前川健一 著作一覧

アジア雑語林(11)〜(20)

 


アジア雑語林(20) 2003年4月17日

文化入浴学試論 2

 中国の銭湯映画とは、「こころの湯」という作品である。1999年の作品で、テレビ番組「大地の子」に出演した朱旭の主演ということで、日本でもそこそこ話題になった。映画そのものの紹介はしないが、北京の銭湯がどうなっているのか映像でわかるのがありがたい。浴室中央に日本の銭湯と同じような広い浴槽がある。日本なら壁に水道の蛇口があって、そこが洗い場になるのだが、映画に登場する銭湯では壁にシャワーがついている。体はシャワーで洗うということだ。マッサージを受けることができるという点を除くと、客がお茶を飲んでくつろいだり、新聞を読んだり、ゲームをしたりというあたりは、落語に出てくる昔の銭湯に似ている。映画では地元の老人たちの憩いの場という感じだ。その雰囲気は、風呂という要素を別にすれば、老人たちが水パイプでタバコを吸っているアラブの喫茶店にも似ている。
 北京に銭湯があることはわかった。しかし、女湯もあるのかどうか気にかけながら映画を見ていたが、どうやらないようだ。銭湯は男だけの世界らしく、その点でもアラブ地域の喫茶店に似ている。
 この映画を見終わって間もない頃、古本屋で『北京の銭湯で』(小宮山猛、朝日新聞社、1989年)という本を見つけた。読んで見ると、北京の話は少なく、銭湯の話はもっと少ない。看板に偽りありという本ではあるが、北京の銭湯について書いた部分を引用してみよう。
「中国語で銭湯のことを『男女浴池』という。といっても、いま日本で人気の『混浴』という意味ではない。手拭いと石鹸を用意して、『浴池』に行くと、日本の映画館の切符売り場のような入り口があり、そこで料金を払う。個人と大風呂に分かれているが、私はいつも大風呂の方だった。(以下略)」
 この文章からすると、銭湯には男女それぞれの浴室があるのかもしれないと思わせるのだが、どうもはっきりしない。『北京の銭湯で』という本でありながら、その銭湯についてほとんど書いていないのだから、銭湯の実体はわからない。
 最近出版された『ニッポンは面白いか』(選書メチエ編集部編、講談社、2002年)は、日本をよく知る外国人の日本評を集めたエッセイ集だ。そのなかに「シャワーとお風呂のあいだ」(王勇)というエッセイがおさめられている。日本人と中国人の入浴観の違いについて書いたこの文章で、中国人の入浴事情が少しわかる。ポイントは2点。当然ながら、広大な中国では地域による差が多く、入浴事情も地域によって違うということ。もう一点は、古くから中国人はあまり入浴する習慣はなかったようで(もちろん日本人と比べてという意味だが、多くの日本人が毎日のように入浴するようになったのはつい最近のことだと思う)、その習慣は今でもあまり変わらない。王は杭州の例を次のように書いている。「(大学教授用の新築アパートの)ほとんどの入居者が、浴室に備えつけられていた湯船を取りはずしてシャワーだけにし、空いたスペースに洗濯機などを置」いていたそうだ。
 アジアの高級アパートも、西洋のものをそのままマネをして、浴室に浴槽も備えているが、浴槽としてはどうもあまり使っていないらしい。
 ヨーロッパで見た半畳ほどの小さな浴槽のようなものも気になっている。あれはたんなるシャワー台なのか、それとも腰湯程度には使うものなのか、知りたいことはいくらでもある。日本人のブラジル移民は、成功して屋敷を構えられるようになったら、自宅に日本式の風呂を作りたがるのだという話をテレビで見た。こういう話も含めて、文化入浴学というのも、なかなかにおもしろそうな研究分野である。


