前川健一 著作一覧

アジア雑語林(111)〜(120)

アジア雑語林(120) 2005年9月14日

写真の力(3) カメラマン VS ライター

 理屈ばかりの話が続いたので、今回は方向を変える。
 カメラマンと雑談していると、話題はいつしか「カメラマンとライター、楽なのはどっち」というテーマになることが多かった。カメラマンとよく話しをしたのは、1980年代から90年代前半あたりなので、以下の対談はそういう時代のものだということをおことわりしておく。

カメラマン(以下、カ) ライターって、安上がりでいいよな。紙と鉛筆があればいいんだろ。200円か300円もあれば、とりあえず始められる商売だろ。

ライター(以下、ラ) まあ、極端にいえば、そうだな。

  だろ。ところが、カメラマンとなると、どういう写真を撮るかによるが、機材をそろえるのに最低50万か100万くらいのカネはかかる。最低だぜ。機材が増えれば、アシスタントが必要になり、クルマもいる。文無しじゃ、カメラマンにはなれないんだよ。少なくとも、借金できるだけの信用は必要さ。

  初期投資費用がかかるというのは認めるが、あとは楽だよな。ライターとカメラマンがいっしょに取材に行くとするじゃない。取材を終えたその日に、カメラマンの仕事は終わりだ。しかし、ライターはそれから資料を集めて、読んで、考えて、原稿を書いてと、仕事はまだまだ続く。原稿料が同じとすれば、拘束される時間があまりに違うだろ。カメラマンが次ぎか、そのまた次の仕事をしているというのに、ライターはまだ「あの原稿」を書いているということもあるわけで、経済効率のわるい仕事さ。

  カネがかかるから、手早く終えないといけないわけだ。ライターが楽だと思うのは、現場に行かなくたって、仕事ができることだ。電話取材だって可能だし、資料を読むだけで原稿が書けるだろ。カメラマンはそうは行かない。どんなに苦労しようが、現場に行って、写真を撮らないといけない。「撮れませんでした」じゃ、話にならない。ライターは、カメラマンが死ぬ思いで撮影した写真を眺めて、ちゃらちゃらと原稿を書けば、それで仕事になる。

  まあ、たしかに。ピラミッドを実際に見たことなくても、「ピラミッドのミステリー」なんて原稿は書けそうだけど、カメラマンは現場に行かないと仕事にならない。でも、現場に行って撮影すれば、それで終わりだよな。

  撮影できればね。天候が悪い。撮影許可がでない。いいアングルのために、山に登らなきゃいけないとか、いろいろあるわけで、ただシャッターを押せばいいというわけじゃない。

  でもさ、シャッターを押せばいいということはあるよ。カメラの世界は技術革新のおかげで、素人だってフルオートの撮影でそこそこの写真が撮れる。文章には、そういう楽な機械はないよ。素人でもボタンを押せば、そこそこの文章ができてくる機械なんてないよ。

  カメラマンはライターと違って、匿名性という特徴があるんだよ。ライターというのを小説家やノンフィクションライターなどのこととして、売れればそれなりに有名になるでしょ。高額所得者のランクに名を連ねる。ところが、カメラマンの場合はどんなに売れても、一般人にも有名なのはいつまでたっても篠山、立木、浅井など数人でしょ。写真集というのはミステリーのようには売れないから、書き手のトップクラスと比べれば印税はたいしたことがない。カメラマンには印税生活というのは、そう多くないんじゃないかな。

  新人の場合、素人の文章がすぐ単行本になるという例はいくらでもあるけど、いきなり写真集が出るというチャンスは、そうそうあるもんじゃない。そう考えると、駆け出しの場合、ライターのほうが楽ということになりそうだけど、カメラマンの方が適応性があるでしょ。マンガに詳しいライターには化粧品の原稿は書けないけど、カメラマンの場合は水中写真とか昆虫写真とかいう特殊な写真でなきゃ、どんなものでもある程度は撮影できるでしょ。もちろん、得意、不得意はあるだろうが。

  ライターがうらやましいと思うのは、どこに住んでいても仕事ができるでしょ。雑誌で仕事しているカメラマンは、基本的に東京の便利な場所に住んでいないといけないけど、ある程度売れたライターなら、東京に住んでいる必要はない。

 こんな話をした時代は、原稿はファックスで送れるが、写真は郵便を使うしかなく、時間がかかるし、安全性にも問題があるという問題があった。現在は、文章はもちろん写真もコンピューターを使って送ることができるようになった。

 


