前川健一 著作一覧

アジア雑語林(101)〜(110)

アジア雑語林(110) 2005年6月10日

インタビューとテープレコーダー (2)

 今度はちゃんとしていそうなカセットテープを買って、次のインタビューで使ってみた。録音は問題なくできていた。インタビュー中に理解できない英語は、録音したものを聞けばわかるだろうと思ったのだが、何度聞いてもわからないものはわからない。時間の無駄だと気がついて、以後、テープ録音はいっさいしなかった。
 テープレコーダーを使う欠点は、インタビュー中に神経を集中しなくなることだ。話をいいかげんに聞いてしまう。わからない部分はそのときに質問すればいいのだが、録音していると「まあいいか、あとで確認すれば」という気になって、インタビューがおろそかになる。
 これは旅行中の写真撮影にも似ていて、カメラがなければ自分の目でしっかり見るのだが、カメラを持っていると、撮影に気をとられて、そのものをしっかりとは見ていないということがある。帰国して、できあがった写真を見て、初めてそのものの細部に気がつくということがある。せっかく現地にいながら、ファインダー越しでしかものを見ていない。そういう例だ。
 私のラジカセは、ただのラジオになった。ニューヨークでは毎日ジャズを聴いていた。日本と違ってジャズ専門局があるのが、ありがたい。モノラルの安物ラジオだが、そのラジオがあるだけで安宿の狭く汚い部屋は快適な居間になった。再販制度がないアメリカでは、ある期限をすぎると本が叩き売りほどの値段で売られる。そういう格安本を買ってきて、読んでいた。今となってはどういう本を買ったか、ほとんど覚えていないが、ハンバーガーの歴史について書いてある本は記憶している。日本の友人が「リチャード・ブロディガンがいいよ」と言っていたのを思い出し、何冊か買った。わかりやすい英語だった。
 そうだ。新聞広告で、ライブハウスの出演者を調べたり、映画情報を仕入れていたのも思い出した。深夜にそういうことをしながら、ラジオから流れるジャズを聴いていたのである。
 ニューヨークからシカゴに行き、ふたたびニューヨークに戻り、ボストンに行き、3度目のニューヨークから一気にサンフランシスコを目指した。3泊4日のグレイハウンドバスの旅だ。
 バスが西部に入ると、もうジャズは聴けなくなり、カントリーに変わった。カントリーという音楽は好きではなかったが、深夜のバスで眠れないとき、耳にさしたイヤホーンから流れてくるカントリーを聞きながら、暗闇のなかでときどき見える牧場や山の風景は悪いものではなかった。
 その旅の最終地はロサンゼルスだった。帰国直前に、質屋にそのラジオを持っていった。日本に持ち帰っても利用価値のない製品だから、アメリカで処分してしまおうと思ったのである。質屋で買ってくれるか心配だったが、16ドルで売れた。身分証明書の提示を求められることもなく、値段交渉もせず、10秒で人手に渡った。予想していた値段よりも高いのに驚いた。
 取材用のテープレコーダーとしての役目はまったく果たせなかったが、旅の友人としてラジオは大活躍してくれた。

 


アジア雑語林(109) 2005年6月2日

インタビューとテープレコーダー (1)