アジア雑語林(19) 2003年4月3日

文化入浴学 1

 中国の公衆便所の報告というのは数多くあるけれど、風呂の話はよくわからない。私は中国には行ったことがないし、中国の文化にとくに興味を持っているというわけでもないので、資料を積極的に読むこともしていない。ただし、どこに住んでいようと人間の生活には興味があるから、衣食住といった基本的な生活習慣について知りたいことはいくらでもある。
 誰が言ったのかまるで覚えていないのだ、日本に来た中国人が困ることのひとつは銭湯だという。人前で裸になる習慣がないので、銭湯が苦手なのだという。タイ人も同じことを言うが、人前で裸になるのが日本人だけというわけではない。
 日本以外のアジアで、銭湯といってすぐ思い浮かぶのは、韓国とトルコだ。韓国では、伝統的には夏は水浴び、冬は湯を浴びる程度だったらしい。だから、いまでもシャワーを浴びるだけというのが一般的らしい。近代的なマンションには浴室に浴槽も付いているが、湯をためて入浴することはあまりないという。しかし、日本統治の影響だろうが、銭湯はあるし、温泉の浴槽も日本とよく似たものらしい。
 アジア以外にも、公衆浴場はある。アムステルダムの地図を見ていたら、「PUBLIC BATH」という文字があって、探して歩いたのだが見つからなかった。タンザニアのザンジバルの地図にもこの文字があって、探したのだがやはり見つからなかった。銭湯マニアというのではなく、珍しいものを見たいのである。ロンドンの銭湯は、映画で見た。イギリス映画に銭湯が重要な場所となる作品がある。テレビで見たので、タイトルなど詳しいメモはしなかった。イギリスの銭湯は、ホテルの内部のように廊下の両側に小部屋がいくつも並んでいて、そこにバスタブが置いてあるという形式で、台湾の温泉も従来これと同じ形式だった。水着を着て入る台湾の露天風呂は、日本のものを真似て登場した最近のものではないだろうか。ただし、日本統治時代に台湾人は日本人と同じように入浴したのかしなかったのかは、調べてみないとわからない。そういえば、英語のBATHの語源になっているイギリスのバース(BATH)という温泉地に行き、昔の浴場を見学したことがあったと、今思い出したが、これはまた別の話。
 香港にも銭湯があり、行ったことがある。「上海池」という名称だったか、これまた記憶がはっきりしない。トルコの公衆浴場にちょっと似ていて、客はまず個室に入って服を脱ぐ。浴室というのは、大きな冷水のプールがあって、その回りにガラス張りのサウナがいくつかあった。サウナで充分汗をかいたら、冷水槽に入る。体は「三助」が洗ってくれるのもトルコの蒸し風呂と同じだ(もちろん有料)。そのあと、個室で爪を切ったり、マッサージを受けたりもできるが、係員はすべて男である。私がまだ駆け出しのライターだったころ、香港取材をいっしょにやったベテランカメラマンにつきあってその浴場に行ったのだが、マッサージまで含めたフルコースだとかなりの金額だったと思う。
 上海式浴場というのがあるなら、中国にも公衆浴場があるではないか。いったいどんな形式になっているのだろうか。そういう疑問を疑問のままにして、長い時間が流れた。アジア入浴事情研究に手を出す気はないから、積極的に調べることはしなかった。それが、北京の銭湯を扱った映画が日本で上映されると聞いて、「これはぜひとも見なければいけない」と思った。数年前のことだ。                                     (つづく)