アジア雑語林(119) 2005年9月7日

写真の力(2) テレビの絵

 テレビでドキュメントや紀行番組を見ていて、「もしこのテーマを活字媒体で発表するなら、何ページもつかなあ」と考えることがある。テレビでは1時間番組になっているが、その番組のために取材した材料で、どれだけの原稿が書けるだろうかという疑問である。
 小都市の大通りを車内から撮影し、カメラは市場に入り、魚や野菜を撮り、食堂に入って、その店の料理を見せ、厨房に入り、料理を作っているおばさんにインタビューする。
 これがテレビ番組の5分間のシーンだとする。もし、このシーンを文章で表現しようと思ったら、テレビ取材の材料では5行か10行で終わるだろう。それ以上の行数で、まとまった内容の文章にしようと思ったら、きちんとした取材をふたたびしないといけないはずだ。
 内戦の戦闘シーンでもいい。映像では10分のシーンでも、原稿にするとなると、撮影した時間の何倍もの時間をかけないと、内容のある文章にはならない。それが映像と活字の違いなのだ。映像には、すでに内容があるのだ。例えば、鹿児島市内の路線バスから見える景色をそのまま撮影した映像は、それだけで内容がある。30分くらいなら、私は飽きずに眺めているだろうと思う。農山村の風景だと、1時間走った映像を、同じ1時間で放送されては困るが、適度にカットして放送してくれれば、それもおもしろい。世界の町を、時速20キロくらいのバスの車窓から見える景色で紹介してくれたら、それはそれでおもしろい。
 これと同じことを活字でやれといわれても、むずかしい。バスに乗って、流れゆく車窓の景色を眺めているだけでは、読むに値する原稿は書けない。私は書けないし、私よりもはるかに文章力のある作家でも、取材なしに、質と量ともにまとまった文章は書けないと思う。
 テレビは「絵がないとどうにもならない」という媒体だが、逆にいえば、「絵さえあれば、それでいい」ともいえるわけで、その結果、より刺激的な「絵」を求めるようになる。
 戦争の映像を例にすれば、刺激的なシーンがあればテレビ局なり編集者は喜ぶだろう。そういう刺激的なシーンは、度胸(あるいは浅はかさ)で撮影できるとすれば、評価されるのは「戦闘シーン」であって、「戦争」ではない。戦争の歴史的背景や政治や経済の問題などいっさい知らなくても、「殺人の現場写真」の撮影はできる。だから、どんな危険な目にあったかという話はできても、戦争の話はできないということになる。誰か、ある特定のカメラマンを念頭において、この文章を書いているわけではない。何人ものカメラマンが書いた本や講演の印象だ。なにか物足りないのである。
 探検部の行動報告を聞いたような印象なのだ。その行動がどれだけ危険でも、「だから、どうしたの? 語りたいことは、『大変でした』という、それだけなの?」という感想と同じなのだ。
 だからといって、映像など重要ではないといっているのではない。

 


アジア雑語林(118) 2005年8月30日

写真の力(1) 貧乏取材

 写真撮影など、もともと好きではない。撮影の必要などなければいっさい撮らない。別の言い方をすれば、カネにならない撮影はしないのである。
 もともと、写真が好きでないのは、カメラが機械だからかもしれない。幼児期から、機械が嫌いだった。自動車も汽車も電車も、好きではなかった。「買ってくれ」と親にねだったこともない。ブリキのおもちゃにもプラモデルにも、興味を示さない少年だった。そういう少年が唯一好きだった機械がラジオだった。
 海外旅行に出る前、日本をいくらか旅したが、カメラは持っていかなかった。そもそも、カメラを持っていなかったが、ラジオは小遣いを貯めるなり、アルバイトをするなりして買ったが、カメラを買おうとは思わなかった。
 初めての海外旅行では、さすがの機械嫌いの私もカメラを借りて、「美しい風景をバックに記念撮影という」正しい旅行者を演じてみたが、すぐに飽きて写真を撮らなくなった。風景も、自分の姿も、一切撮影しなくなった。自分の姿を撮影してうれしいというナルチシズムの感情は、私にはない。
 そういう事情が一変したのは、ライターになってからだ。取材費が充分にない雑誌の仕事は、ライターがカメラマン兼業でないと成り立たない。文章も写真もひとりで担当するのである。取材費はひとり分しかない仕事なら、ライターでも写真を撮ることにするか、それとも仕事そのものを断るかの二者択一なのである。仕事があって、タダで旅行ができるのだから、誰がこの好機を逃すものか。ということで、一夜漬けで撮影を覚え、雑誌に載せる写真としては最低合格ラインをなんとか越えるカメラマンにもなった。
 最低限の文章と、最低限の写真では、機械の力を利用できる写真撮影のほうが楽なので、ライターがオートで撮影することになるのである。カメラマンに文章講座の個人教授をやるより、機械に頼った方がはるかに手っ取り早い。
 貧乏取材が常だから、カメラマンといっしょに取材に行くことはほとんどなかったが、もちろん皆無ではない。たまには、ふたりで取材に行くこともある。
 あるとき、雑誌編集部に呼ばれた。カメラマンも同席している。
 「ここを取材してほしいんですがね」と編集者はいい、他社の雑誌のカラーページを広げた。古いホテルの取材記事だ。「名物料理の撮影と、ホテルの外観と室内の撮影をしていただければいいんで、あとは、まあ、ふつうの紹介記事。それで6ページです」
 雑誌の旅行記事なんか、他社の記事のマネをするのが普通で、それがお互い様なのである。
 翌日の朝、東京を出て、そのホテルに向かった。地図を見ながら、最寄の駅からカメラマンと歩いていると、めざすホテルがすぐに見つかった。玄関近くで立ち止まって、カメラマンがつぶやいた。
 「あの雑誌のカメラマン、いい腕しているよなあ。あんなにいい写真にするんだから」
 たしかに。編集部で見せられた雑誌の写真は、「時代の風格を感じさせる、堂々たるホテル」という写真だったたが、いま目の前に見えるホテルは、倒壊寸前の廃墟にも見える。
 「なんで、夕方と夜の写真しかないか、わかった。こういうわけだったんだ」
 ホテルとしても魅力はないが、ホラー映画のロケ地にはなりそうだ。館内を案内してもらったが、ドアはきしみ、タイルはいくつも剥げ落ち、陰気きわまりない。それが現実の風景だが、あの雑誌のカメラマンは、客に見せてはいけない部分は闇に封じ込めて、階段のてすりの曲線を強調し、電球の黄色い灯りが「歴史」とか「落ち着き」とか「風格」などを強調していて、それが見事成功していた。
 写真とは、すごい力も持っているものだと実感した最初の出来事だった。素人写真とプロのカメラマンの技術力との差をまざまざと見せつけられたのである。

