前川健一 著作一覧

アジア雑語林(131)〜(140)

アジア雑語林(140) 2006年3月25日

テレビの話(2) 深夜放送

 いままでのすべてのテレビ番組のなかで、最高傑作をひとつ選ぶなら、「EXTV大阪」(エックステレビ大阪と読む)を選定したい。どうしようもない11PMが終わって、そのあとに登場した番組だ。構成は11PMと同じように、東京・日本テレビと大阪・読売テレビと交互の放送で、大阪版が週2回あった。
 東京版の司会は三宅裕司。これが、まあ、箸にも棒にもかからない、どうしようもない駄番組だったが、大阪版はすばらしかった。司会は上岡龍太郎と島田紳助。ジミー大西の画才を発見した番組であり、家で眠っている骨董品を鑑定する番組をつくり、これがのちにテレビ東京の鑑定番組へと発展した。
 EXTV大阪は、テレビをネタに遊ぶ番組でもあった。春秋の番組改変直前に「改変予想」をした。「あの番組は、もう終わるな」などと放送でよくも、まあ、しゃべったものだ。また、視聴率調査機器が家庭にある人に向かって「放送が終わっている深夜のNHK教育テレビにチャンネルを合わせてください」と番組で依頼し、見事成功し砂嵐の画面にも視聴者がいたという調査結果を引き出した。テレビはどこまで表現可能なメディアなのかという実験番組だった。『EXTV大阪伝説』という本が出版されてもおかしくないほどの、名番組だった。
 この番組は、司会者のアイデアが全面的に採用されているからすごいのだろうと思っていたが、上岡いわく「全部スタッフが考えたことで、我々の企画はなにもない」と言っていた。ということは、ディレクターや作家が優秀だったということだが、いま彼らはどこに行ったのだろう。
 夜の11時台ではなく、もっと遅い時間帯の放送で絶品を選べば、「地理B」がすぐ頭に浮かぶ。
 その話に入る前に、NHKを例にちょと深夜放送事情を振り返る。
 1974年にオイルショックの影響で、NHKの放送は23時までとなる。街から深夜のネオンサインが消えた時代だ。
 84年にやっと24時まで。24時の壁を越えるのは95年で25時まで。全日24時間放送になるのが97年だ。
 民放のほうで、突然深夜がにぎやかになるのは80年代末だ。以下、年表風にいくつか書き出してみる。フジテレビの深夜放送だ。

1988 やっぱり猫が好き、マーケティング天国
1989 奇妙な出来事(TBSで「イカ天」始まる。90年まで)
1990 カノッサの屈辱
1992 アジアバグース
1991 地理B、カルトQ、TVブックメーカー
1993 音効さん、音楽の正体、アジアンビート

 なぜこの時代に突然深夜放送が活発化したのかよくわからないが、とにかく魅力的な番組が続々と登場した。
 アジアバグースはシンガポールとマレーシアとインドネシアと日本の素人のど自慢として始まった。おもしろくないので、あまり見なかった。一方、熱心に見ていたのが、アジアンビート。司会は、当時ほとんど無名のユースケ・サンタマリア。アジアの雑多な事柄を扱うバラエティーだったが、バンドのリードボーカルが司会だからか、音楽ネタも多かった。今、まったく同じ構成でやっても、おもしろいと思うが、視聴率のことはわからない。韓国のポップミュージックをテレビで紹介した初めての番組かもしれない。 
 さて、いよいよ「地理B」だ。この番組をひとことで言えば、教育テレビの「地理」をフジテレビがやるとどうなるかというもので、番組予算はNHK教育よりも少なかったかもしれないというくらいの低予算番組だった。
 具体的には、毎回ある国を取り上げて、地形、気候、産業、歴史、民族、言語などを解説するだけの番組だ。予備校の地理講師が高校の文化祭程度の予算でつくった絵などの小物で、その国の解説をする。ただ、それだけの番組でありながらおもしろかったのは、在日留学生が登場して生の言語が聞けたり、衣食住の情報が伝わったからだ。海外に興味があり、日本ではほとんど映像資料のない国々が毎週紹介された。低予算を逆手にとった無骨さがよかった。低予算が欠点ではなく、おもしろさにつながっていた。「今週はエリトリア、来週はアンゴラ」なんていう番組は、いいな。今また放送しても、まあ、「旅行人」の読者とアジア文庫の常連くらいしか見ないかもしれないが、そういうマイナーさたまらなくいい。 旅を感じるああいう番組がなつかしい。
 旅を感じるといえば、東北本線の運転席にカメラを構えて、東京から北に走る鉄道の車窓だけを映していた番組があった。あれもよかった。私は鉄道マニアではないが、ただぼーっと車窓風景を眺めているのが好きだ。ヘリコプターか軽飛行機による航空映像でもいい。鉄道でもバスでもいい。何時間でも、ただただ風景だけが流れている番組があってもいいなあと思う。ときどき地名が字幕で出るだけで、あとは音楽が流れていればいい。

 ※深夜放送のことをネットで調べていたら、フジテレビの往年の深夜番組は現在、スカイパーフェクトTVで再放送しているそうだが、私は見られる環境にない。でも、見られたら見るかな。「おもしろかったよな」という記憶とともに、そのままにしておいたほうがいいような気もする。

 


