前川健一 著作一覧

アジア雑語林(121)〜(130)

アジア雑語林(130) 2005年12月7日

快傑ハリマオまでの戦後史
―1960年ごろのテレビとアジア― (2)

 「快傑ハリマオ」のそもそもの物語は、1942年に始まる。この年の1月、日本軍はマレーを占領し、2月にはシンガポールを占領した。そして、3月。このマレー戦線に参加した男が、マラリアのためシンガポールの病院で死んだ。日本の新聞は、彼の死を大きく報道している。例えば「大阪毎日新聞」の昭和17年4月3日付けの紙面では、次のような記事が出ている。

 皇軍進撃の殊勲者
 快男児「マレーの虎」
 三千の部下を使った大親分
 数奇な運命の主 九州生れ谷豊氏だった

 開戦と同時にマレー半島に展開された皇軍の電撃的一大侵攻作戦は疾風迅電七十日をもって新嘉坡を陥れた。この輝く世紀の大戦果は全世界を罵倒せしめ、世界戦史に不朽の金字塔を打立てたが、灼熱瘴癘、猛獣毒蛇の蟠踞する魔の密林地帯を突破猛進した皇軍将兵の戦果の陰にあって勇猛果敢慕いよるマレー住民とともに挺身皇軍進撃に絶大な協力をなし、全島に「日本人ここにあり」と神州男子の意気を示し、君国に殉じた一弱冠在留邦人の兵に劣らぬ涙ぐましい陰の死闘振りがこのほど同方面に従軍帰還した藤原岩市少佐から陸軍省にもたらされた。
 話題の主人公はその名もハリマオ(マレー語で虎の意味)と呼ばれ、本名を谷豊という。
 数奇な運命に弄ばれた快男児、福岡県筑紫郡日佐村五十川の谷浦吉を父にもった彼は二歳の折父母とともにコタバルに移住したが、幼にしてマレーで育った彼はマレー人として生活に親しみ、日本語を解せず・・・(以下略)。

 記事の内容は、その谷豊がある事件をきっかけに、反イギリス人・反華人の義賊になり、その後日本軍に協力して大活躍したものの、シンガポールで病死したというものだ。
 谷の死を伝えた藤原少佐は、反英運動を進めるためにインド独立を画策している通称F機関の親玉で、谷もこのF機関の手先となって働いていた。そして、この藤原によって谷豊は「ハリマオ」という忠君愛国の英雄に祭り上げられるのである。タイでは「山田長政」なる人物が、やはりアジアで活躍した英雄として祭り上げられていが、そのマレー版が谷豊だったというわけだ。
 ハリマオこと谷豊の話題は、引き続き新聞に登場し、1943年6月には「マレイの虎」という映画になって公開されている。この映画の主題歌を歌っているのは東海林太郎で、レコードのラベルを見ると、タイトルの「マレイの虎」の「虎」の上に「ハリマオ」とルビがふってある。ということは、この映画のタイトルも、読み方は「マレイのハリマオ」なのだろう。
 映画の公開直後から、雑誌「少年倶楽部」で、陸軍報道班員の肩書きの大林清が同名の「マレイの虎」という小説を連載している。実在する人物はいたとはいえ、実際上日本軍が作り上げた忠君愛国の英雄は、映画や小説のほか紙芝居や浪曲にもなった。
 「マライの虎」という映画は、反英思想を伝える国策映画ではあるが、それほど力が込められた作品ではない。日本軍のマレー進撃を華々しく描く「シンガポール総攻撃」が現地ロケをするときに「おまけ」で製作されたにすぎない。だから、この二作品の出演者はほとんど重なる。「シンガポール総攻撃」で宮本中尉役を演じている中田弘二は、「マライの虎」ではハリマオになり、小林桂樹は「シンガポール…」で木村一等兵、「マライ…」ではマレー人ハッサンを演じている。
 おまけ映画にすぎなかった「マレイの虎」だが、娯楽性が高く、わかりやすいために少年たちにはこちらのほうが人気が高かったらしい。
 かくして、日本の少年の記憶に、ハリマオ(虎)というマレー語が記憶された。

 


アジア雑語林(129) 2005年11月30日

快傑ハリマオまでの戦後史
 ―1960年前後のテレビとアジア― (1)

 おもしろいだろうと思って買った本が、予想を大きく外れておもしろくなかった。せっかく買った本だから、もう少しつきあってやらないともったいないと思うものの、すぐに目は活字を離れ、頭は別なことを考え始めている。
 「テレビの初期とアジア」というテーマが頭に浮かんだ。あれこれと、関係がありそうな番組を考えた。日本でテレビ放送が始まるのは1953年で、もちろんその当時のテレビ番組を私は見ていない。「もちろん」と書いた意味は、若者はわからないだろうが、中高年なら当然わかる。貧しかったからだ。我が家は貧しかったにもかかわらず、1959年には世間並みにテレビを買っていた。父親もまた世の流れに乗って、皇太子の結婚パレードをテレビ中継で見たいと思って相当無理して買ったのかどうか、いまとなってはわからない。野球にも興味のない父は、晩年になるまで、テレビを熱心に見るという人ではなかった。プロレスがちょっと好きだったという程度だ。だから、テレビは自分のためではなく、家族サービスとしてきばったのか、あるいは「憧れのテレビを買う」という流行に乗ろうとしたのかまったくわからない。たぶん、家族サービスでテレビを買ったのだろうとと思う。というのは、テレビを買ったころ、父はすでに単身赴任の生活が始まっていて、自宅で自分がテレビを見る機会などほとんどなかったからだ。それともうひとつ、父は機械が大好きだから、「機械を買う」ということになると、ブレーキがかなり甘くなるということもある。
 テレビ購入のいきさつはどうであれ、1959年から自宅でテレビを見ている。この「自宅で」というのも、若年層にはよくわからない表現だろうが、このコラムを若年層は読んでいないだろうから、解説は加えない。 
 1952年生まれの男が、「テレビ番組とアジア」について思い出を探ってみた。今では海外取材など、場合によっては国内取材より安くすむこともあるが、昔は国内でさえ大変だった。ビデオの時代ではないから機材が多く、重く、しかも交通手段が限られていた。昔のことは覚えているというのが年寄りの特殊技能で、記憶の底のアジア関連番組をあれこれ考えてみると、関係がありそうな番組がふたつ思い浮かんだ。「NHK海外特派員報告」と「快傑ハリマオ」だ。
 「NHK海外特派員報告」は1964年から78年まで続いた番組だが、前身は60年に放送が始まった「NHK特派員だより」で、64年4月にタイトルが変わった。「快傑ハリマオ」(”怪傑”ではないのに注意! 間違っている表記が多数ある)の放送は、60年4月から61年6月までだ。「特派員だより」時代の記憶はないが、「特派員報告」時代は私の好きな番組だったものの、具体的にどういう番組を放送したのか記憶がない。
 ちなみに、海外旅行番組の「兼高かおる 世界飛び歩き」の放送開始は59年12月で、「兼高かおる世界の旅」とタイトルが変わったのが60年9月。番組名と年代が入り乱れてわかりにくいので、整理するとこうなる。
 「NHK特派員だより」
 「快傑ハリマオ」
 「兼高かおる世界の旅」
 この3番組が1960年に放送が始まったのである。いずれも、海外取材(あるいはロケ)した番組だ。
 さて、これは偶然か、あるいは故あることかという話は後回しにして、ハリマオ関連のはなしから始めよう。ハリマオの謎は、防空壕跡程度の穴かと思って調べ始めたら、巨大な鍾乳洞のような空間だった。 その話は、次回に。