 


アジア雑語林(117) 2005年8月18日

中国と新聞

 朝日新聞を読んでいて、「あれっ?」と思った。つい先日のことだ。新聞の国際欄にある中国の記事に、部分的にルビ(ふりがな)がついていたのだ。人名や地名などすべての固有名詞にルビがついているのではなく、選別方法は不明ながら、一部にルビがついているのだ。
 新聞記事は、雑誌や単行本とちがってルビを嫌がる。字が小さく、行間が狭いからだ。昔の新聞ならルビがつくのが当たり前だったが、戦後になってからか、新聞からルビが消えた。ルビが復活したのは、新聞の活字が大きくなってからで、それでもルビはまだ例外的な存在だ。
 総論でいえば、新聞記事にルビがつくのはいい。むずかしい漢字を使うことはまったく奨励しないが、人名や地名など固有名詞などは辞書で調べようがないので、ルビがついているのはありがたい。
 しかし、中国人の名前を中国語の発音でルビをふるのは反対である。具体的にいえば、ケ小平と書いて「とう・しょうへい」とルビをつけるならいい。しかし、例えば「テン・シャオピン」などというルビをつけるのには反対である。
 「外国人の名前は、その国の言語の発音に近いものでカタカナ表記する」というのが日本の基本姿勢で、例外が中国だった。中国人は日本人の名前を日本語で発音ではなく中国語読みするのだから、日本人も同様に中国人の名前は日本語読みするという相互平等の方針で、そうやって長年すごしてきた。それが、朝日は方針を変えたらしい。ウチでは朝日以外の新聞をとっていないから他紙はどうなっているかわからないが、読売や産経はこういう「改革」はしないだろう。
 中国に関しては、中国語の発音など無視して日本語読みにせよ。これが私の考えだ。その理由は簡単で、すべて中国語読みにすることなど不可能だからだ。論語、温故知新、杜甫、長安、三国志演義でもなんでもいい。北京、南京、杭州、これらすべてにルビをふりますか。振らないとすれば、その線引きをどこでやりますか。朝日新聞よ、今後の中国関連の記事はすべて「一部ルビ方針」なのか。それを変だと思わないとしたら、そのことが異常なんだが。
 この問題をひとことで言えば、音が重要なのか字が重要なのかということだ。
 韓国人の名前は、いま相互主義で韓国語(朝鮮語)の音で表記することが多くなった。在日韓国・朝鮮人が本名を名のる場合、音が重要だと考えるならカタカナで表記してくれ。字が重要だと思うなら、その漢字をどう読まれようと怒っちゃいけない。「季」と書いて、「イ」と発音しろというのは無理なのだから。日本人が漢字を韓国語読みができないのが当たり前だからだ。同様に、中国人に日本人の名前を日本語読みしろというのも無理だし、日本人が中国人の名前を中国語読みするのも無理だ。
 韓国人は、「我々は、日本人の名前を日本語読みしているのに、なぜ日本人は韓国人の名前を韓国語読みしないのか」と怒るのだが、それは、韓国人がハングル表記された日本人名を読んでいるからだ。もし、韓国人の名前や地名がすべてカタカナ表記だったら、韓国語の発音にやや近い音で伝えられるのだ。だから、韓国も北朝鮮も外国だから、地名も人名もすべてカタカナで表記するとすれば、この問題は解決する。それで困るのは、朝鮮研究者だけだ。
 不幸にして、日本では朝鮮文化は教養にはならなかったから、朝鮮の歴史的な事柄などをカタカナ表記にしても、まあ、一般人の場合ならなんとかなる。そこが中国とちがうところだ。
 中国語にルビをふるむずかしさは、いくらもある。歴史的な語の場合、どう発音するのかが問題となる。南部の語を北京の発音でルビをふるのは変だろう。現在の北京の中国人がそうするからといって、日本人がマネするのは変だろう。
 というわけで、朝日新聞はいったい何を考えているんだという話でした。他紙のことは知らないが。

 