 いままでさまざまな人にインタビューをしてきたが、そのやりとりをそのまま原稿にするということをしたことがない。私が質問し、相手が答えるというやりとりを交互に繰り返して、4ページなり6ページを埋めるというような、ああいうインタビュー記事だ。
 私の取材は、聞きたいことを聞き、その答えを要約して紹介する構成のものばかりだったせいか、テープレコーダーを使わない。話を聞き、数字や固有名詞だけメモし、あとは記憶する。話を聞きながらメモをすると、どうしても顔を下に向けてしまうので、相手に対して失礼なような気がするし、話のリズムを崩してしまうような気もする。相手が一気に話したいのなら、腰を折らずに好きなように話してもらった方が、おもしろい話を引き出せそうだと思うからだ。
 「旅行人」で蔵前さんと対談をやったときも、この手法だった。昼から夜まで7,8時間かそれ以上話をして、それを2回か3回分の対談記事にする。歩きながら話すこともあるから、一切メモは取らない。帰宅すると、その日の話を思い出して、対談の形式で一気に原稿に仕上げる。これが大事で、数日の間があくと、私の頭に内蔵されているハードディスクはおぼろ豆腐のようになってしまい、話の細部は忘れてしまう。5時間話しても、原稿にできるのは文字数にしてせいぜい15分くらいの会話だから、頭の中で会話を構成して、実際の会話の順序を入れ替えたり、話しているときにはよくわからなかった話を「この部分、わかりやすく書いてください」と書いて、蔵前さんに渡す。すると、彼がうまく構成してくれる。
 この対談は特殊だといっていい。ライターふたりの対談で、しかも蔵前さんはその雑誌の編集長でもあるので、ゲラにさえすれば、あとはどうにでも直せるという事情がある。あまりよく知らない人との対談なら、別の方法を考えたかもしれない。
 アメリカで取材旅行をしていたときも、テープレコーダーは使わなかった。メモもほとんどとらなかった。じっと話を聞き、わからない部分は確認し、その夜に原稿を書いた。
 カリフォルニアから始めた取材がニューヨークまで来たとき、ふとテープレコーダーを買おうかと思った。取材用というよりは、ラジオが聞きたかったという理由のほうが大きい。ラジオつきテープレコーダーなら、一石二鳥だと思ったのである。
 私の探し方が悪いのか、当時(1980年)のニューヨークでは電気店に入っても、ロクな製品がなく、粗悪品のように見える製品が高い値段で売られていた。香港製のラジオつき小型テープレコーダーは、100ドルくらいしたはずだ。当時の100ドルは約2万2000円だ。
 ラジオが目的だとはいえ、せっかく買ったのだから、取材でも使ってみたくなった。そこで、翌日のインタビューでさっそく使ってみた。帰宅して聞いてみると、音が入っていないことがわかった。テープはちゃんと回っている。ボリュームも問題ない。なのに、録音ができていない。「粗悪品のように見える」じゃなくて、本物の粗悪品だったのだ。
 近所に電気製品の修理屋があったので、持っていった。
「録音ができないんです」
 若い男にそういうと、男は我がテープレコーダーを点検し、自分の声を録音してみた。そして、再生ボタンを押したが、録音したはずの声は聞こえてこない。男は首をかしげ、手元のテープを入れて、再生ボタンを押した。ロックの轟音が流れだした。再生部分に異常はない。次に、男は録音ボタンを押し、「あー」という声を何度もあげた。テープを止め、再生ボタンを押すと、彼の声が聞こえてきた。
 男は私が使っていたテープを手にし、ボールペンでテープを引き出して、言った。
「テープが裏表だよ」
 なんと、ラジカセと一緒に買った香港製のカセットテープが欠陥商品だったというわけだ。
 さすがにこれでは修理費はとれないとおもったのか、男はカネを請求しなかった。立派な人間なら少額でもチップを払うものかもしれないが、私は立派な人間ではないので、「ありがとうございます」と礼をいって、部屋に帰った。

 


アジア雑語林(108) 2005年5月25日

タイ・フェスティバル2005

 東京の代々木で毎年開かれているタイ・フェスティバルに、2年ぶりに行った。タイ料理には誘われないが、音楽にはそそのかされる。
 北タイにスンタリーという歌手がいる。彼女が歌う北タイの雰囲気をたたえた歌謡曲が、なかなかいい。全身の骨を抜かれて、「そんなにアクセク働くことないわよ」といっているようなメロディーだ。その娘ランナー・カミンも歌手となり、来日して代々木で歌うというのだから、ちょっとチェックしたくなった。これは、藤圭子(圭以子じゃない)が好きだから、娘のウタダなる歌手を聞いてみようという心境に近い。そして、実際に娘の歌を聴いてみたら、「やっぱり、どちらも母ちゃんのほうがいいな」という感想だった。ランナーの歌がよければCDを買おうと思っていたのに。
 それが昼の部で、夕方はカラバオの公演だった。
 ロックバンドのカラバオはタイで何度も見ている。代々木のコンサートでも、会場の前半分にいる客の7,8割はタイ人だと思う。だから、タイでのコンサートとほとんど同じなのだが、違うところが2点ある。会場でケンカが起きないのは、いつもいがみ合っている高校生が日本の会場にいないからだろう。かつての日本でもそうだったが、対立している高校生が会場で会うと、しばしばケンカをするのだ。韓国映画「チング」でも同様のシーンがあった。もちろん、日本映画「パッチギ」でも同様。こういう高校生のケンカに加えて、日ごろ不満を抱いている若い労働者の酔っ払いが浮かれて、暴れだすのだ。
 タイでのコンサートと違うもう一点は、音が小さいということ。公演中に隣の人と怒鳴らずに話ができることなど、タイではなかなか考えられない。
 カラバオのリーダーであるエートが、「ドゥアンペン」(満月)を歌い出すと、会場にいた20代のタイ人たちもいっしょに歌いだした。1970年ころから歌われている歌だが、いまも若者たちに歌い継がれている。そういう歌が、まだタイにはある。20代と50代がいっしょに歌える歌がある。カラバオは日本風にいえば、フォークソングを歌うロックバンドで、政治的な歌も、環境保護の歌も歌う。フォーク色がより強いカラワンが歌ってきた「ドゥアンペン」をカワバオも歌い、歌謡曲のプムプワンもスナリーも歌い、若者も中年も、豊かな者も貧しい者も、ともに声を合わせて、「満月」を歌う。タイには「アマタ」と呼ばれる音楽ジャンルがある。英語でいう「スタンダード」である。何年も歌い継がれてきた名曲だ。そういう歌が、いまの日本にはない。音楽は世代によって、はっきりと断絶している。
 今年のタイフェスティバルは、それはもうすごい人出で、年末のアメ横というよりは、事故が起きたラッシュ時の新宿駅というくらい混雑していた。まともに歩けないのだ。そこで、なるべく人が少ない隅の場所を探して、人々を眺めながら、ちょっと考えた。タイ以外にこれほど人を集められる国が、あとどれだけあるだろうかと。今年はカラバオ目当ての人がいただろうが、カラバオが来なくても、やはりすさまじい混雑だっただろう。だから、大物のショーはないということを前提として、考えてみた。
 反米感情は高まってはいるが、日本にはアメリカが好きな人が多いから、アメリカ祭りは実行可能だろう。「可能」というのは、赤字は出さないという意味だ。
 ヨーロッパでは、フランス、イタリア、イギリス、スペインも可能だろう。イギリス祭りの場合、食べもの屋台に苦労するだろう。イギリス料理の屋台を100店舗だすことは不可能だろう。ドイツについては、私がまるで関心がないから、ドイツファンがどれだけいるのかまるで想像がつかない。タイ祭りと同じような構成だと、むずかしいような気がするが。
 中南米では、もしかするとブラジル祭りは可能かもしれない。あとは中南米祭りなら可能だが、1カ国単独でも開催はむずかしそうだ。
 アジアでは、インドは可能。中国も可能だと思うが、右翼の街宣車がやってきたり、チベット解放運動のデモなどが起こるかもしれない。私としては、台湾祭りをやって欲しいが、政治問題化されて圧力がかかりそうだ。
 現時点で、もっとも客を集められそうなのは、韓国祭りだろう。そこそこに有名な歌手のコンサートやパンソリなどをやれば、超有名芸能人の来日公演がなくても大丈夫だ。食品、雑貨、CDやDVD販売もやれば、黒字になるような気がする