 


アジア雑語林(128) 2005年11月18日

アジア関係出版物年表(1945〜1979)
あるいは
「青少年時代に、こんな本も読んでいた」

 戦後のアジア関係書を出版年別に並べてみると、なにが見えるだろうかと思い、年表を作ってみた。資料は大阪のアジア図書館の図書目録などいくつもあるが、まったく知らない本の名前を書き出してもおもしろくないので、自分が読んだことがある本を中心に、バランスも考えて未読の本も多少加えた。出版年と同時代に読み始めるのは、1963年の『アラビア遊牧民』(本多勝一)あたりからで、それ以前に出版されていた本は、のちに古本屋で買って読んだ。読んだ時期はいろいろで、56年の『マナスル登頂記』は60年代後半ころには読んでいるが、57年の『ロンドンー東京5万キロ』を読んだのは2002年ころだと思う。そのくらいの時間差はある。
 この手のリストはこれまで何度か作ったことがあるが、おもしろいことにリストに入れる本が見つからない年と、数が多すぎて選択に困る年がある。たとえば、1968年には、リストに入れたい本が多すぎてカットしたが、翌69年になるとリストに入れる適当な本がとても少ない。全体的に言えば、70年以前の本はできるだけリストに入れ、70年以降の本は大幅に省略している。「あれが、あった。これも入れようか」と考えると収集がつかなくなるので、適当に選択した。
 この年表を見ると、情報を伝える側が戦争体験者から学術探検者になり、そして新聞やテレビのマスコミ人になり、70年代末に山口文憲というただの個人になるという変化がよくわかる。つまり、戦後の日本人とアジアの関係がよく見えてくるのである。こういうことは、とっくに想像がついていたことではあるが、実証的に調べてみようと思ったのである。
 付録として、サンケイ新聞社の「誰も書かなかった○○」シリーズのリストを書き出した。このシリーズは最初の『誰も書かなかったソ連』が大宅賞を受賞したことでシリーズ化を決めたのだろうと思う。というのも、『ソ連』はハードカバーで出たが、このあとはソフトカバーに変わっている。取り上げる国によって、内容のレベルにかなり差があるのが問題だが、ここではレベルには触れない。アジアの本に関して言えば、この当時、「アジアはどうあるべきか」や「日本人はアジアをどうとらえるべきか」といった「べき」の本が多いなかで、このシリーズは生活に近い部分の話題を扱った点に最大の功績があると思う。例えば、鈴木明の『台湾』では、路上を走る自動車から経済関係を考え、歌謡曲でテレサ・テンを紹介している。こういう話題をシリーズとして取り上げた本は、それから20年後のトラベルジャーナルの「アジアカルチャーガイド」シリーズまでない。つまり20年早かったのである。 
 なお、シリーズで発売された旅行ガイドブック(JTBやブルーガイドなど)と語学書は省略した。また、翻訳文学や学術書も数が多いので、このリストにはほとんど加えなかった。中国や北朝鮮の本がほとんど入っていないのは、この時代にはおもしろそうな本が見つからないからだ。

1948 ビルマの竪琴(竹山道雄)
1949 俘虜記(大岡昇平)
1950 潜行三千里(辻政信)
1952 野火(大岡昇平)
     バタアン死の行進(火野葦平)
1953 秘録大東亜戦史(富士書苑)
     アジアの目覚め(サンタ・ラマ・ラウ)
1956 モゴール族探検記(梅棹忠夫)
     マナスル登頂記(槙有恒編)
1957 ロンドンー東京五万キロ(辻豊・土崎一)
     インドで考えたこと(堀田善衛)
     カチン族の首かご(妹尾隆彦)
     コーラン(井筒俊彦)
1958 朝鮮(金達寿)
     イスラーム(蒲生礼一)
1959 メコン紀行(東南アジア稲作民族文化綜合調査団編)
     秘境ブータン(中尾佐助)

1960 敦煌(井上靖)
     蒼き狼(井上靖)
     鳥葬の国(川喜田二郎)
     スージー・ワォンの世界(リチャード・メイソン)
     世界紀行文学全集 14 南アジア(志賀直哉ほか監修)
1961 何でも見てやろう(小田実)
     写真集 東南アジア(丸山静雄)
     写真文集 中近東諸国(牟田口義郎)
     中近東を行く(NHK取材班)
     黄色い革命(大宅壮一)
1962 アラビアのロレンス(R.グレーヴス)
     東南アジアの自然をたずねて(NHK取材班)
     むくどり通信 東南アジア・中近東の旅(臼井吉見)
     東南アジア(丸山静雄)
     アーロン収容所(会田雄次)
     僕の東南アジア旅行(大山高明)
1963 インドで暮らす(石田保昭)
     トングー・ロード ビルマ賠償工事の5年間(伊藤博一) 
     アラビア遊牧民(本多勝一)
     朝鮮現代史(金三奎)
     胎動するアジア(NHK取材班)
     李朝残影(梶山季之) 
1964 香港(姫宮栄一)
     アジアの悲劇地帯(栃窪宏男)
     おんぼろ号の冒険(望月昇)
1965 南ベトナム戦争従軍記(岡村昭彦) 
     ベトナム戦記(開高健)
     アジアの十字路(NHK取材班)
     ユンボギの日記(イ・ユンボギ)   
1966 東南アジアの旅(石井出雄)
     現代世界ノンフィクション全集 全24巻(筑摩書房)
     西域探検紀行全集 全15巻(白水社)
     アリランの歌(ニム・ウェイルズ)
     栽培植物と農耕の起源(中尾佐助)
     インドネシア(増田与)
     アラビア遊牧民(本多勝一)
     カンボジア訓練旅行(鈴木治夫、大石利雄)
     ベイルート情報(松本清張) 
1967 ベトナム観光公社(筒井康隆)
1968 ラッフルズ伝(信夫清三郎、東洋文庫版)
     近代日本とアジア(大江志乃夫)
     香港(リチャード・ヒューズ)
     ボルネオの人と風土(海野一隆・林寿一)
     アジア文化探検(中尾佐助)
     戦場の村(本多勝一)
     ハノイで見たこと(松本清張)
     遠くて近い国トルコ(大島直政)
1969 砂漠の反乱(T.E.ローレンス)
     中近東・アジア教養旅行(紅山雪夫)
   
