前川健一 著作一覧


アジア雑語林(275) 2009年12月6日

ユースホステルと海外旅行 その1

 その昔、海外貧乏旅行の情報がほとんどなかった時代、1970年代までのヨーロッパ旅行なら、『国際ユースホステル・ハンドブック』が重要な資料だった。物価が高いヨーロッパの安宿ガイドだから、貧乏旅行者の愛読書だった。
 ユースホステルはドイツで生まれた。そこで、「ドイツ人と旅」をテーマに調べ物をしたくなった。ユースホステル、ワンダーフォーゲル、遍歴職人、遍歴学者、民族学、地理学などの資料を片っ端から読んでみた。それと同時に、日本ユースホステル協会の歴史資料を読んでいて、橋田壽賀子の名が目に入った。意外ではない。橋田とユースホステルの関係は、すでに知っている。
 2000年8月にNHK・BS2で放送された「BSスペシャル ゆっくり世界旅 真似して真似されて二人旅」を見て知ったのだ。橋田壽賀子とラサール石井のふたりが、なぜかポーランドを旅するという番組で、奇しくも橋田壽賀子の旅の話を聞けた。橋田はなかなかの旅行者だったのだ。
 橋田は大学を出てすぐ松竹に入社したものの、脚本の仕事はなかなか与えられず、1954年に退職してフリーになる。ちょうど53年にテレビ放送が始まったばかりで、彼女はテレビドラマの仕事を得た。仕事の合い間に旅をしたかったのだが、当時はまだ女ひとりを泊める旅館は少なく、しかたなく誰でも宿泊できるユースホステルを利用するようになった。ここなら、女のひとり旅でも、問題なく泊まれる。
 海外旅行が自由化された1年後の1965年、日本ユースホステル協会は、第一回ヨーロッパホステリングを計画した。ホステリングとはユースホステルを利用して旅することだ。海外旅行が自由化されて、やっと業務以外の目的で渡航できるようになったことで計画された大旅行だった。
 費用を安くするために、飛行機はチャーター便だ。ヨーロッパの7カ国を巡って最終訪問国のポーランドで開催される第25回国際ユースホステル会議に出席するというスケジュールで、45日間の旅。参加者127名のうち、女性は70名。そのひとりが、橋田壽賀子だったというわけだ。このあたりの話は、『歩々清風 金子智一伝』(佐藤嘉尚、平凡社、2003年)にやや詳しくでている。ちなみにこの本は、インドネシア関連書でもある。
 参加費用は、38万円。売り出し中の脚本家にとっても、決して安くない料金だ。38万円は、ハワイ10日間のツアー料金に等しいから、それで45日間のヨーロッパ旅行ができると考えれば、たしかに安い。しかし、1960年代なかごろの当時、若いサラリーマンの月給は数万円だから、現在の物価に換算すれば、400万円ほどになるだろう。
 橋田のヨーロッパ貧乏旅行の話を詳しく知りたいと思い、橋田の『ひとりが、いちばん』(大和書房、2008年)を読んでみたのだが、興味深い話はなにひとつ出てこなかった。
 そこで、日本ユースホステル協会の資料で紹介されている、気になるもうひとりの人物について調べてみたくなった。およそユースホステルとはなんら関係もなさそうな人物の名が、資料に載っていたのである。読売新聞大阪本社の記者だった黒田清の最初の著作が、ヨーロッパ貧乏旅行記だったというのだ。黒田とユースホステルは、私の頭ではどうも結びつかない。黒田が、そういう貧乏旅行をしたという話は、まったく知らなかった。

 


アジア雑語林(274) 2009年11月20日

1969年高校生星野道夫のアメリカ旅行

 このアジア雑語林の228号「1952年生まれの旅行者」で、星野道夫の高校時代のアメリカ旅行について少し触れた。
 あの文章を書いたあと、高校生の星野の旅についてもう少し詳しく知りたいと思いつつ時間がたってしまったので、このさい『星野道夫物語』(国松俊英、ポプラ社、2003)を買って、いっきにカタをつけてしまおう。星野の『旅する木』は、我が家のどこかで行方不明になっていて、何度か捜索隊が出動したが、残念ながらまだ発見されていない。『旅をする木』がなくても、なんとかなりそうなのでこのまま作業を進める。
 高校1年の冬と春に働いて、星野少年は8万円の現金を作った。大卒初任給が3万円ほどの時代だ。高校2年生になった1969年の夏休み、少年はアメリカに行こうと決心する。しかし、旅行資金がまるで足りない。息子の熱意を知った父親が、不足分を出してやることにした。
 こういういきさつはすでに知っているのだが、はたして旅費の全額はいくらだったのかという推理をするのが、今回のテーマだ。旅行探偵の出動である。
 横浜―ロサンゼルスは、移民船あるぜんちな丸。『船旅への招待』(茂川敏夫、新声社、1971年)によれば、あるぜんちな丸のもっとも安いクラスは、12万2400円。ロサンゼルスー東京の帰路は、飛行機を使った。運賃を調べてみると、意外にも船の運賃とほぼ同じ12万9600円だった。交通費を安くしたいなら、船を使う必然性はない。もしかして、船の運賃はもっと安かったのかもしれないとは思うのだが、1964年に同じあるぜんちな丸でロサンゼルスに渡った植村直己は、「10万800円」支払ったとあるから、69年の星野少年が12万2400円支払っても不思議ではない。
 というわけで、日本・アメリカの往復運賃は、26万円ほどになる。アメリカやカナダでは、グレイハウンドバスを利用している。交通費を安くしたいから、30日間99ドル乗り放題のアメリパスを買っているはずで、日本で買って、多分3万6000円。少年は、メキシコにも行き、ユカタン半島のメリダからアメリカのニューオリンズまで飛行機で飛んでいる。この費用はよくわからないが、数万円だろう。
 というわけで、交通費合計は35万円くらいになるだろう。
 1969年当時、一次パスポートは1500円。アメリカとメキシコのビザ代(カナダはビザが要らない)、予防注射代などを含めて、1万円ということにしておこうか。食費や宿泊費、装備費などを合わせて5万円とすれば、星野少年のアメリカ旅行の総額は40万円ほどということになる。このうち、8万円は自己負担、残り三十数万円が親からの援助ということになるようだ。当時の40万円は、大卒の若きサラリーマンの年収くらいと考えれば、現在の300万円くらいの価値があるだろう。実家が資産家であるかどうか知らないが、慶応高校2年生の夏休みお坊ちゃん旅行であることは確かだ。
 旅行日数のことも考察してみると、こういう計算が成り立つ。
 40日間(全体の旅行日数)−16日間(あるぜんちな丸の船上)−10日間(カナダ人宅で居候)=14日間
 この14日間が、アメリカ南部、メキシコ、アメリカ東部、カナダ、アメリカ西部をバス旅行しているのだから、ほとんど夜は車中泊だったのではないか。ニューヨーク・ロサンゼルス間は、バスに乗り続けていても3日かかるのだから、大忙しの北米大陸旅行だったことがよくわかる。

●追記:この文章を書いたあと、偶然にも書棚の奥で居眠りしていた『旅をする木』(文春文庫 5刷 2001年)を発見した。高校生時代の旅について書いた「十六歳のころ」という章で、以前読んだときには気がつかなかった発見があった。こういう文章がある。「一九六八年夏、ぼくはアルゼンチナ丸というブラジルへ向かう古くからの移民船に乗って、横浜港を出た」。星野が高校に入学したのが1968年で、高校2年生の夏、1969年7月3日に横浜港を出たのである。9月生まれだから、この時たしかに16歳なのだが、「一九六八年夏」のことではない。著者が勘違いして「一九六八年」と書き、1995年の単行本でも訂正されず、文庫版でも訂正されなかったわけだ。

 


アジア雑語林(273) 2009年11月5日

最近読んだ本の話  その3

 読みたい本だが少々高いと、本当に読みたいのかどうか自問自答し、カネを出す価値があるのかどうかコストパフォーマンスを考察し、「よし、買おう」と決心して、その本をついに手にした瞬間は、なかなかの喜びである。
 ただし、そういう本が、幸せな結末に至るとは限らない。買っただけなのに、もう読んだ気になってそのまま書棚に入ってしまったり(事典辞典類や、外国語の本や語学教科書に多い)。あるいはすぐに読むのがもったいなくて、手軽な文庫や新書を前菜にしているうちに、いつまでたっても主菜に入れなくなって、どんどん後回しになってしまうことがある。2段組600ページなどという大著がそうなりやすい。
 2段組500ページの『時刻表世界史』(曽我誉旨生、社会評論社、2008)もそんな本だ。ちなみに、この著者名は、「そが・よしき」と読む。サラリーマンのペンネームだろう。
 2008年に出た本だから、交通に興味がある人にはいまさら紹介するまでもなく、名著としてすでによく知られているはずだ。世界の鉄道と空路と海路の時刻表から、当時の歴史を考察してみるという、前川好みの雑学本である。
 久しぶりの大傑作との出会いだ。だから、すぐ読むのはもったいなくて、未読のコーナーに積んでおいたら、その上に新しく買った本が乗り、またその上に本が積み重なり、今日まで行方不明になり、年を越してしまったというわけだ。
 たんなる時刻表コレクターの収集品自慢本ではなく、時刻表からさまざまな過去を読み取ろうとした力作である。「歴史」を書くということは、工業技術史であり、政治史であり、経済史でもある。好奇心に一切の制限無しという態度で、時刻表と向きあっている。例えば、アメリカの長距離バス「グレイハウンド」の中古バスが韓国を走っていた時代があるという話や、神戸から出る船の時刻表を旅館が発行していた理由にも言及している。旅客は渡航手続きのために、出航のだいぶ前から港町に滞在しているから、旅館も旅行情報のサービスをしていたというのだ。
 書店で『時刻表世界史』を買おうと思ったきっかけは、1940年代あたりからの東南アジアの航空路についても、詳しく言及しているからだ。エア・サイアムのように、ある程度は知っている話もあるが、「CAT」という文字が見えたら、買わないわけにはいかない。
 CAT(Civil Air Transport)という航空会社を初めて知ったのが、いつ、どこでだったか、まったく覚えていない。アジアでロケした昔の日本映画で看板を見たのか、あるいは日本とタイの関係史を調べていて知ったのかもしれない。1960年代にバンコクと東京を結んでいたというこの航空会社のことが知りたかった。
 この本を読んでみれば、想像していたとおり、ウサン臭い会社だった。ベトナム戦争中に、ラオスから麻薬を運んでいたCIAの航空会社エア・アメリカにも似たウサン臭さがつきまとう会社だ。CATは、国民党政府を支援するためにアメリカが作った会社で、表面上は台湾の会社ということになっている。中国語名は、民航空運公司。コンベア880という中距離ジェット機が1機だけで運航していた会社で、東京、ソウル、台北、マニラ、香港、バンコクの各都市をさまざまなルートで飛んでいた。この本では数ページの記述だが、きっちり調べると、アジア裏面現代史になりそうな題材である。
 興味深い内容満載だから、紹介し始めるときりがない。ただひとこと言えば、この本は2008年のベスト3に入る本だと言っていいほどよくできている。資料をよく集め、よく読み、さまざまな資料で補強していく手法は見事だ。
 この本、読み出すまでに時間がかかったという話はすでにしたが、じつは読み始めてからもたっぷり時間がかかっている。「世界で一番短い航空路」という話が出てくると、ネットで調べたくなる。そして、実際に調べていくと、You Tubeにその路線の動画が出てくる。関連の動画をいくつか見て、本に戻り、しばらくするとまたネットで調べたくなる。500ページの本だから、普通に読んでも時間がかかるのに、掲載されている現物の時刻表を読んだり、航空路の位置関係を地図で詳しく調べていると、えらく時間がかかる。ということは、資料収集と執筆には大変な時間と労力がかかったということだが、著者はそれを楽しんで書いている。もちろん、読者も同じように楽しい。
 日ごろ学者が書いたエッセイや論文を読むことも多いのだが、調べる楽しさが読者に伝わってくる文章は、ちかごろめったにない。読者を未知の世界に連れて行ってくれて、「ねっ、ホントにおもしろいでしょ。調べたら、こんな事実がわかったんだ」と語りかけてくれるような本が、昔はいくらでもあったのだがなあ。
 この本が「2008年のベスト3に入る本だ」と書いたが、それでは他の2冊は何かと気にかかる人がいるかもしれない。2冊ではなく、4冊まとめて紹介したい。いずれも、書き手が楽しんで調べ、書いた本だ。2007年の『図録 メコンの世界』と、2008年の『論集 モンスーンアジアの生態史』全3巻(いずれも弘文堂)の4冊。4冊全部買うと2万円を越えるので、さすがの私も図書館で借りて読んだ。さすが、秋道智彌さんが編者になった本だけのことはあるという傑作だ。とくに、論集の第1巻『生業の生態史』がおもしろかった。
 昨今、東南アジア関連でろくな本が出ていないが、ラオス周辺の本はめこん(出版社)の本とともに、豊作だ。

 


アジア雑語林(272) 2009年10月25日

最近読んだ本の話 その2

 ビルマ文学の翻訳で知られる土橋泰子さんが書いた『ビルマ万華鏡』(連合出版)は、いわば「ビルマと私」とでもいった前半の柱と、「ビルマ雑学ノート」とでもいった後半の柱の2本立てで構成されている。半世紀以上にもわたる著者とビルマのつきあいを書いた前半部分が、私には特に興味深かった。著者が大阪外語大学ビルマ語学科に入学したのは1954年で、57年にビルマに留学している。
 留学記の部分を読んでいて、「そのころと、現在で、ビルマの風景は大して変わっていないだろうなあ」と思った、ここ10年ほどで、ヤンゴンはやや変わったものの、東南アジアの他の国々と比べれば、変わらないも同然だ。高架鉄道も地下鉄も高層ビルもないのだから。30年ぶりに再訪したメイミョは、街の名がピンウールインと変わっただけで、それ以外、昔とまったく同じ街だったので驚いた。誤解のないように言っておくが、変わっていないことが、「いい。すばらしい」と賞賛しているのではなく、あるいは逆に「悪い。ひどい」と非難しようとしているのでもない。ただ、事実を書いただけだ。
 この雑語林でもたびたび書いているが、私は学問の歴史に興味があって、例えば日本人の外国語学習の歴史だ。1980年代までの日本では、朝鮮語・韓国語を学ぶ者は、共産主義者か、在日朝鮮人だと思われていた。例えば、『ソウルの日本大使館から』(町田貢、文藝春秋、1999)は、1950年代から現在までのさまざまな韓国語事情にも言及している。町田氏は1935年生まれで、天理大学朝鮮語科を卒業して、韓国の日本大使館に長年勤務した。この本は、1960年代からの日韓交流史の体験的資料としても、興味深い記述がある。
 ちなみに、大宅賞作品の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋)などを書いた萩原遼氏は、1937年生まれ。朝鮮語を勉強したくて天理大学を受験したが、共産党員であるため不合格となり、のちに大阪外語大に朝鮮語科が創設されて、やっと朝鮮語の勉強ができるようになり、卒業後「赤旗」の記者になった。政治的外国語として、この両者の歩みはとても興味深い。
 日本人にとって、タイ語に政治性はない。タイ語ができる男は、タイで女遊びをしていると思われていたくらいだろう。フィリピン語(タガログ語)も同様。フィリピン語をしゃべる男は、フィリピンパブに大金を注ぎ込んだ常連に違いないと思われるだろう。こうした外国語のイメージの問題のほか、そもそも英語以外の外国語を勉強できる場所・機関がほとんどなかったという問題もある。そういう事も含めて、日本人の外国語学習史を調べていると、けっこうおもしろく遊べる。
 『ビルマ万華鏡』の後半の、ビルマ雑学編の部分は、おもしろい個所をいちいち書き出すときりがないので、あえて言及しないが、1日2食の食生活のことなど、興味深い話がいくらでもでてくる。ただし、私がもっとも知りたい「ビルマ式便器」については、まったく記述がない(著者にメールで問い合わせたが、便器の雑学まではご存知ないそうだ)。アラブ式便器にもちょっと似ているビルマ式便器についてご存知の方、あの便器の歴史など、なんでも教えてください。
 そうそう、土橋さんが留学していた同じ時代に、日本の17名の青年僧侶も、ビルマ政府の招待で長期滞在していた。その滞在記が『ミャンマー乞食旅行』(遠藤祐純、ノンブル、2002)で、『ビルマ万華鏡』を読む直前に、古本屋で見つけた。私よりも年配の方々、どうか昔の留学記や滞在記や旅行記を、書き残しておいてください。現在との比較があれば、なおうれしい。

 


アジア雑語林(271) 2009年10月15日

最近読んだ本の話 その1

 最近読んだ本の感想を書いてみる。
 まずは、これだ。『タイ 中進国の模索』(末廣昭、岩波新書、2009)は、前著『タイ 開発と民主主義』(1993)の続編に当たる本で、それ以後のタイの政治や経済について解説している。末廣さんは研究分野の広さでも深さでも尊敬する研究者であり、平易な文章でわかりやすく書いてくれる貴重な存在である。
 それでも、ページをめくりながら、ふと窓の外をながめていることがある。もの足りなさを感じてしまうのだ。この本に限らず、タイの政治や社会について書いてある他の人の本を読んでいても、いつも靴の上から足を掻いているような(隔靴掻痒)イライラした気分にさせられることがある。「素人が偉そうに」と言う批難は承知で言うが、タイ政治の根本に足を深く踏み入れて書いていないと、感じるからだ。
 タイ研究者なら、もうこれだけで、私がなにを言いたいかわかるだろう。タイには、書きたくても、書けない事がある。だから、今後ともタイ研究を続けていく学者やジャーナリストには、酷な要求であることはわかっているが、なんともすっきりしないのだ。
 タックシン政権が悪かったというのは、取材したことがないのでよくは知らないが、きっとそのとおりなのだろう。タックシン以前の政権だって、金権・汚職にまみれていたのだから、程度の差はあれ、タックシン政権だけがひどい政権だったというわけではない。
 今日の、タイ政治の混乱の元凶は、軍部のクーデタであり、そのクーデタを国王が承認した。そして、マスコミ、インテリ、官僚なども、こぞってクーデターを賞賛した。それが民主主義かい? 軍事クーデタを賞賛する民主主義者? おかしくないかい。おかしいと思っていないから、クーデタを賞賛したのだろう。
 「タイは、民主主義など求めない」というなら、それはそれでひとつの態度だが、口では「民主主義」を叫びながら、軍のクーデタを賞賛し、首相府や空港の不法占拠を堂々とやる非民主的行動を続ける団体について強く言えないのは、結局のところ不敬罪があるからだ。国王が承認したクーデタを、誰が批難できるか。不敬罪が乱発される現在のタイでは、言論人も「触らぬ神にたたりなし」「物言えば・・・」という態度をとるしかない。政治学も歴史学も社会学も、およそ文系の学問は、そのタブーから逃れられない。だから、タイ語の書物のことは知らないが、『王権とタイ政治』や『王室とタイ政治』、あるいは『国王とクーデタ』といった本がまだ出版されていないのだ。
 タイに黄色シャツ集団が現れたころ、私は不愉快だった。黄色は国王の誕生日の色で、その色の服を身につけている集団は、王への忠誠心を誇示しているわけだ。制服というのが、私は嫌いなのだ。思想を同じくする者が、同じ服を着るという発想と行為と排他性が、おぞましい。黄色のシャツを着ていない者を、反王室思想であるかのように追い詰める圧力が、公務員には確実にあった。タイに黄色シャツを着た者があふれるようになって、私の不快感が増していった。王の威を借る黄色シャツ団の存在が、息苦しかった。数年前からのそうした危惧や不安が、いま現実となって、タイは混乱のなかにいる。