※アジア文庫注
「タイ・フェスティバル2005」の様子はこちらからご覧になれます。画面上の「フォト・ギャラリー」をクリックしてください。確かにすごい人。ランナーや、カラバオのコンサート風景もあります。

 


アジア雑語林(107) 2005年5月17日

哀愁の町

 映画について、簡単な情報を得るのに便利なgooで、タイトルに「哀愁」がつく映画を検索した。リストには29作あった。29作中、製作年のわからない作品が2作ある。残りの27作のなかで、もっとも古い作品は、1930年のアメリカ映画「南の哀愁」、その次は1940年の「哀愁」ということになるが、Yahooで検索すると、1931年の日本映画「美人と哀愁」(小津安二郎)だとわかる。もっとも最近の映画では、1993年のイギリス映画「哀愁のメモワール」だ。
 このリストを眺めていて、「ああ、そうだった」と思い出したのが、1958年の日本映画「アンコールワット物語 美しき哀愁」(渡辺邦男監督)だ。戦時中、アンコールワット守備隊にいた日本人将校(池辺良)とカンボジア王朝の王女の交流を描いた作品で、たしかアンコールワットでロケをしたはずだ。1950年代から60年代あたりに、外国でロケした日本映画に興味があって調べたことがあり、そのときにこういう映画があったことを知った。残念ながらビデオ化されていないので、私は見たことがない。
 「哀愁」という言葉は地名と結びつきやすいようで、哀愁プラス地名という映画タイトルの土地は、モンテカルロ、ローマ、パリ、ストックホルム、マンハッタンがある。パリは「哀愁のパリ」と「パリの哀愁」がある。
 とにかく「哀愁」さえつけておけば、それらしいタイトルになるという安易な発想だが、現在のようになんでも原タイトルのカタカナ表記という風潮とどちらがいいかといわれると困る。どちらも、日本語の貧困であることには違いがない。
 さて、今回のテーマは映画ではなく、哀愁だ。「哀愁」という言葉にぴったりと合う町、あるいは国はどこだろうという話だ。
 映像で「哀愁っぽい」雰囲気を演出したいなら、夕暮れ時のシルエットやシルエットになる前の夕焼けに照らされた風景を撮影すれば、たいていの町が哀愁っぽくなる。しかし、そういう演出をしなくても、いつでも、どこでも「哀愁」を感じさせる国がある。それは、もちろん、私が感じると言うだけの話で、普遍性はない。
 日本では国だと認められていない国、台湾が私にとってもっとも「哀愁」を感じる場所である。テレビの食べ歩き番組を見ていても、なんだかいとおしくて、哀しくなることがある。そういう感情が沸き起こる具体的な思い出が、台湾にあるわけではない。しかし、台湾映画を見ていると、列車、駅、食堂、どんな風景も心が締め付けられるのだ。なぜなのか、私にもわからない。政治的な立場の弱さに対する同情か、「なんとなく、なつかしい」という風景なのか、自分でもわからない。
 先日、ある食文化研究者と雑談をしていて、「もし、1年間外国で暮らすとしたら、食べものだけで言えば、どこの国がもっとも好みに合うか」というテーマになって、偶然にもふたりそろって「台湾ですよ」ということになった。1年間食べ続けることを考えたら、そう、台湾の飯がいい。
 台湾が好きで、飯も最高だというのに、もう20年も台湾に行っていない。あまりに近いと、「つい、そのうち」となって、なかなか行くチャンスがない。現在の台湾がかつての台湾ではないことはわかっているが、それでもきっと「哀愁」という言葉にふさわしい場所だと、勝手に思っている。
 台湾の港町で、飯を食っていたい。