アジア雑語林(116) 2005年8月7日

バイリンガルがうらやましい

 現在しゃべっている言葉以外の言葉もしゃべれる人が、うらやましい。それはなにも外国語である必要はない。日本語でいいのだ。
 アジア文庫店主は、東京ではあたかも東京生まれのような日本語を話しているが、ふるさと別府に戻れば、地元の人の誰もが疑いようもない「地元の人」になりきれる。そういう言葉がしゃべれるのだ。
 ふるさとらしきふるさとのない私は、いまここで原稿執筆に使っているようなつまらない日本語しか使えない。俳優やアナウンサーになるなら、訛りのない日本語はかなりの長所になるだろうが、訛りがないということは蒸留水のようなもので、飲んだってうまくない。無味無臭、ほとんどまじりけなしの水なんざ、文字通り味気ない。
 いまさらクセのある日本語を身につけようとしたって、無駄だし不自然なことだから、もっぱら聞き手にまわっている。
 東京以外を舞台にしたドラマは、とりあえずチェックしておきたくなる。ドラマの場合は、役者の言語能力の問題と、地元以外の人にも理解させようとして不自然な言葉にアレンジするという問題があって、100パーセント地元の言葉でくりひろげられるドラマというのはめったにないだろう。
 だから、旅に出る。電車やバスにのる。あるいは駅で、人々の会話に聞き耳を立て、耳慣れない言葉の響きに心躍らせる。会話の意味など、わからなくていい。わからない言語に包まれるという体験はよくあることだから、耳慣れぬ言葉のリズムに接するだけで満足なのだ。うれしいのだ。
 どんな言語も、それなりにうつくしい響きをもっているものだと思っていたが、どうにもうつくしく響かないと感じるのは東海地方の言葉だ。
 じつは「関西弁」も好きではない。「関西弁」と「 」をつけたのは、テレビやラジオで垂れ流される吉本弁や松竹芸能弁に代表される「関西弁」が嫌いなのであって、関西で日常的に使われている言葉は、あれほど下品ではない(人にもよるが)。素敵な美人がしゃべれば、美しく響くのだ。
 静岡や名古屋の言葉はどうか。浜松や名古屋の喫茶店で、バス停で、デパートで耳を澄ませ、美女の会話に接したが、ダメだ。かわいい響きに聞こえない。愛おしくなるような、あるいは味わい深い音の響きではない。旅情を誘うリズムでもない。まあ、経験不足かもしれないから、今後、新たな調査結果がでれば報告する。
 外国語でも、響きのいい言語とそうでない言語がある。ドイツ語のようにゴソゴソした言葉でも、美女がしゃべればそれなりに魅力的な言語に聞こえるのだが、誰がどうしゃべろうが、まったくもって魅力がないという言語もあって、私の場合それは広東語だ。
 香港のどんな女優がしゃべろうが、広東語だと、市場の交渉言語、もちろんケンカ腰での、という言語になってしまう。映画で愛を語っていようが、「もっと、まけろ!」「そんなことしたら、おまんま食えなくなるよ! 死ねというのかい」というような市場会話に聞こえてしまうのだ。市場は好きだが、24時間市場言語というのはつらいのですよ。

 


アジア雑語林(115) 2005年7月29日

ローマ字表記はややこしい (2)

 さて、日本にも問題がある。ネット上の意見を読んでみると、日本におけるローマ字の問題がいろいろ論じられている。ヘボン式がどうだ、訓令式はどうだという意見があり、私もそれなりに意見はあるが、ここでは人名や地名の表記だけを考えたい。

 その1 飾りのローマ字はいらない。
 雑誌を読んでいると、筆者の名前にローマ字が添えてある例が少なくない。そして、たいてい名・氏の順になっていることが多い。私が原稿を書いた場合は、校正するときに、氏・名の順にするか、それともローマ字の氏名を削除するか、どちらかを要求する。どう読むのかわからない氏名に、読み方が書いてあるのはいいのだが、なにもローマ字にすることはない。氏名にふりがなをふってもいいし、原稿の末尾に、例えば、(まえかわ・けんいち ライター)というように、名前の読み方と職業か肩書きを添えてもいい。日本語の雑誌に、日本人の名前をローマ字でも表記する必要はまったくない。ローマ字を飾りに使うのは、西洋コンプレックスの哀れな表現だ。

