇室アルバム」(NET)。この年に放送が始まった番組を列挙すれば、「てなもんや三度笠」、「隠密剣士」、「ベン・ケーシー」、「コンバット」、「ルート66」など。
 第二作の「バリ島への道」に関してわかったことはほとんどない。出演者は近藤圭子、横森久、トゥティ・スプラプトゥ、チトラ・デビほか。インターネットの情報によれば、在日フィリピン人タレントのビンボー・ダナオがインドネシア人に扮して出演していたらしい。近藤圭子は、かつて童謡歌手として有名で、ロバのパンの歌「パン売りのロバさん」を歌っている。また、1960年から61年に放送した「快傑ハリマオ」の出演者であり、その主題歌のひとつ「南十字星の歌」も歌っている(三橋美智也が歌った主題歌のほうが有名だが)。ハリマオといえば、以前このページで、「日本最初の海外ロケをしたテレビ番組」だと説明した。それが1960年のことで、NHKとして最初の海外ロケが、上記の「二つの橋」(1962年)ということになる。
 第三作の「真夜中の太陽」については、まったく情報がない。第四作の「アラスカ物語」は、資料では「石原慎太郎作」となっている。「アラスカ物語」といえば新田次郎で、だから、新田の小説を石原が脚色をしたのだろうかと思った。しかし、新田の『アラスカ物語』は書き下ろし作品として、1974年に新潮社から発売されている。だから、NHKの「アラスカ物語」は新田作品とは関係なさそうだ。資料によれば、「杉浦直樹主演。アラスカの原野を舞台に男女の愛の葛藤や友情を描く」とある。
 「アラスカ物語」の放送は1962年12月から、63年3月までらしい。「バリ島への道」の放送はこのあとだろうが、何回に分けて放送したのかといったことは、当時の番組表を詳しく点検すればかわるが、まあ、そこまですることはないだろう。
 NHKの「長沢局長」がどういう人物かわからないが、日本の経済力が日本円のように弱い時代に、海外ロケドラマを一挙に4本をほぼ同時進行というのはあまりに破格だ。そういう企画を通せるだけの強大な権力を持っていたということなのだろうか。
 「バリ島への道」は、ボブ・ホープなどの「バリ島珍道中」(1952年)に近いものなのか、あるいはまるで関係ないのかわからないが、内容のレベルはおそらく相当に低いのだろう。たとえそうであっても、見てみたい。日本人がインドネシアをどう描いたのか、フィルムが残っているならぜひ見たいものだ。

 


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