アジア雑語林(106) 2005年5月9日

あるボツ原稿

 2004年の秋のこと、ある新聞社から2005年正月特集の原稿を依頼された。テーマは「日本を含むアジアに共通する文化や習慣」ということだった。ヒマだからすぐさま原稿を書いて送ったら、原稿を依頼した記者ではなく、その上司らしき男から電話があった。「こちらが依頼した原稿とは内容が違うので、書き直してもらいたい」と言うのである。
 「依頼されたとおりの原稿を書いたのですが」と言うと、「そのとおりではありますが、実は本当にお願いしたい原稿は別のテーマで・・・・」という。そこで、別のテーマでアジアの原稿を書いた。
 韓流ブームといわれているが、それはある特定の芸能人がもてはやされているブームであって、韓国映画に夢中になったことから、韓国の歴史や日韓関係を深く調べてみようという人は皆無ではないにしろ、ほとんどいないだろう。そういう趣旨の原稿を書いて、送った。
 すぐさま新聞社から電話が来て、「あの原稿は、まずい」という。それは、こういうことらしい。新聞社としては、正月の特別紙面で、「韓国映画のブームから日韓新時代が始まる」というめでたい紙面を作りたかったらしい。それなのに、私の原稿は「あまりにヒソウテキだ」というのである。この、ヒソウテキが「皮相的」なのか「悲壮的」なのか、あるいはその両方の意味で言ったのかわからないが、とにかくめでたい原稿ではないから、明るい未来を予見させるような文章に改変してくれという依頼の電話だった。私は改変を拒否し、原稿はボツになった。そういう原稿を期待するなら、韓流ブームでひと財産を作ったライターたちに依頼すればいいのだ。
 いまでも、私のあの原稿は間違いだったとは思わない。「ヨン様」と騒いでいる人は、そう呼んでいる芸能人が好きなのであって、韓国に興味があるわけではない。恋愛ドラマが好きなのであって、韓国社会に興味があるわけではない。ドラマの舞台には興味があって出かけるが、それ以外の土地にも出かけるわけではないだろう。タイ料理を自宅で作ることがあるという人が、タイ社会やタイの食文化にも興味があるというわけじゃないというのと同じことだ。それは書籍の売り上げでもはっきりわかっている。韓流ブームといっても、売れる本は芸能と語学テキストだけで、それ以外の本は特に目立った売れ行きは示していない。
 「映画や料理に夢中になるのが軽薄で許せない」と言っているのではない。さまざまな国の映画を見るのはいいことだし、さまざまな料理を食べたり作ったりするのもいいことだ。だからといって、それを国と国との関係にまで結びつけて、「異文化理解が進む」と高く評価するというのはうがちすぎだし、過大評価であり、恣意的である。
 韓国語を学ぶ人が増えたのもいいことだ。「外国語とは英語である」という日本の常識を打ち破り、英語とは文法も文字も違う言語がこの世にあるということがわかっただけでも、この言語を学ぶ価値はある。「ハングル」をNHKでは韓国・朝鮮語の意味で使っているが、それが間違いだということがわかるだけでもいい。ただし、NHKの「ハングル講座」のテキストを買う人が増えたことを、「韓国を理解する日本人が増えた」と解釈するのは間違いだと私は言いたいのだ。韓流ブームで日韓の理解が深まったなら、竹島問題について自分の意見がいえる「ヨン様」ファンが次々に出てきていいはずだが、おそらく「竹島? それ何?」という人がほとんどだろう。
 韓国や中国がかかわることではよくあるのだが、嘲笑や罵倒の裏返しとして過大評価でほめ殺しをやってしまうことがある。韓流ブーム礼賛に、かつての、「中国にはハエはいない」といった中国礼賛時代と同じものを感じるのである。

 