 その2 発音に近い表記にせよ
 KOBEがいやだ。OSAKAがいやだ。「こべ」ってなんだ。「おさか」ってなんだよ。神戸は「こうべ」であり、大阪は「おおさか」じゃないか。だから、KOUBEであり、OOSAKAでなければ変だ。しかし、駅名も、そしておそらくそれぞれの自治体も、KOBE、OSAKAの表記を採用しているはずだ。神戸市民は「こべ」でいいのか。アメリカ人が作ったヘボン式ローマ字は長母音を認めず、日本人はそれをありがたく採用しているから、こんな不具合はでてくる。問題なのは、こういう表記を変だと思わない日本人だ。
 アジア文庫の社長は大野さんというが、彼の名をローマ字で書くと、ONOになる。小野になるのだ。これが日本のローマ字政策である。だから、大野さんのパスポートには、ONOと表記されている。
 これはさすがに批判があったらしく、パスポートの申請には2000年から長母音の表記も認められることになった。しかし、これがまた、問題ありなのだ。長母音で表記するには、「氏名の長母音表記申出書」という書類を提出するところはいかにもお役所仕事だが、そういう書類を提出して、晴れて認められるのが、OONOではなくOHNOなのである。外国人はアメリカ人だと思い込んでいる役人のやりそうなことだ。基本的には、大野のOONOだけでなく、河野のKOUNOも認めないから、河野氏はKONOと表記しなければいけない。特例を受け入れれば、KOHNOは可能になった。とすると、大井氏はOIかOHIになる。おい氏か、おひ氏になってしまうわけだ。そんな不都合な表記をせずに、OOIとすれば、何の問題もない。そんな簡単なことが、エリート官僚にはわからないらしい。
 私の名前も問題がある。健一は、ヘボン式であれ訓令式であれ、従来の表記では、KENICHIかKENITIになる。このローマ字をそのまま読めば、「けにち」である。実際、外国では「ケニチ」と呼ばれることが多い。だから、できるならKENーICHIと表記したのだが、パスポート上ではできない(名刺での表記なら可能だが)。
 ヘボン式とその改変形を採用している人は、アメリカ人に正しく読んでもらえることだけを考えている。しかし、在日外国人は中国人、韓国人、ブラジル人などが多い。彼らが日本で目にする地名・駅名が、アメリカ人向けになっているのは、どう考えても変だろう。ローマ字を論じているサイトに、「英語ではこう発音するから、ローマ字でこう表記すれば無理なく読んでもらえる」などと書いてあるものがあったが、その人にとって英語とはアメリカ英語でしかない。もし、石井さんがアメリカ人に日本人の発音に近い形で自分の名前を呼んでもらいたかったら、E−SHE−E か、 E−C−E とでも表記するしかない。
 どういう表記をしても、すべての外国人が日本語を日本人のように発音できるわけではない。それぞれの母語が干渉する。だから、まず、日本人が納得できる規則的な表記にすべきだ。つまらないHを入れるもんじゃない。

 

※アジア文庫・ONOの蛇足
 私が初めてパスポートをとったのは1979年だった(と思う)。ひょんなことで、香港ツアーのくじに当たった。喫茶店組合の共同企画だった。当時勤めていた職場の昼休みによく通っていたジャズ喫茶で抽選券をもらった。そのことも忘れていたのだが、一緒に行った同僚が、当選番号を見てきたらしく、血相を変えて、「俺のが一番違いで外れていた。お前の何番だ」ということで、定期入れに挟んだままになっていた抽選券を見てみると、見事当選!
 でも何だかあまり嬉しくなかった。私は出不精、筆不精の怠け者で、できれば旅はしたくない。団体旅行となるとさらに憂鬱になる。行けばそれなりに楽しいのだろうが、行くまでの準備や、手続きを考えると面倒になってしまう。「お前に譲ろうか」と言おうとしたが、ヤツは興奮して、脱兎のごとく駆け出し、瞬く間に職場に「香港旅行当選のメデタイ大野」の噂を広めてしまった。上司からも「おめでとう」などと言われ、引くに引けなくなってしまった。
 ただ、この時はツアー旅行だったので、すべてあなた任せの観光旅行、パスポートの表記がどうなっていたのかまるで覚えていない。
 二度目の時は良く覚えている。1989年だった(と思う)。当時、バンコクにいた前川さんに誘われて、仕入れ方々、タイに行った。この時は、さすがの私もいやいやではなかった。なにせ、前川さんのガイドでバンコクの書店めぐりができるのだ。私はいそいそと手続きを済ませた。格安航空券の手配、パスポートの申請…で、引っかかった。私は名前をOHNOで申請した。ところが、大野はONOでしか受け付けられないと言う。なんで?私は大野であって、小野ではない。ずいぶん理不尽で、融通の利かないことになっているのだなと、その時初めて知った。やむなく「ONO」で申請したものの。割り切れない思いは残った。パスポートが「ONO」で名刺が「OHNO」では、いらぬ誤解を生むのではないかと、名刺も「ONO」に改めた。そして、現地で私は、「ミスターオノ」と呼ばれることになった。さらに、名前も前川さん同様、SHINICHIは、シニチと呼ばれた。
 かくて、私は海外に行くと、「オノシニチ」になってしまった。
 現在、長母音の表記も認められることになったのは、私が覚えたような違和感を持つ人が少なからずいたといういうことだろう。現地に溶け込んで生活や、仕事をしている人にとっては、もっと切実な問題も発生していたのではなかろうか。まったく、お役所というところは…、である。

 


アジア雑語林(114) 2005年7月19日

ローマ字表記はややこしい (1)