1970 アカシアの大連(清岡卓行)
     知られざるビルマ(大野徹)
     ハノイで考えたこと(スーザン・ソンタグ)
1971 東南アジア紀行(梅棹忠夫)
     南アジア旅日記(加藤秀俊)
     朝鮮人のなかの日本(呉林俊)
     泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集(沢田サタ)
     メコンの渇き(山本利雄)
     隣人たちの素顔(サンケイ新聞アジア取材班)
     東南アジアの少数民族(岩田慶治)
     イスラムの世界(大野盛雄)
     アフガニスタンの農村から(大野盛雄)
1972 サンダカン八番娼館(山崎朋子)
     アジア そこにいる僕ら(柴田俊治)
     タイ その生活と文化(星田晋五)
     北ベトナム(本多勝一)
     料理の起源(中尾佐助)
     タイ国の花嫁さん(江口法子)
     車椅子のインド旅行(細田道子)
1973 アジアの孤児(呉濁流)
     街道をゆく2 韓の国紀行(司馬遼太郎)
     ラダワン(島崎一幸)
     アジア留学生と日本(永井道雄、原芳男、田中宏)
     ユーラシア大陸思索行(色川大吉)
     象の白い脚(松本清張)
1974 韓国からの通信(T・K生)
     アジアを歩く(深井聰男)
     インド・ネパール旅の絵本(清水潔)
     大放浪(鈴木紀夫)
     アジアからの直言(鶴見良行編)
     東南アジア周遊紀行(きだみのる)
     バンコク秘密情報(村上吉男)
     シルクロード(並河萬里)
     私のなかの朝鮮人(本田靖春)
     特派員の目(週刊朝日編)
     タイ国王暗殺事件(レイン・クルガー)
     街道をゆく モンゴル紀行(司馬遼太郎)  
1975 パゴダの国へ(長澤和俊)
     サイゴンのいちばん長い日(近藤紘一)
     不帰(金芝河)
     ソウル実感録(田中明)
     南進の系譜(矢野暢)
     赤道の旅(庄野英二)
1976 からゆきさん(森崎和江)
     タイの僧院にて(青木保)
     シンガポールの日本人学校(日高博子)
     特派員の目・東南アジア編(斧泰彦)
     国際都市香港の昼と夜(近藤龍夫)
     新・亜細亜風説書(大野力)
     高砂族に捧げる(鈴木明)
     東南アジアから見た日本(三浦朱門)
     どくろ杯、ねむれ巴里(金子光晴、文庫)
1977 西ひがし(金子光晴、文庫)
     ベトナム解放(丸山静雄)
     東南アジア学への招待(矢野暢)
     スマトラの曠野から(落合秀男)
     ソウルの冬バンコクの夏(猪狩章)
     民族探検の旅 全8巻(梅棹忠夫監修)
     インドへ(横尾忠則)
     私たちのシルクロード(平山美和子)
     シルクロードの旅(陳舜臣)
     シルクロードの旅(深田久弥)
     黄金の三角地帯(竹田遼)
     中東への視覚(牟田口義郎)
     ソウルの華麗な憂鬱(崔仁浩)
     遥かなるラオス(久保田初枝)
     稲の道(渡部忠世)
1978 黄金の日々(城山三郎
     「北朝鮮」の人びと(小田実)
     恨の文化論(李御寧)
     マレー蘭印紀行(金子光晴、文庫)
     ソウル遊学記(長璋吉)
     キムチとお新香(金両基)
     地雷を踏んだらサヨウナラ(一之瀬泰造)
     カンボジアはどうなっているのか?(本多勝一)
     スンダ生活誌(村井吉敬)
     アジアを歩く(日本アジア・アフリカ作家会議編)
     再発見アジアを知る法(大野力)
     インド・ネパール旅カタログ<ライブ>(インド・ネパール精神世界の旅編)
     メナムの残照(トムヤンティ)
1979 香港 旅の雑学ノート(山口文憲)
     アジア人の自画像(室謙二)
     インド即興旅行(河野典生・山下洋輔)
     サイゴンから来た妻と娘(近藤紘一)
     さよなら・再見(黄春明)
     中国人の生活風景(内山完造)
     星降るインド(後藤亜紀)
     新世界事情(読売新聞外報部)
     サバ紀行(吉川公雄)
     日本の南洋史観(矢野暢)
     日系インドネシア人(栃窪宏男)
     タイ・密林の解放戦線(芝生瑞和)

  付録1 「誰も知らなかった○○」シリーズ(サンケイ新聞社)
1970 ソ連(鈴木俊子)
1974 台湾(鈴木明)、中国(包若望ほか)、韓国(佐藤早苗)アラブ(山口淑子)
1975 インド(高尾栄司)
1976 アメリカ(デビット・クン)
1977 北朝鮮(加瀬英明)、スウェーデン(武田龍夫)、続・台湾(鈴木明)、カナダ(松下哲雄)
1979 香港(三原淳雄)、タイ(大貫昇)
1980 アフガニスタン(松浪健四郎)、アラスカ(ジョン・クー、村田昭敏)、ブラジル(鈴木一郎)、ポーランド(R.トゥルーキー)、メキシコ(中村淳真)、バチカン(金山政英)
1981 リヒテンシュタイン(大石昭爾)
1982 オーストラリア(黒田春海)
1983 フィリピン(野々宮正樹)
1985 イタリア(町田亘)

  付録2 SASシリーズとアジア
ジュラール・ド・ヴィリエの「プリンス・マルコ」シリーズは、1970年代から80年代に外国に興味を持っていた日本人によく読まれた小説だ。映画では「若大将」と007のシリーズがあり、小説ではこのシリーズだ。多分、日本では創元推理文庫から51冊出版されているはずだが、そのなかからアジア関連のものだけを出版順に並べてみよう。
1979 イランCIA対マルコ
    日本連合赤軍の挑戦
    ヨルダン 国王の危機
    ケ小平の秘命
    イスタンブール潜水艦消失
1980 シンガポール 華僑の秘密
     クワイ河の黄金
     カンボジア式ルーレット
1981 サイゴン サンライズ作戦
     香港 三人の未亡人
     バグダッドの黒豹
     バリ島の狂気
     ラオス 黄金の三角地帯
1982 ベイルートの連続殺人
     セイロン 舎利塔の秘宝
     イスラエル 嘆きの壁の女
1983 アブダビ王宮の陰謀

 