 


アジア雑語林(270) 2009年10月7日

『闇の子供たち』の出来の悪さと不愉快さ 映画編

 映画「闇の子供たち」は、小説とはかなり違う構成になっているが、どちらが「まだまし」ということはない。
 外国人が出てくる日本の小説や映画の場合、言葉の問題をどう解決するかが、私の重要な関心分野だ。通常のアメリカ映画なら、登場人物がロシア人であれ中国人であれ、英語を話すのが当たり前ということになっているのだが、日本ではさすがにそういう傲慢なことはしない。日本の小説や映画の場合、主人公の日本人が外国語のうまい使い手という設定にする場合と、逆に外国人が日本語の使い手という設定にするか、あるいは、うまく通訳を使うという設定にする。「闇の子供たち」の小説の場合はその設定がうまくいかず不具合があったのだが、映画の場合は、登場する日本人はタイ語ができる設定にした。この点に関しては、映画のほうがすっきりしている。
 さて、映画版に関しては、小説同様、賞賛も批判も数多い。ネット上の批評をかなり読んだが、読んだ限りでは誰も触れていないポイントをここで書いてみよう。
 子供たちが何度も性的暴行を受けるシーンについてだ。阪本順治監督は、細心の注意を払ってこのシーンを撮影したとインタビューに答えているが、私は「これが日本を舞台にした物語だったら、どう撮影しただろうか」と思った。日本に児童売買春の組織があるかどうか知らないが、映画なら「ある」ことにしてもいいだろう。「闇の子供たち」では、タイでは心臓の生体移植が行なわれていると、あたかも事実のように描いているのだから、日本に児童売買春バーがあるという映画を作ってもおかしくないことになる。
 さて、そこで、撮影だ。「闇の子供たち」とまったく同じシーンを、日本人の子供たちを使って撮影できるか。阪本監督がインタビューで答えているように、「子役やその親に『なぜこの演技が、なぜこの映画が必要なのか』を繰り返し説明した」(「産経ニュース」2008.8.1)ように、日本人の子役とその親たちに説明して、同じシーンが撮影できるだろうか。親が同意するだろうか。児童劇団や芸能プロダクションが了承するだろうか。幼い子供が強姦されるシーンの撮影を承諾する親が、日本にいるだろうか。そのあたりを、想像してほしい。
 「闇の子供たち」の映画製作者側には、タイ人ならカネで片がつくという判断がなかったか。「あった」とは言わないだろうが、私には、「日本ではできない撮影を、カネの力でタイでは撮影できた」としか思えないのだ。日本を舞台にした場面なら、かなり違う絵(シーン)になっただろうし、セリフも違うだろう。
 あるいはこういう仮定は、どうだ。「闇の子供たち」と同じシーンを役者だけ日本人に変えて、まったく同じように撮影できたとして、「闇の子供たち」を絶賛していた個人や団体(例えば、日本ユニセフ協会)は、同じように絶賛するだろうか。あるいは、子役は日本人で大人の役者は中国人など他のアジア人や西洋人というアメリカ映画だったとしても、おなじように絶賛するだろうか。
 日本人なら拒否されることが、タイならカネの力でどうにでもできるという実状なら、この映画も児童売買春も同じ構造ではないか。
 そのあたりのことを、想像力を働かせて考えると、この映画、どうにも不愉快なのだ。

 


アジア雑語林(269) 2009年9月28日

『闇の子供たち』の出来の悪さと不愉快さ 小説編その2

 小説『闇の子供たち』(梁石日)は、この世にもし「タイ検定」というものがあれば、「この本を読んで間違いを探し出しなさい」という設問の、絶好のテキストになる。校閲の練習本としては、なかなかに役立つ本なのだ。
■例えば、タイ人と「抱き合う」についての考察。
 ナパポーン(女性)が、アチャー(男性)と会ったシーン。
 「『半年ぶりかしら。お元気で何よりだわ』と抱き合ってあいさつした」(63ページ)
 タイ人のあいさつは、抱き合うことじゃない。
■あるいは、養子の手続きの奇妙さ。
 タイに子供を買いに来たドイツ人夫婦の話。「ドイツ人夫婦は養子縁組の書類にサインし、金を払って、翌日、トゥーンを連れてタイを去って行った」(183ページ)
 子供はみやげ物じゃないんだから、出国にはパスポートがいるということを、著者は知らないのか。書類にサインするだけで、養子縁組は成立し、子供のためにすぐさまドイツのパスポートが支給されると思っているのだろうか。
■もっと単純な、間違い探し。
 「ラマ四世通りからアッサダン通りに出て内務省に到着すると・・・」(69ページ)
 内務省はたしかにアッサダーン通りにあるが、ラマ四世通りは、はるか遠くにあるので、こういう移動は不可能なのだ。
■オートバイに関する疑問もある。
 「センラーを売った金で日本製の50ccの中古単車を買った」(108ページ)
 これは、文章だけの意味では「日本から輸入した中古バイクを買った」とも解釈できるが、中古バイクの輸入は禁止じゃなかったかと思う(確信はないが)。だから、タイの日系メーカーが製造した中古バイクということだろうが、それだと排気量が50ccというのは変だ。90〜200ccくらいの排気量じゃないだろうか。
■事務所に来た客にお茶を出すというシーンが、245ページにあるが、家庭でも会社でも、来客があれば冷水を出すのがタイの常識だ。
 こうして書き出すときりがないので、これくらいにしておこうか。
 「そんな瑣末なことはどうでもいい。重要なのは主題だ」という人があるかもしれないが、それは違う。細部がずさんだということは、取材がいい加減だということだ。この本にはしばしば「地下室」がでてくるが、タイに地下室などほとんどないこともわかってない。物価がわかっていないということは、取材中に自分でカネを払っていないということだろう。その程度のこともわからない人に、社会問題をえぐる小説は書けない。インタビューと妄想で作り上げた小説には、説得力がない。リアリティーがない。現実感がない。タイを知らない人にはノンフィクションだと誤解されたようだが、幼児性愛愛好者を興奮させるだけの文章にすぎない。
 こんなひどい小説を映画化したというのだから、期待などできるわけはない。タイが舞台でも、見る気はなかった。だが、テレビでやったので、一応みてみたのだ。それが、まあ、という話は次回。

 


アジア雑語林(268) 2009年9月21日

『闇の子供たち』の出来の悪さと不愉快さ 小説編その1

 テレビで、映画「闇の子供たち」(2008)を見た。出来が悪い映画だろうと思っていたので映画館には行かなかったのだが、テレビで見ても予想通りひどい映画だった。
 そもそも、原作である小説(梁石日著)もひどかったのだ。主題がどうのとか、社会性がどうかなどという前に、およそ、小説として商品になるシロモノではないのだ。細部があまりにひどいので、必然的に全体像もグラグラガタガタな粗忽話になっているのだ。この本を高く評価した人は、はたしてちゃんと読んだのだろうか。齟齬をきたすストーリー展開なのだ。ソコツ、ズサン、イーカゲンな本なのだ。
 山ほどある変な個所から、具体的に例を書き出してみよう。テキストは、2002年の解放出版社版だ。大幅な訂正はしていないような気がするので、幻冬舎版には目を通していない。
 148ページに、こういう文章がある。
 「あの黒い服を着ていた男の眼を見ただろう。あの眼は何人もの人間を殺害している眼だ」。
 その男が登場するのは、3ページ前の145ページ。
 「警官が指差した方向を見ると黒いシャツに黒いズボンをはき、黒いサングラスを掛けた角刈りの男が腕組みをして立っていた。笛を鳴らして教頭の犬を自在に操っていたのはこの男だった。サングラスの中の目の動きがわからない」
 サングラスをしている男の眼を、どうやって見たのかね。この部分に注釈を加えると、タイ人はこういう黒ずくめの服装をまずしない。暑いからだ。ヤクザ者だから黒シャツって、ハリウッド映画の連想?
 こういうように、「なぜ、わかったの」とか「なぜ、知っているの」という疑問を抱かせる部分が、あまりに多いが、いちいち説明すると長くなるので違う話をする。
 言語に関する不自然さも多々ある。
 例えば、A新聞社のバンコク特派員南部浩之は、大学の後輩でバンコクのNGO団体で活動している音羽恵子のために、A社が集めたタイの犯罪資料を手渡したというシーンがある。100ページほどの資料を、NGOのタイ人スタッフたちが熱心に読んでいるのだ!
 日本の新聞社が集めたタイの犯罪資料を、日本語が読めないはずのタイ人たちが熱心に読んでいるという奇妙な光景。A新聞社がタイ語で資料集をつくるわけはないし、100ページの資料をタイ語に翻訳しなければいけない事情もない。前後の関係からして、日本語による膨大な資料をタイ人たちが読んでいるというシーンにしか読めない。そもそも、タイの犯罪資料を、日本の新聞社に頼るという話の筋が理解できない。
 そして、そのNGO団体は、ある事件を告発するチラシを作った。
 「主張文はゴシック体にして、その下に明朝体で、幼児売買春、幼児売買の実状について書き、政府の対策をうながした」というのだが、明朝体ですって? タイ人相手に日本語のチラシかい? 著者は、タイ語にも明朝体があると思っているんだろうか。
 この本を精読すると、著者は伝聞と妄想でこの小説を書き、ちゃんとした取材をしていないことがよくわかる。とくに、カネが関係する個所がどこも変なのだ。売春の料金は取材したのだろうが、日常生活の物価がわからないようだ。
■ホテルの部屋でビールを注文した客が、50バーツ(150円)を渡し、「つり銭はとっておきなさい。チップよ」。コンビニで缶ビールを買ったんじゃないんだから、そんなに安くないだろ(154ページ)。
■「クラウスはタノムとセンラーに十バーツずつチップをあげた」(158ページ)のに、163ページでは「チップの1ドルを取り上げた」となって、手品のように10バーツがすぐに1ドルに変わってしまった。
■路上で子供が南部浩之にタバコを売りにきた。「その煙草を一バーツで買うと・・・」。1本1バーツ(3円)なら、箱で買うよりバラのほうが安いじゃないか。時代によって違うが、ひと箱50バーツとか60バーツとかする(339ページ)。
■シーロム通りのカフェで娼婦から情報を聞きだそうとする南部特派員は、「ポケットから十バーツを取り出しテーブルに置いた」。そして「おれの質問に答えてくれたら、二十バーツ出す」という(360ページ)。このシーン、映像でやったらお笑いコントだよ。10バーツって、30円弱だよ。わかりやすく言えば、赤坂のクラブでホステスから情報を聞き出すとき、100円玉3個だして、「極秘情報を教えてくれ」と迫るようなものだ。子供のお駄賃じゃないんだからね。
 もっと書き出したくなったので、この続きは次回に。

 


アジア雑語林(267) 2009年9月14日

「食客」から見えてきたもの その2

 テレビドラマ版「食客」を見ていて、日本ではテレビドラマでは絶対に扱えないテーマが登場している。食肉処理人の話だ。その職業ゆえに、娘が結婚できなかったという差別される側のエピソードも入ると同時に、肉を切り分ける技術のすばらしさも称えている。日本のテレビでは、多分、韓国版のまま放送されたはずだ。元のマンガに、このエピソードがあるのかどうかわからないが、もしドラマ通りのストーリーがマンガにもあったとして、では原作通りにそのまま翻訳するかどうかとなると、大いに疑問だ。マンガは差別を助長するものではもちろんないが、でも「触らぬ神にたたり無し」だから、そのエピソードはカットするかもしれない。
 韓国の食事作法のひとつとして、器を持ち上げないことや、飯は箸ではなくサジですくって食べるといった話が、ガイドブックや食文化紹介本などに必ず登場するが、このことについて、私はかねてから気になっている。
 椀や皿を盛り上げるようなことはせず、置いたまま食べる。汁と飯はサジで食べ、それ以外のおかずは箸を使うというのは、確かに正しいマナーなのだろうが、現実の食事法ではない。そのことに最初に気がついたのは韓国の食堂だったが、以後、韓国のドラマや映画で食事風景が出てくると、注目する習慣がついている。
 すると、日本人のように飯椀を左手に持って食べている光景はいくらでもでてくるのだ。「食客」のドラマ版でははっきりした記憶はないが、マンガ版なら、第2巻の31ページに、飯椀を左手で持ち上げ、箸で飯を食べている韓国人が描かれている。
 これがマナーと現実の違いで、日本でも「正しい箸の持ち方」と、現実の箸の持ち方は確実に違う。マナー本に書いてある「正しい持ち方」をしていない日本人は、すでに半分くらいいるかもしれない。日本のテレビでタレントたちが食べるシーンがあると、つい箸の持ち方に注目してしまう。最悪の例は、笑福亭鶴瓶と中尾彬だ。
 今、ドラマ版「食客」のシーンを思い出していて、創作料理の姿が目に浮かんだ。西洋人にも受け入れられる韓国料理を作り出すというエピソードに登場していた料理は、日本料理の盛り付け方を取り入れたものだ。料理そのもの詳しい解説があったかどうかあまり記憶にないが、料理の色合いからしても、ニンニクやトウガラシを使っていないようだ。しかも生魚を多用すれば、ますます日本料理に近くなる。そこが、韓国人のジレンマなのだろう。
 食文化とは違う話をひとつ。私は、韓国映画はそこそこ見ているが、テレビドラマはほとんど見ていない。だから、わずかな知識でいうのだが、ドラマ版「食客」を見ていて気がついたのは、片親と子ども一人という例が多くあることだ。このドラマでも登場する人々のほとんどは、両親のどちらか、あるいは両方がすでに死んでいる。そこで、いままで見た韓国映画を思い浮かべると、「八月のクリスマス」も「おばあちゃんの家」も、「ピアノを弾く大統領」も、あれもこれもと、その例が思い浮かぶ。こういう「家庭の事情」を取り入れて不幸を演出するのが、韓国流なのだろうか。

 


アジア雑語林(266) 2009年9月6日

「食客」から見えてきたもの その1

 韓国のマンガに「食客」というのがある。2002年から「東亜日報」で連載がはじまったホ・ヨンマン作の人気マンガで、映画化とテレビドラマ化されている。日本では、講談社から単行本で翻訳出版されている。
 「食客」の映画版は見ていないが、テレビドラマ版は見た。その内容はまったく別にして(つまり、それほどおもしろくないということだ)、韓国社会・文化研究の資料としては、なかなかに興味深い。ドラマを見ていて気になった点を書き出してみよう。
 まず、主人公が料理人だということだ。韓国は、汗を流さない文人が高く評価される社会で、職人の地位は低かった。料理など立派な男がやるものではないという考えがあり、生活のためにいたしかたなく食堂を始めたとしても、出来るだけ早くまとまったカネを作って、「正業」につくべきだという考えがあった。飲食店というのは、事業のなかでも地位が低かったのだ。ここ10年くらいの変化か、数多いグルメ情報が大きな影響を及ぼしたせいか、食が娯楽になり、その料理や料理人や料理店に対して注目を集めるようになり、料理人の地位がしだいに高くなってきたようだ。そういう世相を反映して、あるいは日本のグルメブームの影響で、料理人が主人公のマンガが誕生したというわけだ。
 ドラマ版では、「韓国料理は世界を相手にできるか」というのが大きなテーマになっている。日本料理が世界に広く普及しているのに、韓国料理はなぜ世界に出て行けないのか。韓国人は、韓国料理を世界に広めるためにどれだけの努力をしたのかと、自らに問うている。日本料理を広めることに日本人がした努力と同じだけの努力を、韓国人はしてきたのかと問うている。
 ドラマでは、料亭の厨房が舞台になることが多いので、じっくりと眺めても、そこに「韓国らしさ」が見つからない。遠目では、西洋料理の厨房となんら変わらない。調理道具も西洋料理そのものだ。包丁も鍋も、西洋料理店の厨房にあるものと同じで、韓国料理を作っている現場という光景ではないのだ。で、ふと考えた。韓国(あるいは朝鮮)には、他の国にはない独特の調理器具があるのだろうか。ビビンパなどに使う石の鍋や丼は、そう古い歴史があるわけでもないだろう。手作業で石の器を作るより、陶磁器で作ったほうがはるかに楽だから、石鍋・石の丼の大量出現は電動の工具の登場と同じ時代ではないかと思う。ということは、日本になくて韓国にある厨房機器(台所用品)といえば、キムチ専用冷蔵庫くらいか。
 おろし金やすり鉢など、個々に調べなければいけないことなので、いつかやるという宿題にしておこう。
 ドラマには出てこないが、ついでに調味料についても調べたくなった。韓国独特の調味料があるのはもちろんわかっているが、私が気になったのは、料理に酒を使うかどうかだ。中国料理と日本料理では、料理に酒を使うことはすでにわかっている。日中の2カ国を除くアジアの国々、例えばイスラム諸国はもちろん、インド亜大陸では料理に酒は使わない。中国の食文化の影響を強く受けている東南アジアでも、料理に酒を使わない(ただし、ベトナムについては、まだよくわからない)。さて、では韓国(朝鮮)ではどうか。
 こういうことを知りたい時に、日本語や英語で書かれた料理本は、およそ役に立たない。著者が勝手にアレンジしているからだ。だから、ベトナム料理と酒の関係もよくわからないのだが、どうやら朝鮮では料理に酒は使わないらしい。そのあたりも考察したいところだが、詳しいことが今の私にはわからない。味醂は使うが「ミリン」という名そのままだから、その歴史も浅く、使用量も少ないらしい。

 