 チョウチョウを旧仮名遣いでは「てふてふ」と書く。これをそのままローマ字で「TEHUTEHU」と書いて、外国人にチョウチョウと読ませるには無理がある。非ローマ字言語をローマ字で表記するということは、その言語が使用する文字を読めない人に、どういう音なのかを伝えるためだ。もちろん、正確になど伝えられないのだが、だいたいの音を伝える意義はある。私の常識ではそうなるのだが、世間の常識はそうなっていない。
 タイ語のローマ字表記は、政府が定めた規則というのはどうやらないようだが、タイの英語新聞の表記はそうひどいものではない(もっとも、記者によって表記が違い、それが統一されないところがタイだが)。
 タイの場合困るのは、サンスクリットなどインド起源の語を、発音など考えずに元の綴りのままタイ文字に置き換え、しかし発音はタイ式になるから、綴りと音に違いが出る。そういうタイ語をローマ字表記する場合、音を移してくれればいいのだが綴りをそのままローマ字化してしまう。一種のてふてふ状況だ。
 具体的に例をあげれば、タイのビールにSINGHAというのがある。語源的にはシンガポールと同じく、「獅子」という意味だ。タイ文字では、HAの部分に「この語は発音しない」ことを意味する黙字記号がついている。だから、この語の発音はSINGだけを読むから、「シン」あるいは「シング」となる。それなら、初めからSINGとローマ字表記すればいいものを、元の綴りを無視できず、変なローマ字表記になっている。言語の音ではなく、文字に縛られているインテリが犯した犯罪だ。ローマ字表記が、タイ文字を読めない人向けのものだということがわかっていない。
 こうした例は、韓国でも多い。韓国もまた、ローマ字化はハングルの綴りをそのままローマ字に置き換えることを重視した結果、ローマ字の綴りと発音がずれてしまった。
 日本人にもっともなじみのある例では、自動車も生産している現代財閥の「現代」だろう。 漢字で現代と書くこの語は、ヒョンデと読む。ところが、ローマ字ではHYUNDAIになる。どうしてこういうローマ字になるのか詳しく説明するとややこしいので、語尾の母音についてだけ説明しておく。語尾の母音はAとIの中間の音で、ローマ字では表記できない。そこで、AIと母音をふたつ重ねることで、「その中間の音ですよ」という記号にしている。だから、ヒャンダイではないのだが、そのローマ字で「ヒョンデと読んで」と要求されても、外国人は困る。このローマ字なら、日本ではヒュンダイと読むのが普通だから、この会社は日本では「ヒュンダイ」を名乗っている。つまり、音よりも文字を重視したのである。ハングルの綴りを無視して、「HYONDE」とはけっして表記できなかったのだ。
 韓国人の名前も困る。名前のローマ字表記は個人の自由になっているから、同じ姓でも表記はバラバラになる。李という姓は、韓国では「イ」、北朝鮮では「リ」と発音する。韓国では頭のL音が落ちるのだ。ところが、韓国人のローマ字表記では、LEE、LI、YI、RI などいくつもある。発音しないならLもRも表記しなければいいのに、やはり綴りが重要なのだ(LとRの区別は明確ではないらしい)。
 しかし、だ。いくつもの綴りがあっても、LEEと表記する人が多い。アメリカ風でかっこいいと思っているからだろう。こう表記すれば、アメリカ人に限らず「リー」と呼ぶ。「イ」と呼ぶことなど不可能だ。だが、もし日本人が「リーさん」と呼んだら、さてどうだろう。「イです」と訂正しそうな気がする。
 中国語の場合は、同音異義語が多いので、ローマ字から元の漢字を連想できるようなローマ字表記というのは無理なので、音を移すことを考えている。ここで問題になるのは、中国語を知らないと、中国語のローマ字表記を理解できないことだ。北京はBEIJINGと表記しているが、だからといって中国語で「ベイジング」あるいは「ベイジン」と発音するわけではない。中国語のローマ字表記は一種の発音記号だから、その記号を読む訓練ができていないと、実際の音がわからない。これを説明すると、またややこしいのだが、一点だけ説明しておくと、有気音と無気音の区別がある。無理やりカタカナで表記すると、「は」と「はっ」の別とでもいっておこうか。つまり、その音を発音するとき、空気が口から出るか出ないかという区別があるのだ。Pの音の無気音をBで表記し、有気音をPで表記している。だから、北京の「北」をBEIと表記しているのは、PEIの無気音ですよという意味だ。だから、カタカナ表記ならベイではなく、ペイになる。
 タイ語の場合、有気音と無気音の区別は、Hを入れることで表している。国名のTHAIがそれで、TAIでは別の語になる。このほうがわかりやすい。もちろん、カタカナ表記なら同じことだ。
 オリンピックを見ていて気になったのは、英語圏以外の人もローマ字表記だ。フランス語もドイツ語もスペイン語も、基本的にはローマ字表記の言語だが、英語にはない文字がある(あるいは、英語では使わない記号がある)。そういう字がある人名を、オリンピックでは平易なローマ字表記にしなければいけない。

 