アジア雑語林(18) 2003年3月17日

大差なし

 数年前のことだ。
 タイにアジアブックスという書店がある。バンコクに着いたらその支店めぐりをするのがいつもの行動なのだが、ある支店を出たところで、知人にばったり会った。『食は東南アジアにあり』の著者のひとりであり、タイやマレーシアやラオスの小説を翻訳している歴史人類学者の星野龍夫さんだった。
「おやおや、こんなところで……」
「お久しぶりですね」
「雲南に行った帰りなんですよ。あなたは?」
「インドネシアの帰りです」
 立ち話だけでは話が終わらないから、今夜いっしょに食事をしようということになった。
「私はこのすぐ近くにいるんですが、どこで待ち合わせしましょうか。えーと、そうだな、このホテルのロビーにしましょう。7時でいいかな」
 星野さんは、すぐ近くのホテルの名をあげ、待ち合わせ場所を決めて別れた。どこで食事をするかは、決めなかった。会ってから決めればいいのだが、さて、どこに行こうか。『食は東南アジアにあり』の著者と、『タイの日常茶飯』の著者がバンコクで食事をするのである。
 私は食べ歩きには、まったく興味がない。サラリーマンが昼休みに、うまいと評判の天丼をタクシーに乗ってわざわざ食べに行くとか、ラーメン研究のために1日2杯以上食べ続けているといった話を雑誌などで自慢げにしていることがあるが、そういう趣味は私にはまったくない。バンコクでも、うまい店を求めて食べ歩かないのは交通事情のひどさのせいでもあるが、もともとレストランめぐりに興味がないせいでもある。だから、日本でもタイでも、雑誌などのレストランガイドはいっさい読まない。
 だから、もし星野さんに「どこかうまい店に案内してよ」などと言われたとしても、特別に珍しいとかうまいとかいった評判の店など案内のしようがない。知らないのだから。私は星野さんの情報網に期待した。星野さんなら、謎の東北タイ料理店とでもいった変な店に案内してくれるのではないか。
 7時ちょうどに、星野さんはそのホテルのロビーに姿を見せた。「どこに行きます?」という質問をする間もなく、星野さんは立ち止まらずにさっさと歩き続けた。ホテルの外に歩きだすのではなく、ホテルの奥に歩いていくのである。
「このホテルにだって、レストランくらいあるだろ……。あった。あそこにしよう」
 そこは、決して観光客向けの高級タイ料理店ではない。ビニールのベンチシートの椅子が並んでいる食堂だ。宿泊客がビュッフェスタイルの朝食をとる食堂である。一応エアコンは入っているが、他に客もなく、ただの殺風景な食堂である。美食を追及する趣味はないとはいっても、これじゃあまりに味けない。もう少し工夫してほしいとは思ったけれど、そんなことを星野さんに言い出すわけにもいかない。「じゃあ、どこがいいの?」と聞かれても、特別な情報を持っているわけではない。
 注文は星野さんに任せた。テーブルに最初に運ばれてきたのは、ポピア・トート(揚げ春巻。タイには生のものと揚げたものの両方がある)。その料理を口に入れて、びっくりした。
「これ、うまいですねえ。いやー、うまい!」
「うん、本当に、うまいねえ、この店」と、案内した星野さんも感心したようだった。 期待していないどころか、まずいにちがいないと確信していたせいなのかもしれないが、どの料理もうまいと感じた。そこで浮かんだのが、「タイの平均値」ということだ。 タイは個人の経済力においても、学力や技術力においても、平均というものが意味をなさない。できる人と、できの悪い人との差がありすぎるのだ。物でも、その品質に差がありすぎるのだ。マッサージでも、「うまいなあ」と感心する店があっても、それは決して平均ではなく、後日行くととんでもなくひどいマッサージにあい、体を痛めるということがある。タイはそういう社会なのだが、食べ物に関して言えば、どうにもひどい店に出くわす機会はあまりない。だから、ホテルの食堂の料理でも、そこそこか、そこそこ以上の料理を出すことがある。というわけで、タイの食べ歩きはたいして意味がないと思う。食事する店を決めるとき、インテリアや場所などは重要な要因になるが、味は好みの問題はあるにせよ、料理そのものの差はあまりないように思う。
 そんな訳で、先日タイで知人たちと食事をすることになって、「どこか、行きたい店はありますか」と聞かれたので、こう答えた。
「話ができるくらい静かな所で、タバコが吸えれば、それでいいですよ」
 じつは、そういう店は少ないのである。

 


アジア雑語林(17) 2003年3月1日

旅行記と滞在記

 ポルトガル旅行に際して、ポルトガル関係書を何冊か読んだ。イギリスやフランスに比べれば、ポルトガルの本は少ないから現在入手できる本は一応チェックした。そのなかでベストと呼べるおもしろさだったのが、『ポルトガル便り』(植田麻美子、彩流社、1995年)だった。大学院生時代の留学記で、著者は学部時代にも留学の経験がある。だから、昨今の旅行記や留学記にありがちな、「なにも知らない若者が旅したハチャメチャ爆笑旅行記」でもないし、学者が書くポルトガル歴史随想でもない。誰が読んでも理解できる内容でありながら、背後に教養の積み重ねが感じられる。日本に住む友人・知人・恩師への手紙と書き下ろしの文章で構成した本は、楽屋落ちばかりの失敗作になる可能性もあるが、うまくできるとその地域の知識がない者でもわかる入門書として成功する。この本は、もちろん後者である。
 それぞれの手紙が、1本のコラムになっていて、ポルトガルの映画や演劇や食べ物の話から、「ポルトガルみやげあれこれ」とか、「私のアマリア・ロドリゲス・ベスト10」という話もある。多岐にわたるコラムをつないで、アパートとその大家とのトラブルや授業のもようを書いていく。こういう話は旅行者ではわからない話なので、興味深かった。
 もちろん歴史にも言及しているが、歴史書を要約したような退屈な話ではない。「一般の人々の意識はいまだに大航海時代の栄光にしがみついている部分があるのも事実です」と書いて、ポルトガル人とその歴史の関係をわかりやすく書いている。私がこの本に好意をもったのは、無知ゆえの「ポルトガルだ〜いすき女の子」のラブレターではないからだ。少しは物を見る目があれば、その国の良い所も悪い所も見えてくるのは当然なのだが、そういう両面があることがわからずに、無批判にほめちぎられると宗教の宣伝パンフレットのようで、うんざりするのである。
 帰国して、この本を再読した。やはり、たいしたものだ。この著者の本をもっと読んでみたくてネットで検索すると、『メキシコ万華鏡』(彩流社、1999年)という本があることがわかった。ポルトガルの専門家がブラジルに行ったというならわかるが、なぜメキシコの本を書いたのだろう。
 その謎は、この本を読んですぐにわかった。著者は留学後結婚し、メキシコ駐在員となった夫とともにメキシコで生活した。その滞在記がこの本である。
 読み始めて数ページで、「これはダメだ」とわかった。企業駐在員夫人が書いたごく普通の滞在記でしかない。有能のコラムニストでもある著者の手にかかれば、どこでどんな生活をしようが、それなりにおもしろい話が書けるものだと思っていたが、それはどうやらたんなる理想でしかなかったようだ。
 この本があまりおもしろくない理由は、かつての留学生が駐在員夫人になったからだ。留学生時代は自分ひとりの意思と責任で行動していたが、駐在員夫人となるとそうはいかない。自分の行動が夫にも影響を与え、それが夫の会社に影響を与え、ひいては日本国外務省にも影響を与える可能性がある。夫は会社の名前を背負っていて、その会社は現地政府と日本政府と深い結びつきがある。個人の好みとは関係なく、夫も妻も現地日本人社会という狭い社会で暮らさざるを得ないのだ。そういう制約のなかでは、好奇心にまかせた勝手きままな行動は許されない。だから、今まである駐在員夫人の滞在記となんの変わりもない本になってしまった。
 げに、駐在員は恐ろしい。有能な学者兼コラムニストの目と腕を奪ってしまったのだから。