アジア雑語林(265) 2009年8月27日

マドロスの基礎研究ノート その4

 芸能とはまるで関係のない、マドロスの実録本を古本屋で買った。次の2点だ。
 『懐かしのマドロス人生』(松倉宣夫、成山堂書店、2002)は、1961年に大阪商船に入社し、定年まで勤めた通信士が書いた本で、内容は、まあ、文芸社だ。思い出話を書いた本なのだが、いつの体験なのか年代がまったく書いていないので、資料にならない。インターネット古書店だと、内容がわからず注文するので、こういうスカも買うことになる。
 もう一点は、『華氏140度の船底から 外国航路の下級船員日記』上下巻(広野八郎、太平出版社、1979年)。上記の本とは違って、一部ではよく知られている本だ。著者である広野は、1907生まれのプロレタリア作家。ルポルタージュなどを書くも、もちろん原稿料では生活できず、船員や炭鉱夫として働き、1996年没。遺稿集に『昭和三方人生』(弦書房、2006年)がある。三方というのは、馬方、土方、船方のことだ。
 さて、この『華氏・・・』は、広野が1928年から1931年まで、外国航路の下級船員として過酷な状況で働かされたときの日記を、50年近くたって単行本にまとめたものだ。
 この本の正統的な読み方は、『蟹工船』や『女工哀史』などと同じように、労働者の苦しさ、悲しさ、つらさを読み取って、資本家を糾弾するという方向に進むのだろうが、私はマドロスの資料として読んだ。
 まず、ことばの話。『懐かしのマドロス人生』の場合は、戦後のことであり、通信士という職業のせいか、著者は「マドロス」という語にプラスの意味を感じているような気がする。一方、『華氏・・・』のほうは、戦前の、しかも雑役夫や船底で石炭を燃す釜炊きだから、状況が違う。自分が船員であるがゆえに、陸に住む人々から差別されていることを、「じぶんがマドロスである悲哀」と表現している。したがって、「マドロス」はけっしてプラスの意味では使っていない。
 広野の航海日記を読むと、陸地にいるときの記述が、「港、港に日本の女あり」という時代だったことがよくわかる。船員が上陸するということは、女を買いに行くということだから、それ以外のこまごました、例えば外国のカルチャーショックなどのエピソードを読みたかったのだが、あまりでてこない。
 いわゆる「からゆきさん」の時代だ。著者は長崎の出身だから、外国の港で長崎など九州の方言を耳にすると、懐かしく感じ、日記にきっちりと書きたくなったのだろう。
 アジアやアフリカにからゆきさんがいたことは知っていたが、からゆきさんとはおそらくはほとんど関係のないアントワープ(ベルギー)の話が興味深かった。ベルギ−というと、静寂というイメージがあるのだが、こういう記述がある。

 「アントワープこそ船員たちが、マルセーユよりもたのしみに待っていた港である」(中略)「そこに建ち並ぶ家の大部分がバーであるのにはおどろいた。内からピアノの音がもれてくる。『東京バー』『大阪バー』『神戸バー』『横浜バー』『梅ケ枝』『すずらん』『まるまげ』『ライオン』などなど、日本文字で書かれたバーが十数軒と並んでいるのにはさらさらおどろいた。そしてそこの女のほとんどが、かたことまじりの日本語を話し、日本の『枯れすすき』『道頓堀行進曲』『愛して頂戴」』などの歌を、まわらぬ舌でおもしろくうたうのには、さらさらにおどろいた」

 「よろづ屋」という名の日本人経営のうどん屋があり、「東京キネマ」という映画館もあり、著者はその両方に出入りしている。いくらアントワープが世界的な港であるとはいえ、1930年前後に日本人船員を相手にするバーやうどん屋があったようだ。
 船の時代の世界は、飛行機の時代とは違う「日本」が世界に広がっていたことがよくわかる。ああ、アントワープのことも調べなければ・・・。
 この『華氏・・・』は、まずマドロスの資料として買った。著者が働いていたのが日本から香港、シンガポール、ペナン、カルカッタという航路で、のちにヨーロッパ航路になるので、寄港するアジアの街の様子など書いてないか探しながら読んだのだが、期待したほどのボリュームがなかった。船員の生活はもっぱら船内で、陸地は息抜きだから、上陸地の詳しい描写はあまりないが、やはり素人の文章ではない。読ませる文章だ。
 例えば、1929年9月14日のラングーンの休日の話が、ちょっとおもしろい。客待ちをしているインド人の人力車夫が声をかけてくる。うまい日本語をしゃべる。かつて、日本人と共同で、ここで店を経営していたことがあるという。そのインド人の案内で、かつては300人も日本人の女が住んでいたという日本人街の跡に行き、わずかに残っている日本料理屋に行き、次に中華料理屋に行き日本人女性に出会うというぶらぶら旅がおもしろい。
 マドロス人生の広野だが、1931年の正月は日本にいた。1月2日は前田河広一郎(まえだこう・ひろいちろう 1888〜1957)の家で宴会。前田河は徳富蘆花の支援を受けて渡米、13年間をアメリカで過ごした作家。同席しているのは、のちに中公文庫にも入った『北ボルネオ紀行 泥の民』の作家、里村欽三。広野の師匠にあたるプロレタリア作家の葉山嘉樹もいた。深入りしたい人名が出てくるが、ガマン。文学に足を踏み入れると、なかなか抜け出せなくなる。
 マドロスの話は、一応、今回で終わりにしておこう。

 


アジア雑語林(264) 2009年8月19日

マドロスの基礎研究ノート その3

 私がちょっと調べただけだから、正解にはまだ遠いだろうが、映画の世界で初めて「マドロス」という語が出てくるのは、もしかしてフランス映画がらみかもしれない。
 日本タイトルを「掻払いの一夜」(監督:カルミネ・ガローネ)という映画がある。1930年に制作されたフランス映画だ。この日本題ではなんのことかわからないが、原題の“Un Soir de Rafle”は、「一斉手入れの夜」の意味だ。この映画は、航海から戻った船員と娼婦の物語で、警察による「手入れ」が重要なシーンになっている。
 この映画の主題歌に日本語の詞をつけた「マドロスの唄」(奥田良三、矢追婦美子とふたりの名が見つかったが、デュエットか、それぞれ別の録音かは不明)で、発売は1932年だ。「マドロス」という語がついた最初の歌は、これかもしれないと思った。しかし、それは早とちりだった。前年の1931年に、「マドロス小唄」という歌が発売されていることがわかった。歌っているのは、淡谷のり子だ。デビュー第2作目になるようだ。デビュー曲が「久慈浜音頭」だから、当初は日本調で勝負するしかなかったことがよくわかる。このあたりの話は、淡谷のり子関連の調査をやればおもしろい事実がいろいろ出て来るだろうが、今回は割愛する。
 1934(昭和9)年に、マドロスの歌の大ヒット曲が生まれた。1931年のドイツ映画「狂乱のモンテカルロ」の主題歌を、「これぞマドロスの恋」として発売された。歌手は「マドロスの唄」の奥田良三。「マドロスの恋」という名で、カバーされているだけでなく、映画や舞台でも使われたらしい。この歌がきっかけかもしれないが、1930年代に「マドロス」の歌が多くなる。「マドロス気質」(立花ひろし)、「マドロス暮らし」(灰田勝彦)、「マドロス行進曲」(伊藤久男)、「マドロス万歳」(鶴田六郎)などがある。
 クラシックの世界でも、マドロスはあったようだ。作曲家伊藤昇(1903〜1993)の作品に、弦楽楽曲「マドロスの悲哀への感覚」(1928年)というのがある。前衛音楽らしいのだが、詳しくはネットサイトの「プッチーケイイチの女にもてないCDレビュー 2005−12−04」参照。
 というわけで、1930年代が第一期マドロスの時代だといえるだろう。
 戦後のマドロスは、1948年の歌「マドロス人生」(小野巡)から始まるようだ。面倒なことに、この歌と同名異曲が1954年までにあと4曲ある。「戦後はマドロスとともにやって来た」とも言えるが、その最盛期は1950年代だろう。
 タイトルに「マドロス」という語が入っていてもいなくても、マドロスの世界を歌っている歌謡曲はいくらでもある。例えば、1947年のヒット曲、「雨のオランダ坂」(作詞:菊田一夫 作曲:古関裕而 歌:渡辺はま子)にも、「異人屋敷の窓の灯りで ぬれてさまようマドロスさんを・・」という歌詞がでてくる。
 それに比べて、映画の世界には「マドロス物」というようなジャンルはないようだ。マドロスが登場する映画はもちろんあるが、「マドロス物」といえるほど数多くあるという印象はない。マドロスが久しぶりに帰国して、そこから物語が始まるという映画はあるが、大きなジャンルとして、マドロス映画の群れがあるだろうか。そのあたりを確認したくて、映画評論家の佐藤忠男さんにインタビューしたときにこの質問をしたら、「日本映画に、マドロス物はありません」とのことだった。
 タイトルに「マドロス」がついている映画を、キネマ旬報社のデータベースで探したら、次の2作しか見つからなかった。
 「マドロスの唄」(1950年 監督:小田基義 主演:久我美子)
 「大暴れマドロス野郎」(1961年 監督:山崎徳次郎 主演:和田浩治)
 ただし、よくわからないのだ。「マドロスの唄」に関する資料が出てこない。小田基義は、のちにトニー・谷の映画を作った大監督だが、この映画の情報が出てこない。制作は東映となっているが、1950年にはまだ東映という会社はないので、不明なことが多い。
 調べているうちに、同じ1950年に「岡晴夫のマドロスの唄」という映画があったことがわかった。監督は野口博志、主演はもちろん岡晴夫。日本映画科学研究所の制作で、配給は東京映画。岡晴夫が歌う「マドロスの唄」のレコードは、1949年の発売だから、歌が先で、映画が後ということらしい。
 「大暴れマドロス野郎」は、タグボートの船長を主人公に、ヤクザやキャバレーなどがからむ、ご存知の日活アクション映画だ。私のイメージでは、船で働いている人ならみなマドロスというわけではない。漁師もタグボートの船長も、フェリーの船員も、どうもマドロスという感じがしない。客船であれ、貨物船であれ、小さな船であっても外国と行き来している船の船員が、マドロスという気がする。それは、たぶん、歌謡曲が植えつけたイメージなのかもしれない。
 さて、日本人にとってマドロスとはなにか。そういう話は、これから充分に考察してからの話で、ここでは書かない。いや、まだ書けないのだ。マドロス物が、日本人の異国憧憬にどう作用したのかといったことが知りたいので、これからじっくり考えてみる。新書になりそうなテーマだから、誰かが手をつけるなら、ご自由にどうぞ。しっかり調べて、いい本を書いてください。
 次回は、マドロスのノンフィクションをとりあげる。

 


アジア雑語林(263) 2009年8月10日

マドロスの基礎研究ノート その2

 「マドロス」という語が、どの程度、どういう意味合いで使われていたのか、もっと調べてみたくなった。この語が日本に入ってきたのは幕末だとしても、「マドロス」という語のイメージから、どうしても岡晴夫や美空ひばりを思い浮かべてしまう。やはり、1950年代あたりが一種の「最盛期」だろうが、戦前でもよく使われていたようだ。
 神戸大学図書館で保存整理している昔の新聞記事を調べてみる。
 大阪時事新報 1930(昭和5)年、8月7日
  「メリケン波止場を吹きまくる不景気風」という見出しで、「一九三〇年代の海運界風景たつ大繋船は世界の港々に大量のマドロス失業者を続出しているが・・・」
 あるいは、大阪朝日新聞 1940(昭和15)年、2月6日の見出し。
  「出るゾ危険手当 『七つの海』のマドロスへ」
 あるいは、また、国民新聞 1915(大正4)年、2月14日
  「南洋貿易有望」という特集記事のなかに、南洋で売れる商品のひとつが、「マドロス襟」の服だとしている。しかし、それがどういう襟なのか、不明。
 こういう新聞記事でわかったのは、「船員」と「マドロス」は同じように使い、現在でいえば、「トラック運転手」とも「トラックドライバー」ともいうように、どちらの語を使おうが、別段、意味やニュアンスに違いがあるように思えない。
 マドロスについて調べていて気になったのは、さまざまな資料に「船員」と「海員」という両方の用語がでてきて、よくわからないことだ。「海員」という語になじみはない。わずかに、横浜中華街の安くてうまい店「海員閣」の名で知っているだけだ。だから、歴史的用語だと思ったのだが、そうではなかった。
 船員法による「船員」とは、「日本船舶または日本船舶以外の国土交通省令で定める船舶に乗り組む船長及び海員並びに予備船員」のことだとしている。したがって、海員とは船長と予備船員以外の乗組員をいう。予備船員というのは、乗船してはいるが、交代要員や怪我や病気のために仕事をしていない船員のことらしい。
 しかし、これで、きれいさっぱりとわかったかというと、とんでもない。なぜ船長とそれ以外の乗組員を区別する語が必要なのか、わからない。あるいはまた、実際に区別しているのかどうかもよくわからないのだ。
 例えば、これだ。全国船員厚生施設協議会加盟施設というのが全国にある。施設名を見ると、「船員会館」もあれば、「海員会館」もある。横浜海員会館の案内を見ると、「船員及びその家族の方々に・・・」とある。それなら、船員会館でいいじゃないか。わざわざ海員などという語を使うことはない。
 わからないことだらけで、泥沼にずぶずぶと沈んでいきそうなので、次回は方針を変えて、芸能からマドロスを眺める。

 


アジア雑語林(262) 2009年7月29日

マドロスの基礎研究ノート その1

 日本人の海外旅行史を調べていて、いつも気になりつつ、まったく手をつけていないのが「マドロス」だ。歌謡曲に「マドロス物」というジャンルがあるほど、文化史研究には大きなテーマだ。マドロスは、なぜそんなに大きなジャンルになったのだろう。日本人はなにを求めてマドロスの世界に憧れたのだろうか。マドロス物はどう生まれ、どうのように発展して、いつごろ消えていったのか。消えていった理由はなんだろうか。
 そういったことが知りたくて、ノートをとってみた。カネの取れる原稿にするには、多くの映画を見たり、昔の音楽を数多く聞いたりして、時代の感覚を体にしみ込ませないといけない。そういう原稿を書くかどうかわからないが、とりあえず、基礎を調べてみたくなった。いつもは、こういう下調べをしつつ、方向を定めて原稿の構成を考えるのだが、今回はメモを公開してみよう。ただし、いつものようなメモのままだと、箇条書きだったり、切り抜きだったりして断片的なので、今回は読みやすくするために原稿風に書いてみる。
 中高年の日本人は、マドロスとは「船員」だと理解している。語源は、オランダ語で船員、海員、水夫を意味する「matroos」(マトロス)だ。オランダ語で船舶関連の語ということなら、たぶん幕末に入ってきた言葉だろう。
 1855年、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所の設立に協力したのは、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスで、オランダ人教師たちが航海術などを教えた。ここで練習船として使われたのが、オランダから輸入した咸臨丸だ。
 というわけで、「オランダ語」、「船」という連想から、幕末から一部で「マトロス」、あるいは濁音化して「マドロス」という語が使われていたような気がするが、まだ確証はない。
 国会図書館所蔵の本で、書名に「マドロス」が入っているものでいちばん古いのは、1918年(大正7年)の『マドロス悲哀』である。著者は、米窪太刀雄。明治・大正期をあわせて、書名に「マドロス」の語が入っている本は、国会図書館にはこの1冊だけしかない。
 さて、この著者、私はまったく知らなかったが(まあ、無知はいつもだ)、とんでもない大物だった。米窪太刀雄は筆名で、本名は米窪満亮(よねくぼ・みつすけ)、1881年、長野県の生まれ。海のない地で育ったからと、船乗りになろうと商船学校(現在の東京海洋大学)に入学。練習船大成丸で世界一周の訓練航海に出たときの航海日記が新聞に連載され、それを絶賛した夏目漱石の序文がついて、『海のロマンス』という書名で1914年(大正3年)に出版されて、かなり売れたらしい。
 卒業後は日本郵船に入社し、あこがれの船員になるが、航海中の船員に対する待遇のあまりの悪さに憤り、雑誌「海と人」に内部告発の記事を発表した。この文章をまとめたのが、国会図書館の所蔵リストで見つけた『マドロス哀愁』である。
 内部告発をした米窪は、日本郵船をクビになり、ほかの船会社にも就職できず、労働運動に身を投じる。そして、のちにはILOの日本代表として国際会議に出席するほど、本格的な労働運動家になる。
 戦前から国会議員をつとめ、戦後は日本社会党の結成に参加し、片山内閣では初代の労働大臣になっている。1951年没。うん、こういう人物であったか。
 1918年に出版された『マドロス哀愁』を読んではいないが、『蟹工船』や『女工哀史』のような本だろう。だから、多分、のちの「マドロス物」が持っている異国情緒たっぷりのかっこよさはない。「マドロス」は、単に船員という意味しかない。

この項、続く。

 


アジア雑語林(261) 2009年7月12日

大人になるということ

 昨今の若者は、酒を飲まなくなったという。あるいは、自動車に興味がなくなったという。プロ野球ファンも減っているという。社員旅行を嫌い、社内の新年会や忘年会は、できるなら出席したくないという。そういうニュースを聞くと、私は時代を先取りしているのだとよくわかる。
 私は酒を飲まない。宴会は嫌いだ。団体旅行も嫌いだ。自動車にも興味がない、運転免許証も持っていない。野球のルールさえ知らない。マージャンを知らないし、最後にパチンコ店に入ってから、もう30年以上たっている。その前だって、ほんの数回行ったことがあるだけだ。
 というわけで、20歳になる前に、私は「大人らしさ」を拒否した。正確にいえば、意識的に拒否した部分と、酒のように体質的に合わないから飲まないという部分もある。私と、今の若者の性向の相違点は、読書、音楽、旅行くらいだろうか。若者が愛好していて、私が嫌っているのは、携帯電話、ゲーム、サッカーと、アニメと、あと何だろう。
 そんなことを考え始めたのは、「裕次郎と若大将」の後継者は木村拓哉だと感じたからだ。裕次郎も加山も、いわゆる新劇的演技からは縁遠く、日常会話のような台詞回しで、だから言葉がリアルだ。裕次郎の「イカス」に対応して、木村の「ヤッベ」というような口語もイメージが重なる。
 青春時代を終えた裕次郎と若大将は、立派な大人へと変身し、もはやチンピラではなくなった。木村はどうなるかと思っていたら、保守本流のカローラのCMをやり、国会議員にもなり(若大将は、なんと大統領になっているが)、ちゃんとした大人に変身しつつある。
 この「大人」と「非大人」の対立を、海外旅行に当てはめてみたくなった。海外旅行が夢物語だった時代は、当然、すべての旅行目的地は大人の世界だったのだが、その後、主に「大人になりたくない若者たち」の注目を集めてきたのが、インドだ。1980年代の雑誌「ブルータス」がカリフォルニアを持ち上げたが、日本人の間で若者だけが旅行するというわけではなかった。新婚客も家族連れもいる。
 インドの場合、一部の仏教関係者や世界遺産愛好者などは訪問するにしても、旅行者の多くは若者のような気がする。これがネパールだと、山歩き愛好者の団体旅行などもあって、けっして若者中心というわけではない。ある国の、ダイビングスポットなら、若者が中心ということはある。しかし、ダイビング愛好者は、大人と大人予備軍だろうと思う。「立派な大人」になることを拒否しているわけではないだろう。
 裕次郎と若大将と木村拓哉からの連想で、旅についてあれこれ、うだうだと考えるというのも、楽しいものだ。

 