アジア雑語林(139) 2006年3月15日

テレビの話(1) 野球音痴 

 思い出に残るテレビ番組というのはいくつかあるが、一切の文句なしに「名品、傑作、絶品」と賞賛できる番組はそう多くない。子供時代はあまりテレビは見なかったし、旅に夢中になっていた青年期は資金稼ぎと旅行で、テレビなどほとんど見ていない。だから、比較的テレビを見るようになったのは、旅行者からライターに変身しつつあった1980年代末あたりからだ。
 今も昔もスポーツには興味がない。やるのも見るのも関心がない。野球どころか、キャッチボールさえしたことがない。だから、当時の日本の少年としては、大変人なのかもしれない。ルールも知らないし、選手名どころか球団の名前さえ知らなかった。「巨人」は知っていたが、「カープ」と「広島」が同じ球団だと知らなかった。父親がスポーツにまるで興味がなかったせいで、テレビで野球を見ることもなかった。
 突然こんな話をするのは、まがりなりにも12球団すべての名前がわかるようになったのは、1985年に放送が始まったテレビ朝日のニュース・ステーションを見るようになったからだ。毎日のスポーツニュースに登場する球団名をいつしか覚えたのが、1980年代後半あたりということになる。それ以前にもニュースは見ていたはずだが、おそらくスポーツニュースの時間になると、テレビの前から離れたのだろう。
 ついでだから書いておくと、黒柳徹子のエッセイにこういうのがあった。徹子の部屋に出演した元プロ野球選手に対して、「初めてマウンドに上がったときの気分はどうでしたか?」と質問し、その答えは「私は野手なので、マウンドには上がりません」。この一件を笑いの種にされた黒柳は、こう書く。たしかに野球のことはあまり知らないけれど、打ったらどっちに走るのか知っているし、まったくバットを振らなくてもストライクが3つ入れば「三振」と呼ぶことくらい知っているわよ。
 そのエッセイを読んで、バットをまったく振らなくても「三振」というのだと初めて知った。世界広しといえど、黒柳徹子に野球のルールを教えてもらった者は私以外にはいないだろう。そのくらい野球を知らずに過ごしてきた。
 『牙 江夏豊とその時代』(後藤正治、講談社文庫)を読んでいて、ひとつわかったことがある。そもそも私がスポーツノンフィクションを読もうと思ったのは、著者である後藤正治作品に興味があったことと、「その時代」の部分に興味があったからだ。ここ何年も戦後史が気にかかっていて、ある人物や事柄の戦後史を書いた本が読みたくなるのだ。
 『牙』を読んでいて思い出したのは、江夏自身のことではない。私は現役選手時代の江夏を知らない。アメリカにテストを受けに行くというニュースで、「江夏豊」という選手を知ったのである。『牙』の記述を読んでいて思い出したのは、1975年秋のロンドンだ。その時、私はヨーロッパ旅行を終えて帰国の準備をしていた。ロンドンに来た目的のひとつは日本までの安い航空券を買うためだった。偶然見つけた日本人経営の旅行代理店に通い、安くておもしろそうなルートの航空券を探しつつ、ロンドン近郊の情報を仕入れたり、日本語のおしゃべりを楽しんでいた。会社の名はいまでも覚えている。TOKYO TRAVEL CAREだ。
 オフィスで紅茶をごちそうになっていたある日、日本の若者が狂気乱舞してオフィスに入ってきた。以前に一度見かけた顔だ。彼は、手に日本の新聞を握りしめている。「ほら、日本から送ってもらったんですよ。ほらね、優勝したんですよ。すごいでしょ!」
 野球にまるで興味がない私は、おそらく「まあ、バカバカしい」という顔で、彼を無視したと思う。日本を遠く離れて外国を旅行しているのに、日本の野球ごときに一喜一憂しているなんてつまらんヤツだと思ったはずだ。
 そこで、『牙』だ。この本で、1975年の野球界で何が起こったのか初めて知った。広島が球団創設以来初めて優勝したのである。それならば、まあ、ファンが狂気し乱舞しても許してやろうというくらいの許容力が今はある。初優勝ならば、日本からわざわざスポーツ新聞を取り寄せたくなるだろう。
 ロンドンのあの一日から30年たって、やっと謎が解けたのである。

 


