前川健一 著作一覧


アジア雑語林(231) 2008年8月18日

大正時代の海外旅行事情 その1

 海外旅行体験記というものは、明治初期から出版されているものの、詳しい旅行事情はよくわからない。出国までの手続きや、携行品の内容や、渡航資金はどのくらいかかったかといったことがよくわからない。そこで、ちょっと資料を探してみると、たまたま『米国旅行案内』(上村知清、日米図書出版社)という本が見つかった。大正8年の出版だから、1919年ということになる。これが最初の旅行ガイドではないだろうが、参考になりそうなので、内容を紹介してみよう。
 本題に入る前に、書誌学的な話題を書いておこう。次のように、ややこしい事情があるからだ。国会図書館のリストでは、『米国旅行案内』という書名で検索すると、次の4冊が収蔵されているとわかった。出版年の古い順に書き出すと、次のようになる。

1、上村知清著        新光社 大正8年 (1919)
2、  〃      海外旅行案内社 大正13年(1924)
3、  〃            〃     昭和2年 (1927)
4、滝本二郎著  欧米旅行案内社 昭和5年 (1930)

 私が読んだ日米図書出版社版は国会図書館にはないようだが、同じ著者が同じ年に同じ書名の本を出版している事実は、興味深いが深入りしない。おそらく、同じ内容の本だろう。
 私は、この本を古本屋で手に入れたわけではない。ゆまに書房から2007年に復刻されたものを読んだのだ。復刻版でも1万4000円もする本だから、私にとっては珍しいことに、図書館で借りて読んだ。
 では、さっそく、海外旅行の準備に入ろう。
 旅券取得 明治33年改正の海外旅券規則による。
 申請書に記入するのは、次の事項。

 1、氏名
 2、本籍地
 3、身分(これは、戸主とか長男といった区別)
 4、族称(皇族、華族、士族、平民の別)
 5、年齢
 6、職業
 7、旅行地名
 8、旅行の目的

 この申請書に、戸籍謄本をそえて、それぞれの地方の役所に申請する。手数料は収入印紙で50銭。当時の50銭がどのくらいの価値があるのか調べてみたら、12色のクレヨンが30銭、そば一杯が10銭弱だから、特別に高額というわけではない。いまのパスポート代金よりも、むしろ安いくらいだ。
 給付されるまでにかかる日数は書いてないが、給付されてから6カ月以内に日本を出ないと無効になる。この当時の旅券は現在の数次旅券とは違い、帰国するまで有効の一次旅券だ。
 現在と大きく異なるのは、保証人が必要なことだろう。保証人は、渡航者の旅費全般に責任を持つ。旅先で無一文になったとか、病気で帰国できない、客死したといった場合に発生する費用のすべてに責任を持つという保証書だ。
 船旅 南ルートであるハワイ経由なら17日間、シアトルに行く北ルートなら13日間ほどで到着する。運賃は横浜からシアトルまで、1等600円、2等350円、3等100円。当時、サラリーマンの初任給が30〜40円くらいで、大正9年の小学校教師の初任給が40〜55円だったことを考えれば、船底の地獄部屋のごとき3等室ならば、アメリカ旅行が1960年代よりも割安だったと考えられる。
 驚くほど高いのが、アメリカの入国税だ。乗船券購入時に支払うことになっているが、その額は、8ドル(16円)。船賃が100円で、入国税が16円は高い。ただし、60日以内にアメリカを出国する者は、払い戻しの制度がある。

 


アジア雑語林(230) 2008年8月10日

英語を学ぶ目的は

 今回は、『英語ベストセラー本の研究』(晴山陽一、幻冬舎新書)を点検しながら、日本人が英語を学ぶ目的について考えてみたい。
 晴山氏によれば、1949年から使われ始めた英語の教科書『ジャック・アンド・ベティー』には序論「なぜこの書はつくられたか」があるそうだ。
 その序論で、英語教育の目標について、次のような項目があるという。
   1、英語で考える習慣をつけること。
   2、英語の聴き方と話し方とを学ぶこと。
   3、英語の読み方と書き方を学ぶこと。
   4、英語を話す国民について知ること。特にその風俗習慣および日常生 活について知ること。
 これらの項目について、晴山氏は、こう書いている。

 「こうして見てくると、日本の英語教育の目標について、実は六十年以上前に立派な模範解答が示されており、以後の英語教育の迷走ぶりは、この模範解答に対しまるで駄々っ子のように、逡巡し抵抗を繰り返してきた歴史であるように思われる」

 晴山氏の文章の特徴は、表面上はわかりやすそうな文章でありながら、じつは何を言いたいのか、読者にはなかなか伝わらない舌足らずな文章だということだ。上に引用した文章で言えば、「駄々っ子のように、逡巡し抵抗してきた」とは、具体的にどういう主張が誰によってなされてきたのか、詳しい説明がいっさいない。書いている本人はわかっているのだろうが、読者には伝わらないという個所がほかにいくらでもあるが、ここでは触れない。
 さて、この序論は、晴山氏の言うように、日本人に対する英語教育の目標として、はたして「立派な模範解答」なのだろうか。別の言い方をすれば、日本人が英語を学ぶ目的の「立派な模範解答」なのだろうか。
 英語教育の素人である私の直感でいえば、日本人にとって英語とは、戦前は「イギリス人のことば」であり、戦後に「アメリカ人のことば」になった。実質的にはアメリカ軍である進駐軍の占領下では、英語を学ぶということは、アメリカ人が日本人に見せたがっているアメリカの素晴らしさを学ぶことであったはずだ。
 いまでもそう信じている日本人は少なくない。やたらに「ネイティブの発音は・・・」などと言うようなことを言いたがる人たちだ。英会話学習書の重要な買い手群(大して読まないだろうから、「読者」ではないだろう)は、そういう人たちだろう。アメリカ人のように英語を発音できるようになれればいいなとつまらん憧れを抱いているから、いつまでたっても話せるようにならないのだ。英語学習書がたえず売れ続けている理由は、それがダイエット本と同じだからである。人々は「本を買えば効果がある」と思い込んでいるから、次々と本を買うのである。
 戦後の英語教育史上、「アメリカを学ぶための英語」という時代は、もうとっくに終わっている。
 英語の教科書を編集している友人によれば、もう何年も前から、英語の教科書にアジアやアフリカの話が出てくるようになって、アメリカやイギリス一辺倒という時代は終わり、「英語の教科書も、なかなかやるな、という時代ですよ」という。
 日本の外務省でさえ、日本人の名前のローマ字表記を、以前は西洋人のサル真似をして名・姓の順で書いていたものを、日本式に姓・名に改めてパスポートに記入するようにしている。
 英会話学校であれ、テレビの英語講座であれ、英語教師といえばいつも白人という時代が、少しずつ変わりつつある。
 戦後の英語ベストセラー本の流れをしっかりとつかんで論評するなら、このポイントをしっかりと押さえておかなければいけないと、英語教育の素人は思うのである。
 私なら、こう書く。
 「『ジャック・アンド・ベティー』の序論は、英語がアメリカ文化を学習する手段であった時代の歴史資料としては重要であるが、現実的にはもはや時代遅れである。英語は、英語を母語とする人たちの文化を学ぶためだけの言語ではない。英語は、多少であっても英語を理解できる、世界のありとあらゆる人たちとの意思疎通の道具であり、情報を集め、出す道具のひとつと考えられるようになった。それが、日本の戦後英語教育史の大きな変化である」

 


アジア雑語林(229) 2008年8月2日

『日米会話手帳』に関して、またまた。これで3度目だ。

 日本人の外国語学習史に興味があるので、その関連の本を折に触れて読んでいる。今年の春に読んだのが、『日本人と英語 ――もうひとつの英語百年史』(斎藤兆史、研究社、2007)で、日本人と英語に関する歴史を解説する本だから、『日米会話手帳』が当然ながら登場する。で、残念ながら、版元が正しい「科学教材社」ではなく、あまたの本が間違えている「誠文堂新光社」になっている。著者が英語史の専門家である東京大学教授であり、版元が英語の本の研究社だから、この間違いはイタい。
 『日米会話手帳』については、すでにこのアジア雑語林の103199で触れているから、未読の方は、まずその文章を読んでください。
 さて、今日だ。外国語学習史の関連で、『英語ベストセラー本の研究』(晴山陽一、幻冬舎新書)を買った。売れているらしく、2008年5月30日第1刷で、6月10日には2刷になっている。私はその2刷を買った。
 この本でも、当然『日米会話手帳』が紹介してあり、「あんたもかい!」と言いたくなった。ここでも、版元を「誠文堂新光社」にしている。それだけの間違いなら、いままでの本と同じあやまちなのだが、この新書の場合は問題が多すぎる。
 すでにこのアジア雑語林で書いたように、『日米会話手帳』は古本屋を探しても見つからないし、国会図書館にもない。だから、『日米会話手帳』を写真で全ページ紹介し、出版にいたるいきさつを解説している『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日文庫)を参考書にするしかない。
 『英語ベストセラー本の研究』も、やはり朝日文庫を参考資料にしたと明記し、引用もしている。しかし、それならば、版元を間違えるはずはない。『日米会話手帳』の著者は誠文堂新光社の社長である小川菊松だが、なぜ自社から出さなかったのかという話は、資料にしたという朝日文庫にちゃんと書いてあるのだ。朝日文庫を「参考にさせていただいた」と書いているが、どうやら読んではいないようだ。
 また、「誠文堂新光社は科学系書籍の出版社であったため、物資の不足していたこの時期に、なお大量の紙を保有していたのも幸運だった」と書いているが、「科学系書籍の出版社」ならば、なぜ大量の印刷用紙が割り当てられていたのか、まったく説明がつかない。著者は納得して原稿を書いたのだろうか。
 正解は、こうだ。誠文堂新光社は戦時中、軍国賛美の本を多く出していたので、軍部に優遇されていた。そのせいで、大量の用紙を割り当てられていたのだ。しかし、戦時中のそういう活動のせいで、社長の小川はGHQにより公職追放にあうのである。
 『英語ベストセラー本の研究』の著者が準備段階でしておくべきだったのは、英語関連本であるかどうかに関わらず、まず戦後のベストセラー全体の勉強をして、それから英語関連本に手を着けるべきだった。著者は元編集者なのだから、なおさらそのことに気がついてほしかった。英語関連のベストセラーなら、この『日米会話手帳』や『英語に強くなる本』(岩田一男)に関しても、例えば『ベストセラーの戦後史』全2巻(井上ひさし、文藝春秋、1995)など、詳しく書いてある本は多数ある。
 『英語ベストセラー本の研究』は、どうも信用ならないのではないかと思い始めると、校閲しながら読んでしまう。すると、すぐにおかしな個所が見つかった。
 「一九四六年二月に、「カム・カム・エヴリバディ」の歌声で有名な、平川唯一の『NHKラジオ英会話』の放送がスタートした」とあるが、1946年にはまだテレビはないのだから、番組名にわざわざ「ラジオ」と明記するわけはない。正しい番組名は「英語会話」である。
 『みんなのカムカム英語』(平川唯一、毎日新聞社、1981)から、「kitty, kitty. Come on, kitty. Come here.」という例文を引用しながら、「私が驚いたのは、ここにはトムもメアリーも登場しないことだ。出てくるのはすべて日本人であり・・・」と書いている。ということは、このキティーちゃんは日本人なんだ。
 出版をよく知っているはずの元編集者が書いた本にしては、あまりにずさんである。
 驚いたことに、AMAZONの読者評価ではかなり好評なのだが、読者もきちんと読まずに評価したのだろうか。