アジア雑語林(105) 2005年4月30日

旅行記またはマジックバスの話

 すばらしい本に出会うと、その本を生み出してくれた著者と編集者に感謝の手紙を書くことがある。あの本も、そういう本の一冊だった。
 1983年10月に出た『街道のブライアンまたはマジックバスの話』(黒田礼二、筑摩書房、1200円)は、一種の旅行記や旅行エッセイだろうと思い、「マジックバス」という語に誘われて買った。マジックバスというのは、ヨーロッパからネパールのカトマンズを結んで走っていたバスで、おそらく世界最長の不定期バス路線といっていいだろう。70年代初めにカトマンズでこのバスを見かけたことがあり、旅行史に興味がある私としては、マジックバス誕生のいきさつなども書いてあればありがたいという気持ちで読み始めた。
 ところが、そういう本ではまったくなかった。フィクションとノンフィクションの境目がつかない内容だが、それが旅行講談のようで、まことに楽しい。著者についてはまったく知らないが、豊かな教養と知識を持ちながら、その上で講談を、あるいは「毎度ばかばかしいお笑いを一席」と落語が始まるという感じなのだ。つまり、「私がその町に着いたら・・・・」という一人称旅物語ではなく、「私の悪友のひとり、イギリス人のブライアンがマジックバスの運転手をしていたころのお話をしてみましょう」という語り口なのである。文章のリズムがいい。著者の空想だけで書いているのではなく、記述が具体的だから内容もしっかりしている。イラストもいい。
 本には編集者の名は書いてなかったが、編集担当者宛に感想文を書いた。手元の資料を調べてみると、私がこの本を買ったのは出版直後ではなく、1984年9月のことだったから、手紙を書いたのもそのころだろう。
 すぐさま筑摩書房の編集者から手紙が来た。「前川さんの『東アフリカ』を持ってアフリカに行ってきました」とあって、びっくりした。私は83年に手書きのガイド『東アフリカ』(オデッセイ出版局)を出した。その本を持ってアフリカに行ったというのだ。そんな縁で何度か手紙のやり取りがあり、あるとき近況報告で「いま旅のエッセイを書いています。出版社はまだ決まっていませんが」と書いたら、「原稿を見せてください」という手紙が来たので、渡りに舟とばかり、原稿を見せたら出版が決まった。『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』(筑摩書房、1988年)である。
 のちに、その編集者箕形洋子さんに「どこの馬の骨ともわからん男の原稿を、よくもすぐに出版したねえ」と笑いあった。当時は「本が出る」ということがどれだけ大変なことか知らなかったので、「出版します」といわれれば、「はいそうですか」と返事しただけなのだ。箕形さんはいう。
「あのころの筑摩は、その辺がいい加減というか、『売れ行き第一』とは考えていなかったから、編集者が出したいと思う本が比較的自由に出せたんですよ。だから、いい本も多いけど、経営が傾いて倒産したわけですよ。いまだったら、無名のライターの旅行記なんか、まず出版できませんよ」
 箕形さんの尽力で本は出たものの、まるで売れなかった。在庫がたっぷりあるのに、「品切れ 重版未定」という事実上絶版になった本だが、講談社文庫の谷さんのおかげでふたたび日の目をみることになった。この文庫版のイラストが、『街道・・・』と同じ加納登さんだというのは、そういういきさつがあるからだ。加納さんとはまったく面識はないが、旅を感じるイラストだから、気に入っている。
 さて、先日、インターネット古書店でアジアの本を調べていたら、珍しくこの『街道・・・』がリストに載っていた。販売価格は5000円だった。この価格は店主が勝手につけたもので、相場とはいえないが、その価値を高く評価しているということだろう。
 その翌日、神田神保町の古本屋で、なんと『街道・・・』を見つけた。いままで、見つければかならず買い、友人の編集者に送り「ぜひ、復刊を」と呼びかけてはいるが、ここ10年くらいは古本屋でも見かけなかった。先日神田で見つけた『街道・・・』は900円だった。やや高い値つけだろうと思う。
 この『街道・・・』がどこかの出版社から復刊されても、たぶんそれほど売れないと思う。はっきりいうが、アジアの旅に興味を持っている人の、知的好奇心や教養や広い視野といったものがあまり期待できない。具体的な旅行ガイドしか売れない時代になってしまったから、『街道・・・』は売れないだろうが、絶品の名作、幻の名作であることは確かだ。

 


アジア雑語林(104) 2005年4月23日

新旧は対立するか

 佐藤さんが結婚して、鈴木に姓が変わったら、「鈴木(旧姓佐藤)さん」と表記されることがある。
 古くからある旅館が手狭になったので、横に鉄筋コンクリートの新館を作ったとする。新館ができたので、元の建物は本館とか旧館などと呼ばれる。
 旧制高校というのは、戦後学制が変わって新制高校ができたから、それ以前の高校を旧制高校と呼ぶ。
 つまり、「旧」とは、それに対応する「新」ができて初めて使われる言葉だ。新館がないのに、「旧館」という言葉は使わない。例外的に「旧家」のような語がある。「古い家」という意味ではなく、由緒正しき一族といった意味だから、「新家」という対応する語はない。「旧友」というのは、古くからの友人という意味で、対応する「新友」という語はない。
 こういう私の日本語常識に照らし合わせて不思議だと思うのは、本やテレビなどマスコミで、「旧満州(現中国東北部)という表記だ。こういう場合、多分筆者が新聞記者でもない限り、原稿は「満州」と書いたのだろうが、編集部が手を入れたのだろうと思う。
 「旧満州」という表記が正しいのなら、「新満州」がなければおかしい。「満州」は、それが正統であるかどうかにかかわらず、日本史では歴史的名称だから、旧をつけずただの「満州」でいいではないか。ある人の経歴を、「旧東京帝国大学卒業後、英国に留学し・・・」などと、いちいち「旧」をつけなくてもいいだろう。
 もし、過去のものだから「旧」をつけるのだとすると、「旧江戸時代」とか「旧源氏」などといちいち表記するのか。
 「旧日本陸軍」という表記も気にかかる。もしも、現在の自衛隊は軍隊であるという考えから、かつての大日本帝国陸軍を「旧日本陸軍」と呼び、現在の自衛隊を「新日本軍」と呼ぶのだというなら、それはそれでわかる。しかし、新聞などで、「旧日本軍」と表記するときは、そういう思想があってのことではないだろう。
 「旧国鉄」という表記も変だ。いまの中学生や高校生には、「国鉄(のちのJR)」とか「国鉄(現JR)」という表記は必要かもしれないが、国鉄にわざわざ「旧」をつける必要はない。
 こうして考えてみると、「旧」をつける語は多分に政治的な表現だとわかる。そして、そういう政治性に私はなじめない。