アジア雑語林(127) 2005年11月9日

またまた、ネット書店

 あいも変わらず、ネット書店巡りをしている。
 ある本を読んでいて、おもしろそうな本が紹介してあったり、参考文献リストに興味深い本が見つかると、コンピューターの電源を入れる。調べてみたくなるじゃないですか。
 最近出た本なら、まずアマゾンでチェックする。これで、出版社や定価がわかる。しかし、すぐさま買うほどウブではない。アマゾンでは、本によって内容の紹介がないものもあるから、その出版社のホームページを覗いたり、インターネットで書評を検索したりして、買うかどうか検討する。
 古い本で、すでに絶版になっているだろうと思われる場合や、安く買いたいと思うときは、ネット古書店を利用する。アマゾンの古書コーナー「マーケットプレース」は比較的新しい本しかないから、古書捜査の優先順位は、「楽天フリマ古書店街」(旧称EasySeek 古書店街)が第一位だ。探している本が学術書に近いものなら、「日本の古書店」から覗くこともある。「スーパー源氏」も一応「お気に入り」には入っているが、欲しい本が見つかったことは一度もなく、したがって一冊も買ったことがない。私の好みと「スーパー源氏」は相性が悪い。「好み」というのは本の好みだけでなく、「スーパー源氏」のトップページのデザインも、「おもしろい本が見つかりそうだ」という気などとてもしない。
 以上の捜査でも見つからないときは、拡大捜査となって、googleで探す。
 「楽天フリマ古書店街」が好きなのは、広いジャンルで検索すると知らない本が引っかかるからだ。よく使うのは「地理・旅行ガイド」のコーナーで、約1万6000冊の古書がリストに載っている。全点チェックするときもあるが、面倒だと思うときは「東南アジア」や「アフリカ」などをキーワードにして絞り込む。
 先日買った3冊もそうやって買った。
 『王は闇に眠る』上下(フランシーヌ・マシューズ著、中井京子訳、新潮文庫、2003年)は、いわゆる「ジム・トンプソン物」だが、そんなことはこの古本屋サイトをチェックするまで知らなかった。タイの戦後史を扱ったミステリーなのに、どうやらチェックもれだった。
 さっそく読んでみたが、まあ、読まなくてもよかった本だ。著者はCIA職員からジャーナリストになり、現在作家ということなのだが、話がヘタな作家だから読み続けるのに苦労した。
 この手の小説には、原文に出てくるローマ字タイ語に訳者は苦労して、変なカタカナ・タイ語になりがちだが、そういう個所はない。タイ関係の資料をネットで読んでいたら、この本の訳者は慶応大学のタイ語講座に通ったことがあるとわかった。なるほど。しかし、原文のおかしいところは勝手に直すわけにもいかないので、ジクジたる思いだったろうか。たとえば、戦後まもなくのバンコクにトゥクトゥク(三輪自動車)が走っているという描写があるが、これは明らかに間違い。1950年代末以降でないとおかしい。
 楽屋話をすると、この小説がおもしろかったら、その話だけで雑語林一回分の原稿になるぞと期待していたのだが、残念。
 さて、2冊目は『東アジアと東南アジアの船』(柴田恵司、長崎労働金庫発行、長崎労金サービス発売、1998年)。岩波ブックレットというのがあるが、あれと同じサイズの「ろうきんブックレット」の一冊で、これが第6冊になる。定価は476円で市販していたようだが、現在では入手不可。こういう本は東京の書店では見つからないから、ネット書店が大活躍する。販売しているのは、長崎の大正堂書店という古書店。この書店のリストを見ると、長崎学関連はもちろん、植物や食生活や芸能など非小説世界が広がっていて、私にとっては「入るな、危険!!」という書店である。うっかり手を出すと、たちまち注文しそうだからアブナイのである。
 さて、入手した『東アジアと東南アジアの船』はおもしろかった。有明海などで有名な潟スキーが東南アジアにあるとは知らなかった。絶滅したようだが、かつてはヨーロッパにもあったという。おもしろい本だが、なにせ、100ページ足らずのブックレットだから、おもしろさを充分に堪能できない。豪華客船などには興味はないが、木造船、とくにアウトリガーの小舟のことは知りたい。そこで、この著者が書いた本を検索してみたら東南アジアの船について書いた本が見つかった。しかし、安くても12000円だから、「う〜む」と考えてしまったのだ。まあ、図書館で借りる本だな。
 3冊目は『むくどり通信 東南アジア・中近東の旅』(臼井吉見、筑摩書房、1962年)。カッパブックスの全盛時代に筑摩も「グリーンベルト・シリーズ」という新書を出していた。私が中学生時代に買った『アフリカ大陸』(今西錦司)もこのシリーズの1冊だった。
 昔の旅行記を読むときにいつも気になるのは、旅の背後になにがあるかだ。海外旅行が自由化されていない1962年に、アジアからヨーロッパに2カ月の旅をしている。手続き上、お上の許可が必要だし、金銭的にもスポンサーが必要だ。「背後の組織」は「あとがき」でわかった。アジア財団という組織だ。聞いたことがありそうな、なさそうな組織なので調べてみると、アメリカのアジア対策組織で現在もある。一応民間団体ということになっているが、ホントのところはどうなんだか? 
 金ズルがそういう組織なら、反共宣伝本かと思ったがそうでもない。この本は旅行記ではあるが、いかにも「60年代のアジア本」という枠どおりの本で、つまりあまりに政治的なのだ。国共内戦、冷戦、ベトナム戦争といった政治の時代であることはわかる。2カ月間に24カ国を訪れるというあわただしい旅にもかかわらず、著者はジャーナリストたちに会って、よく勉強している。しかし、おもしろくない。この、おもしろくない感じが、なんだかなつかしい。そうなんだよな、60年代から70年代のアジアの本って、こういう感じで、まじめなんだけど、だからおもしろくなかったんだよな。
 そういうことを思い出すという効用はあったが、新発見はない。
 以上、送料も含めて2000円ほどのお遊び報告でした。

 