アジア雑語林(260) 2009年6月20日

裕次郎と若大将

 皮肉なことになったと、つくづく思う。
 小学生時代、映画に行くといえば親の好みが優先され、東映時代劇が好きだった父親に連れられて、大川橋蔵などの黄金時代の時代劇を何本か見た。近所に映画館があるという場所には住んでいなかったので、映画など年に数本見られれば上等という娯楽であった。そういえば、小学校で野外の映画上映会があったなあ。
 あのころ、1950年代末から60年代前半にかけて、日活アクションも東宝喜劇も松竹文芸映画も見た記憶がない。
 高校生になると、ひとりで映画館に行くようになり、土曜の午後は名画座で過ごすことが多かった。好きな映画を求めて都内の名画座をうろつく財力はなく、高校から電車一本で行ける駅のそばにある名画座に通うことが多かった。アメリカ映画もヨーロッパ映画も見たが、日本映画はほとんど見ていない。もしかすると、高校時代見た日本映画は、「男はつらいよ」シリーズ(1969〜)の最初の3本だけかもしれない。すでに日活アクションの時代は終わっていた。私よりかなり年上の人は、日活アクション映画の世界を「格好いい」と感じていたのだろうが、ヒッピー世代の私には「どん臭い」と思えた。格好をつけたセリフが格好悪いという感覚。映画のウソが、まさしくウソにしか見えない感覚は、私と同世代の人ならある程度わかるだろう。東宝の若大将シリーズや、石坂洋次郎的青春映画といったウサン臭い健全作品に、嫌悪感を感じていた。「お坊ちゃまの無邪気な生活」に、貧乏少年は憧れではなく、憎しみを感じていたのだ。
 旧来のハリウッドや五社体制の日本映画界に対する不満が、高校時代に爆発する。
 高校生時代(1971年卒業)にアメリカで始まったのが、アメリカンニューシネマの時代で、67年の「俺たちに明日はない」「卒業」、69年の「イージーライダー」などは同時代に見ている。いま、インターネットで「アメリカンニューシネマ」を調べながら、この原稿を書いているのだが、「アメリカンニューシネマ」なる語は、和製英語だと初めて知った。英語では“New Hollywood”というそうだ。
 これらアメリカンニューシネマの影響か、あるいは時代の波に乗って格好つけようとしたのか、ATG(日本アートシアターギルド)の日本映画も無理して見るようになった。そうか、「男はつらいよ」以外にも、この手の日本映画も高校時代に見ているのだ。『初恋・地獄篇』(68年、羽仁進)、「新宿泥棒日記」(69年、大島渚)、「心中天網島」(69年、篠田正浩)などを高校時代に見ているが、まるでおもしろくはなく、以後、映画を理屈や頭で見るのはやめた。しかし、だからといって日活ロマンポルノや東映ヤクザ映画にもなじめず、そのうち海外旅行の資金稼ぎに忙しくなり、その資金で出かける旅行が生活のほとんどを占めるようになり、映画館にはあまり行かなくなった。とはいえ、「ぴあ」で作品を調べ、日本にいるときは年に数十本は見ていたように思う。
 少年時代に「虫酸が走る」というほど嫌っていた若大将シリーズに興味を持つようなったのは、日本人の海外旅行史を調べるようになったここ10年ほどのことで、レンタルビデオ屋で海外ロケをした日本映画を手に入る限り借りて見た。映画そのものの完成度など気にせず、映画のなかの外国に注目すれば、それはそれで楽しいもので、文献を集めて歴史的背景も読み取ることになった。
 というわけで、皮肉なことに、少年時代にあれほど嫌いだった加山雄三や石原裕次郎の映画をかなり見て、大枚支払って関連の本を買い集めることになってしまった。海外旅行史を調べるということは、昭和史を調べることであり、戦後の芸能人の行動と映画を追っていくと、日本人を「憧れの海外旅行」へと誘った要素がいろいろ見えてくるのである。荒唐無稽にしか思えなかった若大将シリーズも、海外旅行史というモノサシで見ると、見事なほどリアリティーがあるのがわかってきた。
 海外旅行史研究という太い柱を立てると、どんな枝葉も面白くなる。

 


アジア雑語林(259) 2009年6月10日

石原裕次郎と長嶋茂雄と、なぜか三輪車 後編

 裕次郎関連の資料をまとめ買いしてみると、資料の正確さと文章のおもしろさで、百瀬博教の手によるものが群を抜いている。はっきり言えば、ほかの便乗芸能本と「格が違う」のだ。百瀬は裕次郎の用心棒のようなことをしていた時代もあり、のちに総合格闘技の「プライド怪人」としても有名になる詩人・作家でもある。裕次郎の資料ほしさに百瀬の本を読み始めたのだが、文章のおもしろさに魅かれて、結局ほとんどの著作を読むことになったのだが、私が興味を持って読み始めたころ、百瀬の急死(2008年1月)を知って驚いた。
 百瀬が2007年に出した『裕次郎時代』(ワック)に、アメリカ旅行のすべてが書いてある。

 「昭和三十七年一月四日午後十時、羽田発ノースウエストDS−8ジェット機で、石原裕次郎・北原三枝夫妻、巨人軍の長嶋茂雄、日活演技部の坂本正等一行はアメリカに向けて出発した」

 こういう書き出しで、1962年当時の海外旅行の裏側を書いている。実質的には観光旅行だが、「観光」ではもちろんパスポートはとれない。かといって、業務ともいいがたい。天下の裕次郎&長嶋をもってしても、制度上どうにもならないのである。
 そこで、制度などどうにでもなる人物の力を利用した。外務大臣小坂善太郎の力で、石原夫妻と長嶋のパスポートを取得した。同行取材をする予定の「週刊平凡」木滑編集長の場合は「業務」ではあるが、「平凡出版ごとき」では業務渡航の許可を得られず、木滑は友人に頼んで、ヤシカの社員になりすまし、アメリカにカメラの修理に行くという書類をでっち上げて、パスポートをとったという。こうして苦労して手に入れたパスポートだが、所用があって木滑編集長はアメリカには行けなかった。
 航空運賃は、「木滑がノースウエスト航空の渡辺代表にかけあって、一行の旅客機のチケットを貰った。『とにかく海外旅行はとても難しかった』と後に木滑は語ってくれた」。
 日活の社員のパスポートはどのように取得したのかわからないが、だいたいの事情はこれでわかった。「ユダヤ人のおっさん」というのが実在人物かどうかはわからないが、裕次郎ならアメリカにタニマチがいてもおかしくない。「週刊平凡」のグラビア写真は、取材費節約のため、アメリカ在住のカメラマンを使ったようなので、アメリカ側にコーディネーター役を務めてくれる人物がいたはずだ。
 さて、『裕次郎時代』を読んで数カ月して、やはりマガジンハウスの雑誌「ブルータス」と海外旅行の関連を調べたくて、インターネット古書店の目録でバックナンバーをチェックしていた。「ブルータス」(2000年4月1日号)は「2000 S&S STYLEBOOK」というファッション特集号なのだが、「昭和37年、石原裕次郎はニューヨークにいました」という記事があることがわかった。内容などまったくわからないが、読んでみたい。だが、3000円だったか4000円の値がついている。そんなに出す気はないので、そのままにしておいた。
 それから数ヵ月後に、500円の値でオークションに出ているのを発見し、「送料もかかるが、それでも、まあいいか」と注文した。
 1週間ほどして、雑誌が届いた。パラパラとページをめくる0.5秒の間に三輪自転車と三輪自動車の写真が目に入った。ファッション特集にはふさわしくない写真だ。ページをパラパラめくる一瞬なのに、アユタヤのトゥクトゥクの写真もジョグジャカルタのベチャの写真も見えた。なぜ細部まですぐわかったのか。そのページを開いて、理由がわかった。それらの写真は、私が撮影したものだからだ。「EYE OF THE B」という欄に載っている「改造三輪車たちよ、21世紀も生き延びろ!」というコラムは、拙著『東南アジアの三輪車』を紹介したページだったのだ。このコラムに大量に写真を貸したことを思い出した。本を紹介してくれるのだから、写真使用料は格安だったことも思い出した。この号が出たときには、出版社が送って来たはずだが、「ほぼ全ページファッション記事の、こんな雑誌なんざ読むか!」と、すぐに捨てたのだろう。あれから8年たって、また入手したというわけで、肝心の裕次郎の記事だが、これは、まあ、しょうもねえ・・・。

 


アジア雑語林(258) 2009年5月31日

石原裕次郎と長嶋茂雄と、なぜか三輪車 前編

 ここ1年ほどコツコツとやっていた「石原裕次郎の海外旅行」という研究テーマの基礎資料が、多少は集まった。日本人の海外旅行史の前史として、有名芸能人の海外旅行がどのようなものだったかという調査の一環だ。
 1964年の海外旅行自由化以前は、カネがいくらあっても「外国に行きたいから行く」という自由はなかったわけで、外国に出ていくのにふさわしいまともな理由が必要だった。観光旅行というのはそもそも許されないから、書類上だけでも「業務渡航」としなければいけなかった。
 裕次郎が初めて外国に行ったのは、1959年7月だと思われる。日活が求める仕事の量や内容に裕次郎が不満を抱き、対立し、その懐柔策(ガス抜き)として、ヨーロッパで遊んでいて仕事にもなる企画を日活が立てた。それが、日本映画初のヨーロッパロケをした「世界を賭ける恋」と、その映画のロケ中に片手間で撮影した旅行スケッチ「欧州駆けある記」の2作となる。2作ともお手軽映画だが、裕次郎と外国の風景が楽しめるのだから、当時はこの程度でカネがとれたのだ。
 翌60年1月、裕次郎は北原三枝との結婚を日活に反対され、突然ふたりで渡米してしまった。まあ、実際の話、今と違って「突然、渡米」などできる時代ではないのだが、それはともかく、どのような裏技を使って、渡航可能な書類を作成したのかは、詳しい裏事情がわからない。集めた資料を読むと、裕次郎自身はこう語っている。

 「僕たちの場合は、僕の友人でニューヨーク在住のユダヤ人のおっさんがいて、彼がギャランティーして僕たちを招待してくれた。もちろん日活にも内緒の“逃避行”だった」 『口伝 我が人生の辞』(石原裕次郎、主婦と生活社、2003)

 この本には、もう一カ所、海外旅行の話がでてくる。シゲこと、長嶋茂雄との旅行を語った個所だ。

 「シゲとアメリカへ旅行したときのことだ。
 ウチのカミさんも一緒だったから、僕が結婚してまもなくのころだったと思う。
 当時は自由渡航が認められていなくて、アメリカに住んでいる人がギャランティーレターでチケットを送ってきて、現地での引き受けを保証しなければ渡航できなかった。
 僕の友人で、金持ちのユダヤ人がニューヨークに住んでいて、彼の息子の成人式パーティーを開くという。
 『アメリカに来いよ』
 『じゃ、行くよ』
ということになった。
 僕の友人はシゲの大ファンで、日本に来ると太鼓を持って、必ずシゲの試合を僕と観戦に行った。そういうことで、僕とカミさんとシゲの三人でアメリカに飛ぶことになったわけだ」

 裕次郎自身はこう語っているのだが、事実確認のため、さらなる情報を集めると、本人の談話とはまったく違う話が見つかった。
 『POPEYE物語』(椎根和、新潮社、2008)のなかに、平凡出版(のちのマガジンハウス)の名物編集者木滑良久(きなめり・よしひさ)の活躍について書いた、こういう文章がある。

 「海外渡航が自由でなかった60年には、パンナム航空に話をつけて、裕次郎と長嶋をフロリダに連れて行き、プールの飛びこみ台の上の、水着姿の2人の肉体美が、週刊平凡のカラーグラビアを飾った」

 椎根和(しいね・やまと)は、「週刊平凡」を出していた平凡出版の元社員で、この『POPEYE物語』には、CIAの対日政策に関する記述もある。それによれば、CIAがパンナム(パン・アメリカン航空)を使って、日本のマスコミがアメリカ取材をする便宜をはかり、日本に親米思想を広めようとしていたという。だから、この「パンナムに話をつけて」というのは、平凡出版がCIAの活動を利用して、高額の航空券をタダにさせたという意味だ。
 おもしろい話だが、だからこそウラをとらないといけない。「週刊平凡」が企画したという裕次郎夫妻と長嶋のアメリカ旅行について、詳しく調べてみなければいけない。
 彼らが日本を出発したのは、1962年1月4日だとわかった。だから、「60年には・・・」という記述はまちがいだ。旅行内容を知りたいので、その「週刊平凡」(62年1月31日号ほか)を手に入れたかったのだが、見つからない。そのかわり、「週刊平凡 創刊3周年記念増刊号 カメラがとらえた3年間」(1962年5月31日号)を、インターネット書店で手に入れた。
 この増刊号の「スターの海外旅行」という章の扉に、雪のニューヨークに到着した裕次郎と長嶋の写真が載っている。飛行機を降りてターミナルに向かって歩く写真には、後方にノースウエスト機の尾翼が見える。この旅行のスポンサーがパンナムだとしたら、こういう写真を公開するわけはない。利用機はパンナムではなく、実はノースウエストではないか。というわけで、引用した椎根の文章は、どうも怪しい。
 そこで、さらに調べてみると、これが解答かもしれないと思える情報が見つかった。が、残念。このあたりでちょうど1回分の行数になってきたので、もったいをつけて、次回に続く。
 ちなみに、長嶋茂雄の初めての海外旅行は、多分、1961年、フロリダのベロビーチで行なわれたジャイアンツのキャンプに参加したときだろうと思う。

 


アジア雑語林(257) 2009年5月11日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第十話
中年旅行者

 沢木は、旅に対する最近の心情をこう書いている。
 「残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているからということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない」
 「ワールドカップの期間中に長期滞在したドイツの記憶は、どれもフラットで凹凸がないのだ。おいしいものを食べることができ、人との不思議な出会いもあり、静かな場所での静かな時間を持つことができたのに、心を締めつけられるような思い出にはなっていない。つまり、旅の濃度が違うような気がするのだ。若いときに比べると、風景も人もすべてが淡く流れていったような気がしてならない」
 「かつて、私は、旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、齢を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ」
 私がこういう感覚に最初に襲われたのは、30代なかばのころで、旅はしたいが旅をしても以前ほどおもしろくなくなったと感じていた。無茶をしなくなったからであり、無茶をしても、最悪の事態にならないような対処法が身についていて、「難なく」移動できるようになっている。だからといって、さらなる危険を求めて、自分なりの「グレートジャニー」に出て行こうという気もない。私は辺境派でなく、街歩き派だ。
 日本以外では、タイで過ごした時間がいちばん長い。街を歩いた時間と言う意味では、東京よりもバンコクのほうがはるかに長い。それなのに、実はタイの旅行記はあまり書いていない。取材した話を書いたことはあるが、いわゆる紀行文のようなものはあまり書いていない。その理由を沢木風にいえば、「経験が感動や興奮を奪ってしまったという要素もある」からだと思うのだ。
 タイでのんびり、のんきに過ごしていて、それは楽しい日々であり、それなりに雑学本も書いたが、むかし味わったような旅の感動は、80年代なかばで終わっている。感動したり、驚いたりしていた旅行者の時代を終え、その感動や驚きの原因や歴史を探る雑学ライターとなって、旅の現場から数歩引き下がったのだ。旅の枠の中で過ごしていた時代を終えて、旅の枠の外に出て、旅そのものと、旅する土地と、旅する自分を、俯瞰している。私はすでに、「スレッカラシ」であり、「老練」な旅行者である。
 インドを例にすればわかりやすいだろう。初めてインドを旅すれば、それもひとりで、比較的長期間、乏しい資金で旅すれば、強烈なインドが旅行者を襲う。貧困、病人、詐欺師、泥棒、死者、乞食、客引き、延々と続く質問、気温、臭気、騒音。そういう刺激を受けると、興奮し、怒り、感動し、日記帳に長々と体験談や思索メモを書きたくなるだろう。
 ところが、何度も旅を繰り返すと、かつての強烈な刺激が、たいした刺激とは感じなくなる。旅にとって、慣れは味方であり敵でもある。味方になると旅がしやすくなるが、そのぶん感動が弱くなる。
 旅行などを例にせず、誰にでもわかるように説明すれば、エロッチックな体験を考えればいい。小学校高学年の少年にとって、めくるめく世界を見せてくれたヌード写真だからといって、中年になっても同じ写真で同じように興奮するということはない。中年や初老になった自分に、10歳の男の子のウブさを求めても無駄で無理ということだ。まあ、そういうことだ。

 


アジア雑語林(256) 2009年5月2日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第九話
航空券売買

 『旅する力』には興味深い記述が数多いが、「ホントかよ!」と思った話がひとつだけある。他人の航空券、それも女性の航空券で日本まで飛んだというのだ。沢木はパリでその航空券を買い、アエロフロートのパリ発モスクワ経由便で羽田へと飛んで帰国した。125ドルだった。日本人が働いているパリの事務所で、その航空券を買ったという。推測だが、羽田・パリという往復航空券を買ってフランスに来た日本人女性が、何かの事情で復路が要らなくなりこの会社で売り、沢木が買ったということらしい。
 だが、そういうことが可能だろうか。まあ、可能だったと、沢木は書いているのだが、その説明がよくわからない。
 オルリー空港のアエロフロートのカウンターに行くと、すべては搭乗口で管理しているので、先に進めと言われた。そこで、出国審査を受け、パスポートに出国のスタンプが押された。そのまま搭乗口に進むと、アエロフロートのチェックインカウンターがあり、手続きをした。渡された搭乗券には、航空券に書いてある女性の名前ではなく、沢木の名(正確にはペンネームではなく、本名だが)が書いてあったというのだ。
 多少なりとも海外旅行事情を知っていれば、こういうシステムはおかしいと思うだろう。出国手続きを終えてから航空会社のチェックインがあるというのも、航空券とは違う名で搭乗券が発券されるというのも、あれもこれもおかしい。そういう異常さを沢木も書いているから、沢木の作り話でも勘違いでもなく、おそらく事実なのだろうが、でもなあ、と思うのである。というのも、実は、こういう話を耳にしたからだ。
 沢木がヨーロッパにいたのと同じ1975年、私がロンドンにいたときのことだ。地下鉄のアールスコート駅近くのスーパーマーケットの外壁に、旅行者にはよく知られた掲示板があった。管理人が誰か知らないが、掲示板の利用を希望する人は、ハガキ大の紙を買い、そこに要件を書いて、一定期間掲示する。ガラス張りの掲示板には、インド旅行の同行者募集といった案内や、「デイブ、YH で待ってるわ」といった伝言のほか、売りたし買いたしの案内もあった。そのなかに、日本語で書いた「東京までの航空券、売ります」というのがあった。売り値を覚えてはいないが、おそらく日本円にして4万円か5万円くらいではなかったかと思う。
 シベリア鉄道でヨーロッパに来て、帰路の航空券を持っていない私は、いずれ安い航空券を探さなければいけない立場にあったが、航空券の個人売買は不可能だと思っていたから、掲示板の広告の信憑性が気になった。
 ひょんなことで知り合ったロンドン在住の日本人にその疑問をぶつけると、こういう体験談を語ってくれた。
 数年前、彼は友人の知り合いから、日本までの航空券を買った。その人物は、1年間有効の航空券を買ってイギリスに来たのだが、ロンドンで仕事が見つかり、このまましばらく居たいというので、帰路の航空券を売ることにしたのだという。
 「で、その航空券をどう使うの? 他人名義でしょ」
 「だから、その人が空港まで来て、チェックインをして、代金と引き換えにその搭乗券をもらうんだよ」
 当時は、出国手続きはパスポートだけで、搭乗券を見せる必要はなく、飛行機に乗るときは搭乗券だけ見せればいいから、それで手続きは完了する。そういう説明だったと思う。
 彼はそうやって搭乗券を手に入れたのだが、その後事件が起る。飛行機に乗る直前に、制服の男がやってきて、「搭乗券とパスポートを見せろ」と言われ、名義が違うことを追及されて、搭乗禁止となった。航空会社のチェックインカウンター周辺で監視されていたらしい。
 彼の荷物は日本に行き、彼は日本に飛べず、しかしイギリスに再入国はできず・・・といったその後の話も聞いたが、まるで覚えていない。もう、30数年前のことだ。体験者から聞いた話なのだが、重要な細部を覚えていない。
 というわけで、1970年代なかばのヨーロッパの航空券事情を、どなたか専門家の方に解説していただきたいと思う。