 


アジア雑語林(228) 2008年7月23日

1952年生まれの旅行者

 すでに死んでしまった8人の旅行者たちの生涯を紹介した『ラストシーン』(小林誠子、バジリコ、2007年)を読んだ。登山家の若山美子以外、植村直己や上温湯隆など、著作を通じてではあるが、よく知っている人ばかりだ。だから、単なる、「生涯のあらすじ集」でしかないこの本を高く評価することは出来ないし、引用のしかたや、写真のクレジットなど、執筆技術の点でも問題の多い本だと思う。
 まあ、そういうことはともかく、登場人物の年表を眺めていて、あることに気がついた。サハラをラクダで横断しようとして渇死した上温湯隆(かみおんゆ・たかし)と、ロシアでクマに襲われて死んだ写真家星野道夫は、ともに1952年生まれなのだ。星野は9月、上温湯は11月のうまれだ。なぜ、そんなことが気になったかといえば、同じ年の4月に私が生まれているからだ。
 ただし、同年生まれという親近感はない。ただ、同じ時代を生きたので、時代背景を共有できることに興味を覚えたのだ。
 上温湯は、高校を中退して働いてカネを作り、1970年、17歳で一度目のアジア・アフリカ方面への旅に出た。帰国したのは、72年だ。
 上温湯が資金作りに励んでいるころ、慶応高校の生徒だった星野は、アメリカ旅行に行っている。1969年のことだ。『ラストシーン』から、その部分を引用してみる。

 「大学生になってアラスカを目指した星野だが、高校二年の時アルバイトで貯めたお金では足りず、父に資金援助をしてもらい横浜港から『アルゼンチナ丸』に乗り、アメリカ四十日間バスやヒッチハイクで一人旅をしている」

 この本の別の個所では、アメリカだけではなく、メキシコ、カナダも旅していることがわかる。
 さて、例によって、駆け出しの海外旅行史研究家としては、気になることがふたつある。
 ひとつは資金のことだ。1969年当時、あるぜんちな丸(ひらがな表記が正しい)の横浜・ロサンゼルス間の片道運賃は、最も安い大部屋で12万2400円。往復だと1割引きになり、約23万円。だから、総旅行費は30万円以上と考えられる。1969年ごろといえば、学生アルバイトの日給が1000円くらいの時代だ。高校をやめて本格的に働いた上温湯は、香港までの切符を買ったらそれほど残らなかった。大学の夜間部に入学し昼間働いていた鈴木紀夫(小野田氏発見者で有名)だって、1年かかってやっと作った20万円が、1969年の初旅行の全資金だった。ちなみに、星野の5年前におなじあるぜんちな丸に乗ってロサンゼルスに向かったのが植村直己だ。その植村も、片道の運賃分しか稼げなかった。そういう時代背景を考えれば、「父に資金援助をしてもらい」というのが、実際は、「ほとんど親に出してもらい」なのだろうと推察される。
 もうひとつの問題は、時間だ。横浜・ロサンゼルス間は船で15日かかる。もし、往復とも船を使ったとすれば、全日程40日間のうち、30日は船上にいたということになる。それで、アメリカ、メキシコ、カナダをヒッチハイク? 帰路を飛行機にすれば、日程的にやや楽になるが、資金的につらくなる。
 星野のこの旅が架空だろうと言いたいのではない。大金を使った高校生のあわただしい旅だなあと思っただけだ。
 ひがんで言うわけじゃないが、外国に行きたいと思っていたこの前川は、なかなかカネがたまらず、資金援助してくれるような父もおらず、1973年まで資金稼ぎが続いてやっと出国できたのだ。

 


アジア雑語林(227) 2008年7月15日

不敬罪本の謎

 2000年に出たその本を、アジア文庫で見た記憶はあった。それ以外の記憶はないのだが、おそらくページをパラパラとめくって、「まあ、買う必要のない本だな」と結論を出し、本を平台に戻したのだろう。
 その本、『チェンマイ田舎暮らし ――微笑の国で年金生活を充実させる』(高橋公志、マガジンハウス、2000)をめぐる不敬罪騒ぎを知ったのは、さて、いつだったか。タイ王室を侮辱した内容だということで、タイ警察が捜査を始めたということだったか、詳しくは何も覚えていない。日本で発売している本だから、タイの司法がいきなり発売中止という処分が下すことはないが、日本側としても自主規制をして発売中止、すぐに絶版にしただろうと思った。不敬罪を不快には思うが、その本に興味がなかったから、その後のいきさつを調べる気はなかった。
 ところが、ちょっと前のこと、例によってインターネット古書店の販売目録を読んでいたら、この本がリストにあった。いわくつきの本なら、とんでもない高値がついているに違いないと思ったら、普通の古書価格だ。つまり、捨て値だということだ。それならばと、ついつい調子に乗って、カチッとクリックして購入してしまった。
 数日後、送られてきた本を読んでみたのだが、不敬罪として告発されそうな記述はいっさい見つからないのだ。もしかして、削除して「2版」あるいは「2刷」にしたのかと思い奥付けを確認すると、「二〇〇〇年八月二四日 第一刷発行」になっている。初版初刷りのままということだが、これはいったいどういうことだ。
 著者がタイで不敬罪に問われたその版元、マガジンハウスがとる態度は、次の3つだろう。
 1、不敬罪など無視して、そのまま発売を続ける。
 2、絶版にする。
 3、手直しして、いわば改訂版を出す。
 タイでは売らないということにすれば、1の態度をとることも出来るが、同社の雑誌などタイ取材が一切禁止される事態になれば、損害は大きい。よって、態度1は、ない。
 もうある程度売れたあとだろうから、今後急激に売れないから、多額の費用をかけて改訂版を出すくらいなら、絶版にするという態度2が、適正な判断だろうと思う。
 ところが実際は、不敬罪になりそうな記述を削除して、しかし、奥付けはそのままで増刷したらしいのだ。「まだまだ売れるぞ」と版元が判断したようだ。アジア本の世界を知っている出版人なら、おどろきの判断じゃないですか。
 さて、ここから先は、ネット情報をもとに調べた結果だ。
 問題となった個所は、ネット上で読めた。犯罪となるかどうかはともかく、品のない記述ではある。著者は、2003年2月にタイ当局により逮捕され、7月に禁固1年6月、執行猶予2年の判決が下されている。
 ということは、発売後3年たって、告発されたわけで、そのころ初版がほぼ売り切れていたので、手直しして再販したというのであれば奥付けで「2刷」になっているはずで、よくわからない。某有名中堅出版社は、カバーに「改訂版」と印刷し、再販本をそのまま売っていたのは知っている。本は初版のままの奥付けだった。改訂版じゃなくて、改装版だよ。
 そうそう、いま思い出したが、“The Devil‘s Discus”も、確信はないが、たぶん不敬罪になったんじゃないかなあ。日本語版は『タイ国王暗殺事件』(レイン・クルーガー著、徳岡孝夫訳、エール出版、1974年)で、定価1000円は、高い。ちなみに、この原稿執筆時にアマゾンでは1冊出品されていて、売値は2万1000円。
 私はだいぶ前に、早稲田の古本屋で買った。1000円だった。読んでみれば、1000円以上だして買う価値はないが、読みたくなるタイトルではある。

 


アジア雑語林(226) 2008年7月7日

柳の下のカレー本たち

 もう何年も前からカレーとラーメンがブームのようで、専門店だけでなく、出版部門でもカレー本やラーメン本があまたある。しかし、カレー本もラーメン本も、内容はほとんど大差なく、店ガイドと既刊書の焼き直しという、あいも変わらぬ「柳の下のドジョウ本」からほとんど抜け出していない。カレーが好きな日本人が1億人いても、カレーについて深い興味を持っている人は数百人もいないらしい。
 自称「カレー好きライター」はひと山いくらで売れるほどいても、新たな資料を見つけて分析する者もなければ、周到なフィールドワークで新境地を切り開く者もいない。読者が「食べる」ことにしか興味がないから、出版側も粗製乱造を繰り返しているのだろうか。「森枝卓士を越えてやろうじゃないか」と、果敢に挑戦するライターがいてもいいと思うが、登場するのは焼き直しばかりだ。
 こういう出版状況が腹に据えかねて、『アジア・カレー大全』(旅行人)という画期的な本を企画したのだが、華々しく売れるという状況にはない。「自称カレーマニア」たちでさえ、韓国や中国のカレー事情にはまるで関心がないらしいのだ。食文化研究というのは、スポーツと並んで、外見は派手だが、研究書の少ないマイナーな分野なのだ。そういえば、マンガもファンは多い世界だが、読者の数に比べて研究者は少ない気がする。とくに、外国のマンガ事情に関心がある人が少ないらしい。カレーも、ラーメンも、マンガも、日本が世界一だと思っていて、日本国外への関心がないのだ。
 日本語の本にはもはや期待ができないから、英語のカレーの本を探してみた。アマゾンなどで探してみて、まっさきに気がついたのは、「Curry」さんという姓の人が多いことだ。「curry」で検索すると、著者名のCurryでヒットしてしまうのだ。
 カレー氏に驚いたあとで気がついたのは、英語でもカレーの本が多いことだ。タイやマレーシアの書店で、英語の本をチェックしてみても、「カレー」や「インド料理」に分類できる本が数多くあることに気がついた。カレーは日本だけのブームではなく、英語出版物の世界でも、どうやらブームらしいのだ。
 「もしかして、おもしろいかもしれない」と思って注文した本が届いた。
 Dave Dewitt  & Arther Pais “A World of Curries ―― From Bombay to Bangkok , Java to Jamaica , Exciting Cookery Featuring Fresh & Exotic Spices” Little,Brown and Company,1994,Canada
 約19センチX23センチと、正方形のような本で、242ページ。参考文献や索引のページも多く、しかし、西洋の料理書では珍しくないのだが、カラーはもちろん白黒写真さえまったくないという質実剛健ぶりだ。世界のカレーを、料理法つきで150種を紹介しているらしい。
 タイの食文化については、当方、少しはわかるから、内容の信憑性を確かめる上で、さっそく読んでみた。