アジア雑語林(138) 2006年3月4日

闇ドルの時代とアメ横

 東京の上野駅と御徒町駅(おかちまち)の間にアメ横がある。戦後まもなく、闇市でサツマイモを原料にしたアメを売る店が多かったことから、このあたりがアメヤ横丁と呼ばれたものの、進駐軍の横流し品が売られるようになるとアメリカ横丁と呼ばれたらしい。アメヤでもアメリカでも、略せば同じアメ横だ。
 こういう話で始まるのが『アメ横の戦後史 カーバイトの灯る闇市から60年』(長田昭、ベスト新書、2005年)だ。著者の長田氏は、1946年からアメ横で菓子製造・卸や輸入雑貨卸などで財を築いた人だから、文筆に関しては素人だ。実際に原稿を書いたのは「R&A編集事務所 冶田明彦」と明記されている。その点では良心的な本だ。
 なぜそういう舞台裏のことまで書くかと言うと、参考文献に警察や外務省の資料が出てくるだけあって、著者がしゃべった話に加えて資料を使って補強しているのがよくわかるからだ。テープにとった談話を文章にしただけの本ではない。だからこそ、ちょっとひっかかるのだ。
 この本でもっともおもしろかったのは、闇ドルに関する部分だ。闇ドルというものを、団体旅行しか知らない人にはなじみがないだろうし、欧米しか旅行しない人も知らない世界だろう。ただし、1970年以前に個人で海外旅行をした人は、どこに行くにしろ、「闇ドル」という言葉くらいは知っているだろう。
 闇ドルというのは、法律では禁じられているにもかかわらず、現地通貨をアメリカドルと両替することを闇両替といい、そういう違法な手段で両替したドルを闇ドルという。具体的にはこういうことだ。例えば、ある国では1米ドルが8ルピーと両替レートが定められているとする。これが、政府が決めた公定レートだ。しかし、外国製品を手に入れたい業者や外国旅行をしたい人は、違法だと知りつつ、米ドルを手に入れるために公定より高いレートで米ドルを買う。
 私が旅を始めた1970年代なら、アジアやアフリカのたいていの国には闇両替があり、米ドルの現金があれば、銀行で両替するより多くの現地通貨が手に入った。インドやネパールで、よくは覚えていないが公定の15%増しくらいだったと思う。インドネシアでも闇両替はあった。
 日本でも、1米ドルが360円だった1960年代まではあった。1米ドルは360円と決められていたが、このレートで両替するならどれだけでも自由に両替できるわけではなかった。
 海外旅行でいえば、海外渡航が自由化された1964年当時、日本から持ち出すことができる外貨は500ドルと決められていた。だから、日本円ならいくらでもある金持ちは、闇でドルを手に入れて持ち出したのである。あるいは、外国製品の買出しをしたり、外国人タレントの出演料が必要な人は、どうしてもドルが必要だった。じつは、ビートルズのギャラも一部は闇ドルで支払われているのだ。
 闇ドルの供給源は、おもに米軍である。在日米軍の将兵も、基地内だけで暮らしているわけではないから日本円が必要だ。銀行で正しく両替すれば、10ドルで3600円にしかならないが、闇両替の業者の元に行けば1ドルが400円くらいで両替できるから、10ドルで4000円になる。あるいは、米軍相手の飲食店経営者や娼婦たちが、米兵から受け取ったドルを手に両替にやってくる。こうして手に入れたドルに利益を加えて、日本人に売るわけだ。
 闇ドルの説明が長くなったが、戦後しばらくのアメ横は闇ドルの取引場所だったという。しかし、話はそれだけで終わらない。闇ドルの大手業者が集めたドルが、政府のある機関に渡り、フィリピンへの賠償金の一部に使われたのだという話がでてくる。
 アジア諸国への戦争の賠償問題は、公表できないウラの話があまりに多いことで知られているのだが、こういうカラクリがあったというのだが、さて。「さて」というのは、ほんと?という意味だ。長田氏も聞いた話をしゃべっているだけかもしれないし、じっさいに文章にしているライターも事実は知らない。
 読者をもっとびっくりさせる話は、闇ルートで集めた金が東京オリンピックの金メダルになったというトリビア話で、これも「さあて、なあ・・・」としかいいようがない。「ウソだ!」といっているのではないが、そのまま信じていいのかなあという疑問がある。この新書がKKベストセラーズのベスト新書ではなく、中公新書や岩波新書だと、編集者が「要確認」と記入しそうな個所だ。だから、もうちょっと調べて書いてくれたらなあと思うのだが、新書というボリュームと、この版元では無理だ(バカにしているわけではない)。そのあたりが、もどかしいのである。
 ノンフィクションライターの興味を刺激する話が出てくる本だが、闇ドルを知らない年代層にはピントこない話だろう。

 


アジア雑語林(137) 2006年2月24日

2005年 出版社別購入書ランキング

 小学生時代からつけている図書購入台帳をひっくりかえして、今年もまた2005年の図書購入事情を探ってみようと思う。目的は、ない。有用な利用法もない。ただのひまつぶしである。
 2005年は仕事上でどうしても必要な本はあまりなかったので、300冊も買わなかった。これは例年よりちょっと少ない。仕事上の本が少ないということは、無理してでも読まなければいけないむずかしい本は読んでいないということだ。そのわりにあまり多く読んでいないのは、目と根気の問題だろうと思う。読む気はあっても、どうにも読み残してしまう。まあ、すぐに読みたい、何をおいてもこの本をという気にさせる本があまりないということでもあるのだが。

 さて、出版社別購入書のランキングだ。

1位   筑摩書房          18冊
2位   新潮社            17冊
3位   講談社            16冊
4位   平凡社            13冊
5位   文藝春秋          12冊
6位   情報センター出版局    11冊
7位   中央公論新社       10冊
8位   小学館             8冊
9位   集英社             7冊
10位  岩波書店           6冊

 例年ならベスト10に入っていた朝日新聞社は、幻冬舎、晶文社、角川書店と並んで5冊で同数11位。
 意識していないにもかかわらず、ある特定の出版社の本が多いということもなく、まんべんなく買っているのがわかる。昔とちがって大手出版社の本が多いのは、好みが変わったのではなく、新書と文庫を買うことが多いからだ。新刊書にあまり期待できないから、古本屋でも、ついつい買いそびれている文庫を買うことが多い。そのいい例が6位の中央公論新社だ。
 今は、中公の本をめったに買わない。文庫も新書もまるで魅力がない。読売の軍門に降った(あるいは保護下に入った)からつまらない本ばかり出しているのかと思ったが、考えてみればその前からつまらない本ばかり出していた。金子光晴の本など、海外紀行や文化人類学関連の本が出ていたころは、もっとも好きな出版社だったが、そういう私好みの本を出していけば必然的に経営を圧迫し、しかし角川のようにみっともない本は出せず、グジグジといじけている出版社というところだろう。そんな中公の本を10冊も買っているのは、神田の古本屋で中公文庫の安売りをやっていたので、買いそびれている本をまとめて買ったからだ。
 堂々1位の筑摩書房にしても、古本屋で買った文庫が半分くらいはいっているが、新刊でもわりと買っている。そういえば、ちくま文庫は買うが、ちくま新書はめったに買わない。書店で点検することもあまりない。
 情報センター出版局が11冊で6位にはいっているのは、神田古書市のときに、すずらん通りでバーゲンセールをやっていたのでまとめ買いしたからだ。興味はあっても、いままで「ま、いいか」と思っていた言語の本を、この機会に一気に8冊買った。とりあえず使うことのないスワヒリ語の本などは、こういう機会でもないと買わないのだから。
 平凡社は、新書半分に単行本半分というところだろう。集英社はほとんど新書だ。
 さて、2005年に読んだおもしろかった本を全部あげると煩雑なので、2005年に出版された本に限って、ジャンル分けせずに順不同であげておこう。