アジア雑語林(113) 2005年7月9日

ふたたび、ニッポンが嫌いだ

 このコラムの2004年11月19日号に、「ニッポンが嫌いだ」という文章を書いた。「日本」を「ニッポン」と無理やり発音する放送局を批難し、こんな日本語を耳にしたくないという趣旨だ。「日本」はすべて「にほん」でいいじゃないか、無理して「ニッポン料理」などと呼ばないでいいじゃないか。そう書いた。そして、「私のこの意見は、けっして少数のものとは思わない。日常生活では「にほん」と発音する方が多いような気がする」という文章で終えた。
 さて、すでに読んだ人も多いとは思うが、2005年5月11日の朝日新聞夕刊に、「話言葉『ニホン』圧勝」という記事がでている。
 国立国語研究所は、情報通信研究所と東京工業大学と共同で、学会での研究発表や一般的なスピーチなど話し手1417人の計662時間、752万語の自然な話し言葉を収録して、分析し、日本人の話し言葉に関する研究成果から、「日本」は「ニッポン」と「にほん」のどちらで発音されているのかという問題を解明している。
 「日本」がつく語を「ニッポン」と発音している事例がどのくらいあるかという一覧表が、紹介してある。右側の数字が「ニッポン」と発音している割合である。100例のうち、1例だけが「ニッポン」と発音していれば、1%ということになる。

日本一     22.5%
日本代表    19.4%
日本列島       4.0%
日本          3.8%
西日本              3.2%
日本語教育       3.8%
日本人              1.8%
日本語              0.5%
現代日本語    0.0%

 「日本一」と「日本代表」が上位に来ている理由は、スポーツアナウンサーの愚行のせいだろと思う。サッカーとオリンピックがいけない。「日本一」は、日本人の77%は「にほんいち」と発音している。それなのに、民に教え諭す方針なのか、放送ではめったに「にほん」とはいわない。「日本人」にしたって、98%は「にほんじん」と発音しているのに、例えばNHKニュースではどうしても「ニッポン」と呼びたいらしい。 
 私の予想ではもう少し「ニッポン」が多いかと思ったが、よしよし、いい傾向だ。NHKがどんなにあおっても、民は従わないのだ。
 それなら、いっそ、「日本」は「にほん」と決めてしまったらどうだ。国名の呼び方が一定しないというのは、日本語学習者にとっても不自由だ。
 そこで問題になりそうなのが、会社名などの固有名称だ。「日本」が社名につく会社がいくつもあり、それをどう呼ぶのが正しいのか、社員しか知らないなんて変だろ。だから、どうしても「ニッポン」と呼んでほしい会社は、「ニッポン放送」のように、カタカナかひらがなで表記すればいい。「日本」と漢字にこだわるなら、「にほん」と読まれても訂正なんかしてはいけない。
 もう一度書いておく。「日本」を「にほん」と発音して不都合な語はひとつもない。語呂がおかしくなる語はひとつもない。日本銀行は「にほんぎんこう」でいいじゃないか。紙幣には無理して、NIPPON GINKOとローマ字表記しているが、それなら「ニッポンギンコ」と呼んでやろうか。
 日本から、「ニッポン」を廃棄せよ。産業廃棄物というのがあるが、「ニッポン」は役所と軍のゴミである。だから、すぐさま廃棄せよ!!
(言葉を論じると、どうしても独裁者の発言に近くなってしまう。ああ)

 


アジア雑語林(112) 2005年6月28日

恒例 2004年出版社別購入書籍ランキング

 以前、一年間に買った本の出版社別ランキングを発表したような気がするのを突然思い出し、2004年版をやってみようと思った。総数が何社になるのかカウントするのは面倒なので省略するが、とにかくそのベスト10を調べてみた。「ベスト」というのは、ただ単に数が多いということであって、その出版社や出版物の「ベスト」ではないので、その点誤解のないようお願いします。

1位  講談社     29冊
2位  文藝春秋    17冊
2位  新潮社     17冊
4位  中央公論社  14冊
5位  筑摩書房    15冊
6位  集英社     12冊
7位  平凡社     10冊
7位  岩波書店    10冊
9位  角川書店      9冊
10位  小学館     8冊

 単行本のほかに、文庫や新書、そして選書などをそろえた出版社が優位に立つという点では、講談社や新潮社がトップクラスになる理由は明らかだが、文藝春秋が健闘しているのは、私が文春文庫が好きだという傾向があるからだろう。
 それでは、中央公論社も好みの出版社かというと、「昔は、ね」と言わざるをえない。今はまったくおもしろくないが、それなのに昨年中央公論社の本を多く買ったのは、古本屋で絶版文庫・新書をまとめ買いをしたからだ。中公については、項を改めて別の機会に書く。
 筑摩書房の15冊のほとんどは、ちくま文庫だ。ちくま文庫の目録を眺めていたら、「この文庫だけを読む老後も悪くないな」とふと思った。落語の本を中心に、エッセイやノンフィクションをのんびりと読んでいる生活はなかなかに優雅だ。平凡社の本もそれに近い。
 こうしてリストを作ってみて、自分でも意外だったのは、集英社と角川書店だ。この両社とも、じつは私好みの出版社ではない。だから、ほとんど買っていないだろうと思っていたのだ。記憶などあてにならないものだ。