「タイの家庭やレストランでは、野菜や果物を彫刻した花を料理に添えるのは、ごく普通のことである」

 スイカで作った花などを添える高級レストランはあるが、それが普通のレストランではないし、ましてや「家庭で」となれば、よほど特別な家庭である。
 料理法を読んでみると、「カレーペーストを、オリーブ油でよく炒め」などと書いてある。タイ人がオリーブ油を使うわけはない。どうしてこういうおかしな文章を書いているのかいぶかしく思い、調べてみた。どこの誰だかわからないが、トミー・タンとかいう料理人が書いたタイ料理の本から、料理法を紹介したようだ。その料理人の本には「タイ人はオリーブ油を使わないが・・・」と断った上ではあるが、タイ料理には使わないハーブ類も使った創作タイ料理本らしい。つまり、「タイ風創作料理」を参考資料に使ったために、ヘンテコな記述になってしまった。著者は、いったい何を考えているのだろう。
 つまりは、世の料理本がそうであるように、読者の家庭でどう再現するかが最重要課題であって、例えば、それぞれの地で「カレー」がどう作られ、どう食べられているかなどといったことは、関心外なんだとよくわかる。「ウチ」にしか興味がないのが、お料理研究家とその読者なのだ。自分や自民族の舌と台所と腕前に合わせることが目的だから、食文化の資料にはまったくならない。
 お料理本や店ガイドをもちろん否定はしないが、そればかりじゃなあ・・・・。

 


アジア雑語林(225) 2008年6月29日

1965年ごろのヨーロッパの日本料理店

 前回の原稿をアジア文庫に送っってすぐに、知りあいから「日本人の海外旅行事情研究の参考になれば・・・」ということで、『ヨーロッパの旅』(辻静雄、保育社カラーブックス、1965年)をいただいた。
 日本で海外旅行が自由化されたのが1964年4月だ。だからといって、この本を持ってすぐヨーロッパにいける金持ちなどごくわずかしかいなかったが、サラリーマンがフェラーリの本を買うような心境と同じようなもので、憧れの気持ちでこの本を買ったのかもしれない。若いサラリーマンの月給が2万円程度の時代に、日本からヨーロッパまでの航空運賃は42万円である。月給の20倍と考えれば、現代の若いサラリーマンにとっては、500万円といった感じか。これに宿泊費や交通費や食費などがかかるから、中古の「フェラーリ」なら、けっして誇張した比較ではない。
 この本の、カラーページの観光ガイドの部分は、まるでおもしろくもないが、巻末の情報ページの「荷物」とか「ホテルの利用法」(やっぱりビデの話が出てきた)といったミニ情報のほうが、時代を感じさせておもしろい。
 この本の最後のページに、「さすが」と言いたくなる記事が載っていた。巻末資料として載っているのが、「ヨーロッパ各地にある日本料理店・中華料理店の名称と所在地」という2ページのリストだ。なぜこれが「さすが」かといえば、理由はふたつある。ひとつは、著者が元新聞記者にして料理研究家であるということだ。英語かフランス語のガイドブックの転用(盗用?)かもしれないが、リストを作る行為は、やはり素人ではない。「さすが」の、もうひとつの理由は、やはり日本料理店か、せめて中華料理店の紹介が、当時の日本人旅行者には絶対に必要だと考えたのだろう。西洋料理のレストラン紹介は一切ないが、日本と中国の料理店は紹介しないといけないというのが、1965年なのだろう。
 さて、この記事を読むと、1965年のイギリスにすでに日本料理店があったことがわかる。前回のこの雑語林で、イギリス最初の日本料理店は1972年だと書いたのは、どうやら誤りらしい。
 ヨーロッパにおける最初の日本料理店はいつ、どこにできたのかという問題には、私はほとんど興味はないが、行きがかり上、この『ヨーロッパの旅』にでている店を紹介しておこう。

  ・フランス パリ       「京都」・・・クイーン・エリザベス・ホテル内
  ・イタリア ローマ      「東京」・・・Sardegna
  ・イギリス ロンドン     「ニッポン・クラブ」・・・Irving Street
  ・ドイツ ハンブルグ     「湖月」
       デュッセルドルフ  「トーキョー」
       ベルリン       「トーキョー」

 中華料理店リストは省略するが、国名と掲載している店舗数だけ紹介しておこう。

  ・フランス     3店
  ・イタリア       4店
  ・イギリス     5店
  ・デンマーク    2店
  ・スイス      4店
  ・ドイツ      15店
  ・オーストリア   1店

 このリストがどういう方法で作成されたものかはまったく不明なので、リストそのものに対して論じることは、あまり有益ではないとは思うが、ドイツの15店は多いような気がする。もちろん、フランスに中華料理店が3店しかないとは思えないが、対日本人読者ということを考えると、駐在員が多いドイツを厚く紹介しておこうと考えたのかもしれない。
 ヨーロッパにおけるレストラン事情は、調べる気なら資料はいくらでもありそうなので、私は手を出さない。ただ、前回の記事の訂正と追加情報という意味で続編を書いた。
 そうそう、もう一点。巻末のミニ情報に「無銭旅行」という項目があり、その参考資料として、「ヨーロッパ一日五ドル旅行という本まであって(邦訳あり)・・・」という記述もある。辻静雄といえば、調理師学校の「おえらいさん」というイメージがあるが、この本を書いたときはまだ30歳をちょっと過ぎたころで、著者もまだ日本も若く、金銭的にも豊かではなかったはずで、さしもの辻氏も『ヨーロッパ1日5ドルの旅』(社会評論新社、1963年)という翻訳書にも目をとおしている。と、まあ、旅行史の話を始めるときりがないので、ここまで。


アジア雑語林(224) 2008年6月21日

最初のマクドナルド

 『マクドナルドはグローバルか』に、世界各国のマクドナルド初出店年リストが出ている。ながめているだけで、世界の経済や文化が見えてくるようで、興味深い。このリストの元の情報源は、もちろんマクドナルドだが、それを1996年の「ニューヨーク・タイムズ」が報じ、その記事を本書に載せたわけで、私のこのコラムは4度目の引用ということになる。引用に頼らず、マクドナルドが持っている情報を直接紹介しようと思ったのだが、「だいたい、このころ」というあいまいな時代しか載っていないので、しかたなく、引用の繰り返しで紹介する。

1955 アメリカでフランチャイズ開始
1967 カナダ
1971 日本、オーストラリア、ドイツ
1972 フランス
1973 スウェーデン
1974 イギリス
1975 香港
1976 ニュージーランド
1979 ブラジル、シンガポール
1981 フィリピン
1982 マレーシア
1984 台湾
1985 タイ、メキシコ
1986 トルコ
1988 韓国
1990 中国(しんせん)、ロシア
1991 インドネシア
1992 中国(北京)、ポーランド
1993 イスラエル
1994 サウジアラビア
1995 南アフリカ
1996 クロアチア

 香港のマクドナルドは、75年か。九龍の、ネイザンロードからちょっと入ったところに、赤地に黄色いM字の看板が見えたときのことを、よく覚えている。なぜか、珍しくミルクティー注文した。ティーバッグではあるが、インドのチャイのような濃厚な風味だったのが意外で、しかし、イギリスの植民地だからなあと納得したことなどを、いま思い出した。香港1号店は、香港島のコーズウェイ、パターソン通りにできたから、私の定宿近くにあった店は1号店ではないようだ。
 このリストを読んでいて、「あれ?」と思ったのが、イタリアが入っていないことだ。そこで、マクドナルドの情報をイタリア語で検索したら、1号店は1985年だとわかった。それなのに、なぜ「ニューヨーク・タイムズ」の資料にでていなかったのだろう。その事情はわからないが、イタリア最初のマクドナルドはローマの、かのスペイン広場の店で、マクドナルドの出店がのちのスローフードの運動に結びついていくわけで、「マクドナルドに見る世界の現代史」という研究は、何人もがすでにやっていても当然というくらい興味深いテーマだ。
 例えば、韓国1号店は1988年で、この年は「パルパル」(88の意味)がキャッチフレーズで、ソウル・オリンピックが行なわれた年だ。1990年の中国(しんせん)も、当時の政治や経済事情と深く関連しているにちがいない。ケ小平がしんせんを訪問した92年から開放政策が加速し、この年、北京にマクドナルドができる。
 1971年に日本に第1号店が出店したことに、政治や経済上の、なにか特別な意味があるのかどうかわからないが、状況証拠のような傍証をあげておく。1970年の大阪万博時代と、深い関連があるような気がするのだ。1970年に、「ダンキンドーナッツ」が銀座に第1号店を出店している。大阪の万博会場では世界各国の料理を出すレストランが営業していた。「ケンタッキー・フライドチキン」は、万博会場内と、名古屋市内の両方で営業を開始している。1971年には「ミスタードーナッツ」が大阪府に出店し、そして銀座にマクドナルド第1号店が出店する。
 こういう外食産業史を見ていけば、マクドナルドが1971年に出店したのは偶然ではなく、なにか経済的、あるいは外交的必然があったような気がする。興味を持った人は自分で調べてみればいい。卒論程度の内容はあるテーマだろうと思う。あるいは、最近はやりの粗製乱造新書向け企画か。
 さて、おまけの話だ。マクドナルドの足跡を追っているうちに、イギリスのインターネット・サイトで、こんなすごいサイトに出会った。
 “THE HISTORY OF THE 'ETHNIC' RESTAURANT IN BRITAIN” 
 これは主に、イギリスにおけるインド料理店の歴史を追ったものだが、ここでは小さな話をしておこう。
 イギリス最初のタイ料理店は、1967年の「バンコク」という店だそうだ。以後、次々と開店し、現在(いつが、現在なのかわからないところがネット情報の欠点だ)600店以上のタイ料理店がイギリスにあるそうだ。1973年に「S&P」出店という情報があるのだが、同名のチェーン店がタイにあるのだが、あの店のことだろうか。
 さて、イギリスにおける日本料理店事情はどうかというと、最初の店は「アジムラ」という店で、1972年だという。現在150店あるというから、タイ料理よりも出店は遅く、総数も少ない、つまりタイ料理よりもマイナーだということがわかる。まあ、このあたりの事情は、詳しく詰めないといけない事柄もあるだろうが、一応、情報としてお伝えしておく。