『同じ釜の飯』(中野嘉子・王向華、平凡社)
『我、拗ね者として生涯を閉ず』(本田靖春、講談社)
『失踪日記』(吾妻ひでお、イーストプレス)
『毎日かあさん 2 お入学編』(西原理恵子、毎日新聞社)
『パッチギ! 対談篇』(李鳳宇・四方田犬彦、朝日選書)
『ナポリタン』(上野玲、扶桑社)
『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(奥野修司、文藝春秋)
『探偵!ナイトスクープ アホの遺伝子』(松本修、ポプラ社)
『沖縄あ〜あ〜・ん〜ん〜事典』(宮里千里、ボーダーインク)
『落し紙以前』(斉藤たま、論創社)
『東洋一』(藤井青銅、小学館)
『毎日ワールドミュージック』(北中正和、晶文社)
『被差別の食卓』(上原善広、新潮新書)
『日本全国おでん物語』(新井由己、生活情報センター)
『誤読日記』(斉藤美奈子、朝日新聞社)
『昭和浪漫ロカビリー』(ビリー諸川、平凡社)
『続・夢のワルツ』(田代洋一編、バックステージカンパニー)
『牙 江夏豊とその時代』(後藤正浩、講談社文庫)
『東南アジア樹木紀行』(渡辺弘之、昭和堂)
『世界の食文化 韓国』(朝倉敏夫 農文協)
『ネオンサインと月光仮面』(佐々木守、筑摩書房)
『冷たいおいしさの誕生』(村瀬敬子、論創社)
『国マニア』(吉田一郎、交通新聞社)
『黒田清 記者魂は死なず』(有須和也、河出書房新社)
『環境考古学への招待』(松井章、岩波新書)
『下級武士の食日記』(青木直己、NHK生活人新書)

 あまり多くなるので以下省略するが、ベスト3を選ぶなら次の3冊。

『我、拗ね者として生涯を閉ず』
『ナツコ』
『世界の食文化 韓国』

 2006年も、こういうすばらしい本に出会いたい。

 


アジア雑語林(136) 2006年2月16日

日本人にとっての言語のメジャー度・マイナー度

 情報センター出版局が「指さし会話帳」のシリーズの第一巻「タイ」が出たのは1998年で、それ以来言語ガイドにおける「地球の歩き方」化するという大成功をとげている。「地球の歩き方」が、「よくもまあ、こんなマイナーな国を・・・」と驚くような国まで取り上げているように、「指さし」もまた少数言語も取り上げている。
 この「指さし会話帳」シリーズそのものについては、いずれ機会があればこのコラムで本格的に取り上げたいと思うが、今回はこのシリーズをネタ元にして、日本人にとってメジャーな言語とマイナーな言語を調べてみたい。
 その方法は簡単だ。定価の安い本はメジャーで、高い本はマイナーだ。本の体裁はどれも同じだ。タイ語やビルマ語のようにローマ字表記ではない言語は製作に手間ひまかかるが、スワヒリ語のようにローマ字表記の本だって高い。だから、個々の言語事情は一切無視して、定価によって各言語の認知度や関心度を調べてみようというのである。
 「指さし会話帳」は言語別ではなく、国や地域別になってはいるが、それでも調べる意味はあると思う。
 2005年10月現在、「指さし会話帳」シリーズは番外の『32カ国』を除いて、すでに67冊も刊行されている。そのなかで、外国人用の日本語ガイド4冊を除いた63冊が調査対象だ。定価は、もっとも安いもので1200円、もっとも高いもので1800円である。
 以下、定価別に各書名を並べてみる。この書名で、どんな言語のガイドが展開されているのかは、このコラムの読者なら容易にわかるだろうから、いちいち解説しない。ただし、出版順は出版社が考えるメジャー度(一応、売れそうだと判断する順)でもあるので、第何巻になるのか、巻数は書き添えておく(13巻目のキューバが気にかかりますね)。気の毒なマック使用者のために、丸囲み数字は使わないので読みにくくなるが、まあ、我慢してあげましょう。

1200円
10イギリス

1300円
1タイ 2インドネシア 3香港 4中国 5韓国 6イタリア 7オーストラリア 8台湾 9アメリカ 12スペイン 15マレーシア 17フランス 20ドイツ 61グアム

1400円
14フィリピン 37上海 43ニューヨーク 45北京

1500円
11ベトナム 18トルコ 22インド 23ブラジル 24ギリシア 32カナダ 38シンガポール 54ニュージーランド 66ベルギー

1600円
28メキシコ 29オランダ 59西安 63雲南

1700円
13キューバ 16モンゴル 19カンボジア 26ロシア 39エジプト 40アルゼンチン  42北朝鮮 48オーストリア 52ポルトガル 62ペルー 

1800円
25ネパール 30スウェーデン 31デンマーク 35フィンランド 36チェコ 41アフガニスタン 44ミャンマー 46イラク 47モロッコ 49ハンガリー 50ルーマニア 51アイルランド 53ジャマイカ 55モルディブ 56スリランカ 57ノルウェー 58ポーランド 60ケニア 64ラオス 65チベット

 