 


アジア雑語林(103) 2005年4月14日

間違いやすい『日米会話手帖』

 出たばかりの文庫のページを開いて、「おいおい」と突っ込みを入れてしまった。1945年の日本を書いた次の文章だ。

  灯火親しむの候の秋、九月十五日には、機を見るに敏であった誠文堂新光社から早くも刊行された『日米会話手帖』がまたたく間に三百六十万部、飛ぶような売れ行きで、日本人の変わり身の速さ、「米機撃滅」の昨日に変わるカムカムエブリボディ転進ムード高まるや・・・・
     『笑伝 林家三平』(神津友好、新潮文庫、2005年)

 黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が出る1984年まで、日本のベストセラー記録第一位を守り続けていた『日米会話手帖』を出したのは、誠文堂新光社ではなく科学教材社である。
 この『笑伝 林家三平』は、1983年から2年あまり読売新聞の日曜版に連載された原稿がもとになっている。連載が終わったらすぐ文藝春秋から単行本として出版された。2005年に新潮文庫に入ったのは、林家こぶ平の九代目正蔵襲名に「機を見るに敏であった」からだ。読売新聞社と文藝春秋と新潮社の編集者と校正者の目をもってしても、この誤記に気がつかなかったというのはどういうわけだ。宇宙工学の専門書とかボリビアの植物名の間違いに気がつかなかったというのならば、同情の余地はあるが、『日米会話手帖』は出版界の一大事件なのだから、誤記に気がつかなかった理由がわからない。スポーツ新聞に、長島茂雄を「宮城県仙台市出身、法政大学卒業」と紹介してあるようなものだから、気がつかないほうがおかしい。
 じつはインターネット情報でも、『日米会話手帖』の版元を、「誠文堂新光社」としているものや、「科学教材社、のちの誠文堂新光社」というものもあった。なぜこういう混乱がおきたのかというと、ちょっと複雑な事情があるからだ。
 『日米会話手帖』の編者小川菊松は、誠文堂新光社の創業者であり当時の社長である。だから、自分の会社から出版したのだろうという混乱がおきた。科学教材社というのは現在も活動している会社だから、誠文堂新光社の前身ではないのだが、誠文堂新光社と深い関係がある会社だ。その関係を「関連会社」とすればいいのか「提携会社」とすればいいのか私にはよくわからないが、とにかく別会社であることは間違いない。
 かつて、この『日米会話手帖』について調べたことがあるので、この程度のことは知っていたが、念のために国会図書館の資料で検索してみようとしたら、見つからない。360万部のベストセラーが、国会図書館にも所蔵されていないのだ!!
 引き続き検索していくと、国会図書館のホームページの「常設展示品」紹介欄でこの書名が見つかった。出版史の解説だ。

  『日米会話手帖』(昭和20年9月、誠文堂新光社刊。当館未所蔵)のベストセラーを皮切りにして、英語関連の手引書が相次いで発行された。

 ああ、国会図書館よ、お前もか。もしかして、私の理解が間違っているのか? 私も国会図書館同様この本は持っていないので、奥付で確認することができない。間違っているのは、私か、それとも読売新聞社・文藝春秋・新潮社・国会図書館連合なのか。すごい勝負だ。私に勝ち目はあるのか。

 