 


アジア雑語林(223) 2008年6月13日

東アジアのファーストフード店、再考

 前回まで書いてきた東アジアのファーストフード関連で、ずっと前から読もうと思っていた本にやっと手をつけた。『マクドナルドはグローバルか――東アジアのファーストフード』(ジェームズ・ワトソン編、前川啓治・竹内恵行・岡部曜子訳、新曜社、2003年、2800円)は、出たばかりのころ書店で見つけて読みたくなったが、まあ、2800円の本だから、そのうち古本屋で見かけたら買おうかと考えているうちに時間が過ぎ去り、しかし、古本屋で見かけるのはいつも『マクドナルド化する社会』(ジョージ・リッツァ、早稲田大学出版部)ばかりで、しかたなくこれも読んでみたが、イマイチ面白みに欠けていた。
 すでに何度も書いてきたように、『ファーストフードマニア』が欲求不満を起こさせる本だったので、すぐさま『マクドナルドはグローバル化』が読みたくなった。編者はハーバード大の教授ということだが、まったく知らない名だ。しかし、執筆者のなかに、『甘さと権力』などで知られるシドニー・ミンツや、ハワイ大学東西センター研究員のデビッド・ウーなど、昨年秋にペナンのシンポジウムで会った研究者の名がある。また、協力者リストにも知り合いの名もあり、もっと早く読んでおけばペナンでいろいろ教えてもらえたのにと後悔。
 さて、この本、傑作だ。おもしろい。『ファーストフードマニア』に関して書いた私の不満が、この本を読めばかなり解決できる。アメリカ生まれのマクドナルドが、東アジアの地で活動していくなかで、どんな文化的衝突があったのかというテーマで、北京、香港、台北、ソウル、日本の各事情を研究者が書いた論文を集めてある。私好みの、異文化衝突、文化変容の本だ。研究者たちが現地で調査したのは、1990年代なかばで、英語の原著が出版されたのが1997年。日本語版が2003年で、私が読んだのが2008年だから、約10年のタイムラグがあることになる。東アジアの大都市でこの10年の変化は著しいだろうが、それはわかった上で、楽しく読んだ。
 付箋だらけになった本だから、興味深い部分の紹介を始めるときりがない。だから、一点だけに触れることにしよう。私がかねがね気にしていたのは、マクドナルドの客は、自分で食器を片付けるだろうかというテーマだ。私は、「日本ではおおむね片付けるが、東南アジアでは片付けないのが普通」と推測している。
 この本では、次のように説明している、北京では、西洋人やアメリカ帰りの中国人が食後、自分で食器を片付けるのを一般客が見て、そういうものだと学習した。それが「西洋文明」なのだと理解したわけで、文明人らしい振る舞いとして、カネを持った中国人が自分で食器を片付けているというのだ。中国語で、「洋」と「土」という表現があり、「洋」は西洋で、プラス評価。「土」は地元、土地、つまり中国的な事柄を意味し、マイナス評価だという。マクドナルドは洋なので、「うまいとは思わないが」(中年の中国人の感想)ハンバーガーなるものを食べていると、調査者に答えている。
 北京のマクドナルドは1992年の開店だが、香港では75年の開店なので、もはや特権階級の中級レストランではなく、客は食器を片付けないという習慣がすっかり定着しているのだという。人件費節約のため、店側は客に食器やゴミを片付けてもらおうとキャンペーンを繰り返しているが、いっこうに効果がないらしい。北京と違い、「食器を自分で片付ける」という行為が、ステイタスシンボルにはならないのだ。
 こうやって書き出せば、キリがないほどおもしろい切り口が詰まっているのだが、結論らしきことをまとめると、こういうことになる。アメリカ生まれのファーストフード店は、「すぐに、手軽に、安く」食べられるからファーストフードなのだが、東アジアではどこでも「急いでいない」というのだ。客は長居する。マクドナルドは、東アジアではファーストフード店ではないということだ。中国や東南アジアでは、「安い食べ物屋」でもない。料金だけでいえば、中級レストランなのだ。

 


アジア雑語林(222) 2008年6月4日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その3

 『ファーストフードマニア』のいいところは、インターネットのホームページの情報だろうが、企業の情報も書いていることだ。出店した年や全国の総店舗数といった基本情報だ。あるいは、経営母体の話だ。
 観察した記述として、台湾のスターバックスについて、こういう記述がある。

「高校生のおこづかいではスターバックスのコーヒーはかなり高め。そのため女子グループなどでは1人がコーヒーを買い、残り数名は水で粘るという風景も見受けられる」

 基礎データとともに、こういう観察記録も読みたいのだ。両方の情報をあわせると、コーヒーショップが、立体的に見えてくる。データだけでは退屈だし、印象記だけでは全体像を網羅できない。
 だからこそ、それぞれの国の物価をまとめて紹介しておいてくれたらよかったのだ。例えば、屋台での食事はいくら、とか、大学の食堂ではだいたいいくらとか、コンビニの飲み物はいくらとか、労働者の日給など基礎情報をまとめて1ページで書いておいてくれると、その国の事情に疎い読者でも読みこなせる。
 私がタイのハンバーガーショップ、つまりマクドナルドについて調べたときに感じたのは、ファーストフード店はけっして安い飲食施設ではないということだ。コーラもハンバーガーにも興味がないので、調べなければ気がつかないことだった。たかがハンバーガー1個の値段が、屋台の1皿の料理よりもずっと高かったのだ。ましてや、ピザショップは中級レストランの印象だ。
 だからこそ、ファーストフードというものに、アメリカ風の飲食チェーン店という枠をはめないほうがいい。ヨーロッパなら、バルと比較しないといけないし、東南アジアなら屋台と比較しないと、マクドナルドやスターバックスの姿が見えてこないのだ。
 『ファーストフードマニア』を読んでわかったのは、マクドナルドやスターバックスといった日本でも有名なファーストフード店(あるいはコーヒーショップ)を除くと、中国でも台湾でも香港でも、コーヒーショップではなく、日本でいう「ファミリーレストラン」だとわかる。
 本書では言及はないが、日本でも地方都市の喫茶店に行くと、うどんやチャンポンやカレーライスがあったりする。コーヒーだけでは商売が成り立たないのだ。「うちは喫茶店ですから、当然コーヒーだけでやっています」というのは、大都市でしかできない商売だ。コーヒーに限らず、専門店というのは大都会的商売だということがわかると、中国のコーヒー店に中国料理もある理由が理解できる。つまり、まだ歴史が始まったばかりなのだ。
 さて、この本の巻末に、うれしいお知らせが載っている。この本が、「Vol.1」とあるように、以下続刊予定があるらしい。

第2巻 東南アジア編
第3巻 アメリカ大陸部
第4巻 ヨーロッパ編
第5巻 中東・アフリカ・オセアニア
第6巻 韓国編
第7巻 日本編

この予定が、たんなる「ほら吹きラッパ」でないことを期待したい。

 