 


アジア雑語林(255) 2009年4月24日

番外編 旅する力
『森村桂 香港へ行く』から探る1970年の香港ツアー

 『旅する力』を巡る雑話で森村桂の話を書いた直後、古本屋で『森村桂 香港へ行く』を手に入れたので、番外として追加情報を書いておきたい。
 『森村桂 香港へ行く』(森村桂、講談社、1970年、340円)は、古本屋で200円の値札がついていたが、レジに持っていくと、初めて入った店なのに「100円でいいです」と半額に値引きしてくれた。
 読後感を先に書いておけば、もし同時代に読んだら、「ちぇ、こんなモノ」というだけの本だが、出版後40年近くにもなると、香港ツアーの資料という価値も見つかって、メモを取りながら読んだ。
 森村は、1970年1月、4泊5日のツアーに参加して、香港・マカオの旅に出た。私は1週間程度の取材旅行だと思っていたが、森村はツアーに参加して、それだけで1冊の旅行記を書いてしまうのだから、大した筆力だと言わざるを得ない。皮肉でいうのではなく、私などには到底できない作業である。さすが多産の作家である。プロの腕前である。
 さて、森村が参加したツアーだが、ちょっと変わっている。ある女性週刊誌に「五万五千円で、香港・マカオにご招待、六十名様を四泊五日の旅へ」という記事を見て、応募したという。本来なら8万8000円のツアーだが、「私のアイデア朝食」という文章を書いて応募すれば、選考で60名が5万5000円の割引き料金でツアーに参加できるのだという。
 ただし、このツアーにはカメラマンが同行し、森村の行動を追っているので、「一般人と同じ立場での参加」というのがどこまで本当なのかは、わからない。変形の「本誌特派」かもしれない。
 1970年1月18日4時、羽田空港に集まったのは、森村が参加した割引きツアーの60名と、8万8000円を支払った料理学校からの参加者20名と40名ほどの一般参加の客を合わせて120名くらいの団体になったというから、もしかしてチャーター便だったかもしれない。
 日程を書き出してみよう。

1月18日午後4時25分、BOAC(英国航空)で出発。香港時間午後7時30分着。
19日 午前 九龍半島観光 昼食 飲茶
    午後 香港島観光  夕食 水上レストラン
20日 終日自由行動  昼食 日本料理
               夕食 ナイトクラブでショーを見ながら食事
21日 マカオ観光    昼食 ポルトガル料理
               夕食 北京料理
22日 出発まで買い物 昼食 上海料理
    3時30分 香港発 夜羽田着

 全食付きで、しかも日本料理が入っているあたりが、昔のツアーである。3日目の「終日自由行動」というのは実はウソで、実はガイドの案内で無理やり宝石店や免税店に買い物に行かされるというのも、KB(キックバック。店から旅行社に払われるマージンで、20パーセントだそうだ)で稼ぐ香港ツアーらしい。
 これで5万5000円なら、当時としては安いが、それがどの程度の価格かというと、70年ころの若いサラリーマンの月給は4万円くらいだから、現在のツアー価格と比べれば、かなりの高額だとわかる。
 この当時の、香港に対するイメージは、「うまい中国料理」と「買い物天国」というプラス面と同時に、森村の表現をそのまま引用すれば、「女性を売りとばすと聞いている香港だ」。まだ、怪しく危ない香港のイメージがあった。

 


アジア雑語林(254) 2009年4月12日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第八話
香港

 1974年に日本を出て、75年帰国した沢木の旅は、帰国した翌年の1976年暮れに初めて活字になった。76年12月に発売された「月刊プレイボーイ」(1997年2月号)に、「飛光よ! 飛光よ!」というタイトルで香港旅行記を発表している。私はこの文章を、発売直後に読んでいる。旅をやめて、コックの見習いをやっているころだ。
 1973年に発売された『若き実力者たち』(文藝春秋)で沢木の文章と初めて出会い、76年の『敗れざる者たち』(文藝春秋)ももちろん読み、そして年末に「月刊プレイボーイ」で香港の旅行記に出会った。「月刊プレイボーイ」・「若きノンフィクションライター」・「香港」という組み合わせは、当時としては、かなり奇異なものだった。「月刊プレイボーイ」で藤原新也の「全東洋街道」の連載が始まるのは、1980年からだ。広告がいっぱい入り、カラーページの多い雑誌に、アジアが登場するのは、1970年代では奇異なことだった。日本の雑誌の常識では、外国とは、欧米だったのだ。
 この香港旅行記について、沢木は『旅する力』のなかで、「もしかして、若者が香港を紀行の対象として発見した最初のものかもしれないとも思う」と書いている。
 おそらく、沢木の推察は正しいと思う。香港に限らず、インドとネパールを除けば、日本の若者はアジアには興味がなかった時代なのだ。旅行地として興味がないから、あまり旅行をしないし、行ったところで紀行文を書こうとも思わなかったのだ。だからこそ、そのころの私は香港の雑学本を書こうと思い、何度も香港に通い、資料を読んでいたのだが、間もなくその必要がなくなった。1979年に、山口文憲の名著『香港旅の雑学ノート』(ダイヤモンド社)が出たからだ。
 1980年までの香港の本といえば、政治や経済の専門書や旅行ガイドがほとんどだ。あえて異論を挟めば、沢木の「飛光よ! 飛光よ!」以前に、香港を旅行して紀行文を書いた若者がまったくいなかったわけではない。いま、森村桂の名を思い出したので調べてみる。『森村桂香港へ行く』(講談社)の発売は、1970年。森村は1940年生まれだから、このとき30歳くらいだ。ギリギリの若者と言っておこうか。講談社文庫に入ったのは75年、79年には角川文庫に入っている。売れていたのだ。
 この手のお手軽旅行エッセイ、内容はなにもないものの、それがかえって「軽さ」という魅力となって、売れることは売れる旅行本が大量生産されるのは、1990年代に入ってからで、そういう意味では森村桂がその先鞭をつけたといえる。記憶で書くが、山口文憲は『森村桂香港へ行く』について、一週間の旅行で一冊書けるんだからすごいというようなことを書いていたと思う。
 沢木が旅した1974年の香港がどんな場所だったのか、沢木は「当時刊行されていたガイドブック」から、廟街周辺の描写を引用している。いわく、「旅行者の入るべきところではない」と書いてあるという。
 あのあたりは私がよく歩いている地区で、ガイドブックにそんなことが書いてあるとは信じられず、手元のガイドブックをチェックしてみた。沢木が引用したのは『ブルーガイド海外版 香港・マカオ・台湾』だが、何年版かは書いてない。初版は1966年で、おそらくその当時の原稿のままだったのだろう。私の手元にあるのは改定版にあたる『香港・マカオ』(1976年)で、廟街の記述はまったく違う。1970年代初めあたりまでの香港は、日本人にとって魔都であり犯罪都市といったイメージがあった。日本の女は、香港で誘拐されて売られるといった噂や、麻薬基地といった悪評だ。そういうイメージを裏打ちしたのが、ガイドブックのこの記述だろう。

 


アジア雑語林(253) 2009年4月5日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第七話
旅の持ち物

 1962年に、太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一の航海記『太平洋ひとりぼっち』に出ている装備品リストについて、沢木は「一九六二年という航海時の時代性を感じさせる」例として、「サルマタ」や「落とし紙」という表記を紹介している。そういう話を枕に、『旅する力』のなかで、自分自身の持ち物リストを紹介している。記憶をもとにのちに書いたものではなく、出発前に作ったリストだというから、私のような物質文明兼海外旅行研究者には、まことにありがたい。人は、外国旅行をするときに、どんな物を持っていくのかというテーマも、私には非常に興味深い。時代や民族によって、旅の持ち物に違いがあるからだ。
 堀江の装備リストを沢木がチェックしたように、私は沢木の持ち物リストから、「一九七四年という旅行時の時代性を感じさせる」ものを書き出してみよう。
 まずは、バッグだ。
 「旅するスタイルは、いまでいうバッグパック姿だったが、当時のバックパックはいまのような機能的なものではなく、登山用のキスリングをいくらかスマートにしたていどのものにすぎなかった」
 その「いくらかスマートにした」キスリングを、アメ横で買ったのだという。
 1970年代前半の若い旅行者は、キスリングと呼ばれる登山用の横長リュックサックを使っていた。若い貧乏旅行者の伝統が、山岳部、探検部、ワンダーフォーゲル部といった団体の影響を強く受けていたからだ。私も、1973年の最初の海外旅行のときは小さなキスリング状のリュックだった。貧乏旅行はリュックを背負って行動するものだという情報を本で知り、しかし山登りなど縁のない若者である私は、キスリングというものをどこで売っているのかまったく知らず、本屋で山と溪谷社などの山岳雑誌の広告を見て、秋葉原に買出しに行った。
 土色のリュックを背負って日本を出たものの、インドで同じようなリュックを背負っている旅行者は少なく、パイプの背負子がついた軽快なリュックが目立った。フレームザックというものだ。そういうリュックを背負った日本人旅行者に「どこで買ったのか」と聞くと、みんな「ヨーロッパで」と答えた。翌1974年にまた旅に出るとき、日本でもどこかで手に入るかもしれないと考えた。その可能性が高いのはアメ横で、私の勘は当たり、見事入手できた。
 バックパックとは、リュックサックを意味する英語で、1970年代前半はまだそういう英語が日本に入っておらず、だから「バックパッカー」という語もまだほとんど知られていなかった。
 沢木の持ち物リストで、時代性を感じさせるのは、まず「海水パンツ」。なぜか、水泳用のパンツを、海水パンツ、略して「海パン」と呼んでいた。プールや川で泳いでも、海パンだった。海パンなど、もう死語だろうと思いつつ、そのあたりの事情をインターネットで調べてみると、おいおい、まだ生きている語だ。楽天でもヤフーでも、通販で「海水パンツ、海パン」という名でも、販売している。そうか、若者にもまだ通じる言葉だったのか。私が無知だった。
 でも、これはもう死語だろう、「ゴムゾウリ」。現代の若者にも意味はわかるだろうが、日常語ではないだろう。私自身、ゴムゾウリという語はほとんど使ったことがなく、サンダル、あるいはビーチサンダルと呼んできた。それはともかく、1970年代の日本の若者は、サンダル履きで旅行していることが多かった。スニーカーが登場する以前は、熱帯を旅する日本人の若者は、飛行機などで移動するとき以外、サンダル履きが多かったような気がする。というわけで、いつか「サンダル履き旅行者の時代」といった文章を書いてみようと思っている。旅行記のなかで、「サンダル」という語をよく使っているのは、立松和平だ。
 「パジャマ(下だけ)」というのは変だが、まあ素通りしよう。「歯磨き粉」と「石鹸」はあるが、シャンプーもリンスもない。石鹸で髪を洗ったのだろうか。「抗生物質」の前に、バンドエイドや、当時なら正露丸がリストに入っていてよさそうだが、これも素通りする。『旅する力』の若い読者にとって、よくわからないのは、おそらく「袋状のシーツ」だろう。これはユースホステル利用者必携で、持っていないとシーツを有料で借りないといけなかった。だから、ユースホステルを利用する貧乏旅行者は、袋状のシーツを持っていたのだ。ユースホステルの事務所でも売っていたが、節約のため、若き旅行者は母親に作ってもらうことが多かった。

 


アジア雑語林(252) 2009年3月31日

『旅する力 深夜特急ノート』の読者ノート 第六話
『現代の旅シリーズ』

 山と溪谷社が出した「現代の旅シリーズ」のラインアップは、出版年順に次のようになっている。

『北帰行』     渡部由輝 1973
『極限の旅』    賀曾利隆 1973
『旅の発想』    佐貫亦男 1973
『逆桃源行』    竹中労  1974
『ぐうたら原始行』 関野吉晴 1974
『風浪の旅』    檀一雄  1974

 沢木は、自分を旅に誘い出したひとつの要因として、竹中労の名をあげ、檀一雄の『風浪の旅』の書名をあげている。おそらく、沢木は『逆桃源行』も読んでいるだろう。『北帰行』と『旅の発想』の2冊を除いて、私は発刊時にすぐ買い、いまでもその4冊は宝になっている。すべて名作だと思うが、その後復刊されることもなく(多分)、幻の名著となっている。ちなみに、賀曾利・関野の両氏には、1970年代末にインタビューしたことがある。それから20年以上たって、ひょんなことから再会したが、当然ながら、両氏とももちろん無名の貧乏ライターのことなど覚えていなかった。私だって、会った人のほとんどを忘れているのだから、これはもちろん恨み言ではない。
 沢木のエッセイを読んでいて気がつくのは、旅に関する読書事情が私とよく似ていることだ。沢木は1947年生まれ、私は1952年生まれで、5歳の年齢差があるのだが、1960年代末から1970年代の読書体験が、少なくとも旅行関連でいえばかなり重なるのである。
 檀一雄の本もそうだ。檀の紀行文や旅行エッセイは、たぶんすべてといっていいくらい読んだと思う。私は小説を読まないが、『火宅の人』は、放浪旅行記として読んだ。もちろん食味エッセイも読んだが、私は食文化に強い興味を持っているので、檀の食味エッセイのよい読者ではない。何がうまいかという話は、どうでもいいのだ。開高健の作品の場合は、小説も含めて単行本になったほとんどすべての作品を読んだ。やはり、小説は好きにはなれなかったが、いくつかの作品は、最後まで読むだけの魅力ある文章だった。文章の技を、文の芸を味わった。ついでに言えば、小田実の場合は、旅行エッセイはほとんど読んだが、小説はほとんど読んでいない。読む気が起らない小説だ。
 沢木は、のちに『檀』という本を書くほど、檀一雄に対して強い関心があったようだが、私は檀一雄の単なる読者で終わった。『風浪の旅』のほか、『老ヒッピー記』(浪漫、1974)と『火宅の人』(新潮社、1975)を読んで、それ以後、檀を書いた本は読んでも、檀自身が書いた本は読んでいない。ポルトガルに行ったときも、檀の住まいがあったサンタ・クルスに行ってみようという気にはならなかった。金子光晴が好きでも、彼の足跡を求めてマレーシアを歩くといった文学散歩にも興味がないので、サンタ・クルスに行かなかったことに、格別の理由があるわけではない。
 私も沢木も、旅の本に関しては、読んでいた本が重なるような気がするのは、ふたりとも街の旅に興味があるからではないだろうか。
 成人して、旅の日々を続けている椎名誠の場合は、興味が辺境・極限の地だから、青少年時代の愛読書は『世界ノンフィクション全集』(筑摩書房)に載っているような作品だ。『世界最悪の旅』であり、『さまよえる湖』の世界だ。「世界旅行における体育会系と文科系」というのも、おもしろいテーマだ。これは、団体旅行か個人旅行かの違いでもある。

 


アジア雑語林(251) 2009年3月20日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第五話
「話の特集」、そして檀一雄

 1970年代は、私にとって「話の特集」と「面白半分」の時代だったとも言える。熱心に雑誌を読んだのは、この10年間だけだ。以前も以後も、どんなジャンルの雑誌であれ、雑誌というものをあまり読んでいない。「話の特集」の常連で、この雑誌を読む以前からすでに知っていたのは永六輔、小沢昭一、井上ひさし、竹中労などだ。「話の特集」で初めて知ったのは、まだ普通の服装と普通の髪型をしていた植草甚一と篠山紀信など数多い。のちにマスコミの中央で脚光を浴びる若きカメラマンやデザイナーなども、ほとんどこの雑誌で知った。
 1970年代初めに、カトマンズのイラストマップを載せたのも「話の特集」で、そのページをコピーして、ネパールに持って行ったのは1973年だ。前回に書いたように、鶴見良行や竹中労なども含めて、私の旅やその後の読書傾向に大きな影響を与えたのは、「話の特集」だといっていい。いま思い出したのだが、原宿セントラルアパートの話の特集編集部に、一度だけ行ったことがある。長くなるので、いまはその話はしない。
 私の旅に多少なりとも影響を与えた雑誌をもう一冊あげれば、西江雅之、山口文憲、玉村豊男などの文章に初めて出会い、開高健や金子光晴などを熱心に読むきっかけになった「面白半分」も、影響力はあった。そのあたりの話は、この「アジア雑語林」ですでに書いた。そういえば、面白半分編集部にも行ったことがある。中央線沿線散歩をしていて、偶然、編集部のある建物を見つけ、バックナンバーを買いに寄ったような気がするが、はっきりとした記憶ではない。
 「話の特集」や「面白半分」ほどの影響力はなかったが、山と溪谷社が出していた雑誌「現代の探検」も読んだ。創刊は1970年で、1972年にわずか8号で休刊している。
 振り返れば、1970年代前半は「探検や冒険の時代」とでも呼びたくなる出版事情だった。すでに出版されている探検記・冒険記・旅行記などを編集して構成したのが、1970年の『現代の冒険 全8巻』(文藝春秋)。1972年には、オリジナル原稿で構成した『探検と冒険 全8巻』(朝日新聞社)がでている。なぜか、「現代の探検」も8冊で終わっている。
 「現代の探検」を読みたくなったのは、70年代後半だろうと思う。私は、都会で勝手気ままにグータラとしているような旅が好きなので、徒党を組んで辺境に行く探検隊には興味がない。だから、異文化体験の資料として読みたくなったのか、あるいは読みたい記事が載っていることを知ったからかもしれない。その理由は覚えていないが、その雑誌を読みたくなって神保町の古本屋で探すと、定価の2倍か3倍、1500円から2500円くらいはしていた。読みたい記事はあるが、高すぎる。2冊だけ買った。こう書いて、いま、「現代の冒険」が置いてあった古本屋の姿を思い出した。70年代だと、神保町の古本屋も、当時はまだ木造が多く、古本屋なのに平台があった。そういう話を始めると長く脇道にそれるので、話を戻そう。
 1970年代末に、私は駆け出しのライターになっていて、山と溪谷社で仕事をする機会があった。編集者と雑談をしていて、神保町では「現代の冒険」に高い値がついているという話をした。
 「読みたいですか?」
 その編集者がいう。
 「はい、できるなら」
 「どっかに、まだ、あるかもしれないので、探してみましょう。あれば、あげますよ」
 編集者はそういって、自分のロッカーからバックナンバーを何冊か取り出した。
 その編集者が、偶然にも「現代の冒険」の編集者だった。出版業界に首を突っ込んでいて良かったと思った瞬間だった。
 なぜこういう話をしているかというと、その「現代の冒険」が休刊になってすぐ、その山と溪谷社が、単行本で「現代の旅シリーズ」を刊行したからだ。編集者は多分同じだろうが、彼の名を覚えていない。
 「現代の旅シリーズ」の話は、次回に。