アジア雑語林(102) 2005年4月7日

古本のページの間に

 新宿から四谷方面に散歩しているときだった。
 住宅地の路地から路地へと徘徊していると、黒く大きな物体が視野に入った。3階ほどの建物なのだが、屋根はもちろん壁も真っ黒だった。壁はタイルか金属でうろこ状でおおわれ、全体が巨大な甲冑、あるいは甲虫のように見える異様な建造物だった。外観は異様だが、宗教施設とか劇場という感じではなく、ベランダがあるから住宅のように思えた。
 この建物の正体が知りたくて正面入り口に立つと、幻想小説にでも出てきそうな漢字を使った「○○館」という看板が見えた。どうやら集合住宅のようだが、奇妙なこの建物の名前に記憶があった。1年ほど前に、ここに手紙を出したことがあるからだ。
 古本屋で買った本に、葉書がはさまっていた。古本に何かがはさまっているというのはよくあることで、新刊書と同じように愛読者カードや新刊案内以外にも、映画館の半券、箸袋、鉄道の切符、レシート、メモ用紙などがはさまっていることがある。しおり代わりに使ったのだろう。しかし、使用済みの葉書が入っていたのは、そのときの一回だけだ。
 女性から女性への葉書で、その文字からして高齢者のように思われた。文面は日常のなんということもない内容だが、当人たちにとっては重要な葉書かもしれないと思い、その葉書を手に入れたいきさつなども書き添えて、葉書のあて先に送った。
 しばらくして、礼状が届いた。「妹からの葉書が転々としてしまったようで・・・・」という内容の、ていねいな文章だった。その人が住んでいるのが、この甲冑の館だ。
 古本をよく買う人なら、このように本に何かがはさんであったというのはよくあることなのだが、次のような例は稀有な体験だろうと思う。「そんな物なら、私が買った本にも・・・」という人は、世界の古本マニアでもめったに体験しないだろうと豪語したい。現金でも株券でもなく、金銭的価値はないが、珍しいものであることはたしかだ。
 場所は神田の古書店だった。数年前のある日、社会科学系の学術書も専門のひとつとしている書店に足を踏み入れると、その店では珍しいことに、床から本が高く積み上げてあった。50冊くらいはあっただろうか。それらの本はどれもアジア、とくに東南アジアのやや専門的な本ばかりだから、個人の蔵書をまとめて売却したのだろう。研究者が亡くなったので売却したのかとも思ったが、どの本もそれほど古いものはなく、純然たる専門書は一冊もなく、東南アジアの何かを専門とする研究者の蔵書には見えなかった。
 値段はかなり安めだったので、未読の本を何冊か買った。
 そのうちの一冊、『母なるメコン、その豊かさを蝕む開発』(リスベス・スイルター著、メコンウォッチ日本国際ボランティアセンター訳、めこん、1999年)を自宅で読んでいたら、手製のしおりがはさんであるのに気がついた。何かの書類をしおりの大きさに切ったものだ。読める部分には、こんな文字がある。

 料(印税計算の場合)  発行部数X定価 10%
 ら受領した出版使用料の 乙が受領した金額の

 出版関係者なら、これがどういう書類を切ったのかすぐにわかる。著者と出版社の間で取り交わされる出版契約書である。この手製しおりの裏は、ちょうど著者の住所・氏名・捺印の部分で、そのには芥川賞作家M氏の署名・捺印がある。その人の本は読んだことはないが、小説嫌いな私でも名前を知っている有名作家だ。
 そこで疑問だ。あの古書店に積んであったアジア関係書はすべてM氏の蔵書だったのだろうか。同じ系統の本だからそう考えるのが自然だが、M氏の作品にアジアが関係するものを知らない。基本的に私は小説を読まないし無知だが、アジア、とくに東南アジアが関係する作品ならば、純文学であれミステリーであれ、探し出してたいてい読んでいる。それらの小説やエッセイのなかにM氏の名は記憶にない。
 もうひとつの疑問は、なぜ出版契約書をしおりにしたのか、だ。井上ひさしは、本の帯を切ってしおりにしていると書いていて、それならわかるが、出版契約書を利用するというのは気にかかる。しかも、自分の住所と署名がある部分も使っている。出版契約をしたものの、出版社が倒産したか、原稿が書けなかったか、なにかのトラブルで出版できなかったといった腹いせで、契約書を切り刻んだのだろうか。
 ちなみに、私は映画や催し物のちらしを切って、手製しおりにしている。紙が厚く、色が鮮やかだから、目立っていい。いい映画ちらしが入手できないときに、海外ツアーのパンフレットを切ったこともあるが、紙が薄すぎて使いにくく、文字が多いので美しくない。

 