アジア雑語林(221) 2008年5月27日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その2

 『ファーストフードマニア』をひとことで説明すれば、駄文と駄写真と駄デザインの本である。中国と台湾と香港のファーストフード店を紹介した本で、屋台や露店は含めず、アメリカ式ファーストフード店の形態をとった店を紹介している。その企画は悪くない。だから、買ったのだ。で、最初の「中国編」を読み始めると、インターネットで集めた5行のネタを、駄文で水増しして100行にしたような文章が、小さな字でぎっしりと詰まっているとわかった。写真が多い本でもあるが、点数だけは多いが意味のないカットだらけで、しかも小さいので、細部までよくわからない。だから、駄写真だ。
 つまり、編集者(か、ライター)の企画力はあるが、編集力がないとしか思えない。デザインを重視しすぎた方針が、道を誤らせたのだ。活字をできるだけ小さくし、できるだけ長文にし、写真をできるだけ多く載せる。おそらくは、こういう方針が先にあるから、取材をしない書き手は、駄文で行数を埋めることになったと推理する。写真も、とにかく点数を多く、という方針だから、撮影した写真をなんでも載せようということになったのだろう。
 もしかして、これが、デザイナーが作った案だったとしても、そのまま採用した編集者が悪い。
 駄文は駄文でしかないから、中国人にとってのコーヒーや紅茶やパンがどういうものか。並んで買うことに問題はないのかといった、さまざまな文化衝突について、たいした考察もない。もっとも重要なのは、ハンバーガー1個の値段が、中国でどの程度の価値があるのかということもわからないし、メニューの紹介もない。写真の点数を半分にして、文章量を3割減にして、活字をやや大きくして、あいたスペースに全メニューや、解説付き主要メニュー表があればいいのだが、編集者はそんなことは考えなかったらしい。無意味な店内写真が多いが、そこでどういう食べ物や飲み物があるのかよくわからないのだ。手当たりしだいに注文し、写真を撮っていく時間と取材費はないだろう。だから、商品の写真が載っている広告ビラ(チラシ)を大きく載せればいいのだ。実際にビラの写真も載っているが、イメージカットの扱いで、小さすぎて写っている物がよく見えないし、値段の数字も読めない。こまった駄写真だ。
 文章は、現地の日本語雑誌にでも出ているような感じで、現地のファーストフード店をよく知っている人向けに書いているとしか、思えないのだ。だから、細部がわからない。
 台湾編はかなりいい。私の疑問点にも、かなり答えてくれている。香港編は合格点には達しないが、まだましだ。
 ただし、首をかしげてしまう記述もある。たとえば、台湾人は食器を手に持って食事しないと書いてあるが、中国人の世界では、茶碗や丼を左手に持って食事している風景はよく見かける。台湾だけがその例外というのは、おかしい。あるいは、「香港人は辛い料理が苦手である。辛い味で有名な四川料理の四川省が近いだけに不思議だ」という文章を、中国・香港に詳しいというライターが書いている。香港は四川の近くにあるかね。カシュガルや大連よりは、まあ、たしかに近いことは近いが。本文を読みながら、つい?印を書いてしまった文が、少なくない。
 この場で、こうした文句を書いているのは、批難するためではない。期待しているからだ。今はやりの、女が書いたイラスト旅行記のようなものならば、はじめから無視している。商品カタログにもならないようなミニ図鑑ならば、なにも言及しない。「また、いつもの“柳の下本”か」と思うだけだ。
 しかし、この『ファーストフードマニア』は、まず、「ファスト」じゃないのが気に入った。「ファースト」と原稿を書くと、「ファストでは?」と言ってくる編集者もいる。それは、NHKや民間放送連盟や日本新聞協会のバカどもが、「ファスト」が正しいなどと決めたからだ。その理由は、「アメリカで生まれたこの外食産業を、アメリカ人がそう発音するから」だと。従来の「ファースト」はイギリス風の発音だから、適さないというのだ。じゃあ、American Breakfastは、「アメリカン・ブレックファスト」と表記しなきゃいけないのかい。世間は、若者のことばにやいのやいのと言うが、私はこういう「偉いお方」の規制もまた、気に入らない。エレベータとか、プリンタとか、理系に日本語バカが多いのはわかっているが、それを助長させる輩も許せない。
 ああ、また話がずれて、長くなった。できるだけ、1回読みきりにしたいと思っているのだが、まさに雑語で、さまざまな事柄が頭に浮かび、次々と長くなってしまう。ご容赦を。以下、次号だ。

 


アジア雑語林(220) 2008年5月19日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その1

 書店で平積みになっていた派手な表紙の『ファーストフードマニア Vol.1 中国・台湾・香港編』(黒川真吾・田村まどか・武田信晃、社会評論社、2008)を見かけ、手にとって0.5秒で購入を決めた。名カタログ『コーラ白書』と同じ版元じゃないか。いいかもしれないとひらめいたのだ。
 そこで、まずは『コーラ白書 世界のコーラ編』(中本晋輔・中橋一朗、社会評論社、2007)を紹介しておこう。この本は、間違いなく名著だ。著者が買い集めたコーラの写真に解説がついている。コーラのビンや缶のコレクターはいるが、ふたりの著者は集めるだけのコレクターではなく、分類し、できるかぎり分析し、解説を加えている。私はコーラ類はあまり好きではないので、ほとんど飲んだことはないのだが、比較文化という意味で、「比較コーラ論」となる本書のすばらしさはよくわかる。なにがすごいかといえば、コレクションの幅の広さと同時に、できるかぎり現物を飲んでいるのだ。缶だけ集めているコレクターとはレベルが違う。
 例えば、ビルマの「Royal Cola」について、こう解説する。長いので以下は、引用ではなく概要。

 発売元は、ミャンマー工業省傘下の国営食品メーカー。Coca−Colaを意識させるロゴとグラフィックだが、廉価コーラを連想させる。原材料に「濃縮コーラ」とある。これは正体不明だが、どこかからコーラの原液を買っているということだろう。その味は、チューペット(チューブに入った氷菓)のコーラ味と同じ。

 コーラは刻々と変化する商品なので、時間経過もちゃんと調べている。例えば、香港では、返還前と返還後で、どう変わったかを調べているし(味に関しては、それほど大きな変化はないそうだ)、韓国のコカコーラ03年にデザインを変えたことに言及している。韓国のコカコーラは、甘味の強さとまろやかさでは、世界のトップクラスだそうで、しかし酸味はほとんどないそうだ。アスパルテームや、アセルファムカリウムといった人工甘味料の説明もある。食品工業も国際経済も視野に入れて書いている。すばらしい目配りだ。
 コーラはほとんど飲まない私には、味のことを言われても、「はあ、そうですか」としか言えないし、味は個人差や環境の違いで評価がかわりやすいが、それでもできる限り飲んで、調べてやろうという意気を感じる。
 コツコツと調べる努力などせずに、印象だけで語りたがる人は、こういう実証的な文章を、「コイツら、オタクだよなあ」と嘲笑しがちだが、調べもしないそういうヤツラこそ、あざ笑ってやろうと思う。きちんと調査をせず、資料も読まないヤツは、たとえ大学教授の肩書きがあっても、バカにしてやろう。
 この『コーラ白書』をまず絶賛したのは、同じ出版社から出た『ファーストフードマニア』を読んでみたら、その内容のレベルが大きく落ちているとわかったからだ。おいおい、どうしたんだい。書き手の力不足だけがその理由じゃないだろう。編集者はどうしたんだという気がしたからだ。
 以下、つづく。

 


アジア雑語林(219) 2008年5月9日

ふたたび、自費出版にお願い

 団塊世代が大量に定年を迎えていることと、自費出版のブームが合体し、昔の海外駐在体験や長期出張体験、あるいは若き日の海外放浪をまとめた本が数多く出版されている。日本人の海外旅行史に興味がある私としては、ネット古書店などで「それらしい」本を見つけると、片っ端から注文している。
 その結果、もしかして、つまらない旅行記を日本で一番数多く読んでいるのは自分ではないかという気がしている。この手の本は、出版社が出そうと考えるレベルのものではないから自費出版したのであり、だからレベルの低さを嘆いてはいけないことはわかっている。「しょせん、素人、文章がヘタに決まっているだろ。なにをいまさら」と、私に説教をしたくなるかもしれない。
 私だって、文章のへたさをあげつらう気はない。ただ、もしも、家族や友人以外の第三者にも読んでもらいたいと思うなら、もうすこし工夫してほしいと、著者ならびに担当編集者にアドバイスしたくなったのだ。こういう話は以前にもちょっと書いたが、何度でも書いておきたい。

●全部は書けない・・・・30年間の旅や5年間の駐在体験を、1冊の本ですべて書けるわけはない。それを無理に全部書こうとすれば、各テーマを箇条書きの報告書のようになってしまう。まるで、出張報告書のような旅行記も現実にあって、うんざりさせられた。そういう本だとわかっていればもちろん買わないのだが、内容とレベルがまるでわからないネット書店の客の悲しさ、とりあえず注文してしまうんですな。

●ガイドは要らない・・・・旅行記を書きたい気はあっても、きっと書くことがないのだろう。訪れた名所旧跡の説明を、ほとんどガイドブックの丸写しのごとき文章で埋めているものもある。誰が、そんなものを読みたいと思うか。

 では、どのように書けばいいのかといえば、99人には「自分のカネで本を作るのだから、どうぞお好きなように。でも、家族以外誰も読みませんよ」と言っておこう。好きなように書けばいいのだ。しかし、100人のうちのひとりには、こういうふうに書いてみませんかとアドバイスしておこう。

○細部を書け・・・ガイドブックに書いてある情報など、いっさい要らない。いまのガイドブックには書いてないことだけを書いていけばいい。例えば、昔の渡航手続きや予防注射の話。駐在経験を書くなら、住んだ家の家賃や近所の環境など、「いまと違って、当時は」という話が出てくると、きっとおもしろいでしょう。ハワイ旅行の話だって、1970年代なら、新婚客がみやげにパイナップルを段ボール箱にいっぱい買ってきたものだ。だから、「新婚旅行でハワイ」というごくありふれた旅行であっても、「当時はね…」と、旅行代金やドルレートの話や、当時の写真を見ながら新婚客の服装やカメラなど旅行用品についてあれこれ書いても、たぶんおもしろいと思う。エッフェル塔は、50年前も今も変わらないが、それを見つめてきた人と文化は移ろいでいる。いま、突然、高校で習った「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同…」という詩を思い出したが、そうなんだ。変わらぬ花(名所旧跡)の説明なんかされたって、読む気にならない。移ろう人間のほうにポイントを合わせたほうがおもしろいと、売れないライターである私は思うのですよ。

○専門知識を生かせ・・・駐在員体験を書くなら、専門の分野の知識も披露してもらいたい。例えば、自動車会社の駐在員として、バンコクで駐在した経験を書くなら、赴任当時のタイの自動車事情を書いておいてくれるとありがたい。アメリカ車中心で、こういう車種が人気でとか、税金は、ガソリン代は、道路事情はどうか、近隣の国ではどうかといった話だ。私としては、食品や乗り物関連ならうれしいが、金融問題を語られても困るなあと正直思うが、金融に興味のある読者もいるだろうから、通り一遍の滞在記よりも、専門知識をちりばめたほうが、きっとおもしろくなる。ただし、社内人事のことを書かれても困るので、その点はご配慮を。

 