アジア雑語林(16) 2003年2月17日

英語の本

 ポルトガルの本屋に、ポルトガル語の本ばかりあるのは当然なのだが、それが当然だと感じなかったのは、東南アジアの書店事情に慣れてしまっているからだ。ラオスを除けば、程度の差はあれどの国でも英語の本が手に入る。イギリスやアメリカの植民地だったマレーシア、シンガポール、ビルマ、そしてフィリピンは当然としても、ベトナムでもインドネシアでも、多少なりとも英語による現地資料が手に入る。
 興味深いことに、西洋の植民地にならなかったタイが、英語の現地資料という点ではもっとも充実している。英語による出版活動が大変さかんであるのと同時に、東南アジアの他の国々の資料も輸入してかなりそろっている。数年前のことだが、マレーシアの資料を探しにマレーシアに行ったが、バンコクの書店のほうが品揃えがよかった。インドネシア関係の本を探す場合でも、英語の本ならわざわざインドネシアに行くよりも、バンコクで探したほうが効果的だと思う。もちろん、バンコクで入手できないインドネシアの本はあるから、理想的には、すべての国のすべての書店で本探しをやるしかないのだが、どこか一カ所で済ませるならシンガポールよりもバンコクに行くほうがいいだろう。
 タイ人は、シンガポール人やフィリピン人のようには英語が読めないから、バンコクの英語出版物はおもに外国人向けだろう。私のように、なんでも知りたがる外国人にとってはまことにありがたい出版事情である。あまりにありがたくて、タイ語を読む勉強をおろそかにしてしまうくらいありがたいのである。もちろん、どんな情報でも英語文献で入手できるというわけではない。当然のことだ。しかし、こまめに文献探しをやると、かなりの情報が手に入る。各種統計資料も、タイ語版と並んで英語版も入手できる。要は、どれだけこまめに本屋巡りをやるかであり、その本のなかで自分が必要な情報がどこにあるかを手早く探す技術だろう。
 英語の出版物ばかり読んでいる弊害は、たしかにある。英語の本を書いているのは多くは外国人だから、外国人の視点で見たものばかりを資料に使うのは問題である。鶴見良行のように英語に堪能だと、どうしても英語資料に頼りがちになるという問題もそこにある。ただ、私のように学者でもないただのライターなら、なんの資料も読まず印象と感想だけで文章を綴るよりは、英語の資料であっても読まないよりは読んだほうがいいと思っている。『地球の歩き方』が唯一の資料というんじゃ、しょうがないだろう。 タイの本を書くなら、タイ語ができたほうがいいのは当たり前のことだ。ただし、タイ語ができれば、タイに関するすばらしい本が書けるというわけではない。今ではタイ語が読める日本人はかなりいるようだが、だからといって、「さすがタイ語ができるとこんなにもすばらしい本が書けるんだなあ」と感心するような本はほとんどない。タイの小説が読めるくらいのタイ語力があっても、タイに関する基礎知識さえもないという人もいる。タイ語学習が何かを知るための手段ではなく、学ぶことそのものが目的になっているから、無駄な語学力がついただけで終わるのだ。
 外国語を学ぶよりも、まず日本語をきちんと学んだほうがいいように、外国語の本を読むまえに、まず日本語の関連資料をきちんと読んだほうがいいのは、言うまでもない。