アジア雑語林(101) 2005年3月30日

新宿・鈴平

 『植草甚一コラージュ日記 (1) 東京1976』(晶文社、2003)を読んでいたら、新宿の鈴平の名が出てきた。すっかり忘れていた名前だったが、そういえばそんな名前だったことを思い出した。
 紀伊国屋本店の前に、「しゅうまいの早川亭」があり、そこの路地を入っていくと、右手に武蔵野館。そのまま南口の方に進むと、ピンク映画館があり、その隣は中古カメラの店だったか。そしてその並びに鈴平という古本屋があった。
 かつて新宿の本屋といえば、紀伊国屋書店が孤高の存在だった。1970年代の紀伊国屋では、エスカレーターを上がってすぐ右の雑誌コーナーにミニコミも置いてあった。ガリ版刷りの旅行雑誌「オデッセイ」も、創刊間もない「本の雑誌」も、そこで発見して、以後購読することになった。
 そういう意味では画期的な書店だったが、本屋巡りが好きな私にとって、紀伊国屋以外に本屋が見つからないのが不満だった。そんな思いで新宿をぶらつき、路地の奥で見つけたのが鈴平だった。
 木造の古本屋で、品揃えに変わったところはなく、値段も安くはなかった。だから、新宿に出れば必ず立ち寄ったものの、本を買った記憶はあまりない。客の姿はほとんどなく、いつも閑散とした店内だったが、棚の前でじっと立ち読みし、ポケットからタバコを取り出して、店内で平気でタバコを吸い、なおも立ち読みしている邪魔な男をときどき見かけた。それが植草甚一だった。植草の顔は、「話の特集」で知っていた。
 紀伊国屋でも、棚の前でじっと動かない男がいて、「邪魔だなあ」と思ってふと見ると、植草甚一だったということがあった。神田でも、銀座のイエナでも会ったことがないのに、なぜか新宿では何度も遭遇している。
 植草甚一と話したことはないが、話を聞いたことはある。少人数の客を相手にする講演会だった。たぶん化粧品のポーラがスポンサーになって、青山で行なわれた講演会だったと思う。新宿で見かけたころは、まだアメリカに行く前だったからスーツ姿だったが、講演会のときはそれまでとはまったく違う派手な服装に変わっていた。アメリカ滞在の話が聞けるのだろうと期待していたのだが、河野典生の『ペインティング・ナイフの群像』の話が長引いて、ちょっと退屈した。私は文学には興味がないからだ。
 いま思い出したのだが、雑誌「ワンダーランド」が創刊された記念イベントに行ったのだが、あのとき植草が壇上にいたかどうかという記憶がはっきりしない。編集長なのだから、出席者であって当然なのだが、誰が何を話したかという記憶はまるでない。はっきりと覚えているのは、「創刊したばかりですが、誌名が『宝島』と変わり、版型も小さくなります」と誰かが説明し、びっくりしたことだ。
 鈴平が変身したのは、おそらく植草が亡くなってからだろう。木造の古い家は、ペンシルビル(鉛筆のように細いビルのこと)に姿を代え、古本屋はその地下で営業していたが、狭いうえにクズのような本ばかりで、店の一角でサルノコシカケを売るような店になり、それ以後足を運ばなくなった。いまでもそのペンシルビルは建っているが、地下に古本屋はない。

 


アジア雑語林(番外) 2005年3月24日

「何かお探しでしょうか?」

アジア文庫 店主

 「アジア雑語林」も、3月17日付けで100回を数えました。前川さんには、ほとんどボランティア状態で書いていただいていますが、当サイト内では、アクセス数の多い人気ページとなっています。改めてお礼申し上げます。ただ、時おり店主への課題が出るのが玉にキズ。で、今回も、その100回目のコラム、「不審な客」で課された店主への課題にお応えする破目になった。
 長く本屋をやっていると、本当にいろいろな方にお会いする。お客さんに関しては800字どころか、8000字でも書き足りないが、お客様商売の身としては、お客さんのことをあれこれ書くのは、僭越だろうし、やはりためらわれる。ここでは、前川さんの疑問に絞ってお答えすることにします。

 本屋の立場から、「何かお探しでしょうか?」と声をかけたくなるのは、次の場合。
(1) 棚を見回して、本当に何かを探しているそぶりをみせている人。
(2) 本を見るでもなく、落ち着きがなく、うろうろとあっちこっち移動したり、見るからに行動がおかしい人。
(3) 万引きが目的らしき人。
(4) 怪しい人。(これは店員の主観がかなり入るかも)
 (1)
は、目的買いの人が多い。知人や家族に頼まれて来ている人や、読書のレポートを課せられた学生など、どちらかというと、自分の関心分野とは別の本を探しに来ている人が多いようだ。(2)は、何のためにここ(本屋)に来てるんだろうと思える人、立ち読みするでもなく、本を選ぶでもなく、なんとなく不気味なのだ。(3)は説明の必要はないだろう。(4)は、万引き目的ではないようだが、何者だろうかと、服装や、雰囲気が常識的な範疇を超えて正体がつかめない人。私は(4)の人に声をかけることはないが、店(あるいは店員)によってはかけたくなるのかな?とは思う。
 前川さんの場合、(1)から
(3)には明らかに当てはまらない。私は、髭面、長髪で、特に夏場は派手派手なシャツに、モンペにサンダル、という氏の風体が最大の要因だろうと思う。声をかけられるのも夏が多いのではないでしょうか?前川さん。多分、(4)ではなかろうかと私は推察します。前川さんが髪を短くカットして、髭を剃り、ネクタイにスーツとまではいかなくとも(想像しただけで吹きだしそうになりますが)、普通のシャツにジーパンで、靴を履いていれば、店員は気にもとめないでしょう。
 「せどり」と間違われたということは、考えられなくもない。棚の見方や、本の選び方は、近いものがあるかもしれない。でも、ちょっと違うような気もする。私も含めて、書店人は、何故かセンスのない地味な格好をしております。

 


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