 P.S. 今、ネット古書店で、この「現代の冒険」を調べてみると、1冊1000円程度で手に入ることがわかった。「全8冊揃いで5000円」という古書店もあり、思わず注文しそうになってしまった。

 


アジア雑語林(250) 2009年3月12日

「旅する力 深夜特急ノート」の読書ノート 第四話
先人の文章 竹中労

 文庫版の『深夜特急1』の巻末にある山口文憲との対談で、ロンドンまでの旅行前に影響を受けた人や本として、小田実の『なんでも見てやろう』を別格に、竹中労と壇一雄。そしてシルクロードを旅していた平山郁夫・江上波夫・井上靖の3人の名をあげている。
 私はシルクロードには興味はないので、現在に至るまで、平山ら3人の本は読んだことがない。『なんでも見てやろう』を読んだのは、ある程度旅をしてからなので、旅行記としては高く評価するものの、私の旅そのものには何ら影響を与えていない。
 さて、竹中労だ。1970年代前半に雑誌「話の特集」に連載していた竹中のアジアルポを、沢木も読んでいたようだ。「沢木も」というのは、もちろん私も読んでいたからだ。「話の特集」で、竹中が東南アジアのルポ「汎アジア幻視行」を書き始めたのは、1973年6月号からで、10回も続かずに終了している。その文章は、おそらく単行本には収録されていないと思う。竹中のその連載が始まるちょっと前、73年3月号の「話の特集」では、鶴見良行の「東南アジアを歩いて考える」というエッセイがあり、東南アジアに関する座談会も載っている。
 このころになって、雑誌に載るアジアに関する文章が、学者が書く退屈なだけの理屈論文から、徐々にレポートへと変化し始めていた。その先鞭となったのは、竹中のようなごく一部のルポライターと、べ平連系の若者たち(「心情べ平連」も含めて)だった。雑誌名でいえば、「世界」や「中央公論」から、「話の特集」や「面白半分」や「現代の眼」へ広がり、アジアの話が多面的になってきた。要するに、おもしろくなってきたのだ。
 インド亜大陸をさまよってみたいと思って日本を出た私が、のちに関心地域が東南アジアへと変化する要因のいくらかは、ホンの少しではあるにせよ、竹中の文章にある。最初に読んだ竹中の本がどれだったかもはや思い出せないが、「話の特集」や「えろちか」といった雑誌原稿も含めて、1970年代は竹中の本をかなり読んだ。竹中の文章に感銘を受けたというわけではない。内容的に全面的に同意するというわけでもない。美文調やアジテーションの文章に、うんざりさせられることもあった。それでも、つい手を出してしまう不思議な魅力があった。竹中に不思議な魅力を感じた人は出版界にも少なからずいて、だからちくま文庫などで彼の著作が復刊されている。しかし、あまり売れないから間もなく絶版になり、だが根強いファンはいて、古書はかなり高い値がついている。
 講演会などで、竹中のアジア話は何度か聞いているが、一度だけ、ほんの一瞬だけ言葉を交わしたことがある。1975年ごろの新宿だったと思う。竹中のアジア旅行の報告会と記録映画「アジア懺悔行」の上映会に出かけたときだ。どういたわけか、開演時間を勘違いしていて、会場についたら後片付けをしているところだった。受付けで、今後の映画上映の予定などを聞いていると、剃髪して入道となった竹中が突然姿を見せた。
 「時間を間違えるバカをやって、今ついたところです。講演を聞けなくて残念です」というと、竹中は「そりゃ、お気の毒でしたね」と微笑んだ。やさしい笑顔だった。それだけのことだ。

 


アジア雑語林(249) 2009年3月2日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート  第三話
旅行記の書き出し

 沢木は『旅する力』の第一章「旅という病」で、『チャーリーとの旅』の冒頭部分を引用している。自宅に届いた『チャーリーとの旅』をすぐさま読んでみたが、もっとも記憶に残る文章は、いくつになっても旅への衝動は抑えられないと書く、この書き出し部分だ。
 そこで、ふと気がついたのは、有名な旅行記は冒頭も有名だということだ。すべてと言うわけでは無論ないが、著名な旅行記の冒頭は何度も引用されるだけの魅力がある。『なんでも見てやろう』しかり、『奥の細道』しかり。
 ポール・ニザンの『アデン・アラビア』を、沢木も引用している。

 「ぼくは二十歳だった。それがひとの人生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(篠田浩一訳)

 この晶文社版は高いから買えず、私は角川文庫版(花輪莞爾訳、1973)を買った。読んだのは、数ページだけだった。引用したこの一行だけが有名で、あとは印象に残らない本だという沢木の指摘は、大方の読者の賛同を得るだろう。
 有名な書き出しでありながら、長年忘れていたのが、レビ・ストロースの『悲しき南回帰線』だ。次のような文章で始まる。旅が嫌いだと言う書き出しで始まる旅行記だ。

 「旅といい、探検といい、わたしの性にはあわない。とはいえ、わたしは現にこれから、いくたびかの調査旅行について語ろうとしているのだ」(室淳介訳)

 どうせなら、今、書棚に見える旅行記の冒頭部分を書き出してみよう。

 「いやいやながら山登りをはじめて十年目。とうとう世界五大陸の最高峰を全部この足で登ってしまったんだから、われながらビックリする」(植村直己『青春を山に賭けて』)

 「まったく知らなかったものを知る、見る、ということは、実に妙な感じがするもので、ぼくはそのたびにシリと背中の間の所がゾクゾクしちまう。日本を出てから帰ってくるまで、二年余り、いくつかのゾクゾクに出会った」(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』)

 「ゾクゾクしちまう」という表現は、裕次郎だぜ。時代がわかる。

 「ある朝、眼を覚ました時、これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。私はインドのデリーにいて、これから南下してゴアに行こうか、北上してカシミールに向かおうか迷っていた」(沢木耕太郎『深夜特急』)

 「はじめてトルコ共和国の土を踏んだのは、確か一九七〇年の秋のことである。旅の第一印象は消えにくいのが普通だけれど、ことトルコに関する限り、遠い遠い靄の中の追憶にすぎない」(小島剛一『トルコのもうひとつの顔』)

 いまさら悔いてもしょうがないのだろうが、私も冒頭に神経を遣って文章を書き始めれば、少しはマシな原稿になったのかもしれない。文章修行などまったくせず、自分の文体の獲得に努力もせず、人の心を打つ書き出しを工夫することもせず、ただダラダラと文章を書いてきた結果が現在の、この私の、このテイタラク。
 ここまで書いたところに、きょうも本が届いた。ちょっと前までロンリー・プラネットのラテンアメリカ担当だったライターで、取材をせずに原稿をでっち上げていたと告白した「お騒がせ男」が書いた本だ。その本、”Do Travel Writers Go To Hell?” ( Thomas Kohnstamm, 2008)は、自伝でもある。
 最初のページの大意はこうだ。
 「私の名はトーマス。もうずっと昔から、旅は人生の一部になっている。
 何年も前から、旅の生活をやめて、文明社会に戻って、仕事を探し、銀行口座を開き、将来を考えるまともな生活をしようと、幾度も思ったのが、また旅に戻ってしまった。私は、いままで自動車もテレビも家具も持ったことがない。
 ある時、気がついたのだ。旅の病を抑えることなどできないのだから、いっそ最良の解決策を選べばいいのだ。旅のプロになってしまえばいいのだ」。

 


アジア雑語林(248) 2009年2月19日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第二話
ジョン・スタインベック

 小説を読まない私でも、ノーベル賞作家スタインベックの名は、さすがに知っている。『怒りの葡萄』は、内容は知らないが、書名だけは記憶にある。『エデンの東』も、もちろん読んだことはないが、映画は見ている。その程度の知識だ。これほど無知なのだが、『チャーリーとの旅』については少し知っている。チャーリーが著者の愛犬の名で、その愛犬といっしょにアメリカを巡った旅行記だということくらいは知っていた。
 読んだ記憶はないが、表紙のデザインは覚えていて、今回インターネットで調べてみると、記憶していた表紙と違う。とすれば、私が手にしたのは英語のペーパーバックで、それなら1980年のニューヨークの書店でのことだろう。
 このとき、なぜスタインベックの本に手を伸ばしたのかというと、1974年の記憶があったからだ。
 1974年、台風がふたつ同時にやってきた7月の早朝、私は横浜の埠頭にいた。ソビエト船でまず香港に行く。そのあとのことは、まだはっきりとは決まっていなかった。暴風雨に襲われた港には、まだ乗客の姿は見えなかった。しばらく雨宿りをしていると、巨大な影が私の前を通り過ぎた。リュックの上からヒザまであるポンチョをまとい、大きなレインハットをかぶった旅行者が3人。ポンチョとハットのせいで、大柄な体がよりいっそう巨大に見えた。アメリカ人2人と日本人ひとりの3人組の姿は、190センチの緑色の壁に見えた。
 3人とは船内で親しくなり、香港ではともに重慶大厦(チョンキン・マンション)に泊まり、彼らはベトナムのサイゴンに行き、私はバンコクに飛び、バンコクで彼らと再会した。
 3人のなかで、ジムといちばん気があった。バンコクでは私の誘いに乗って、楽宮旅社にやって来た。もしかすると、あの伝説的安宿に泊まった最初のアメリカ人は、このジムかもしれない。
 ある夜、彼が私の部屋にやって来た。母の体調がかなり悪いと言う姉からの手紙をきょう受け取ったが、アメリカには帰らない、母にはもうさよならを言ったからという話をしたあと、1冊の本を差し出した。
 「今、読み終わったんだ。好きな本だから、あげるよ」
 そういって、私に差し出したのが、スタインベックの“Sweet Thursday”という小説だった。彼は、この小説の舞台となっているカリフォルニアの街の話をしたあと、その本のなかで、私が絶対に知らないと思われる単語の説明をしてくれた。そのとき教えてくれた単語で、いまでも覚えているのは”brothel”だけだ。
 旅行中も、帰国してからも、この小説を読もうと試みたが、数ページも続かなかった。私の英語力が貧弱で、娯楽小説ではないので、根気が続かず、それでもジムが私に読ませようとした世界を知りたくて、日本語訳が出版されていないか調べたが、見つからなかった。
 1954年にアメリカで出版されたこの小説が、日本で初めて翻訳出版されたのは、1984年の『たのしい木曜日』(市民書房)としてらしい。1974年の日本の書店や図書館で翻訳書を探しても、みつからないわけだ。
 1980年にアメリカに行き、ニューヨークの書店でスタインベックの本をちょっと立ち読みしたのは、ジムからもらった本のことがずっと気になっていたからだ。このときに、小説以外で、私にも読めそうなエッセイがあるかもしれないと思って探していて、『チャーリーとの旅』を手にしたらしい。書店でちょっと立ち読みして、どういう本か少し理解はしたが、最後まで読みこなせる英語力はないこともわかり、結局買わなかったのだろう。
 あれは1985年ごろだったか、取材でカリフォルニア州を旅していたときのことだ。「スナップ程度の写真でいいから、モンタレーやカーメルに行ってちょっと写真を撮って欲しい。取材費はほとんどないが、よろしく」という雑誌編集部の依頼で、取材費節約の手段としてツアーにまぎれこんで、バス旅行をしたことがある。これが、生まれて初めての団体バス旅行だった。あなたまかせの気楽な団体旅行のせいで、緊張感もなくうつらうつらとしていたら、ガイドが「スタインベックの・・・」と話しだしたところで目が覚めた。そのバスが走っているところが、スタインベックゆかりの地だという説明だ。1974年にバンコクでジムから聞いた話の舞台が、ここなのだと気がついた。
 そして、2008年に『旅する力』のページに、スタインベックの名が私の前にまた現れて、むかしが懐かしくなって、すぐさま『チャーリーとの旅』を書店に注文した。もちろん、日本語訳だ。

 


アジア雑語林(247) 2009年2月8日

『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート  第一話
旅のことが知りたい

 2009年1月8日掲載の「本は買わないと決意したが・・・」を書いたのは昨年12月中旬で、その後年末までに新刊書だけでも30冊ほど買ってしまった。そのなかの1冊について、これから思ったこと、思い出したことなど、もろもろのことを書き綴ってみようと思う。
 沢木耕太郎が、『深夜特急』をめぐる旅事情を詳しく書いた『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008)を出した。この本に対する世間的な評価は知らないが、旅行史研究者の私としては、望外の喜びとでも表現したくなるくらいの好著だった。
 ここ何年も、インターネット古書店で、1950年代から1970年代あたりまでの海外旅行記を買い集めている。有名な作家や学者の手による本はさけて、なるべく若く、無名の著者の本ばかりを買い集めてきた。ネット古書店への出品だから、内容の確認はできず、著者が無名のほぼ素人だから、検索しても著者の経歴や情報は出てこない。だから、値段だけを決め手に発注して、数日後に自宅に届き、10秒後に「やっぱりな」とがっかりする日々を繰り返し、駄本の山を築いている。
 時間とカネの無駄遣いになりそうだとわかっていても、古い旅行記やガイドブックをなぜ買い集めているのかというと、知りたいことが数多くあるからだ。海外旅行がまだ珍しかった当時の、生の気分を知りたいからだ。箇条書きにすれば、こういう事項だ。

■著者は、どういう理由で旅に出ようと思ったのか。1970年代あたりまでは、一般人は、ある種の決意や覚悟がないと、外国旅行には出かけられなかったから、日本を出ると決める心の動きを知りたい。つまり、何にそそのかされて、旅に出ようと決意したのか。
■著者は、なぜ、その地を旅行目的地として選んだのか。小説の影響か、映画を見たからか、友人の話なのかといった、旅行地選定の経過を知りたい。旅行情報をどうやって得たかも知りたい。教養や関心の方向を知りたい。
■特に豊かな者か、奨学金を得た留学生でもなければ、旅行資金をなんとかして自分で作らなければいけない。どうやって、どのくらいの資金を稼いで、日本を出たのか。
■旅行用品など、こまごまとしたことも知りたい。
■旅先での、あるいは帰国した直後の、カルチャーショックにも興味がある。旅行者は、いったいどういう事柄・出来事にショックを受けたのか。

 要約すれば以上のようなことなのだが、細かく分ければ「旅に関する100の質問」になるくらい、知りたいことがある。そして、この『旅する力』は、私の疑問にかなり答えてくれている世にも珍しい本なのである。世に、旅行記や思索記は数多いのだが、上に書き出した項目に答えてくれる本、社会と連動した旅行事情記というものは、まず、ない。
 1970年代なかばの個人旅行の関連資料としては、空前絶後の本だといっていい。数多くの旅行記には、いま書き出したような項目について、ほとんど何も書いてないからだ。
 旅行が好きな人や沢木の愛読者が、沢木の旅行事情そのものにどれだけ興味があるかわからないが、私にとっては付箋を貼り付けつつ精読した資料であった。
 そこで、これから何回かにわたって、『旅する力』の読書ノートを書いていこうと思う。沢木の文章を引用しながら私の感想などをいちいち書いていったら、長くなっていつまでたっても終わらなくなる。だから、この『旅する力』の内容は詳しく紹介しない。どういう内容なのか基礎知識を得たい人は、自分で調べてください。
 この本を読んでいて思い出したこと、考えたこと、調べたことなどを、書いてみようと思う。沢木耕太郎論でもなければ、作品論でも、旅論でもない。ただの印象記だ。
 まずは、本の話だ。
 この本の「序章 旅を作る」には、6冊の書物が登場する。

 『大言海』(大槻文彦)
 『ティファニーで朝食を』(トルーマン・カポーティ)
 『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)
 『夢見た旅』、『アクシデンタル・ツーリスト』(アン・タイラー)
 『チャーリーとの旅』(ジョン・スタインベック)

 この6冊の本のどれも読んだことはない。しかし、読みたいと思って手にとったことがある本は、1冊ある。1980年のニューヨークだろうと思うが、それ以前にも話がさかのぼる。スタインベックの本に初めて出会ったのは、1974年のことだ。

 


アジア雑語林(246) 2009年1月27日

わかりにくい田中清玄のタイ その2

 田中がタイに渡った頃、「日本政府が困っていたのは、戦時中に発行した軍票の処理だった」というのだが、いくら調べても、日本の政府や軍がタイで軍票を発行した事実は出てこない。タイ研究者でなくても、これは「タイ特別円」のことだとわかるはずだ。日本軍がタイで使うカネを円建てで借りた。戦後、その返済をどうするかという問題だ。インドネシアではスカルノらがからんだ戦後賠償問題が、タイでは特別円問題になる。賠償であれ返済であれ、日本がカネを出す。そのカネが日本の企業や、日本や現地政府の政治家などにも回る利権の構造ができあがるわけで、タイではその黒幕として田中がいたということだ。具体的にどういう活動をして、田中の懐にいくら入ったかといった話は、当然『自伝』にも出てこない。
 戦後賠償とタイ特別円問題に踏み込むと、現代史の魑魅魍魎たる暗黒部分に触れて、結局なにもわからずに終わるのが、この「研究業界」の常識だ。当時の経験は表にできないことだらけで、関係者の記憶は「墓場まで持っていく」ようなものばかりで、まともな資料がないのだ。三輪自動車の輸出事情を調べていたときに、私もその壁にあたって苦労したことがある。『日本の戦後賠償』(永野慎一郎・近藤正臣編、勁草書房、1999)などを読んでも、詳しい事情はさっぱりわからない。
 鶴見良行が書いていたのだが、かつてアジア経済研究所は彼の友人たちから「ウサン臭い組織」だと思われていた時代があったというのだ。それは「アジア」という語が、「亜細亜」の字で表記されていた「右翼」「軍国主義」を想像させ、そういうウサン臭い団体たと誤解されたようだ。韓国や台湾と付き合う連中は、「反共」を大義名分に闇の裏金を稼ぐヤカラだと思われていた。1950年代までは、岸信介、児玉誉士夫らが暗躍する「亜細亜」は、ウサン臭い連中が食い物にする地域だというイメージがあったようだ。1960年代なかばあたりまで、アジアを研究する若者が少なかったのは、ウサン臭い世界に巻き込まれたくないという拒否反応があったという。
 さて、かねがね気になっていたことは、この『自伝』に一部書いてあった。田中と深い関係を持ったピブーンは、サリットによるクーデターで失脚し、日本に亡命するのだが、「安全に日本へ亡命する仕事は、全部私がやったんです」と語っている。日本では、「まず新宿・牛込にとりあえず家を準備し、後に都下の町田に1億円くらいの土地付きの家を捜して住んでもらったんです」。その資金は、丸善石油、日本鋼管、間組が出したという。
 ピブーンが日本に亡命し、安穏と暮らしていられた背後には、超法規的権力が作用していることはわかっていたが、それが田中だったというがこれでわかった。
 わからないのが、1億円の住宅だ。時代は1960年前後だろう。手元に、マイクロフィルムをコピーした1964年の朝日新聞があり、不動産広告を見てみると、こうなる。