アジア雑語林(218) 2008年4月7日

オランダ人の日本戦後史 おどろく事実 その2

 1950年から74年まで日本で過ごしたオランダ人銀行員が書いた『まがたま模様の落書き』の話の続きだ。
 この本を読んでおどろいたもうひとつのことは、日本の外国料理店に関するものだ。前回は1960年代の話だったが、今回はちょっと戻って1950年代、場所は関西だ。
 1957年、著者は大阪支店の副支店長の24歳。日本の文化に深い関心がある著者は、さまざまな職種の人と交流していた。知り合いのひとりである医者が、京都木屋町に持っている空きスペースの有効利用法を考えていた。そこで、やはり仲間のひとりが、著者がアドバイザーになってくれるなら、オランダ料理店をやりたいと言い出した。そうしたいきさつで生まれたのが、オランダ料理店「ボーア」だという。ということは、もしかすると、これが日本最初のオランダ料理店かもしれない。
 著者は1959年に日本人と結婚するのだが、58年のデートで、「宝塚にあったイタリアレストラン『アベラズ』で夕食をともにした」とある。
 1958年の宝塚にイタリア料理店があったのかと調べ始めて、自分の無知を痛感した(今に始まったことではないのだが・・・・)。
 「アベラズ」というレストランは、おそらく原文は「アベーラさんの店」という意味の「Abela's」だろう。1946年に、イタリア人オラッツィオ・アベーラが開店した「イタリアンレストラン アベーラ」のことだろう。1946年? とびっくりした。終戦の翌年だよ。
 というわけで、『まがたま・・・』を離れて、もっと調べてみたくなった。
 ことのいきさつは、1943年9月から始まる。この年、イタリアの輸送艦カリテア号は、日本軍に物資を補給するために神戸に寄港した。ところが、イタリアは9月3日に降伏して、連合軍側になってしまったのだ。イタリアは突然、日本の敵になってしまったのだ。だから、カリテア号そのものも乗組員も、日本の敵側ということになってしまったのだ。
 捕虜となった乗組員のなかで、少なくとも3人のイタリア人が日本で料理店を開いたことがわかっている。
 将校用のコックだったアントニオ・カンチェミは、1944年神戸でイタリア料理店を開くものの、物資不足でわずか数カ月で閉店している。戦後の動きはよくわからないのだが、『日本で味わえる世界の味』(保育社、1969年)によれば、大阪の店をたたんで10年前に東京の麻布にやってきたという記述があるので、それが正しければ、東京進出は1950年代末ということになるだろう。しかし、「パパ・アントニオ」という現在の店のホームページでは、「1950年代初めごろ座間キャンプ近くに前身となる店をオープン。その後西麻布でイタリア料理店アントニオを開店」とある。座間は神奈川県だ。いくつもの資料を読んでみたが、どうもこのあたりの事情がはっきりしない。
 カリテア号に乗っていたオラッツィオ・アベーラも、イタリアで多少の調理経験があったので、1946年に宝塚でレストランを開く。71年に店名が「アモレ・アベーラ」となり、いまも営業している。
 やはりカリテア号に乗っていたジュセップ・ドンナロイヤも1952年に神戸にイタリアレストラン「ドンナロイヤ」を開いた。
 というわけで、日本最古のイタリア料理店は「アントニオ」か、あるいは「アモーレ・アベーラ」かと思っていたら、もっと古くからあったという資料が見つかった。
 明治7年にフランスの曲馬団の一行として来日したイタリア人ピエトロ・ミリオーレが、病気のため興行先の新潟に居残り、そのまま住み着いて牛肉店を始めたという。資料によっては牛鍋屋などと書いてあるが、イタリア料理店を開いたとわかるのは、1981(明治14)年の「イタリヤ軒」開店だ。そのレストランは、現在「ホテルイタリア軒」となって、新潟市で営業している。
 というわけで、日本におけるイタリア料理の歴史は意外に古いことがわかった。ここで書いたことは、ほとんどネット上の情報を使っただけなので、文献や取材もすれば、きっとおもしろい外国料理店始末記ができるだろう。やはりこの世界、なかなかに興味深い。
 このように、日本におけるイタリア料理史を調べているなかで読んだのが、『イタリア料理に魅せられて』(堀川春子、調理栄養教育公社、2002年)。著者の経歴がすごい。著者15歳の1932年、イタリアの日本大使館館員一家のもとで家政婦をするために渡航。5年間滞在し、イタリア料理も学ぶ。戦後は駐日イタリア大使館で働いたあと、本格的にイタリア料理と関わる。今回の原稿に関連することを、年表風にイタリア料理店の名を書き出してみよう。
 1962年 新宿伊勢丹に「カリーナ」開店。伊勢丹の直営らしい。「その当時、イタリア料理専門店は六本木に一軒あったくらいなので珍しかったようです」とある。その六本木の店が、アントニオか?
 1967年 日本橋東急に、自分の店「サンレモ」開店。
 1871年 洋菓子のフランセが原宿でイタリア料理店「トスカーナ」を開店。著者が責任者となる。
 そして、「ああ、なんだ」というどんでん返しの話。雑誌「料理王国」(2006年7月号)で、「日本のイタリア料理100年史」という大特集をやっていて、この雑語林に書いたようなことはとっくに活字になっていたことを、最後になって発見した。徒労か。「料理王国」のこの号は好評らしく、古書市場でもけっこう高い。いずれ買うでしょうが、いまは読まずに書きました。
 西洋料理の話は、雑誌で深い記事が特集されるが、それ以外の料理だと資料が少ないなあ。

 


アジア雑語林(217) 2008年3月24日

オランダ人の日本戦後史 おどろく事実 その1

 倒産した新風舎はなにかと評判が悪かったが、浜の真砂ほども出版した本のなかには、ちょっとはいい本もあり、旅行史や異文化関連の本を数冊買っている。
 つい最近読んだのが、1950年から74年まで日本に滞在していたオランダ人銀行家が書いた、『まがたま模様の落書き』(ハンス・ブリンクマン著、溝口広美訳、新風舎、2005年)という滞在記だ。
 全体的には、とりたてておもしろいわけではないし、鋭い考察があるわけでもないが、「ええ!」と驚いて傍線を引きたくなる記述が、少なくとも2カ所あった。
 ひとつは、オランダのナショナル・ハンデルス銀行の東京支店長になった1962年ごろに住んでいた新宿区西落合の家と、そのご近所の話だ。ちなみに、このとき著者はまだ29歳だが、運転手つきの車に乗る生活だった。
 日本人の妻と住んでいたその家というのが、アントニン・レーモンドが1933年に設計したものだというではないか。日本の建築史に多少の知識があれば、「ほっほー」と驚くだろう。レーモンドは、旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトほどの知名度はないが、そのライトの助手だったレーモンドは聖路加病院や東京女子大などの設計で知られる有名な建築家だ。
 西落合のご近所について、こういう記述がある。
 「本田氏はうちの近所に、大きくてモダンな家を建てたばかりだった」という、「本田氏」とは本田宗一郎で、当時のホンダは自動車を発売しはじめたばかりだが、もちろん本田宗一郎はすでに有名人だ。
 著者が勤めるナショナル・ハンデルス銀行が、1963年に創立100周年を迎えるので、上野の東京文化会館で記念コンサートを開催しよういう計画を立てた。そこで、近所に住んでいる武蔵野音楽大学の教授に、演目の相談に行った。その教授とは、日本の音楽教育に多大な貢献をしたドイツ人音楽家クラウス・プリングハイムだ。プリングハイムが初来日したのは1931年だが、37年から2年間はバンコクで西洋音楽を教えていたが、タイが連合国側の政策に転じたため、国外追放にあい、日本にやってきたという流浪の音楽家である。
 さて、西落合周辺のご近所の人間で、もっともびっくりしたのは、著者と家族ぐるみの付き合いをしていたという、「オードリー・ヘップバーンの実兄」一家だ。「彼らのちっぽけなプールつきの庭で、よく一緒に日曜日の午後を過ごし」たそうだ。オードリーには兄がふたりいるようだが、どちらの兄が日本でどういう生活をしていたのか、まったくわからない。

 


アジア雑語林(216) 2008年3月16日

マレーシア、タイ、ラオスで買った本

 所用のついでに、マレーシア、タイ、ラオスをしばらく旅した。重い荷物は持ちたくないので、できる限り本は買わない予定ではあり、その決心は2週間ほどは続いたのだが、1冊重い本を買うと、「持っては歩けないほど重い本を買ってしまったのだから、郵送するしかない。とすれば、どんどんと買ってもいいはずだ」となり、やはり買ってしまった。
 タイとラオスで買った本は持ち帰り、マレーシアから船便で送った本も到着したので、文献紹介の意味で、何冊かとりあげてみよう。本によっては、アマゾンなどでもっと詳しい情報が得られるうえに、現地価格とあまりかわらない値段で買うこともできる。
 それでは、マレーシアの本からいくか。

 “Chronicle of Malaysia 1957〜2007 Fifty years of headline news ” Editions Didier Millet , 2007

 毎日新聞社から『昭和史全記録』という厚く重い本があるが、ちょうどそういうタイプの本だ。百科事典ほどの本で、新聞記事からマレーシアの歴史を振り返ることができる。編年史なので、例えば「1985年」のページを見れば、ペナンの超高層ビル「コムタ」が完成した年だとわかるし、「1971年」の1月にはクアラルンプールが大雨で1メートルほどの洪水になった写真がでている。タイでもこういう本が出ればいいのだが、無理だろうな。

The encyclopedia of Malaysia Architecture” Editions Didier Millet , Archipelago press ,1998

 インドネシア編としても出版されている項目別事典のマレーシア版。インドネシア版はほぼ全巻ジャカルタで買ったが、マレーシア版は諸事情(高い本だ。送料も高くなる。置き場所がない)により、「建築編」だけ購入。ショップハウスの歴史的変遷の図解など、豊富な図版が楽しく、参考にもなる。この雑語林でも以前に書いた話だが、インドネシア編のほうの百科事典が、なんと高田馬場のブックオフで売っていたのには驚いた。すぐ売れたようだ。

“The Star Guide to Malaysia Street Food ”Star Publications , 2007

 屋台や食堂のガイドブックなのだが、私は屋台料理のガイドとして買った。豊富な料理写真と解説がついているので、「屋台料理図鑑」として使える。

“Gateway to Peranakan Culture”Lim GS. Catherine & Wing Fee , Asiapac Books, 2003
“Gateway to Peranakan Food Culture”Tan Gek Suan &Wing Fee, Asiapac books , 2004

 中国移民の男とマレー人の女の家庭で生まれたのがプラナカン文化。マレーシアの文化を紹介するこの入門シリーズは何冊か出ているが、とりあえず2冊購入。中学生用の副読本という感じだから、イラストも多く、外国人にはわかりやすい。このシリーズの内容はインターネットで検索できる。

Food and Drinks in Ancient India ”Rajendralala Mitra , Indigo Books , New Delhi , 2007
Eating India ”Chitrita Banerji , Bloomsbury , London , 2007

 インドの食文化を知る古今編2冊だが、まだ読んでいないので、内容のレベルはわからない。

“Sampheng Bangkok’s Chinatown Inside out”Edward Van Roy , Chinese Studies Center , Chulalongkorn University , Bangkok , 2007