アジア雑語林(135) 2006年2月8日

日本のタイ料理店

 年に一度くらい、「日本におけるタイ料理店の現状」をインターネットで調べている。日本のタイ料理店リストが載っている「タイカレーが好き」というサイトを、今年も覗いてみた。昨年と比べると、タイ料理店の数が減っているような気がするが、昨年プリントアウトしたものが発見できないので、比べようがない。
 「タイカレーが好き」の2004年4月現在、日本には451軒のタイ料理店があるそうで、その全店がリストアップされている。「451軒」という数字はあまりあてにならない。開店・閉店の時間差で営業しているのにリストに載っていなかったり、閉店したがリストに残っていたりという誤差のほか、そもそも「タイ料理店」をどう定義するかという問題があるからだ。東南アジア料理店でタイ料理もあるという店は、どうする。タイ料理も出す居酒屋はどうする。カレー専門店で、タイカレーもあるという店はどうするかといった問題があるからだ。
 したがって、「451軒」というのは、まあ、だいたいそのくらいはあるだろうという数字だと考えたほうがいい。もしかすると、誤差は1割くらいはあるかもしれない。ウチの近所にある2軒の店はリストに載っていないことを考えると、誤差はもっと大きいかもしれない(次に述べるワイワイのサイトにもその2軒は載っていない)。
 引き続きほかのサイトを探していたら、「ワイワイタイランド」というサイトに、日本のタイ料理店リストが載っているのを発見した。このリストでは全国に492軒のタイ料理店があることになっている。大阪府にあるタイ料理店と東京の新宿区にあるタイ料理店の数は、ほぼ同じだ。
 ワイワイのリストを見ながら、タイ料理店が多い都道府県ベスト10を書き出してみる。

 1、東京(226軒)
 2、大阪(48軒)
 3、神奈川(44軒)
 4、千葉(35軒)
 5、埼玉(21軒)
 6、茨城(15軒)
 7、愛知(14軒)
 8、長野(10軒)
 8、福岡(10軒)
 10、兵庫(8軒)

 人口の多い大都市圏にタイ料理店が多いのはわかるが、長野県の存在が異色で、その理由はわかる人にはわかる。東京のタイ料理店は見たとおり多いのだが、これはイタリア料理店やインド料理店などと同様に、東京だけが異常に多いのか、あるいはタイ料理店だけに見られる顕著な傾向なのか、私にはわからない。
 両方のリストで「0軒」と表示されていたのは、秋田、福井、島根、鳥取、徳島、香川、高知、大分の各県なのだが、個別に調べてみると、香川の高松には「アジア・バグース」という店があることがわかった。ほかの県にでも、こういう例がありそうだ。
 というような、リスト遊びをやった結果わかったのは、タイ料理店はいまやブックオフなみにどこにでもあり、タイ料理店がない県はむしろ珍しいということだ。
 これと同じような作業をほかのアジア料理店でもやってみたいと思うが、リストがないので無理だろう。中国と韓国・朝鮮の料理店を除くと、わざわざリストを作るほど多くはないということだろう。「日本の外国料理店出店の歴史」というような資料を読みたいが、誰か作る気はないだろうか。まあ、ないだろうなあ。学者でも、手のかかる調査は敬遠されがちだから。
 1980年代前半、東京には5軒ほどのタイ料理店があり、おそらくそれは日本全国でも5軒しかなかったということだ。1980年代後半には急に増えるが、それでもせいぜい20軒程度だろう。

 


アジア雑語林(134) 2006年1月25日

面積遊び

 ある大金持ちの邸宅の広さを、例えば「東京ドームとおなじくらいの広さ」とか「日比谷公園と同じくらい」などと説明することがある。これでわかるのは、とにかく広いということだけであって、具体的にはなにもわからない。日比谷公園を知らない人には、想像できない広さだ。
 シンガポールの説明は、「ちょうど淡路島と同じくらいの広さで」とよく書いてあるが、これもよくわからない。とにかく「国としては小さい」ということはわかるが、それ以上具体的には何もわからない。
 シンガポールの面積は683平方キロ、淡路島は633平方キロで、「同じくらいの広さ」と説明することじたいに問題はないが、具体的な広さをイメージするには26キロ平方(26キロ四方)と説明した方がわかりやすい。「1万5000平方メートルの大邸宅」ではまるでわからないが、「122メートル四方の広さ」と考えると、広さをイメージしやすい。本を読んできて、そこに登場する土地などの広さがイメージできないと、電卓を取り出してルート計算をする。そうしないと、5ヘクタールとか10アールといった広さをイメージできないからだ。電卓で加減乗除以外の計算をするのはこのときだけだ。√ボタンを押すだけだから、簡単だ。
 シンガポールは淡路島によく例えられるが、台湾は九州によく例えられる。「台湾は、ほぼ九州くらいの広さで・・・・」という文章をガイドブックなどでよく見かける。見かけるが、ちゃんと調べたことがなかったので、これを機会に調べてみた。台湾の面積は3万6000平方キロ、九州は4万2000平方キロだから、より正確に説明するなら「台湾は、九州から大分県を除いたくらいの広さ」としたほうがいい。
 私がポルトガルに行くとき、すでに行ったことがある友人が「ポルトガルは九州と同じくらいの広さしかないから、国内移動といっても、実に簡単だ」といった。実際に旅すると、鉄道やバスの移動は簡単で、「狭い国」を実感し、友人の話を今の今までずっと信じていた。ところが、たった今、ポルトガルの面積を調べてみると、9万2000平方キロくらいあって、九州の2倍以上広く、8万3000平方キロある北海道の広さに近い。
 さあ、そこでだ。調べ始めたついでだから、世界の国のなかで、「九州とほぼ同じ広さ」といえる国を探し出してみた。
 オランダ、スイス、デンマーク(グリーンランドを除く)、エストニア、ブータン、ドミニカ、スロバキアなど。
 一方、「北海道と同じくらいの広さ」といえるのは、オーストリア、ヨルダン、ポルトガル、ハンガリーなど。韓国は約10万平方キロだから、北海道に岩手県を足したくらいの広さだ。
 日本人が外国人に日本を紹介するときに、日本は資源のない小さな国で、そういう国が生きていくために、「殖産興業・富国強兵」や「奮励努力・創意工夫」をしてきたという歴史を語ったりするのだが、世界の国々を多少なりとも知っていれば、日本はその面積においてけっして「小さい国」グループには入らない。日本人は、アメリカやロシアを見て、「外国は大きい、しかし日本は小さい」と思い込んだだけだ。日本はけっして小さくはないことを勘ではわかっていたが、この際、具体的に調べてみようと思い、日本よりも面積の広い国をメモ帳に書き出してみた。
 全世界の国の数を一応192カ国として、面積の広い順に並べると、日本は55位になる。調査に正確さを求めてはいないので、ひょっとすると多少順位が違っているかもしれないが、大筋ではこれでいいと思う。順位だけを見ると、日本は「大きい国」グループに入っていることがわかる。ヨーロッパで日本よりも面積の広い国は、ウクライナ、スウェーデン、ノルウェー、スペイン、フランス、ロシアの6カ国だけだ。アジア47カ国のなかで、日本は15番目に面積の広い国になる。
 世界には、日本より面積の狭い国はいくらでもあるのだから、政治家や文化人や経済人諸君、「東洋の小さな国が・・・」というような話はいい加減にやめなさい。ナショナリズムを鼓舞したいというのではなく、故なき卑下はおやめなさいということだ。