アジア雑語林(126) 2005年11月2日

頭(ず)が高い

 韓国のテレビドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」を見ていて気になるのは、頭(ず)が高いということだ。
 王が食事をしていると、役人たちはその前で立ったまま見守っている。食事のときだけではなく、会議の場でも、一部の高官だけが王のそばに座り、ほかの役人は立ったままひかえている。
 日本の常識で言えば、殿の前で立ったまま何かを言ったりすることなど許されない。何も発言しなくても、殿の前でボーッと突っ立っているだけでも許されないはずで、「頭が高い! 控え居ろう!」となるはずだ。だからこそ、水戸黄門のラストシーンが成立するのだ。「チャングム」のあのシーンが、時代考証がきちんとされたものかどうか不明だ。何度もでてくるシーンなのだが、歴史的に正しいと考えていいのだろうか。
 日本や朝鮮のように床に座る習慣があるアジアの国では、「頭が高い」問題はさてどうだろうか。私がわかるタイの例ではこうだ。高位の者の近くで、その人の頭より高い位置に自分の頭がくることは失礼にあたる。高位の者というのが、僧侶でもいいし客人でもいい。そういう人が床に腰を下ろしている場合、「その他大勢」の人たちが近くを歩く場合、頭を低くして歩くか、這うようにして通る。これは今でもそうで、僧侶の話を聞く者は身を低くしている。平身低頭である。日本人でも、人の前を通過するときは手刀を切って、「ちょっと失礼しますよ」というジェスチャーをしながら、頭を低くして歩くのと似たようなものだ。
 高位の人のそばでは、けっしてその人を見下す位置に立ってはいけないという習慣はタイだけではなく、その周辺の国々でも共通ではないかと思う。「頭が高い」のはいけない文化だ。
 ところが、おもしろいことに、高位の人が椅子に座っている場合なら、話は別だ。会社員が上司である部長に事業の経過を報告しているシーンを想像すると、椅子に座った部長の前で部下は立ったままだ。話が長くなる場合は、「まあ、座りたまえ」などと椅子を勧められることもあるだろうが、通常は立ったままだろう。私はサラリーマン経験がないから、こういうシーンはすべて映画やテレビドラマでの記憶だが、まあ、現実もこうだろうと思う。つまり、椅子の場合は、高位の人(上司)を見下してもいいということだ。
 「しかし、なあ」と、別の例も思いつく。やはりテレビドラマかドキュメント番組で見た記憶なのだが、ナイトクラブなどのシーンで、ボーイやホステスがソファーに座った客の脇で床にひざを突き、注文を聞いたり、注文された飲み物をテーブルにのせたりしている。客よりも「頭が高い」のは失礼だと考えているのだろう。仕事用や食事用の椅子くらい高ければ身を低くすることはないが、ソファーのように低い椅子だと「頭が高い」のは失礼になるということなのだろう。ソファーの高さが、西洋と東洋の境だ。
 やはり映画の記憶だが、中国の場合、玉座は初めから高い位置に作られているし、部下は床にひざをついて皇帝にしゃべっているというシーンがあったような気がする。
 というわけで、この問題を考えるには、「チャングム」のシーンが歴史的に正しいのかどうか考察するところから始めないといけない。時代考証といえば、「たぶん」という程度の自信しかないが、「チャングム」の時代(15世紀末から16世紀前半)には、朝鮮にはまだ料亭や飲み屋はなかったはずで、テレビドラマが歴史資料には適さないことは明らかで、だからこの「頭が高い」話もきちんと調べないと正解はわからない。

 


アジア雑語林(125) 2005年10月26日

愛人問題と言論の自由

 時間がたつのは早いもので、かの宇野総理辞任事件があったのが1989年だから、もう16年たったということになる。じつは、今、あの事件がいつだったか現代史年表で調べる前に、パソコンで検索してみた。試しに「愛人 指三本」をキーワードにすると、どんどん出てくる。今後30年たっても、「指三本総理」といえば、総理の名を思い出せなくても「ああ、あの首相ね」と高齢者は話題にすることだろう。
 あの指三本事件があってから何年も後のことだが、フィリピンに詳しいジャーナリストと雑談したことがある。政治家のスキャンダルの話から、あの指三本事件に話題が移ると、彼はこういった。
「フィリピンという国は、成熟した大人の社会だから、日本人のように愛人がどうしたこうしたといったレベルのことで、道徳的批判を展開したりはしないんだよ。愛人がいるかどうかというのは個人的なことにすぎず、それが問題だとすれば当事者間で解決すればいいことで、政治家だの評論家だのといった人物が、マスコミを通してしたり顔で批判するなんてことは、フィリピンでは考えられない」
 そうか。そういえば、フランスのミッテラン大統領には愛人とその子供がいて、天皇と皇后がフランスを訪問したときの公式レセプションにも愛人と子供も出席したという。考えてみれば、タイでも同じで、政財界やそのほかの社会的大物が公式の場に愛人とともに出席するというのは、まったく珍しくない。テレビ中継されても、気にしない。それをネタに、マスコミが大批判などしない。
 そういうことを考えてみると、この世界には、政財界などの大物に愛人がいるという事実が世間に知れて、スキャンダルになる国とならない国があるとわかる。スキャンダルになる国といえば、日本や韓国、アメリカもカナダもオーストラリアといった国の名が浮かぶ。スキャンダルにならない国といえば、いまあげたフランスやタイやフィリピン、想像だけで言うがラテンアメリカの国々が頭に浮かぶ。
 スキャンダルにならない国といっても、2種類ある。フランスやフィリピンのように国民が騒がないからスキャンダルにならないという国と、あらゆるスキャンダルを報道させない国がある。つまり、報道の自由のない国に、「愛人スキャンダル」はないのだ。あるとすれば、政敵を追い落とすために、相手方の愛人スキャンダルを御用新聞に報道させるということもあるかもしれないが、まあ、そういう国では、普通はスキャンダル報道などそもそもないのだろう。このグループに入る国といえば、北朝鮮、中国、ベトナム、シンガポール、スハルト時代のインドネシアなどの名が浮かぶ。政治思想がどうであれ、独裁政権では、権力者のスキャンダルは報道されない。

 というわけで、現代政治学の勉強として、世界の国を、
A 愛人問題がスキャンダルになる国(愛人が異性か同性かといった問題もあるが)
B スキャンダルにならない国
C スキャンダル報道をさせない国
 に分類してみると、きっとおもしろいことになる。愛人報道だけじゃない。世のさまざまな事柄をモノサシにして、世界を考えてみるとなかなかにおもしろいものだ。

 