 バンコクの中華街の雑学研究書。こういう本を読んで、バンコクのガイドを書くライターがいるとうれしいのだが・・・・・。 ちなみに値段は、ペーパーバックで800バーツ。チュラ大の書店で入手できる。

 “Lao Close Encounters ”John J.S. Burton , Orchid Press , Bangkok , 2005

 タイで出版された本だが、バンコクでは見つからず、ラオスのルアンパバンで購入。けっしてカメラマンなら撮らないラオスのスナップ写真集。カレンダー写真でも、絵はがき写真でもないラオスの写真とその解説満載。全ページカラー写真だからしょうがないが、高価な本である。

“Luang Phabang An Architectural Journey ”Ateliers de peninsula , Vientiane , 2004

 ルアンパバンの建築調査報告書。これはラオスで出版された本なのに、ラオスで見つからず、バンコクで買った。100ページちょっとの本だが、買うかどうか数日考えるほどの値段だ。

Ant Egg Soup”Natacha Du Pont De Bie , A Sceptre Books , London , 2004

 どういう本かわかりやすく言えば、『世界一の日常食』(戸田杏子、晶文社、1986年)のラオス版で、食文化探訪旅行記にレシピがついている。あるいは、写真が1枚もない浜井幸子さんの本といえばわかりやすいか。旅行記部分が多く、食文化の記述が少ないのが私には難点だが、一般読者相手ならしょうがないか。おもしろかったが、日本語に翻訳しても売れないだろうなあ。この本に関しては書きたいことがいくらでもあるので、機会があれば詳しく触れるかもしれない。

 


アジア雑語林(215) 2008年3月2日

補記 ジプシーとピラニアの話など

 いままでこの雑語林に書いた文章の、追加情報を書いておこう。
 この雑語林の150号で、朝日新聞記者伊藤千尋氏が大学時代に、サンケイ・アドベンチャー・プランという企画に応募して合格したという話を書いた。朝日新聞に就職が決まっていたが、入社を辞退してジプシーを訪ねる旅に出た。翌年、再び試験を受けて、同じ朝日新聞に就職したという話だ。
 先日、古本屋の棚に『「ジプシー」の幌馬車を追った』(伊藤千尋、大村書店、1994年)があるのに気がついて、買ってみた。1994年に出た新聞記者の本だが、文章は1960年代の若者の文章だ。60年代の若者の海外旅行記を昔から読んできた私には、なつかしい文体でもある。
 植村直己の本でも、あるいはほかの若者の本でも、「ああ、外国に行きたい。日本とは違う世界が見てみたい」という憧れと、「日本で決まりきった生活なんざいやだ」という、日本脱出の気分がよく伝わってくる。たぶん、新聞記者になる前に書いた昔の原稿を、のちに再構成したのだろう。
 サンケイ・アドベンチャー・プランに応募した伊藤氏の「ジプシー調査探検隊」計画は見事合格し、ヨーロッパに旅立ったという話は150号で書いたとおりなのだが、こういうエピソードもあった。
 「合格したのは私たちのほかにもう一つあり、インカ帝国のあとをたどってカヌーでアマゾンの源流調査をするという企画だ。立案者は関野吉晴氏」。関野氏は、当時一橋大学の探検部員だったはずだ。
 というわけで、調査資金の1000万円は両者で折半した。

 さて次は、173号に書いた、タイのピラニアの話だ。
 バンコクで、久しぶりにプリチャー・ムシカシートンさんに会った。カセサート大学の魚類学者だが、古くからタイに興味を持っている人には、彼の姓が気にかかるだろう。『タイの花鳥風月』(めこん)を書いたレヌカー・ムシカシートンさんのご子息だ。
 プリチャーさんに会って、「タイのピラニア」の話をした。バンコク在住の友人が、市場でピラニアを見つけたというのだが、本当にピラニアなんだろうかという疑問だ。
 じつは、プリチャーさんに会う数週間前に、ペナンで会った香港の大学教授から、中国では現在ピラニアを養殖しているという話も聞いたので、ぜひとも専門家の話を聞いてみたかったのだ。
 「ああ、あれは、ピラニアじゃありませんよ。似ていますが、歯がピラニアほど鋭くないので、すぐにわかります」
 あの、ピラニアに似た魚というのは、私が調べて書いているように、ブラジルでの通称がタンバキ、あるいは学名からコロソマと呼ばれている魚だとわかった。タンバキについては、ネット上にも詳しい情報が出ているから、興味のある人は各自調べてください。
 というわけで、簡単に問題解決。さすが専門家だ。

 次は、207号に書いた「日本最古のタイ料理店」に関する話題。
 昔のタイ料理店について知っている方は連絡をくださいと書いたところ、森枝卓士氏からメールをいただいた。
 1970年代なかごろに、大学生時代だから1978年以前ということになるが、武蔵小金井のマンションの1階にタイ料理店があったのを覚えていますが、店名など詳しいことはすっかり忘れました、とのことだ。
 日比谷の「チェンマイ」が1979年開店だから、それよりも古いことになる。やはり、1970年代に福岡にタイ料理も出す中華料理店があったという話も、当時その店に通っていた人物から聞いている。
 というわけで、タイ料理あるいはアジア料理の古い店をご存知の方は、アジア文庫までお知らせいただければ、ありがたい。「黎明期アジア料理店年表」なんて、おもしろそうでしょ。

 


アジア雑語林(214) 2008年2月19日

昆虫を食べる本を読んでいて思い出した、いくつかのこと

 すでに何冊も読んだというのに、また、昆虫食の本を買ってしまった。
 本棚を見れば、昆虫食を真正面から扱っているこんな本の背が見える。

 『虫の味』(修永哲・林晃史、八坂書房、1996年)
 『虫を食べる人々』(三橋淳編、平凡社、1997年)
 『虫を食べる文化誌』(梅谷献二、創森社、2004年)

 このほか、昆虫食も一部では扱っているという本も加えれば、あと数冊増える。だからといって、私が昆虫を大好きなわけではないし、ましてや昆虫を食べるのが好きなわけではない。いままでに、タイで何種類かの昆虫を口にしたことはあるが、自分から進んで注文したことはない。路上の店で買ったこともない。アジアの食文化資料として、昆虫食の本を買ったのである。食べられるが、好んで食べたいわけではない。
 今度買ったのは、『虫食む人々の暮らし』(野中健一、NHKブックス、2007年)だ。上に書き出した従来の本が、どちらかといえば、虫そのものに重点を置いているのに対して、今度買った本は、虫を食べている人に重点を置いている。だから、食べられている昆虫の詳しい紹介はない。
 『虫食む人々の暮らし』を読んでいて、虫に関するさまざまな思い出がよみがえってきた。この本は、アフリカの昆虫食から話が始まる。いままで、「昆虫食」といえば、どうしてもインドシナ中心に紹介されてきたが、アフリカでも昆虫は食べる。
 食べものがとても少ないウガンダの市場で、干したイモムシが山にして売られていたのを思い出した。そのままでは食べられないから買わなかったが、イモムシとイモくらいしかない市場だった。
 そういえば、虫が出てくる小説を読んだことがある。あれは、カメルーンの作家モンゴ・ベティの英語訳版「ミッション・トゥ・カラ」だったか、あるいは東アフリカの小説だったか、はっきりと記憶がない。なにしろ、ケニアでアフリカの小説を読んでいた25年以上前のことだから、記憶があいまいだ。
 こういうシーンだった。突然、村にバッタが襲ってくる。しばしば「イナゴ」だと誤って説明されるが、群れとなって飛来してくるのは、バッタである。バッタの大軍がやってきて、せっかく育てた作物が全滅するという悲劇的結末を予感したが、違った。
 大騒ぎする村人。草を燃やして、バッタを防ぐのだろうかと思い、読み進んでいくと、村人は食べものが飛んできたことに、大喜びしているのだ。バッタが食べられることに、喜んでいたのだ。この描写で、アフリカ人も虫を食べることを初めて知った。ウガンダの市場で、干した虫を見たのはその小説を読んだ後のことだ。
 『虫食む人々・・・』に、ツムギアリの話が出てくる。噛まれると七転八倒するほど痛いアリだが、噛まれたことは一度、食べたことは数回ある。
 2回目か3回目にツムギアリを食べたのは、チャンマイだった。テレビの取材でタイを旅行していたときだ。チェンマイ担当のコーディネーターとの夕食が、昆虫づくしだった。昆虫の取材にきたわけではない。日本から来た取材チームを驚かせようという、タイ人たちのいたずらだったのだが、お生憎さま、ディレクターもカメラマンも私も、昆虫の料理を目にしてもびっくりなどしない。タイで何度も体験済みだから、平然と、バクバクと口に運ぶ。お笑い芸人のように「辛い!」といって、飛び跳ねることもしない。このときの料理の1品が、ツムギアリ入りのスープだったことは覚えている。あとの料理は忘れた。
 ちょうど同じ頃、のちに『タイの日常茶飯』(弘文堂)としてまとまるタイ食文化の本の取材を続けていて、タイのどこかの本屋で買ったのがイサーン料理の教科書だ。イサーンの本屋だったか、あるいはチュラロンコーン大学の書店だったか、まるで覚えていない。そのタイ語の本は『タムラップ・アーハーン・イサーン』(イサーン料理教書)といい、著者はペンチット・ヨシダという。おそらく、吉田さんと結婚したタイ人だと思うが、著者に関する情報はない。
 この本は料理のテキストだが、タイプ印刷したような体裁で、写真は一枚もない。イサーン料理の教科書というよりも、むしろ伝統的イサーン料理の記録簿という側面のほうが強いような気がする。というのは、ヘビやカエル、そしてコウモリや昆虫の料理などもちゃんと紹介してあるからだ。実用的な料理本というよりも、イサーンの料理を後世の為に書き残した本のような気がする。
 民族誌として、この本を誰か翻訳出版してくれないかなあ。辞書を引きながら読むのは、面倒だ。めこんさん、どうです。

 


アジア雑語林(213) 2008年2月11日

ISA社のその後の話

 1999年に出した拙著『アジア・旅の五十音』(講談社文庫)で、ISA社の話を書いた。国際的な禁煙運動に胡散臭さとファシズムを感じ、そういう動きに反発したくなったのである。航空機はすでに全面禁煙になってしまったから、逆に喫煙可能を売り物にした航空会社があってもいいだろうという趣旨で原稿を書いた。タバコを吸わない人に迷惑がかからないように、席を完全に分離すればいいのだという企画だった。私の文章の一部を引用する。