アジア雑語林(15) 2003年2月7日

リスボンの書店で

 ポルトガルをしばらく旅してきた。いちおう北から南に旅したが、もっとも長く滞在したのはリスボンだった。この街で印象深かったことのひとつは、書店が多いということだ。人口が60万か70万という小さな街(アジアの感覚でいえば、ヨーロッパの街はいずれも小さい)なのに、新刊書店も古本屋もかなり見つけた。本屋を見つけると素通りできないタチだから、散歩の途中いつも寄り道してしまうのだが、結局一冊も買わなかった。欲しかったのは、ポルトガルに関する英語の本なのだが、英語の本そのものがほとんどなかった。わずかにあるのは、ロンリ−プラネットなどの旅行ガイドブックや、ペンギンブックスなどの英文学くらいだった。古本屋に行けばもう少し英語の本はあったが、読みたくもないペーパーバックなどだから、もちろん買わない。
 ポルトガルの本屋でヨーロッパ以外をテーマにした本は、ブラジルの本を別にすれば、かつての植民地であるアンゴラや東ティモールに関する本がわずかにあったくらいだろうか。ポルトガル語がわからない私のことだから、文字だけの表紙だと、それがどこの国のどんな本なのかわからないから、自信をもっていえるわけではないが、印象としてはそうだった。
 大きな新刊書店の品揃えをじっくり観察していて意外な発見だったのは、インドネシアの作家プラムディヤの本が平積みになっていたことだ。当然ポルトガル語に翻訳されたもので、『ジャカルタからの物語』というタイトルだが、日本語版はまだ出版されていない。ちなみに、プラムディヤのとなりで平積みになっていたのは、チェコ出身の作家ミラン・クンデラの本だったが、書名は覚えていない。
 新刊書店で買おうかどうか迷った本が2冊あった。1冊はロンリープラネットの「World Food」シリーズの『Portgal』。このシリーズはおおむね出来がいいので、内容に不満はないのだが、ポルトガルは輸入品がなんでも高い国だから、この本も高い。タイで買ったほうがはるかに安いのはわかっているので、帰路に立ち寄るバンコクで探すことにした。ところが、バンコクのどの本屋でも見つからなかった。しかたなく、同シリーズの「Indonesia」を買った。
 買おうかどうか迷ったもう1冊は、『ポルトガル語−日本語辞典』だ。大判のものだが、安い。逆にいえば、安いのはありがたいが、大きく重いのである。だから、持ち帰るのが大変だ。船便でさえけっこうな料金だとわかっているし、すでに大量のCDを買ってしまっているから、この重い本とCDを持ってスペインを旅行したくなかった。本の重さ以外で気になったのは、この本はブラジルで出版されたものだから、ポルトガルのポルトガル語とはちょっと違っているということだ。値段はかなり高くなるが、日本の出版社からも大判のポルトガル語辞典が出ているから、「本気で勉強する気があるならそちらを買おう」という考えもあって、リスボンでは買わないことにした。日常会話程度なら、手持ちの小辞典で充分なのだが、歌詞の意味を探りたいと思ったら、こんな小さな辞典ではものたりないのだが、本気で勉強する気はないので、多分この先も買うことはないだろう。
 結局、ポルトガルで買ったのは、ファド博物館の売店で見つけたファド関係の英語の本2冊だけだった。