アジア雑語林(124) 2005年10月18日

なかなか本が読めない理由

 ここ数年、本を読む速度が確実に落ちた。これには、ふたつの理由が考えられる。
 まずは、目の問題だ。目の体力とでもいおうか、あるいは目の持久力とでもいうか、長時間というほど長い時間でなくても、じっと活字を見つめているのがつらくなってきたのだ。もしかすると、メガネのせいかもしれない。
 今年の春くらいまでは、昔の文庫のような小さい活字で組んだ本や、薬のビンのラベルに印刷された極少の活字以外なら、いままで使ってきた近眼メガネでなんとか読めた。通常より小さな字を読むときは、メガネをはずして、紙を目の前に近づければ読めた。
 それが春を過ぎたあたりから、近眼鏡で本を読むのがつらくなり、「いよいよ、来たか」とすんなりとその運命を受け入れて、老眼鏡を作った。人間50を過ぎれば、老眼鏡が似合う歳だ。遠近両用ではなく、手元用だ。このメガネ、本の字はまことによく見えるのだが、20分もすると目が痛くなる。メガネをはずし、目薬をつけ、背伸びでもすると、「コーヒーをいれようか」ということになり、コーヒーを飲みながら本を読んでいると、目が痛くなるという具合で、落ち着いて読書が続けられないのだ。本を読む速度はここ数年落ちていたのだが、老眼鏡のせいで、ここ数カ月でまたいちだんと落ちてしまった。目が弱ると、忍耐力もなくなるというようなことを小林信彦が書いていたような気がするが、まあ、たしかにそうだろう。
 私はまったく問題ないが、もしぎっくり腰かなにかで腰を痛めていたら、じっと座って本を読んでいるという姿勢も、けっして楽ではないかもしれない。じっとしていても、体のどこかが痛いとか違和感があるということなら、神経を集中して読書するというのはつらいものだろう。歳をとると、他人の体調を思いやることができる。
 本を読む速度が落ちた理由で、目の問題以上に影響力が強いと思われるのは、コンピューターである。友人知人の多くは、ネット上のさまざまなページ、団体のものでも個人のサイトでも、時事問題でも映画評でもなんでも、読み始めると毎日数時間がたってしまうというのだが、私の場合はちょっとちがう。
 例えば、さっきまで『ベトナム短編小説集2』(加藤栄編訳、大同生命国際文化交流基金、2005年)を読んでいたのだが、ある小説の中に「ナギナタコウジュ」という香草が登場する。これがどんな植物であっても、小説の内容とはまったく関係ないから訳注をつけなかったのだろうが、私は詳しく知りたい。そこで、まずインターネットで検索し、学名を調べ、手元の各種植物事典で調べるのだ。食用植物の資料はある程度そろっているから、学名がわかればあとはなんとかなる。
 あるいは、『韓国温泉物語』(竹国友康、岩波書店、2005年)を読んでいたら、かつてこの雑語林でも書いた入浴と羞恥心と民族といったテーマの参考書として、『裸体とはじらいの文化史』(ハンス・ペーター・デュル著、藤代幸一・三谷尚子訳、法政大学出版局、1990年)が紹介してあり、欲しくなったので、すぐさまネット書店に当たってみたのである。
 また、あるいは、おもしろい本に出会ったが、著者についてまるで知らないので、インターネットで経歴などを調べてみたり、本の内容で気になる部分があると、頼まれもしないのに校閲したくなったりという性癖のせいで、いっこうに読書が進まないのである。ホント、校閲というのはしっかりやると時間がかかる。まあ、知りたがり屋なんだからしかたがない。幼少のみぎりより、「なんで、どうして」を連発するガキだったのだから、いまさらどうしようもない。だからこういう性癖を後悔はしていないのだが、ただ、残念なのは、せっかく調べたことをほとんど覚えていないことだ。私の脳は、記憶容量が小さい上に保存能力が弱いため、多くを覚えていられないのだ。
 ものはついでだ。インターネットと「覚えていない話」をひとつ、おまけに。
 食べ物の本を読んでいたら、食べ物とはまったく関係ないというのに、もう20年以上前に何度かいっしょに仕事をしたことがあるライターのことをふと思い出し、彼が「いつか書きたい」と言っていた単行本をもう書いたのだろうかとちょっと気になって、コンピューターのスイッチを入れた。その日まで、彼の名前は新聞の書籍広告などで目にしたことはない。私は雑誌をほとんど読まないので、雑誌で大活躍している書き手をまったく知らないということはよくあることだ。彼は雑誌の世界でまだ仕事をしているのだろうか。
 さて、コンピューターで検索しようとしたが、手が動かない。キーボードを打てないのはコンピューターの問題でも手の問題でもない。検索すべき彼の名前をまったく思い出せないのだ。おいおい、だ。まったく、しょうがない。彼の名が「田中」や「佐藤」なら検索はあきらめるのだが、その苗字と同じ駅名が北陸だったか、あのあたりにあったあまりありふれていない名前だったことを思い出し、「えきなび」の路線図をざーっと見て行き、記憶力の復活を刺激する。しばらくそういう作業をやって、「ああ、これか。これだったな」やっと思い出し、晴れてグーグルやアマゾンに戻れたのである。

 


アジア雑語林(123) 2005年10月11日

編集者の喜び

 神田の東京堂だった。嵐山光三郎の『古本買い 十八番勝負』を見つけて、すぐ買おうとは思った。だが、新書はウチの近所の小さい書店で買ってやろうと思ってあとまわしにした。
 帰路、その近所の書店に寄ったのだが見つからない。版元を確認しなかったが、あの表紙の感じなら、集英社新書か光文社新書のはずだがと思って探したが、見つからない。そんなわけで、数日後に大書店で買うことになってしまった。
 この新書は、嵐山とその友人たちが、東京の古本屋を巡って、こんな本を買ったと語り合う巡礼記のようなものだが、地図付きで実用ガイドにもなっている。
 嵐山は、「はじめに」で、古本屋の今昔について語り、インターネットの古本屋が登場して、値段が均一化してしまってつまらんと書いている。現実の古本屋巡りのほうが楽しいという点では同意するが、「値段の均一化」というのは実情を知らない人の発言だ。
 ネット古書店巡りをちょっとやっていれば、「定価1円」という価格があることにすぐ気がつくだろうし、3年前に出た新書に「4500円」の値段がついているのは、あきらかに桁の打ち間違いだろう。30年前に出た本に、900円の値もあれば3800円もある。ネット書店には素人が参入しているから、「相場」の感覚がくずれているのだ。
 まあ、そんなことはどうでもいい。嵐山がネット古書店巡りに熱心ではないというだけのことだ。この新書に登場する数百冊の本のなかで、私が持っているのは3冊だけ。読んだことがあるのもその3冊だけだから、私にとっては無縁の本が次から次へと紹介されるだけの本だ。それでもおもしろく読んだのは、古本屋巡礼者が嵐山を含めて元あるいは現役の編集者たちで、そういう目で本を見ている描写がなかなかいい。
 嵐山は元「太陽」の編集者だったから、自分が関わった本に再会することも多い。旧知の作家の本に出会い、懐かしくなるという描写もいい。還暦を越えた作家は、懐かしがることにテレがなくていい。澁澤とは海外取材に一緒に行った、壇とは・・・という思い出話がけっして自慢話ではなく、軽くさらりと、ほんの数行だけ出てくる。それがまたいい。
 古本屋で、腹を立てると同時に悲しくなるのは、作家の生原稿が売りに出されている光景だと、嵐山は書いている。生原稿は、作家本人か家族が売らない限り、編集者が勝手に売り払ったからだ。元編集者として、そういうだらしのない編集者は許せないのだろう。嵐山は「いただいた原稿はすべて返却した」と書いている。
 そういえば、坪内祐三は、文藝評論家が編集者時代に扱ったマンガの原稿を返却せずに古本屋に売って、かなりのカネを稼いだと実名をあげて雑誌に批判記事を書いていた。それは、その評論家が死んでまもなくのことで、通常なら追悼特集になる時期なので、驚いたことがある。
 嵐山のこの新書を読んでいて、1970年代までは編集者が幸せだった時代だと思った。70年代というのは、電子メールはもちろん、まだファクスもない時代だ。作家が書いた原稿は、作家が郵送するか、編集者が受け取りに行くという時代だった。編集者は月に一回か週に一回、作家と顔を合わせ、世間話をしたり、次の企画を話したりという時間を持った。売れない作家の場合は、編集部に原稿を持参することになるが、そうなれば、貧乏作家に「飯か酒」をごちそうするというつきあいもあった。
 私は編集者をやったことはないが、編集者の友人が大忙しのときに、代理で原稿の受け取りに行ったことはある。1980年前後のころで、まだはっきりと覚えているのは、虫明亜呂無や田村隆一の家に行ったことがある。虫明は原稿を受け取っただけだが、田村は「まあ、飲んでいきなさい」と酒を出され、インドのことなどいろいろな話をした。
 「そういえば・・・・」と考えれば、まだ何人かの名前が浮かぶ。担当編集者ではなく、ただのお使いにすぎないので、話を合わせるのが大変だったが、貴重な体験だった。私は自分勝手だから編集者には向いていないが、ちょっと編集者がうらやましくなった。