四谷3丁目 坪16万円
牛込柳町 坪16万円
武蔵境 徒歩12分 坪3万3000円
横浜市上大岡 徒歩10分 坪1万9000円

 こういう数字を見れば、「町田で1億円の住宅」というのは、マユツバに思えてならない。坪3万円だとして、1000坪買っても3000万だ。デパートや旅館を開業するんじゃないんだから、3000坪の土地なんかいらない。投資目的で、広大な土地を買っておいたのか。
 さて、サリットの時代になっても田中はまだタイに行き、ドンムアン空港で200人の陸軍兵士に取り囲まれて、機関銃を突きつけられた。ピブーンを亡命させた罪を糾弾されたというのだ。中心人物である「司令官のブンチュウ」というのは、空軍参謀長のブンチュー・チャンタルベークサーだろうが、なぜそこに「陸軍兵士」がいるのかわからない。空港は空軍の管理下にあるはずだ。空港から田中を救い出したのは、「戒厳司令部のククリットという大将」で、「ククリットは日本の陸大を出て、民族派だ」。この人物が、ブンチュウを怒鳴りつけて、田中をホテルまで送ってくれたという。そして、その理由がよく理解できないのだが、「こういうことがあってからは、タイ国内ではどこへ行っても英雄扱いでした」という。こういう自慢がいたるところに出てくるので、読後感はよくない。
 さて、タイでククリットといえば、元首相であり作家でもあったククリット・プラモートの名がすぐに浮かぶが、彼は軍人ではない。では、このククリットは、誰だ。
 まず、陸軍大学校の卒業生名簿を調べてみたが、「ククリット」という名はない。それどころか、カタカナの名前はまったくないのだ。手元のタイ関連の資料に当たっても、ククリットという大将が見つからない。空軍参謀長を罵倒できる人物といえば、陸軍司令官で国軍最高司令官であるサリット・タナラットということになるが、田中の親友であるピブーンを追いやった人物だから、田中を擁護するのは変だし、そもそもサリットは陸大の卒業生ではない。「陸大出身のククリット大将」は、はたして実在したのだろうか。タイの軍隊に詳しい方なら、すぐ正解がでるのだろうか。
 というわけで、わずか10ページのタイ関連部分だけでも、疑問に思う個所が次々と出てくる。浅学である私には、個々の事実関係の確認ができないので、「この自伝は間違いだらけだ」と指摘する自信はないが、疑問点が数多くあることは確かだ。

 


アジア雑語林(245) 2009年1月19日

わかりにくい田中清玄のタイ その1

 戦前は共産党の活動家で、戦後は「大物右翼」とか「政財界の黒幕」とか「大物フィクサー」などと呼ばれた田中清玄(たなかせいげん。1906〜93年)とタイの関係がちょっと気になっていたので、そのことだけを書いてみたい。田中をはじめさまざまな人物や事柄に言及するが、その説明をきちんとしていくと、いつまでたっても文章が先に進まないので、意識的に不親切な文章になっている。詳しく知りたい方は、ネット情報などで各自調べていただきたい。
 私は「清く正しい」人物が特に好きというわけではないが、「業界の黒幕」とか「影の実力者」といったウサン臭い輩も嫌いで、1993年に文藝春秋から『田中清玄自伝』が出たときも、書店でその本を手に取ることもしなかった。この自伝は、毎日新聞記者大須賀瑞夫が田中に長時間インタビューしてまとめたものだ。
 その自伝が2008年にちくま文庫に入ったのを書店で見つけ、つい買ってしまった。この本で、タイに関する部分はわずか10ページしかないが、ほかの部分同様どうもよくわからないのだ。この自伝を小説のように読んだ人は、「おもしろい」とプラスの評価を与えるようだが、現代史の参考資料として精読していくと、疑問点が多いのである。
 ここでは、田中清玄論も書評もしない。『自伝』の内容紹介もしない。田中がタイでの活動について語った部分だけを点検してみようと思う。
 田中がタイに行ったころのことを、こう語っている。
 「もちろん占領下ですから、海外に出るにはGHQの特別許可が必要でした。GHQも最初のうちは快く出していた、後になると渋るようになってきた」
 巻末の年表を見ると、「1955年 タイ訪問」とある。あるいは本文の別の部分に、「僕も1955年にタイに家を持って、5年間にわたりタイと日本を往復する生活をしていたんです」とある。日本が占領下にあったのは、サンフランシスコ条約が締結される1952年までだから、1955年なら当然占領下ではない。そもそもGHQなど、もうないのだ。
 こういう文章もある。「ピブンさんは戦時中、日本に協力したということで、戦犯容疑で裁判にかけられていたわけですが、私が行った頃は、ピブンさんに無罪判決が出た直後でした」。ピブンとは、戦前と戦後の両時代に首相をつめた政治家プレーク・ピブーンソンクラーム(1896〜1964年)のこと(以下ピブーンと表記する)。ピブーンの話は、このアジア文庫のホームページの別項で、すでに書いた。
 さて、ピブーンが釈放されたのは1946年だから、田中がタイに初めて行ったのは戦後間もない占領下の時代ということになるが、そんなに早い時代に渡航したのだろうか。公式記録では、戦後10年間の海外渡航者数は不明だが、旅券発給数はわかる。1946年は8件で、そのうちのひとりが田中だというのだろうか。もしそうなら、戦後はじめてタイに渡った日本人ということになるだろう。でも、ホントかい?
 田中がタイに渡ったいきさつもよくわからない。田中はこう語っている。
 「そもそも私をタイに紹介したのは池田成彬さんです。池田さんは吉田茂さんの依頼を受けて、三井物産のなかにタイ室を作り、三井銀行を通じてタイの開発に力を注いでおりました」
 池田成彬(1867〜1950年)は三井の重鎮。「タイ室」についても、この雑語林ですでに書いたが、その「タイ室」の略歴は正確にはこうなる。

 1935年 三井合名会社内に三井暹羅室を設置
 1940年 三井から独立し、タイ室東京事務所と名称変更
 1951年 財団法人タイ室と改称
 1967年 財団法人日本タイ協会と合併して、財団法人日本タイ協会となる

 具体的に、タイで何をしていたのかもよくわからないが、要するに日本企業とタイ政府の間を取り持つ黒幕だ。次回は仕事の話など、少し。

 


アジア雑語林(244) 2009年1月8日

本は買わないと決意したが・・・

 ある日、本棚の整理をしていて、あらためて気がついた。買ったままで、まだ読んでいない本が100冊近くもあるのだ。買ったまま読んでいない本があることは、もちろんわかっていたが、本棚の奥やテーブルの下でほこりをかぶっている本の束を見つけ、これはイカンと思った。いくらなんでも、買いすぎだろう。
 しばらく本を買うのをやめて、未読の本に手をつけよう。そういうわけで、ここ数か月間で買った本は5冊ほどで、未読の本を右から左へと読んでいるのだが、相変わらずの牛歩読書である。読むのがノロいのだ。もともと、読むのはそれほど早いわけではない。「根気に欠ける」「集中力がない」「散漫」と、小中学校時代から教師に言われ続けてきた私だから、電車のなかでさえ30分がせいぜいで、自宅なら集中力はもっと続かない。コーヒーをいれたり、机の上の雑誌に手を伸ばしたりしたくなる。
 ここ何年かで言えば、電子辞書とインターネットが読書の味方であり、敵でもある。
 さきほどから読み始めた『私の建築事典』(清水一、井上書院、1972年)に、「アッパッパァ」という語に関するエッセイが出てくる。大工用語で、吹き抜けを「アッパッパァ」といい、それがぶかぶかのワンピースをさす言葉になり、そのおおもとは英語の建築用語“UPPER PART OF DINING ROOM”などの“UPPER PART”なのだと著者はいう。こういう記述があると、辞書やネットで確認したくなる。すると、建築用語や服飾用語や方言などで、「アッパッパ」に関する情報が出てきて、しばし読みふける。語源の話はおもしろいのだが、いいかげんな俗説が多く、やたらに信用してはいけないなどと自戒して、さらに詳しく調べ始めるので、読書からどんどん遠ざかる。本を1ページ読むと、ネット情報を30分は読む。牛歩読書どころか、かたつむり読書だ。
 『私の建築事典』に目を戻し、「雨戸」の項を読んでいると、「舞良戸」という語が出てきた。読み方さえわからない。どんなものなのか知りたくなる。さっそくインターネットで調べれば、「まいらど」と読むことがわかり、写真やイラストも出てくる。ふむふむと、またネット情報を読みふける。
 しばらく本は買わないと決意したものの、『人と魚の自然誌 ― 母なるメコン河に生きる』(秋道智彌・黒倉寿編著、世界思想社、2008年)はおもしろそうだから買い、例によって読みながらラオスのことをネットでいろいろ調べているうちに、ライターの高野秀行さんのブログで、ラオスを舞台にした小説があることを知り、すぐさま注文してしまった。その本、『老検視官シリ先生がゆく』(コリン・コッタリル、雨沢泰訳、ヴィレッジブックス、2008年)は、1976年のラオスを舞台にしたミステリーで、いくつかの文学賞を受賞しているようだが、小説嫌いの私にはそれほどおもしろい作品には思えなかった。とりあえず最後まで読んだので、特にひどいというわけではないが、霊能力者がでてくる小説は好きになれない。本文中、「ねばっぽいご飯」というのがでてくるが、多分原文は“sticky rice”で、モチ米の飯のことじゃないかあ。
 そんなことをやっているうちに、しばらく封印していたアマゾンのチェックをしたくなり、古書コーナーのリストを眺めていると、古いアジア関連書や旅行史資料を次々と注文してしまった。ダイエットにおけるリバウンドと同じで、いくら古本屋に本を売っても、結局、また本が増えてしまう。
 いま、「買ったんだから、読みなさいよ」と、書棚から私を睨みつけているのが、曽野綾子が1966年のタイを舞台に書いた『無名碑』(講談社、1969年)。数年前に買い、そのままになっている。「あとがき」に、タイ事情の執筆協力者として、『タイの象』やタイ文学の翻訳で知られる旧知の桜田育夫さんの名もあることだし・・・。しかし、2段組440ページの作品は、小説嫌いの者には、読む気を萎えさせる。

 


アジア雑語林(243) 2008年12月24日

2008年に読んだ本のなかから

 新聞や雑誌なら、「2008年 書籍ベスト10」といった企画になるのだろうが、昨今の私は新刊にはあまり食指が動かされず、古本を買うことが多いので、新刊に限定した書評や紹介はもはや無理だ。というわけで、出版年がいつであれ、2008年に読んだ本のなかから、一部は雑語林で紹介した本も含め、記憶に残る本を、読んだ順に何冊か挙げてみよう。ベスト10形式で選ぶのは、時間もかかるし面倒だから、読んだ順だ。

 『まがたま模様の落書き』ハンス・ブリンクマン、溝口広美訳、新風舎、2005
すでに、雑語林で紹介済み
 『南方絵筆紀行』明石哲三、文芸社、2002
戦前の東南アジア旅行記で、以前私家版を著者夫人からいただいたことがある。この本は、その私家版にほかの原稿も加えてまとめたものだ。
 『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』立花隆、書籍情報社、2004
旧時代のインテリの関心分野がよくわかる。旅で思索をした時代があったという記録でもある。今の若い知識人は、旅に出ても思索しないでしょ。 “Signspotting Absurd&Amusing Signs from Around The World” 1,2, Doug Lansky,lonely planet, 2005, 2007 
わかる人だけにわかる説明をすれば、ロンリー・プラネットが出した“世界版VOW”
 『世界の食文化 中南米』山本紀夫編、農文協、2007
網羅的によくまとまっている。このシリーズでは、よくできたほうにはいる。
 『マクドナルドはグローバルか』ジェームズ・ワトソン編、前川啓治ほか訳、新曜社、2003
紹介済み
 『荒野へ』ジョン・クラカワー、佐宗鈴夫訳、集英社文庫
著者の行動に共感はしない。時代遅れのヒッピー。時代遅れのアメリカン・ニューシネマのような読後感。旅行史として、あるいは若いアメリカ人の思想史の資料として読んだ。
 『中国まんぷくスクラップ』浜井幸子、情報センター出版局、2008年
良くも悪くも、いつもの浜井調。
 『其国其俗記』(そのくにそのぞくのき)木下杢太郎(太田正雄名義)、岩波書店、1939 
戦前の東南アジア旅行記。
 『近代料理書の世界』江原絢子・東四柳祥子、ドメス出版、2008 
近代の料理書事典。日本における外国料理の歴史もわかる。
 『新香港1000事典』小柳淳編、メイプルプレス、2000
傑作・労作である。いずれきちんと書きたいが、2008年に出た同じ編者の手による『現代の香港を知るKEYWORD888』を読んでからにしようと思っていて、まだ書けないでいる。内容が重複するので、読もうかどうか考えていて、つい・・・。
 『食べる指さし会話帳 台湾』片倉佳史・石野真理、情報センター出版局、2003
 『 同 インドネシア』武部洋子、2008 
いずれ、きちんと書評をしたいと思っているのだが・・・。

 最後に、大いに期待したが、私の興味の方向とは大きく食い違う内容だったので、残念な結果に終わったのが、『水洗トイレの産業史』(前田裕子、名古屋大学出版会、2008)だ。期待を大きく下回る出来だったという本は、もちろんいくらもある。昨今の粗製乱造新書がその悪い例だ。『建築史的モンダイ』(藤森照信、ちくま新書、2008)は、けっして出来損ない本ではないが、期待したより内容がはるかに薄かった。建築にまったく興味や知識のない人には向いているから、「ひどい本」というわけではなく、私との相性の問題だ。

 


アジア雑語林(242) 2008年12月12日

日本のタイ料理店 2008年

 かねてより、この雑語林135号170号で、日本のタイ料理店の概要を紹介してきた。在日タイ大使館が発表しているリストによれば、日本にあるタイ料理店は2007年1月現在、445軒あることになっている。「タイ料理店」の定義などは考えず、リストに載っている店を数え上げた結果だ。
 おなじ情報源で、2008年10月現在の全国タイ料理店総数を数え上げると、370軒になる。ということは、経済事情などで、大幅に減少したということなのだろうか。日本のタイ料理事情にも秋風が吹き始めたということなのだろうか。
 タイ大使館のリストを見ると、どうも「タイ料理店」の定義をかなり厳格にしているようだ。タイ大使館のホームページで紹介しているのだから、立派な店でなければいけないと決めているのか、「タイ料理も出している飲み屋」などは除外されているようだ。
 というわけで、「タイ料理店」の定義をゆるくして、飲み屋なども含めたリストで検証してみることにした。情報源は、ワイワイタイランドの「日本全国タイレストランリスト」http://www.waiwaithailand.com/shoplist/restaurant.html
 各都道府県別のタイ料理店数をいちいち書き出してもしょうがないので、概略を紹介してみよう。
 まず、総数だ。日本にあるタイ料理店は、717軒あるらしい。このリストに載っているがすでに閉店した店もあるだろうし、逆にリストには載っていない店もあるだろう。料理店というより、スナックやバーと呼んだほうがいい店も含まれているかもしれない。そういう誤差も含んだ数字だ。
 タイ料理店が10軒以上ある都道府県のリストを作ってみた。

東京 303軒
千葉 54
神奈川 48
大阪 48
愛知 34
埼玉 23
茨城 18
兵庫 18
長野 15
栃木 13
新潟 12
福岡 12
京都 12
群馬 10

 いつもながら気になるのは、長野、新潟、栃木、群馬の事情だ。この4県にタイ料理店が多い理由は、多少想像できるが、確証がないので書かないでおく。
 無医村ならぬ無タイ料理県は、秋田、福井、岐阜、島根、徳島、高知、大分。四国4県には、愛媛と香川に各1軒ある。
 日本全国に700軒以上のタイ料理店があるそうで、とくに意味はないが、こんなに多くていいのかなあという気もする。ちょっと前に、東京某所で、開店したばかりのタイ料理店を見かけたので、友人を誘って行ってみたが、まあ、ひどい。「なんじゃこりゃ!」という料理だったが、客は入っていた。で、このワイワイタイランドのリストで確認したら、まだつぶれていなかった。「目黒のサンマ」のような、メリハリのまるでない「日本のタイ料理」が着実に増えているようで、だからこそタイ料理が普及しているのだろうと思う。タイそのままの料理を出していたら、とてもじゃないが、こんなに増えなかっただろうと思う。

 


アジア雑語林(241) 2008年11月28日  (追記 2008年12月3日)

売る本がないアマゾン

 ついに、最後の一冊もだめだった。今年4月にアマゾンに注文した本が、「商品を入手できませんでした」というメールで、注文がキャンセルされた。注文して半年後だ。アマゾンの不手際で注文がキャンセルされたのは、現時点でこの本が最後だが、もちろん最初ではない。今年に入って、おそらく90冊目くらいになるだろう。「まさか、ウソだろ」と思うかもしれないが、事実なのだ。
 今年、2008年の1月から4月にかけて、インターネット書店アマゾンに英語の本を合計100冊ほど注文した。このうち、古書を扱う「マーケットプレース」での注文は10冊ほどあり、「注文をいただいたあと、在庫がないことがわかり・・・」というメールで注文がキャンセルされたのが1冊ある。一方、アマゾンの本部扱いだと思うが、amazon internationalで新刊扱いとなる本90冊のうち1冊を除いて、届かなかったのである。言うまでもないことだが、注文を受けつけていない本を注文したのではない。
 注文は、例えば、こういうメールでキャンセルされ続けた。

*****
 誠に申し訳ございませんが、大変残念なご報告があります。お客様のご注文内容のうち、以下の商品については入手できないことが判明いたしました。

Aristide J G Papineau (編集) "Guide to Malaysia"
Aristide J G Papineau (編集) "Guide to Jakarta"
Aristide J G Papineau (編集) "Guide to Asian Lands of Tropical Beauty"
Aristide J G Papineau (編集) "Guide to Bali"