 集英社の本では、どんな本を買ったかというと。
『ダッカへ帰る日』(駒村吉重)
『南海放浪記』(白石一郎)
『春画』(椎名誠)
『わが人生の時刻表』(井上ひさし)
『歌舞伎を救ったアメリカ人』(岡本嗣郎)
『メキシコから世界が見える』(山本純一)
『住まいと家族をめぐる物語』(西川祐子)など。
 角川では
『アイデン&ティティ』(みうらじゅん)
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(米原万理)
『ココ』(ピーター・ストラウブ)
『空気げんこつ』(鹿島茂)
『モーターサイクル・ダイアリーズ』(エルネスト・チェ・ゲバラ)など。

 「昔ならもう少し多かったはずだが」と思うのが、朝日新聞社の本だ。出版広告を見ても、最近ではさっぱり食指に触れない。まるで買わないわけではないが、5冊を超えることはないと思う(いかげんな記憶だが)。
 2004年に読んだ本のなかで、もっともおもしろかった作品を選んでみようと思ったが、判断基準がさまざまあるので悩んだ結果、「よし、これだ!」と無理やり選んだのは、次の本。
 『呪医の末裔』(松田素二、講談社、2003年、2400円) ケニア人の100年にわたるライフヒストリーと社会史の本で、内容のおもしろさはもちろんだが、文章がうまいのがありがたい。いちばん読んで欲しいのは、退屈な文章しか書けない学者たちだ。外国の論文を引用していれば、立派な論文になると思っている日本の愚かな学者たちに。

 


アジア雑語林(111) 2005年6月19日

反韓パソコン

 私のパソコンは、ちょっとおかしい。私のだけがおかしいのかどうか、わからないが、とにかくおかしのである。このWindowsXP Home Editionは。
 たとえば、「ちょうせん」と打って、最初に「挑戦」がでてくるのはわかる。それを「朝鮮」と変換し直せば、以後「ちょうせん」は「朝鮮」となる。学習したのだ。
 朝鮮はいいのだが、「かんこく」がいけない。我がパソコンの「かんこく」はいつも「勧告」なのだ。一度変換しなおして「韓国」としても、次にはまた「勧告」なのである。我がパソコンはこの語に関しては自習ができないらしく、強制的に教えないといけないらしい。立派な教育者たらんとして、私はパソコンが学習する日を気ながに待っているのだが、いつまでたっても「韓国」が覚えられない。ということは、そうプログラムされているとしか考えられない。親朝鮮・反勧告、いや反韓国だ(いまも何度「韓国」を出そうとしても、勧告になってしまう)。
 パソコンに学習させればいいことは知っているが、いつ独学するか興味があってそのままにしているのだが、いっこうに学ばない。
 いままで使っていた東芝ルポというワープロ専用機よりパソコンがすぐれているのは、固有名詞が一発変換できるところだ。本をさがしているときに、著者名が一発で変換できるのがありがたい。地名も同様だ。いや、そうでもないか。「かんだ」と打つと、「神田」になることもあるが。「カンダ」や「缶だ」などになることもある。いつも「神田」になるわけではない。私の場合、「かんだ」はいつも「神田」で、それ以外の表記はしないのに、変な自習をしてしまう。
 普通名詞でも変だ。「とし」がいけない。「塗死」になってしまう。「と・し」と分割して変換してしまう。「年」は「ねん」と打てばいいが、「都市」の場合は「としこうつう」のように別の語を補ってやらないといけない。「やかた」もそうだ。こんな簡単な語なのに、「屋肩」「耶肩」など、「や・かた」と分けて変換されてしまう。いったい、どうプログラムしているのだ。
 さっき打っていた原稿でもおかしかった。「ぱそこんがくるっている」と打ったら、「パソコンが来るっている」になってしまった。コンピューターが日本語を理解するなら、「くるって」が「来るって」「狂って」になるのはわかる。しかし、「来るっている」という日本語はない。ない日本語を平気で作り出すのが我がパソコンだ。
 これは、どうも差別用語に敏感すぎるのではないか。そこで、活字メディアでは普通使えない語を次々に打って、変換の具合を試してみたくなった。
 「こじき」は「コジキ」。「きちがい」は「基地外」だけで、ほかの語はない。
 あっ、そうか。パソコンは略語ではPCとなる。そして、PCは「プリティカル・コレクト」でもある。「政治的に正しい」というのは直訳で、「差別語基準」とか「言葉狩り」とも訳せる。パソコンが「政治的に正しくない」語を排除しているなら、「韓国」は禁止用語か(いまも「勧告」と変換された)。
 こういう問題はあるが、メールは便利なので使っているのだが、困ることもある。書体と字の大きさを毎回設定しなければいけないらしいことだ。設定しても、文章を書いているうちに書体や字の大きさが勝手に変わってしまうことがある。困ったもんだ。いちいち設定しなくても、一度設定すれば以後そのまま使える方法があるのかもしれないが、調べてもわからない。また、メールの文章が、行間が詰まりすぎているのも気にかかる。もう少し行間があいていれば、読みやすくなるのにと思う。どうすればいいんだよ、いったい。なにかいい対処法があるのだろうか。

P.S.
 わが師、アジア文庫店主のご教示で、書式設定の問題は解決しました。漢字変換の問題は一部解決。いまだ、「やかた」は「屋肩」になってしまう。行間設定の問題は、店主の能力と知識をもってしても解決せず。ということは、行間設定は不可能ということか。

 


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