アジア雑語林(14) 2003年1月27日

1960〜70年代の旅の本 白陵社出版リスト

 日本人が自由に海外旅行ができるようになるのは、1964年からだ。それまでは、基本的には公務か業務の渡航しか認められず、あとは留学と移民の渡航だった。64年に制度上は海外旅行は自由になったけれど、まだ格安航空券などなく、船賃も高く、日本円の価値は低かったから、実際には金持ちしか海外旅行を楽しめなかった。70年前後になって状況が変化するのは、シベリア経由でヨーロッパに安く行くルートが日本でも発売されたことと、ジャンボ機の導入によって航空券に大幅な団体割引きが適用されたからだ。
 その当時、交通公社や実業之日本社(ブルーガイド)のガイドブックとは違う旅の本を多数出版していたのが白陵社だ。60年代から70年代に個人旅行を始めた人にはなじみがある出版社名だろうが、大方の人にはすでに忘れ去られた存在だろう。そこで、白陵社の出版リストを紹介してみよう。当時の旅行事情や旅行書事情もわかるので、日本人の海外旅行史に興味がある人には参考になるだろう。この出版社が旅行書を出していたのはわずか8年ほどのようで、74年以降の白陵社の歴史はわからない。
 外国に行きたいと思っていた当時の日本の若者に与えた影響は、けっして小さくないはずだ。私自身の体験でも、初めて外国に行くときに参考にしたのが、『若い人の海外旅行』(69年)や、『インド教養旅行』(73年)などだった。現在のレベルと比較すれば、けっして高い内容の本ではないが、とにかくできるかぎり安く日本を出たかった若者たちにとって、具体的な情報を与えてくれたほとんど唯一の本が白陵社の本だった。
 以下、私が調べることができた出版リストを書き出しておこう。

1966『海外旅行と海外生活』(水野潤一)
   『世界のみやげと一流品』(水野潤一)

1967『ヨーロッパ教養旅行』(水野潤一)

1968『続 ヨーロッパ教養旅行』(水野潤一)
   『ヨーロッパひとりある記』(久保田弘子)

1969『スチュワーデスの世界』(トルーデイ・ベイカー、レイチェル・ジョーンズ)
   『世界の祭りと年中行事』(内山寛)
   『中近東・アジア教養旅行』(紅山雪夫)
   『東南アジアひとりある記』(平岩道夫)
   『民宿ヨーロッパの旅』(杉田房子)
   『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦)
   『若い人の海外旅行』(紅山雪夫)
   『私の見たヨーロッパ』(住安国雄)
   『アフリカ』(竹村健一)

1970『四十カ国アルバイトヒッチ』(長坂是幸)
   『世界の空港と都市』(水野潤一)
   『800日間世界一周』(広瀬俊三)
   『ヨーロッパ自動車の旅』(加藤保生)
   『若い人のアメリカ旅行』(アメリカ国立学生旅行協会編)
   『私の見た中南米』(住安国雄)
   『イタリア教養旅行』(水野潤一)
   『休婚旅行世界一周』(芦沢倶子)
   『サラリーガールのヨーロッパ旅行』(服部はる子)

1971『世界の美術館』(貝原幸夫)
   『台湾・香港・マカオひとりある記』(久保田弘子)
   『誰でもできるアメリカ英語生活』(おおつかまさじ)
   『アメリカ就職奮闘記』(平岡陽子)
   『1日10ドルのヨーロッパ』(おおのはるみ)
   『一番近い韓国旅行』(近森節子・岡本俊一・景山裕一)
   『インド・ネパール。セイロン』(紅山雪夫)
   『唖のシュンコの旅日記』(江村駿子)
   『海外旅行失敗談』(白陵社編)
   『300万人が待っている』(トルーデイ・ベーカー、レイチェル・ジョーンズ)

1972『アメリカ・バスの旅』(山本克彦)
   『沖縄・日本ヒッチハイク』(矢代雅雪)
   『これからの海外旅行』(ボブ・ワトキンス、ジョアン・ワトキンス)

1973『スイス教養旅行』(会津伸)
   『スペイン・ポルトガル』(島田由起子)
   『アメリカ語学留学と米会話』(おおつかまさじ)
   『インド教養旅行』(朝野明夫)
   『オーストラリアとニュージーランド・タヒチ・フィジー・サモア』(小島豊徳)
 これ以降、不明。

 