 


アジア雑語林(122) 2005年10月3日

アフリカと白石さん

 2005年7月1日の新聞に、知り合いの死亡記事が出ていた。アフリカの映画や音楽などを日本に紹介してきた白石顕二さんが、6月22日午前11時20分に急性心筋梗塞で武蔵野市の病院でなくなったという記事だった。59歳、やりたいことがまだまだあったにちがいない。
 白石さんとはもう十数年会っていないが、かつてはちょくちょく会って遊んでいた。
 初めて会ったのは、恵比寿のピガピガだったと思う。ドラマーの石川晶さんのアフリカ音楽バーだった。その店の経営は、もしかするとご子息だったかもしれないが、詳しいことは知らない。とにかく、1980年代の前半、多分83年だったと思う。この年、私は『東アフリカ』というガイドブックを出したばかりで、頭も体もアフリカに染まっていた。
 本を書くためのアフリカ情報の収集には、アフリカ旅行の専門旅行社「道祖神」がおおいに助けてくれたのだが、恵比寿のその店を紹介してくれたのも、もしかすると道祖神のスタッフだったかもしれない。もう20年以上前のことなので、あまり覚えていないのだが、その夜は、たぶんピガピガの開店パーティーだったのではないかと思う。
 東アフリカのバンド演奏があるパーティーで、白石さんと会った。道祖神のスタッフが、店内で踊っている大柄の男を「『ザンジバルの娘子軍』を書いた白石さんです」と教えてくれたのではないかと思うのだが、これまた記憶がはっきりしない。はっきりと覚えているのは、その数年間、つまりアフリカ旅行の前後数年間に、アフリカ関係書を集中的に読んでいて、名作と呼んでいい作品に何冊か出会っていて、その一冊が『ザンジバルの娘子軍』だったということだ。ほかに、 『アフリカ33景』(伊藤正孝)や『海のラクダ』(門田修)などがそのころ読んだ名作リストとして頭にあった。西江雅之の『花のある遠景』などは70年代にすでに読んでいたから、このリストには入っていない。
 「あの白石さん」が目の前にいると知って、声をかけた。「東アフリカのガイドを出したばかりの前川です」と自己紹介すると、「ああ、あの本ね」と言った。本のことは知っているらしかった。
 そういえば、白石さんと話す前に石川晶さんとしばらく話をしていた。簡単なアフリカのリズム講座をしてもらったのだ。石川晶といえば、60年代からの代表的ドラマーであり、憧れの人だった。やさしさにあふれた人だった。アフリカ音楽のコンサート会場でもしばしばお会いし、ロビーで雑談したことがある。その石川さんがケニアに移住したと知ったのは、NHKBSの番組だった。ウガンダの音楽を特集した番組で、平和になったウガンダをテレビで見た。それから間もなくして、石川さんはケニアで亡くなったそうだ。
 ピガピガでの出会い以来、白石さんには何度も会った。電話などで約束して会ったこともあるはずだが、それよりもアフリカの催し物会場で出会い、その夜に飲みに行き、次の催し物の案内を知るといったことの繰りかえしが多かったように思う。
 ある時、水道橋あたりで、アフリカ音楽講座があった。講師は音楽評論家の中村とうようさんだった。会場には当然白石さんもいて、会が終わってから、飲みにいった。私は酒を飲まないが、そんなことはどうでもいい。白石さんと話しているのが楽しかった。後楽園球場近くの飲み屋だった。
 「前川さん、ある会で、ちょっと話をしてもらいたいんだけどな。謝礼はないんだけど。アフリカに興味を持っている連中の集まりがあって、そこで」
 ビールをガブガブ飲みながら、白石さんが言った。
「話をするというのはいいんですが、東アフリカを旅したことがあって、アフリカの本を数十冊読んだことがあるというだけの男ですよ。なにか、まとまった話なんかとてもできませんよ」
「いや、それでいいんだよ。連中はアフリカに興味はあっても、たいした知識はないし、前川さんみたいな旅はしていない。だから、旅の話をしてくれればいいんだよ」
 それからひと月くらいたって、私は銀座の古いビルでナイロビの話をした。10人くらいが事務所の会議室にいた。話し始めてすぐにわかった。白石さんにだまされたのだ。「私、チーターが大好きなの」とか「いつか、アフリカの大地に立ってみたいんですよ」といった、いわばアフリカファンクラブのパーティーといったようなものではなく、アフリカ研究会の勉強会といった雰囲気だった。専門家のなかの、ただひとりの素人が私だから、穴があったら隠れたいほど恥ずかしかったが、穴はなかった。。会の終わりころになって知ったのだが、世話役兼進行係が、アフリカ特派員を終えて帰国したばかりの伊藤正孝氏だから、会のレベルが低いはずはない。素人の旅行体験を発表するような場ではない。
 「白石さん、ひどいじゃないですか」
 会が終わって、ちょっと文句をいってみたが、白石さんは笑っていた。私も笑っていた。不本意な状況ではあっても、伊藤正孝さんに会って話ができたのだから、まあ、いいとしよう。
 白石さんが、なぜ私のような素人を勉強会に登場させたのか、その真意はわからないが、想像することはできる。たぶん、大学の学問のネタとしてアフリカを利用することを嫌っていたのではないか。西洋の学者が発表した論文をもとに、「アフリカはどうあるべきか」などと論じるような会を嫌っていたのではないか。
 1980年代の後半になると、私の興味はアフリカから東南アジアに移っていた。アフリカへの興味を失ったわけではない。東だけでなく西アフリカにだって行ってみたい。音楽的には、西アフリカのほうがずっとおもしろそうだ。しかし、アフリカにはなかなか行けない。航空運賃が高く、アフリカを知らない人には理解しにくいかもしれないが、物価は東南アジアよりもずっと高いのである。アフリカに行きたいがカネがなかった。
 東南アジアをフィールドに決めた理由はカネ以外にもある。アフリカに比べて、東南アジアには「書きたい」と思うネタがいくらでもあり、資料も多かったからだ。旅行者としては、アフリカと東南アジアに興味の差はないが、ライターということになれば、やはり東南アジアのほうを選ぶ。
 バンコクで定住生活を始めた私と白石さんとの交流は文通ということになった。バンコクの私の部屋に、白石さんの手によるアフリカ映画の資料が送られてきたこともあった。そういう気遣いをありがたいとは思うものの、文字通り別世界のものに感じられ、そのうちに文通することもなくなった。
 ちょっと前に、家族でタイ料理を食べたときに、「辛いよー」と泣き出した小学生の息子が、いつの間にかオヤジである白石さんと肩を並べ「タバコ、煙いよ」と文句を言っている高校生になっているという光景が、白石さんと会った最後だった。80年代の末か90年代の初めあたりだろう。
 2005年7月1日の新聞で、久しぶりに「白石顕二」という名に出会った。その日の昼、私は退院して、自宅でその新聞を読んだ。白石さんが病院にいたとき、私もまた同じ急性心筋梗塞で入院していたのだ。白石さんはなくなり、私は無事退院して、白石さんの死亡記事を読んでいた。白石さんは忙しすぎて、私は暇だったというのが、運命の分かれ目かもしれない。