 


アジア雑語林(133) 2006年1月12日

快傑ハリマオまでの戦後史
―1960年ころのテレビとアジア― (5)

 このシリーズは前回で終了の予定だったが、書き終えた直後にある資料を読んだので、ぜひとも追加原稿を書かなければいけなくなった。
 資料というのは、『ネオンサインと月光仮面』(佐々木守、筑摩書房、2005年)だ。
 広告代理店の宣弘社の得意業務はネオンサインで、この会社が「月光仮面」のようなテレビドラマを製作するために作った会社が宣弘社プロダクション。これらふたつの会社の社長である小林利雄の仕事ぶりを書いたのが、この本だ。
 私の関心事である、1960年ころのテレビとアジアについて、この本でもやや詳しく書いてある。まずは、関連する断片的な情報から紹介しよう。
 この本には、「月光仮面 第二部バラダイ王国の秘密 第一回サタンの爪」の台本とスチール写真が載っている。サタンの爪とはどういう人物かというと、「バラダイ王国の秘密を狙って、はるばる東南アジアからやってきた」と自己紹介している。その姿は、どこのものともわからぬ仮面をつけているが、下半身はサロンを巻いている。手下らしい二人の男は、インドネシアでソンコックやコピア、あるいはピチなどと呼ばれている黒いふちなし帽子をかぶっている。下半身には、やはりサロンを巻いている。明らかにマレーやインドネシアのイスラム教徒を意識した服装だ。縞模様やチェックの布はいいのだが、バティックをまねた絵柄の布がインチキ臭くておもしろい。
 私は「月光仮面」についてはっきりした記憶はなく、ただおどろおどろしい雰囲気(お化け屋敷や見世物小屋の雰囲気。あるいは田舎周りの一座の泥臭さ)だけを覚えている。いまスチール写真で細部まで見ると、あきらかにマレーやインドネシアを意識していたことがわかる。
 「月光仮面」の放送は、1958年から翌59年まで続き、その後を受けて放送されたのが「豹(ジャガー)の眼」だ。「豹の眼」は昭和の初めに「少年倶楽部」に連載された高垣眸の原作だという話はすでに紹介した。昭和初期の物語を30年以上たってテレビドラマ化されたのだが、そのままではなかったと、この本で初めて知った。原作では、主人公の父親は日本人だが、母親はインカ帝国の王族の末裔だという設定になっていた。それが、テレビドラマまではインカ帝国が「ジンギスカンの蒙古」に置き換えている。
 この「豹の眼」のあとが「快傑ハリマオ」だから、私同様佐々木守もまた「なぜ、アジアなんだ」と疑問を感じている。佐々木の推理は以下のようになる。
@宣弘社社長の小林は、1945年に召集され現在の内蒙古で1946年まで過ごしている。この体験が、のちのアジアを舞台にしたドラマに反映したのだろう。したがって、宣弘社ドラマは「少年倶楽部」世界のテレビ化ではなく、「大東亜共栄圏」のイメージである。
A宣弘社は、ネオンサインの工事を、1960年の香港をはじめにシンガポールやニューヨークやバンコクなどで行なっている。当時の日本の会社の中で、外国、とりわけアジアが身近だった。
Bテレビのアジアものが少年たちに受けた理由を、佐々木はこう書いている。「東アジアや東南アジアという当時としては未知の国々で、狭い日本国内から遠くかけ離れた異国情緒豊かな風物をバックに、日本人らしい正義の味方が悪い外国人と闘う波乱万丈のストーリーが、子どもたちの喝采を浴びたのだともいえるだろう」。
 このBについては、異論と同意の両方の意見がある。1960年ころの日本の少年の気持ちの平均値はわからないが、私の個人的感情でいえば、日本人が外国人をやっつける光景に喝采を贈っていたのはプロレスではたしかにそうだが、「月光仮面」のようなドラマでも同じだったかというと、どうもそうではないという気がする。私が変わった少年だったのかもしれないが、「日本人は正義の味方 アジア人は悪人」という認識はなかった。
 同意というのは、こういうことだ。いまでは信じられないだろうが、1960年代末あたりまで、映画の世界では香港は「悪の巣窟」として描かれていた。「香港では、若い女は洋装店の試着室やレストランのトイレで誘拐されて、中東かアフリカのどこかに売られる」という都市伝説が、あたかも真実のように語られていた。だから、香港に限らず、港町は危険で、しかし多くの謎と誘惑があると映画で描かれ、そこに格好いい男が現れれば日活映画である。そういう時代だったということについては、「そのとおり」と同意するということだ。
 いまこの文章を書いていて気がついたのだが、正義の味方が異形のものを倒すという構図は、結局のところのちの時代の怪獣もの(ウルトラマンもの、変身もの)と同じではないかと気がついた。東南アジアの変な人が敵だった時代のあと、怪獣が敵になったというわけだ。その変化に、おそらく人権意識などとは無関係だろう。
 前回でも書いたように、1960年ころの少年マンガ誌で、戦争の道具を大特集することが多かったのだが、あれはどういういきさつで始まったものなのか、いずれ調べてみたい。