 「この不況のおり、ISA社創設がビジネスチャンスである。ISA,つまりインターナショナル・スモーキング・エアーラインズ(国際喫煙航空)の設立である。全席喫煙にすることはない。座席の半分か三分の一を喫煙席にして、禁煙席にタバコの煙や匂いが流れないように防煙設備を徹底させる」

 なかば冗談でかいた文章だが、まさか本気でそういうことを考える人が現れるとは思わなかった。2006年の新聞記事だった。ドイツ人実業家アレキサンダー・ショップマン氏が、デュッセルドルフ―東京間に全席喫煙可の飛行機を飛ばそうと考えたらしい。航空会社の名はISAではなく、SIA、つまりスモーカーズ・インターナショナル・エアウェイズだ。私のような貧乏臭い企画ではなく、ファーストとビジネスのみの高額フライトらしい。計画では、2007年3月の就航を予定している。
 さて、もう2007年3月などとっくに過ぎたので、あの計画はどうなっているのか調べてみたら、どうにもなっていなかった。頓挫したわけではないが、「2007年秋には・・・」となって、先延ばしになっている。会社への出資者の問題もあるだろうが、やはり「ご時勢」というのも関係しているように思う。
 アメリカなどは、喫煙席のある航空機はアメリカの空港に着陸させないと宣言しているし、タバコが吸える航空機の発着を許す国がどれだけあるだろうかと考えてみると、喫煙航空の実現はほとんど不可能だと思われる。アメリカの世論など、銃よりタバコのほうが害があると感じているらしい。
 例え喫煙航空が実現したとしても、ファーストとビジネスしかない便では、貧乏人の私には用がない。それ以前に、すでにタバコをやめてしまった私には、ISAもSIAも100円ライターや金張りのライター同様、用のない存在になってしまったのである。

 


アジア雑語林(212) 2008年2月3日

吉田集而さんの本を巡って

 本が好きなくせに、本屋に長居するのが苦手だった。さっさと本を探し、さっさと出て行くのがいままでの習慣だった。本の数が多すぎると圧迫・圧倒されて息苦しいのだ。苦しくなって、「本なんて、もうどうでもいいや」という気分になるのだ。
 そういう習慣が変わったのは、池袋にジュンク堂ができてからだ。他の本屋にはない本がいくらでも置いてあるので、各階の棚めぐりをしていても飽きないのだ。
 先日も、例によって池袋ジュンク堂で棚巡りを楽しんでいたら、文化人類学の棚に『生活技術の人類学』(吉田集而編、平凡社、1995年、6800円)があることに気がついた。吉田さんのこの本を、1995年当時、出たことに気がつかなかったのか、あるいは出版されたことは知っていたが、高額なので無視したのか、そのあたりのことは覚えていないが、読んだことがないのは確かだ。ページをめくってみると、おもしろそうだ。読んでみたくなった。買わねばなるまい。
 民族学博物館の教授だった吉田集而(よしだ・しゅうじ)さんとは何度か顔を合わせてはいるが、立ち話以上の会話を交わしたことはない。植物学や入浴や、私が興味を持つ分野の大先達であるが、なぜか話をするチャンスはあまりなかった。吉田さんの本は1冊か2冊は読んでいるが、熱心な読者ではなかった。
 「こんな本があったらいいなあ」と思い、私が企画した『東南アジア市場図鑑』(弘文堂)が出来たのが2001年で、現物をお見せすると、「なんだい、植物一覧にベトナム語は入っとらんのかい。ベトナムは東南アジアじゃないのかね」とご不満のようであった。ベトナム語もビルマ語もカンボジア語も、植物名と魚介類名リストに載せたかったのはやまやまだが、その作業ができる人が見つからなかったんですと答えたが、納得はしなかったようだ。「なまけものめ」という顔だった。
 吉田さんが倒れたのは、それから数ヵ月後の2001年末のことで、2004年に亡くなった。吉田さんの業績など詳しくは、民博のホームページにでている松原正毅さんの「吉田集而への弔辞」を読んでください。
 吉田さんが編者となった『生活技術の人類学』をどうしても読みたくなったのは、「ハヌノオ・マンヤン族の服装観―フィリピン、ミンドロ島山地民の事例から」という亘純吉(わたり・じゅんきち)氏の論文がおもしろそうだったからだ。内容は、民族服飾学とでもいおうか、褌の締め方と衣文化が語られている。
 この『生活技術・・・』という本は、民博で行なわれたシンポジウムをまとめたもので、おもにアジア・オセアニア地域の衣食住に関する論文を載せて、そのあと討論会という構成になっている。
 収められている論文すべてがおもしろいということはなかったが、植物の毒を使った漁について書いた「魚毒漁の分布と系譜」(秋道智弥)もおもしろかった。
 この本を読んだことで、吉田さんの手による本を調べてみたくなって調べると、『ねむり衣の文化誌』(吉田集而・睡眠文化研究所編、冬青社、2003年、1800円)があることを知り、さっそく注文した。簡単にいえば、世界の人は何を着て寝ているのかという研究のようで、おもしろそうだ。そういう疑問を1975年のヨーロッパで抱き、ちょっと調べたことがあるのだ。
 衣食住の研究で、衣文化だけが研究が遅れているような気がする。衣といえば、もっぱら織りと染めが中心で、それ以外ではパリコレクションなどの話になってしまう。これは調理と栄養と、店ガイドしか手をつけていない食文化研究みたいなもので、なんとも、もの足りない。
 衣文化研究が大展開しないのは、男が参入しないからだと思う。元凶が何かはわからないが、被服学や家政学が中心で、ほかの学問分野の人が次々に参入するシステムになっていないからだろう。
 まったく偶然なのだが、きのうたまたま神田で買った『オーストロネシアの民族生物学』(中尾佐助・秋道智弥編、平凡社、1999年、6400円)は、とんでもなく安かったので、目次も見ずに買ったのだが、吉田さんの「発酵パン果の謎」という論文があった。
 ここしばらくは、吉田関連本で遊べる。

 


アジア雑語林(211) 2008年1月25日

刺身への多大な情熱

 古本屋のワゴンで、『海外食生活百科』(木村学而・鈴木清編、フジ・テクノシステム発行、東京官書普及発売、1986年)を買った。定価は4500円だが、古本屋の売価は500円だった。
 東京官書普及は、政府刊行物の販売をやっている会社だけに、これは普通の本ではない。どういう団体や個人が企画した本なのか不明だし、一般の書店で販売する意図もないらしい。ISBNコードも定価も、奥付けに印刷してある。国際協力事業団をはじめ海外滞在経験者たちが、コラムやエッセイを書いている。そのなかで、名に見覚えがある書き手は、阿部年晴・埼玉大教授だけだ。
 この本を簡単に説明すれば、外国で長期滞在する日本人に、現地の食生活情報を与えようというものだ。駐在員が滞在地の料理を紹介するといった本は何冊か発売されているが、そういう本ではない。もちろん、現地の食文化の簡単な紹介はあるが、中心は駐在員のための現地食生活ガイドである。例えば、日本人好みの食材がどの程度入手できるのか、米は、生魚は、醤油はどうかといった話題も載っている。納豆、豆腐、もやし、あるいは脱脂粉乳を原料にしたカテッジチーズの作り方なども載っている。
 海外で生活する場合の基本情報と、地域別、国別の詳しい情報が載っている。ただし、1986年の発売なので、もはや実用情報としては使えないが、世界のどこの地域でも駐在員生活をする気がないので、実用情報などもともと私には必要がないのだ。読んで、おもしろそうなので、買ったにすぎない。
 日本から持っていったほうがいい台所用品の「三種の神器」としているのは、包丁(菜切り包丁と出刃包丁)、砥石、プラスチックのまな板だという。まあ、そうだろうなあとは思うものの、現在の日本の家庭で、出刃包丁がどれだけ活躍しているか疑問だ。日本では魚屋でさばいてくれるのに慣れているから、外国では自分で魚をおろすために出刃包丁が必要なのだろうが、さて、使いこなせるか。
 隔世の感があるのは、日本から持っていったほうがいいとされる食品リストだ。1986年の事情だと、東南アジアには、「わかめ、のり、みそ、サラダ油、真空パック入り漬け物、野菜の種子」だそうだ。
 現在のバンコクでもシンガポールでも、こうした日本の食品は普通に手に入る。日本の小都市よりも、食品のバラエティーは豊富だといっていい。ところが、アフリカや中東地域では、20年たっても、事情はまだ変わっていないと思う。ソースだって、わさびだって、なんでも日本から持っていく必要があるだろう。
 ケニアの項目を見ていたら、「この一年半、無塩バターは姿を消したまま」という書き込みがあった。それで思い出したのは、ナイロビでたった1回許したぜいたくがケーキで、ボソボソでしかも塩味が強かったことだ。「ここには、無塩バターがないからだよ」と旅行者が解説してくれた。
 この本をざっと拾い読みすると、あらためて日本人は「生食」の民族だと気がつく。解説ページには、「鮮度のおちた冷凍魚の見分け方」と題して、それぞれの魚の注意点が書いてある。当然、寄生虫の説明もある。圧巻は、日本在外企業協会が実施したアンケート調査の結果だ。海外107都市における調査で、「生鮮食料品の調達・鮮度・生食の可否」一覧表が載っている。世界107都市の生魚・生野菜事情アンケート調査だ。
 例えば、マドラス。「質を問わねば一応は購入可能。肉、魚、野菜とも種類が豊富だが、ない時もある。鮮度、清潔さは最低で生食は不可」
 アルジェリアのオラン。「日本食、米は当地で入手。カリフォルニア米でうまい。魚は地中海より新鮮なものが入り、刺身は日本よりうまい。野菜、果物も豊富。調味料のみ日本、パリ等から持ってくる」
 という具合に、107都市の生魚事情がリストされている。それほどに、日本人には生魚が重要なのだ。
 私は、すしも刺身も好きだが、なくてもさほど苦にならないので、こういう刺身に対する情熱は共有できない。刺身よりも、もっと食べたいものがあるが、それはまた別の話。

 


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