アジア雑語林(13) 2003年1月13日

ああ、ダーキー

 2003年最初の電話は、タイのスリン県からだった。
「いま、スリンにいるんだよ。ダーキーの葬式をやってるところなんだ」
 電話口で叫ぶ友人の声の背後から、カントゥルムの音楽が響いていた。供養のコンサートなのだろうか。
 タイのカンボジア系住民の音楽であるカントゥルムの第一人者がダーキーだ。そのダーキーが急死した。ガンだったそうだ。半年ほど前から体調がおもわしくなかったが、それでもコンサート活動を続けていたが、12月31日に倒れて病院に運ばれ、翌日の1月1日に亡くなったそうだ。前日まで歌っていた。正確な生年月日を知らないが、33か34歳のはずだ。あまりに、若い。ダーキーの死は、彼の肉体の死滅だけに限らず、カントゥルムという音楽ジャンルがまた元の伝統音楽に戻ってしまうという悲劇でもある。
 もう過去形で語らなければいけないのが哀しいが、彼の音楽がもっとも迫力を持っていたのは、80年代後半から90年代なかばころまでだろう。カンボジアの伝統音楽カントゥルムに電気楽器を入れた「カントゥルム・ロック」でデビューしたのは84年。彼の唸るような歌と、中国の二胡に似たソーという楽器が空気を切り裂いて合体した。「迫力」ということばが似合わないタイの音楽界のなかで、ダーキーのカントゥルムは異彩を放っていた。伝統音楽にロックを取り入れて、ポップミュージックにした。「保存」されてきた音楽に、現代の命を吹き込んだのがダーキーだった。90年代なかば以降は、こうした迫力あるカントゥルムをどういうわけかあまりやらなくなり、さほど魅力のないルークトゥンを歌っていた。村のコンサートではどうだったかわからないが、テープやCDで聞く限り、ビデオやVCDで見る限り、彼はルークトゥン歌手にかなり変身していた。日本人にわかるように言えば、喜納昌吉が堀内孝雄のような歌をうたい始めたようなものだ。
 私が初めてダーキーの歌を聴いたのは90年代初めだった。バンコクでコンサートを開いたときで、カンボジア系タイ人だけの音楽という枠から脱出しようとしていた頃だ。のちにルークトゥンに路線変更したからなのか、しだいに全国区の歌手になり、先日入手したコンサートライブのVCDにも登場していた。友人がダーキーの死を知ったのが、テレビニュースだったというから、その地位まで登りつめたということらしい。
 彼の写真は、私の『まとわりつくタイの音楽』や『タイの日常茶飯』に載っているが、最後に会ったのはサムロー(三輪車)の取材で東北タイを旅しているときだった。そのときは、彼の歌声は聴けなかった。
 思えば、タイで知り合った人の何人もがすでに死んでいる。私より年上というのはひとりだけで、あとは同じ年と年下だ。知人とその家族ということで言えば、死因はやはり病気が多いのだが、交通事故がひとり、殺されたのがひとり、そして人を殺したあと自殺したのがひとりいる。芸能人のなかでも、何人かがすでに死んでいる。好きな音楽家ではないが、北部音楽の重鎮だったチャラン・マノペットもなくなったそうだ。
 今夜はダーキーをしのんで、久しぶりにカントゥルムを聴いてみようかとCDの棚に目をやったが、まだショックが大きくて、とても聴く気にはなれない。ほかのタイ音楽を聴くのもやはりつらいから、ラジオから流れる軽いレゲエを聴きながら、この文章を書いた。


アジア雑語林(12) 2002年12月19日

『東南アジアの三輪車』をめぐる本 3

 すずらん通りで買った『リキシャ追跡』の著者名を見て、驚いた。トニー・ウィーラーだ。ガイドブックを出版するロンリー・プラネット社の創業者であり、社長である。この本の著者紹介を要約すれば、こんなふうに書いてある。「パキスタンで生まれ、バハマとアメリカで育つ。1972年のアジア大旅行をきっかけにガイドブックを出版するロンリー・プラネット社を設立。そのアジア旅行のときから、人力車や三輪自転車に興味をもっていた」。
 なんだ、私と同じじゃないか。私も73年のアジア旅行以来人力車や三輪車に興味を持ったが、資料集めに時間がかかり、本にまとめるまでに26年かかってしまった。例えば、サイゴンのシクロに限定すればもっと早くまとめられるのだが、全域とは言わないが、アジアのかなりひろい地域に範囲を広げ、その歴史なども考えるとなると、そう簡単には調査はできない。
 四半世紀をかけた『リキシャ追跡』は、さすがに力作で、元エンジニアらしくリキシャ作りにも言及している。人間にも目を向けている。文章ページはわずかに7ページしかない。写真ページにも文章がついているが、文章量は多くない。いまもカルカッタに残る人力車について説明するには日本の人力車事情から話を始めなければいけないのだが、この部分の記述が弱い。明らかな間違いもある。私は『人力車』(齋藤俊彦、クオリ、1979年)という名著を参考にすることができたが、日本語が読めないトニーはこの名著を参考にはできない。気の毒なことだと思うと同時に、人力車研究に関しては日本語文献が読めることの幸せを実感した。逆にいえば、こうした恵まれた環境にありながら、いままで日本人は『人力車』を書いた齋藤俊彦さん以外、人力車とその後の三輪車事情についてほとんどなにも書いてこなかったということだ。
 この四半世紀に、アジアで同じようなことに興味を持っていた同好の士がいたことがうれしくて、『東南アジアの三輪車』をオーストラリアに送った。そのままではなんの参考にもならないから、年表部分を英訳し、いくつかの写真にも英語の説明を加えた。『リキシャ追跡』のなかで、明らかに間違いだと思われる部分の指摘もしておいた。例えば、日本で人力車が急激に普及したきっかけは、明治天皇が人力車に乗って東京を移動したからといった記述は、当時の時代背景からしても、およそ考えられないことだからだ。
 しばらくして、トニー・ウィーラー自身から礼状と手紙が届いた。
「三輪車に関する本を送っていただきありがとうございます。あんなおもしろい乗り物に興味を持つ人がほかにいたとわかった、とてもうれしいですよ。明治天皇に関する記述は、とてもおもしろい次の本に出ていた話です」
 そのあとに書いてある本の名前は、『バングラデシュのリキシャ』。やはり、参考にできる本はこれだ。しかし、人力車について書いた部分はやはりおかしいと思う。明治天皇が人力車に乗ったという話は齋藤さんの本にも出てこないし、私の認識でも天皇が人力車に乗って東京を移動するなんてことは、考えられない。
 蔵前さんからの電話で知った本は、神田神保町を経由して、著者のトニー・ウィーラーから手紙をもらうという結末となった。