 


アジア雑語林(132) 2005年12月22日

快傑ハリマオまでの戦後史
―1960年ころのテレビとアジア― (4)

 「豹の眼」の後を受けて放送されたのが「快傑ハリマオ」、そして「快傑ハリマオ」にやや遅れて60年7月から放送が始まったのが、千葉真一主演の「アラーの使者」だ。川内康範の原作で、中東にかつてあったカバヤン王国の秘宝を巡る物語。カバヤンというのは、番組スポンサーがカバヤ食品だったからで、ナショナルキッドと同様に、現在から見ればあまりに露骨な宣伝にアゼンとしてしまう。プロレスのリングに掃除機をかけていたのは、小学校低学年のガキでも「あまりに、あざとい」と感じていた。スポンサーが三菱電機だったから、電気掃除機なのだが・・・・。
 それはともかく、1960年前後にはこのような外国がかかわる冒険活劇がいくつか放送され、人気を集めた。この手の冒険活劇の元は、日活のアクション映画だったことは、この時代の映画とテレビを見ていた人ならすぐ気がつくことだ。
 小林旭の「渡り鳥シリーズ」が始まるのは1959年で、終わるのが62年。このシリーズ唯一の海外ロケ作品は、「波濤を越える渡り鳥」(1961年)で、アキラもジョーもタイに渡った。宍戸錠は同じ年に、やはり海外ロケ作品の「メキシコ無宿」にも出演している。
 日活だけでなく、香港やタイで撮影した作品は数多く、いちいち作品名はあげないがこの時代のちょっとしたブームだったのはたしかだ。
 ハリマオと同じように国策によって英雄に祭り上げられた山田長政の物語も、「山田長政 王者の剣」として1959年に公開されている。長谷川一夫主演で、タイでロケしている。
 1960年前後に海外、とくにアジアを舞台した映画が多く作れられた理由を考えてみたい。

1、経済力・・・・森繁久弥主演の社長シリーズというのがある。1962年の「社長洋行記」では香港に、63年の「社長外遊記」ではハワイでロケしている。映画のなかで社長が業務渡航しているように、現実の世界でも社長たちが外遊する時代になってきた。日本の経済力も、戦争が終わって15年たち、ようやく回復してきたわけで、映画やテレビの世界でもそろそろ外国に行くようになった。戦前は軍事力によるアジア進出だったが、今度は商行為としてのアジア進出だという気分が、戦後15年の1960年だ。 

2、協力体制・・・・映画界では、香港のプロデューサーと組んで共同制作する体制ができたため、日本側の失費が少なくてすむようになった。

3、パンナム・・・・アジア航路を確固たるものにしたいパンナム(パン・アメリカン航空)は、テレビや映画などとタイアップすることで航空運賃がタダになり、パンナム機は映画に登場して宣伝した。テレビの「兼高かおる世界の旅」は、パンナムのバックアップがあって初めて実現した番組だった。

4、オリンピック・・・・1964年開催予定の東京オリンピックは、戦後初めて「日本を外国に発信する機会」だということを多くの国民はわかっていた。そういうハレの場が近づくにつれ、日本国内も「外国」がブームになってきた。英会話ブームであり、旅行書ブームでもあり、日本人は海外事情に強い関心を示していた。そういう時代だった。

5、復古ブーム・・・・「豹の眼」が昭和初期の「少年倶楽部」連載小説を原作にしていることでわかるように、「快傑ハリマオ」もまた、戦前の「日東の冒険王」(南洋一郎)や「亜細亜の曙」(山中峰太郎)など少年向け冒険小説の焼き直しだと考えればわかりやすい。 「復古」というのは、もちろん製作者側にとっての話で、過去を知らない少年たちにとっては「復古」された過去もまた新しいものだった。60年代の少年雑誌には、戦艦大和、ゼロ戦、紫電改などが登場するマンガやカラーイラストがよく登場していた。当時の少年たちにとっては初めて目にするものではあるが、戦前の「少年倶楽部」世代にとっては、それが復古だったのである。

 考えてみると、少年マンガに戦争や軍人が多く登場するのは、東京オリンピックが開催された1964年ころまでではないかという気がする。調査した結果ではなく、ただ「なんだか、そんな気がする」というだけのことなのだが、どうもそんな気がする。
 「復古」の政治的側面も気になるが、まだ霞がかかっていて文章にできる時期ではないので、ここでは触れないことにする。