 


アジア雑語林(121) 2005年9月24日

「青春とはなんだ」とミッキー安川

 最近になって、昔の日本映画をよく見るようになった。戦後の海外旅行事情を調べる一環として、当時の社会風俗を生で知りたいと思ったからだ。「生」といっても、正確にいえば、「フィルムに保存された時代」という意味だ。
 例えば、1960年公開のある映画のなかで、外国や外国文化や海外旅行がどう扱われているといったことが知りたかったのだ。主人公がアメリカに行くことになったという設定だとする。当時は今と違って、観光旅行というのは制度上許されないことだから、主人公が外国に行くことができるとすれば、主人公は船員か業務渡航か、あるいは主人公の男は日本人のようだがじつは日本人ではなく日系アメリカ人だったといった仕掛けを用意しておかなければいけない。その仕掛けが知りたいし、もし海外ロケをしているなら、どういう景色を撮影しているかなどといった種々雑多なことを知りたい。
 そんなわけで、その映画そのものがおもしろいかどうかなど、どうでもいいことで、とにかく数多く見た。この成果の一部は『異国憧憬』(JTB)に発表したのだが、昔の映画を見る楽しみはまだ続いている。高いビデオやDVDを買ってまでは見ないが、テレビで放送しているとついつい見てしまう。
 1950年代から70年代前半あたりに公開された日本映画を見ていると、「60年の銀座って、こんな風景だったんだなあ」とか、「65年はまだまだ蒸気機関車が走っていたんだなあ」などということに感心するのだ。あるいは、ラーメンの値段に、「あ、そうだたっけね」と思い、サラリーマンが服を脱ぐと、ステテコにランニングシャツ姿だったりと、これまた「ああ、そうだった」と懐かしくなるのである。これなど、はっきりと記憶に残る「ああ、そうだった」なのだが、都電が走る銀座となると、実際に見ているはずなのに記憶に残っていない光景もある。忘れてしまった光景と、記憶にも残っていない光景だ。映画は、現代史の生活資料も見せてくれる。
 さきほど、石原裕次郎の「青春とはなんだ」(1965年)を見た。いわゆる学園ドラマというのは私がもっとも嫌いなジャンルなのだが、そういう好き嫌いよりも、1965年の日本が見たくなったことともうひとつ理由があって、ついついテレビの前に寝転んでしまったのである。
 この映画の原作は、1965年に出版された『青春とはなんだ』(石原慎太郎、講談社)だ。原作の映画化というより、おそらくはそもそも映画用に書いた小説だろうという気がするのだが、そのあたりの事情は知らない。
 「青春とはなんだ」といえば、夏木陽介主演のテレビドラマを思い浮かべる人の方が多いだろうが、テレビ版の放送は1965年10月から。映画の公開は同年7月だから、小説発売、映画化、テレビ化すべてが計画されたメディア・ミックスなのだろう。
 私がこの種の昔の映画を見るようになったきっかけは、海外旅行事情全般への関心によるものだという話をすでにした。1965年の日本を見たいという理由とは別に、学園ドラマという不愉快極まりない映画を見ようと思ったもうひとつの理由は、主人公の設定である。若き新任高校教師は、高校卒業後アメリカに渡り、苦学のすえ10年後に帰国した英語教師という設定になっている。映画ではこの男が過ごした10年間のアメリカ体験をどう描くのか、これが私が知りたいことだった。
 それで、私は発見した。少なくとも、インターネット上では、新発見らしい。
 主人公の教師は、もちろん石原裕次郎だ。映画は猪苗代駅のホームから始まる。この地に着任したアメリカ帰りの英語教師である。彼は蒸気機関車のススで汚れた体をホームの水道で洗う。シャツを脱ぐと、背中に大きな傷痕がある。映画の後半で、この傷痕がアメリカ時代のものだという話が出てくる。
 女の子を巡って白人の学生とケンカになり、背中を刺される。その原因にはアメリカ人の日本人蔑視があり、その日本人大学生(つまり主人公の青年)は、刺した男を寮の3階から下に投げた。
 この話、よく知っている。『ふうらい坊留学記』(安川実、のちにミッキー安川名義に、カッパブックス)に出てくるエピソードそのままである。この本の出版は、1960年。カッパブックス全盛期のベストセラーだ。出版から数年後にこの本を読んだ私は、3階から人を投げ飛ばすエピソードに違和感をもっていた。だから、『青春とはなんだ』を見ていて思い出したのだ。
 安川は高校卒業後の1952年にアメリカに渡り、働きながら大学に通った。4年後に帰国した安川は英語教師ではなく芸人になったが、『青春とはなんだ』のアメリカ帰りの英語教師は、『ふうらい坊留学記』にヒントを得ているのは明らかだ。
 石原裕次郎の時代は私よりも前の時代だが、加山雄三や「寅さん」は私と同時代で、同時代にはまるで興味のない映画だったが、映画に別の楽しみを発見して、この種の映画も楽しめるようになった。

 


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