アジア雑語林(11) 2002年12月9日

『東南アジアの三輪車』をめぐる本 2

 原稿はすぐに書き終えた。当時は手書きだったから、書き終えた原稿を段ボール箱に入れ、宅配便で旅行人編集部に送った。編集者であり、発行人であり、デザイナーでもある蔵前さんの尽力で、半年ほどかかって本になった。1999年のことだ。なにしろ原稿が手書きだから、コンピューターに打ち込むだけでもけっこう手間がかかるのである。
 本ができて、蔵前さんはニューヨークに旅立った。一カ月後、帰国したばかりの蔵前さんが電話をくれて、旅の雑談をした。そのなかに、気にかかる話があった。
「ニューヨークの本屋で、三輪車の本を見つけたんだよ。写真がいっぱい入っている本でさ、前川さんに買って帰ろうと思いながら本探しをやっているうちにコロッと忘れちゃって、まあ、買ってこられなかったというわけなんだけど……」
「それ、参考になりそうな情報が詰まっていた?」
「いや、写真中心なんだけど、アジアの三輪自転車の本だった。書名も出版社名も確認してないんだ」
 私の本より早く、三輪車の本を出した人がいたのだ。写真中心だというから、私の本が出る前にその本を入手していても、参考になったかどうかわからないが、それでも目を通しておきたかった。東京でも、バンコクでも、ジャカルタでも、三輪車関係の資料はないかと探しているが、そんな本には気がつかなかった。わざわざニューヨークまで買いに行く気はないが、できれば読んでみたい。だが、書名も出版社名もわからないのだから、日本では探しようがない。
 東南アジアで、サームロー、トゥクトゥク、ベチャ、シクロ、リキシャなどと呼ばれてる人力車や三輪自転車や三輪自動車に関する直接的な資料はあまりなかった。あれほどおもしろい交通機関について歴史を踏まえてきちんと書かこうとした人は、なぜかいなかった。そう思っていたが、少なくともひとりはいたとわかった。それがうれしかった。
 本探しに、二度目の偶然があった。『バングラデシュのリキシャ』と同じように、その本も東京で手に入った。神田神保町、すずらん通りの路上で、その本を見つけたのである。毎秋恒例の「神田古本祭り」では、すずらん通りの路上に出版社がワゴンを出して、新刊割引きセールをやる。旅行ガイドブックで知られるロンリー・プラネット社の、おそらくは輸入代理店だと思われる会社もワゴンセールをやっていた。ガイドブックの品定めをしていて、ふと路上に積まれた本のなかに三輪車を表紙にした本が目に入った。蔵前さんが言っていた本にまちがいない。
 "Chasing Rickshaws(リキシャ追跡)"Tony Wheeler著、Richard I'Anson写真、Lonely Planet Publication,Austraria,1998.サイズは25cm×28cmで、192ページ、オールカラーの写真集だ。私の『東南アジアの三輪車』(旅行人)が出る前年に出版された本だ。「これ、いくら?」
 店番をしている西洋人にたずねた。
「いくらにしようかな」
「安くしてよ」
 その男も、どうやら旅行者の垢が染み付いているようで、インドで買い物をするかのように値段交渉を楽しんだ。「USA $34.55」の定価がついているその本を、2000円ほどで買った。新刊本である。

Chasing Rickshaws
"Chasing Rickshaws"
「アジア文庫では4,680円です。
まかりません」
(アジア文庫店主)

 

「アジア雑語林」バックナンバー (1)〜(10)

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