 参考文献
各種インターネット情報を利用したが、あまりに多いので省略し、活字資料だけ書名をあげておく。
『マレーの虎 ハリマオ伝説』(中野不二男、新潮社、1988年)
「銀星倶楽部10 ハリマオ伝説」(ペヨトル工房、1989年)
『快傑ハリマオ』上下(原作・山田克郎、石ノ森章太郎、翔泳社、1995年)
『テレビ史ハンドブック』(自由国民社、1998年)

 


アジア雑語林(131) 2005年12月14日

快傑ハリマオまでの戦後史
―1960年ころのテレビとアジア― (3)

 ハリマオこと谷豊が死に(死因はマラリアではなく、秘密保持のため日本の軍部に殺されたという説もある)、戦争が終わってからも、「ハリマオ」はしばしばマスコミに姿を見せた。テレビ映画の「快傑ハリマオ」と、石森章太郎のマンガ『快傑ハリマオ』などだが、その前に触れておかなければいけないテレビ番組がある。
 作家、高垣眸(たかがき・ひとみ)が「少年倶楽部」に連載した「豹の眼」が、大日本雄弁会講談社から単行本『豹の眼』として発売されたのは1928年だった。昭和の初めだ。
 この小説がテレビドラマとなって、1959年7月から60年3月まで放送された。広告代理店の宣弘社の関連会社宣弘社プロダクションが製作したドラマで、同じくこの会社が製作した「月光仮面」の後番組である。
 小説『豹の眼』の正しい読み方は知らないが、テレビ番組では「ジャガーのめ」と読んでいた。「月光仮面」で当たった大瀬康一を再び起用して製作された。「月光仮面」では日本国内が舞台だったが、今度はアジアが舞台だ。
 正義を愛する青年黒田杜夫、秘密結社「青龍党」を率いて清朝再興をめざす少女錦花、そして世界征服をたくらむ悪の一味ジャガーの3者が入り乱れる冒険活劇なのだが、まあ、はっきりいえば時代錯誤、子供向きだから「清朝」のなんたるかもわからなかっただろうが、昭和初めの少年向け物語をそのままテレビ化するには無理があった。
 主演の大瀬康一が大人気俳優として認められるのは、1962年から放送の「隠密剣士」からだ。
 「豹の眼」は大人気番組になることもなく、60年3月に放送を終了した。その後を受けて放送されたのが、「快傑ハリマオ」である。舞台は、またしてもアジアだ。原作は直木賞作家、山田克郎の『魔の城』だ。1956年、日本経済新聞夕刊に連載された小説だが、単行本になったかどうかはわからない。拳銃の名手である少年が主人公の、少年向け海洋冒険小説でハリマオは脇役として登場する。
 テレビの「快傑ハリマオ」では、日本軍の手先となって働くハリマオは登場しない。日本軍も出てこないから、一応戦後の独立戦争を支援しているような体裁になっている。この点、マンガでは明快で、戦争は終わったがオランダが戻ってきたインドネシアが舞台となっている。ただし、マンガでは、オランダではなくイギリスということになっているのは、英領だったマレーとまとめてしまおうということだろう。
 つまり、アジアにおいて日本人は侵略者ではなく、西洋列強からの独立を支援する正義の味方だということにしてある。
 石森章太郎の『快傑ハリマオ』は、テレビ版の放送と平行して、60年4月から「少年マガジン」で1年間の連載が始まる。連載の紙面を広告も含めて完全復刻したのが翔泳社版(1995年刊)だ。「あとがき」に、こんな話がでてくる。漫画家を「男子一生の仕事」だと思えない石森は、映画監督になるための資金稼ぎとしてこの連載を引き受けた。これが、漫画家としての最後の仕事になる予定だった。石森青年、21歳のときだ。 
 1960年4月から放送が始まったテレビ版「快傑ハリマオ」は、放送史上特筆すべきことが2点ある。2点あるが、その理由がよくわからないのである。謎なのである。
 まず、1点目は、日本のテレビドラマ史上初のカラー撮影だったのである。謎とは、こういうことだ。日本のテレビでカラーの本放送が始めるのは、60年9月からだ。といことは、「快傑ハリマオ」の放送が始まった4月は、まだカラーの試験放送の時代である。試験といっても、家庭にはまだほとんどカラー受像機はないから、カラー映像は見られない。見られないから、カラー映像を白黒に焼きなおして、放送しているのだ。しかも、カラー撮影はカネがかかるため5回分で終了して、あとは白黒フィルムで撮影している。つまり、カラーの本放送が始まったときは逆に白黒フィルムで撮影するというトンチンカンなことになっている。
 謎のその2は、このテレビ版「快傑ハリマオ」は、日本のテレビドラマ初の海外ロケを行なっているのである。香港、タイ、カンボジアなどで撮影されている。1ドル360円時代だ。海外渡航が制限されている時代に、海外ロケを可能にするには、豊富な資金力と政治的裏づけが必要になってくる。「快傑ハリマオ」関係の資料を読むと、テレビ版のスポンサーである森下仁丹が全面的に協力したとある。かつてアジアで手広く販売していた仁丹を、戦後ふたたび東南アジアに売りたいという企業側の意図が、番組の海外ロケを可能にしたのだというのだが、さてどうだろう。このテレビ番組が、森下仁丹がスポンサーとなってアジア各国で放送、あるいは劇場公開されれば、広告効果もあるだろうが、日本で放送するだけなら、アジア各国での販売増進にはならない。ということは、国外でも放送したのだろうか。
 1980年代になっても、日本のテレビ番組が東南アジアでさかんに放送されていた。「座頭市」など日本映画も、怪獣映画同様一般公開されていた。だから、国外で放送される可能性はあるのだが、そのあたりの事情がまだわからない。わからないが、1960年代に海外ロケをしたテレビ映画を考えるには、当時の映画界事情も調べてみなければいけない。そこに、ヒントがある。

 


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