冨田先生が残したもの

前 川 健 一


 

「タイ日大辞典」
冨田竹二郎編
日本タイクラブ発行 めこん 28,000円

 

 冨田先生が亡くなった。私は先生の教え子ではないが、いままでの功績と、たまたま父と同年の生まれだったせいで、敬意を込めて唯一「先生」と呼んでいた人だった。
 冨田竹二郎という名を初めて知ったのは、井村文化事業社が発行した「東南アジアブックス」の『タイからの手紙』(ボータン著)の翻訳者としてだった。1979年のことだ。翌年の『田舎の教師』(カムマーン・コンカイ著)も出版後すぐに読んだ。おもしろい作品だとは思ったが、その翻訳のすごさを当時はまだ充分には味わえなかった。
 80年代に入って、私はタイを定点観測地に決め、タイ関係書をまとめて読んだ。すでに読んだ本も、ノートをとりながらじっくり読んでみると、先生が翻訳という作業に大変な力を入れていることがよくわかった。とにかく、執念と呼ぶにふさわしい訳注である。動植物名には学名付きで解説がある。訳注だけ読んでも、タイ雑学事典になりそうなほど詳しいものだ。冨田先生の執念とは、日本人の注目をほとんど浴びることのないタイという国に、なんとか関心をもって欲しいという願いだ。タイ関係書があまた出版され、女性雑誌でバンコク特集をやる現在からはとても想像できないだろうが、80年代末あたりまでの日本では、タイに興味を持つ人など極めて少ないマイナーな地域だった。
 冨田先生の翻訳によって、私は数多くのことを教えてもらった。翻訳書に先生の住所が書いてあったので、感謝の手紙を書いた。すぐさま返事をいただき、その後、手紙のやりとりが始まった。私がタイに関する疑問を書くと、先生は解答の手紙とともに論文などの資料を送ってくださった。そんな手紙のやりとりのなかで、『タイ日辞典』の最終作業に追われていることを知った。
 先生は、手紙を書くとすぐに返事をくださったが、あるとき返事がまったく来なかったことがあった。辞書の編集作業に追われているのだろうと思い、大して気にしなかった。久し振りにいただいた手紙には、こうあった。「倒れて、入院していたので、ご返事が書けずにすいません。もう少しで、あの世に行ってしまうところでした。辞書を作ると命をなくすといいますが、ほんとに危ないところでした。点滴を受けつつ、辞書の校正をしています」
 決して誇張ではなく、命と引き換え覚悟で作った『タイ日辞典』が出版されたのは、1987年だった。まだコンピューターが使えず、タイ語と日本語のタイプライターを使った労作であり、内容は空前絶後だった。すぐさまその大著を買った。タイ文字が読めなかったから、最初のページからノートをとりながら読んでいった。一週間かかって読み終えて、「これで、バンコクの本が書けそうだ」と思った。
 のちに『バンコクの好奇心』となる本の取材でバンコクに通い、そこで大変世話になった在住日本人に、お礼の意味でこの『タイ日辞典』を送ろうとしたら、すでに品切れになっていた。28,000円の本が、わずか一年ほどで売り切れていたのである。先生に手紙を書いたら、「一冊だけ残っている」ということだったので、さっそく代金を送った。まもなく、先生からダンボール箱が送られてきた。辞書のほかに、大阪外国語大学タイ語科の自作教科書と、それに合わせた20本ほどの録音テープが入っていた。「私がダビングしたもので、市販はされていません」とメモが入っていた。「これで、しっかりタイ語を勉強しなさい」という意味なのだろうが、怠け者のせいでいまだに私のタイ語はカタコトの域を出ないままだ。 
 『タイ日辞典』は日本人ための奉仕活動だった。だから、次はタイ人のために根を詰めることになった。タイ人のための『日タイ辞典』の執筆に入り、辞書ができるたびに送ってくださった。
 先生に実際に会ったのは、たった二回しかない。最初はバンコクだった。ホテルのレストランで西洋料理を食べながら、先生のタイ留学生活の話をうかがった。時は戦中、中国語ができるというだけのことで、「似たような言葉だから勉強しろ」と教授に勧められての留学だった。その留学生活の話が抱腹絶倒で、しかも私が知らない時代の話だから、好奇心が多いに刺激された。
 「先生、その頃の話をぜひ書いてくださいよ」 そうお願いしたが、聞こえないふりをされてしまった。先生自身、もう残された時間はあまりないことがわかっていて、その貴重な時間をタイ語辞書のコンピューター化のために使おうと考えていたようで、その年タイに来たのも、コンピューター関係者と会うためだった。
 それならば、私が聞き書きでまとめようかと思ったが、興味を示す編集者はなく、そのままになってしまった。『タイ日辞典』の第三版にあたる、『タイ日大辞典』(発売 めこん)が出た97年に三重県のご自宅でお会いしたときには、言葉がやや不自由になっていて、もはや聞き書きは無理になっていた。先生にいただいた手紙のなかに、こんな文章があったのを思い出した。
「辞典の校正に疲れたので、あなたのお気に入りのスナリーのテープを聞きながらひと休みしています。歌詞をじっくり聞いてみると、韻文の伝統をきちんと踏まえているのに感心しました。ちょっと訳してみましょうか」
 もう、こんな手紙を書いてくれる人はいない。

「季刊 アジア文庫から」 No.72
活字中毒患者のアジア旅行(54)より

 

前川健一の連載コラム「アジア雑語林」

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