お客様のご注文から、提供できない商品をキャンセルさせていただきました。
ご了承ください。
Amazon.co.jpでは、商品の価格と在庫情報の把握に細心の注意を払っておりますが、仕入先の在庫状況の変化を、Amazon.co.jpサイトにすべて反映できない場合もあります。価格や在庫状況が正確に把握できていなかったため、お客様にご迷惑をおかけしたことを重ねてお詫び申し上げます。
**********

 あるいは、こういう文面。

**********
 前川様
 お客様より、3月31日にご注文をいただいておりました(注文番号:503-0077887-2928639)につきまして、5月2日に『Bangkok (Collins Traveller)』と『Berlitz Travel Guide to Thailand』の2冊を、4月20日に『Thailand (Living in Today's World S)』と『Thailand (This Beautiful Wld. S)』の2冊を、発売元から今回は商品の入荷見込みがないとの連絡を受けたために、誠に勝手ではございますが、ご注文をキャンセルさせていただきましたことをご理解くださいますようお願い申し上げます。
 なお、ご注文番号(#503-0077887-2928639)の『Thailand in Pictures (Visual Geog. S) 』につきましては、引き続き担当部署にて調査中です。回答がありしだい、ご連絡いたしますので、いましばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。
*****

 そして、当然、この『Thailand in Pictures』も、いつものキャンセルメールが届いただけで、肝心の本は届かない。
 品物がないのに注文を受けつけるのを、たしか「空売り」と言ったと思うが、まさに90冊もの空売りをされたのである。ずさんなシステムの謎を解明しようとしたが、のらりくらりと逃げるアマゾンスタッフにメールを打ち続けたが、納得できる回答は得られなかった。
 長期に渡るやりとりを要約すれば、結論として、アマゾンの理屈は、こうだ。
 ・発売元であるアマゾン・インターナショナルの「商品が入手できる」という情報をもとに、amazon.jp(日本のアマゾン)はサイトに商品案内をだした。
 ・客から注文があったので、注文を受けつけた。
 ・しかし、のちに発売元が「商品の入手はできない」と連絡してきたので、注文はキャンセルした。
 ・我々はまったく悪くない。注文のメールは受けたが、それだけのこと。「かならず商品を送る」とは約束していない。アマゾンが「送ります」とメールした段階で契約が成立するシステムになっているので、「注文メールを受けました」というメールを送っただけでは、契約にはならない。我々に、落ち度まったくない。
 というわけで、どうやらアマゾンに注文した私が悪いらしい。競合他社があれば乗り換えるのだが、外国書が注文できるネット書店で、アマゾン並みの品揃えがあるところはほかにないんだよな。寡占は恐ろしいと、つくづく思う昨今である。
 それにしても、半年で90冊のキャンセルは出入りの古書店(マーケットプレース)には到底許されないが、アマゾン本体はやり放題、自由気ままなのですね。古書店を評価する欄はあるが、アマゾンを評価する場はない。

追記
 この文章を読んだ友人が、「アマゾンがだめなら、ここがいいよhttp://www.abebooks.com/」と古書サイトを教えてくれた。以前使っていた別の古書サイトは、送料と手数料が高いのでやめたのだが、このサイトはよさそうだ。アマゾンのマーケットプレースで、12500円している本(アメリカで出版されたヒッピー時代の旅行についての本)が、40ドル+数ドルの送料(船便)で手に入るようだ。
 アマゾンで買えなかった本がかなり手に入ることもわかった。


アジア雑語林(240) 2008年11月14日

「まなざし」の大安売り本 その2

 『沖縄イメージを旅する』には、カラー口絵が8ページあり、本文中にもモノクロ写真を多数使っている。「写真提供」として、読売新聞社、毎日新聞社、沖縄県公文書館のクレジットがあり、「上記記載以外の写真は、著者提供による」とある(286ページ)。
 口絵のなかに、「1965年、首相として戦後はじめて沖縄を訪問した佐藤栄作首相」という説明がついた写真が載っているが、この写真は新聞社のものではなく、クレジットがないから「著者提供」に分類されるものらしい。しかし、著者は1970年の生まれだから、1965年の出来事を撮影できるわけはない。どういうことだ。あるいは、国鉄や全日空のポスターもカラー口絵で紹介しているが、クレジットがない。これも、「著者提供」?
 一般の読者は写真の権利などということに関心はないだろうが、私はライターゆえに、気になるのだ。国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のポスターは、私の著書でも紹介したいと思ったが、権利関係の交渉が面倒なのではないかと思い、交渉もせずに使用を諦めた。だから、中央公論新社はどのように交渉したのか、知りたくなったのである。すぐさま、中公新書ラクレの編集部に電話した。
 ちょうど担当編集者がいたので、話が早い。その編集者によれば、「著者提供」の写真について、こう言った。
 「著者が資料として収集したものを、この本で公開したということです」というのだが、それでは佐藤栄作が沖縄を訪問した写真も、著者のコレクションということなのか。
 「じつは、はっきりと書いていませんが、わが社でも豊富に写真を持っていまして、そういう写真も使用していますが、どれが当社のものかは、いちいち明記していません。そんな必要、あります?」
 写真の出典を明記する理由はいくつかある。まずは、著作権の問題。ほかには、引用の礼儀と責任、そして資料の信憑性の問題があるからだ。例えば、100年前に出版された本の写真をコピーして自分の本に使っても、著作権上の問題はほとんどない。しかし、どういうたぐいの資料からコピーしたのかを明記、あるいは明示するのは、礼儀であるし、責任である。これは、図版だけのことではなく、文章を引用する場合でも、出典を明記するのは常識である。写真だって同じはずだ。
 「国鉄や全日空のポスターも口絵に載っていますが、そういう場合の権利関係の交渉はどうやったんですか」
 私の質問に、(そんなこと、あんたに関係ないじゃないの)と腹のなかで思っているのは明らかな口調で、編集者はこう説明した。「著者が集めた資料ですから、自由に使っていいでしょ!」
 すごい論理だが、論理以前に、国鉄や全日空の古いポスターを著者が本当に収集したのか疑問で、大学生がやって問題となっている「コピペ」(コピー&ペースト)だったら、どうなるのだろう。百歩譲って、これらのポスターを本当に著者は集めたとする。だから、自分のコレクションを、出版物に自由に使っていいと言えるだろうか?
 というわけで、例の「ディスカバー・ジャパン」のポスターを作った(もう、40年近く前のことだ)電通に電話してみた。ポスターを自著に載せたい場合、どうすればいいですか。
 広報の話では、ポスターを作ったのは電通でも、クライアントの要望で作ったものなので、まずクライアントの許可を取るのが、順当な手順ですという。まず、写真引用希望者と、企業の利害が一致するかどうかという問題を解決しないといけない。企業イメージを損なう使い方をされては困るからだ。つぎに、ポスターにイラストがあったり、キャラクターを使っている場合は著作権の問題が、有名人が写っている場合は肖像権の問題が発生する。わかりやすくいえば、個人のコレクションだからといって、手塚治虫の絵やディズニーのキャラクターやジャニーズ事務所のタレントの写真を勝手に使うと、面倒なことになるわけだ。
 ただ、現実問題としては、JASRACの許可を受けずに、本に歌詞を載せている例もあるわけで、要はどの程度ちゃんとやるかという良心の問題になる。もし、私が「ディスカバー・ジャパン」のポスターを自著のなかで使いたくて、ネット上の写真をコピーして勝手に使っても、「絶版要求」をされるといった大問題になることはないと思う。だからといって、勝手に使ってもいいということにはならないだろう。中央公論新社の判断では、自由らしいのだが。

 付記:戦前の沖縄観光に関する話は、次の論文がおもしろい。ネットでも読めるのがありがたい。私が苦手な言い回しも多いが、これは学者の業界雑誌の文章だからいたしかたないか(本当は違うのだが)。
 神田孝治「戦前期における沖縄観光と心象地理」(「都市文化研究 4号 2004年」

 


アジア雑語林(239) 2008年11月5日

「まなざし」の大安売り本 その1

 人は何に誘われて旅に出るのかといったテーマに興味があって、『沖縄イメージを旅する』(多田治、中公新書ラクレ、2008)を読んだのだが、どうも読後感が良くない。バランスが悪いのだ。著者は元琉球大学助教授で、現在一橋大学の准教授だが、この本には文意が不明の個所が多い論文調の部分と、ごくごく個人的な話も加えたくだけた話が混在しているのが、読みにくさの原因である。手持ちの論文や、雑誌や新聞に発表した原稿を寄せ集め、しかしうまく統合できなかったのが原因だろう。
 全体の構成では、希望も含めて言いたいことはいくらでもある。沖縄イメージといえば、音楽ならザ・ブームの「島唄」やビギンなどの話を、1960年代の話なら大江健三郎や竹中労の話題が出てきてしかるべきだろう。沖縄の音楽を語るなら、ワールドミュージックのブームとともに語るべきだろうし、沖縄料理の流行は、例えば東南アジア料理の流行と関連してエスニックフードの流行とともに語るべきだろう。つまり、「沖縄と本土」という枠だけで考えていてはいけない。「沖縄のイメージと旅行」を出版物からさぐる手段に著者は「旅」を使っているが、それより「るるぶ」や「アンアン」「ノンノ」やガイドブックでしょう。「旅」は、おっさんの雑誌です。近年の沖縄移住者たちは、何の影響で、どういうイメージで移住を決意したのか、明快には書いてないのはなぜ? などなど・・・・。
 あるいは、事実関係でも気になる記述がある。例えば、沖縄のハブについて書いた次の文章。
 「(ハブは)天敵のマングースを輸入してから減少し、昭和の観光客が行く頃にはまず見られなくなったので、県の衛生課で飼育しているのをわざわざ見に行っていた」
 沖縄についてほとんど知識のない私でも、野生状態ではマングースはハブを食べないことは知っているし、昭和の初めにはハブが「まず見られない」と言えるほど減少したという記述は信じがたい。
 こういうことを詳しく書いていくとキリがないので、やめておく。ここでは、文章とことばの話だけはしておこう。
 学者が学者相手に文章を書くなら、業界の隠語がどれだけ入っていようがかまわない。どういう言い回しを使おうが、勝手である。部外者がとやかくいう問題ではない。しかし、一般書を書くなら、私のような学のない読者でもわかる表現にして欲しい。例えば、こういう文章がある。このコラムの読者であるあなたは、容易に理解できますか?
 「一九八〇年代に入ると、沖縄イメージはより自律化して、沖縄のもとあった現実を離れていった。競合する海外リゾートの海が沖縄の海にはね返り、重ねられて、イメージのグローバル化が進んだからだ」
 あるいは、この文章は?
 「七七(昭和五二)年四月、「団体包括割引GIT」が沖縄に導入された。これはパッケージツアーのなかに、航空券だけを買った場合よりも安い航空運賃を設定する制度で、航空会社と旅行業者の間で料金が設定されるため、利用者にはその価格が隠されている」
 わかりにくい文章だ。「沖縄線に、パッケージ旅行用の団体割引き航空運賃が適用された」と書けばいいだけなのに、わけのわからん理屈をこねて説明しようとしている。団体旅行の航空運賃が、航空券だけを買う場合よりも安いのは、当たり前。通常の正規航空運賃で催行する団体旅行などあるか。パックツアー料金のなかで、航空運賃がいくらなのかを客に明示する旅行会社などあるだろうか。考えればわかることだろうに。
 この本が、「まなざし」の大安売りだということも、大いに気になる。社会学や観光学などの業界の流行語らしいが、同じ語の繰り返しは、読者をいらいらさせる。本文のいたるところに、「まなざし」が出てくる。例えば、76〜77ページの見開きに、6回も出てくる。あるいは、120〜121ページの見開き(全28行分)には、次のような用例で登場する。

・観光のまなざしにさらされた瞬間
・海をまなざす純粋な視覚的快楽のフレーム
・観光のまなざしのオブジェへと変えてしまう
・海を美的にまなざす構図のセンターにあった

 こういう文章は、悪文である。才能のないコピーライターが、自己陶酔して書きそうなひどい文章である。あるいは、「どう、ボク、頭いいでしょ」と自慢したい学者のタマゴが書きたがる文章だ。へなちょこライターの私が言うのは変だが、こういう悪文を書く教師に、学生の論文を指導する力はないと思う。やたらに「まなざす」学者は、「すんげー」と「やべー」しか語彙のない若者となんら変わりがないと、編集者が教えてあげればよかったのに。
 この本でもう一点、気になったのは写真のことだ。その話は、次号で。

 


アジア雑語林(238) 2008年10月24日

石井好子の外国 その4 物価と収入

 石井好子がパリに着いて3日目に、シャンソン歌手の仕事が舞い込んだ。留学したのではなく、歌手として仕事をしていたのだった。アメリカでもフランスでも、赤貧の時代はなかったのだ。
 週給1万フランだ。しばらくして、別の仕事の話があった。1年間休みなし、1日2回のステージで、週給7万フラン。そして、マネージャーをつけたので、3ヵ月後には週給25万フランの仕事がきた。
 さて、それがどの程度の価値がある金額なのか、まるでわからない。そこで、遠藤周作に助けてもらうことにする。
 ザビエル来日400年記念事業をやろうという企画があった。上智大学の教授と、フランスのカトリック教会や篤志家の援助で、日本人をフランスに留学させようという企画にのって、見事留学の機会を得たひとりが、慶応大学の仏文科を2年前に卒業した遠藤周作だった。日本出発は1950年、遠藤周作27歳だった。留学目的は、現代カトリック文学研究だった。
 遠藤が帰国したのは、1953年1月で、7月には留学生活について書いた『フランスの大学生』を早川書房から出した。この留学記が、遠藤の最初の本となった。早川版が絶版になったあと、1974年に角川書店から新版として発売された。77年には角川文庫に入ったが、絶版。ところが、意外な版元から再発売されていることがわかった。2005年に新風舎文庫として、4たび姿を見せたのである(そして、この原稿を書いたあと、2008年9月に、ぶんか社文庫からも出版されたことを知った。遠藤周作にいったい何が起ったのか)。
 新風舎文庫を手に入れて、読んでみた。がっかりしたのは、いきなり、「夏が終って、大学が始まりました」という第一行でこの本が始まり、留学に至るいきさつや、フランスの第一印象やカルチャーショックといった私が知りたいことがなにひとつ書いてないことだ。まあ、それはそれとして、留学生のふところ具合はきちんと書いてくれた。
 パリではなく、リヨンの大学生の場合だが、2500から4000フランくらいの部屋を借りているらしい。学生食堂で食事をすると、1食70フラン程度、これに学用品代など諸々の出費を加算すると、ひと月に最低でも1万5000フランはかかるという。ちなみに、1フランは1円30銭だから、最低の生活費だという1万5000フランを日本円にすると、約2万円となる。1952年の、日本の大卒初任給は6000円くらいだから、2万円は大金だ。
 さて、石井好子の収入だ。週給25万フランということは、ひと月4週としても100万フランだ。貧乏学生が1万5000フランでなんとか暮らしている時代の100万フランはすごい。日本円にすれば、130万円以上。参考までに書いておくと、1953年の、銀座4丁目付近の土地は、ひと坪114万円だったそうだ。ということは、月収で、銀座の土地が買えたということになる。
 こう考えてみると、1950年代前半に、世界でもっとも稼いでいた日本人が、もしかすると石井好子かもしれないとも思える。会社や農園など組織の長としての収入ではなく、たったひとりの稼ぎとしては、大変なものだ。
 それでも54年に日本への帰国を決意したのは、仕事上の悩みとホームシックが原因らしい。
 以上、このテーマは今回で終了。

 


アジア雑語林(237) 2008年10月16日

石井好子の外国 その3 パリ

 1年半のアメリカ滞在のあとに渡ったパリだが、所持金は数週間分しかなかった。シャンソンのレッスンを受けているうちに、歌手としての仕事が舞い込み、その待遇もしだいによくなっていく。とりあえず、生活の心配などせずにパリで生きていくことができるようになった。
 『私は私』に、パリの銭湯の話が出てくる。こういう話題に興味がある身としては、資料を記録しておくためにも、ここで引用しておこう。
 パリでは当初ホテル住まいをしていたが、旧知の砂原美智子(オペラ歌手)と同じアパートに移り、同じフランス語学校に通うことになった。

 ――アパルトマンのボイラーは戦時中使えなかったからそのまま錆びついて、私たちが住んでいる頃もお湯が出なかった。
 「お風呂へ行くのよ」と先輩の美智子ちゃんが言った。
 「え? パリにお風呂屋があるの?」
 「タオルや石鹸持っていくのよ。持っていかないと売りつけられるからね」
 二人でタオルと石鹸を持って地下鉄の駅ビルアケムの近くに行った。お風呂屋といっても日本のように大きな風呂にたくさんの人が入るのではなく、個室でホテルのような洋風のお風呂に三十分とか一時間とか払って入るのだった。

 『私は私』は、石井のパリ交遊録でもあるので、有名人が次々と登場する。人物の説明は省略して、石井がパリで出会った人物の名前をちょっとあげておく。
 宮城道雄、藤倉修一、火野葦平、川口松太郎、獅子文六、京マチ子、有馬稲子、岸恵子、丹阿弥谷津子(たんあみ・やつこ)、杉村春子、根岸明美、山口淑子、中川一政、小林秀雄、三島由紀夫、田中千代、越路吹雪、黛敏郎、森有正、秋山庄太郎・・・・・・
 著名人の名はまだまだ続くが、これくらいにしておこう。海外旅行が自由にできない時代とはいえ、ある種の特権を持っていた人たちは日本を抜け出し、憧れの、夢のパリに来て、石井を頼ったのだろうと思う。
 フランスだけでなく、イタリアでも出会いがあった。仕事でローマに来たとき、ホテルのロビーで知っている顔を見かけた。石井が音楽学校の学生だったころ、弟に「ガールフレンドだ」といって紹介された女性だった。親の遺産が入って、そのカネで彫刻の勉強をしにローマに来たという。その女性の名は、岩本梶子。のちに、夫となった川添浩史とともに六本木でイタリアレストラン「キャンティ」を開き、「六本木・夜の女王」と呼ばれたという人物だ。
 この雑語林で何回も触れているように、私は日本の外国料理店事情に興味があるので、キャンティという名は昔から心に残っていた。『キャンティ物語』(野地秩嘉、幻冬舎、1994年)を読んで、もっと知りたいと思ったちょうどそのとき、アジア文庫のあるすずらん通りの古本屋で、『キャンティの30年 1960〜1990』(川添光郎、非売品)を店頭で見つけ、神保町の恐ろしさというか奥深さを感じたことがある。
 この非売品の本に、石井好子がキャンティの思い出の文章を寄せている。それによれば、岩本梶子は弟のガールフレンドだったから知っているというだけではなく、石井の留学費用の元となった山中湖のあの別荘の、隣が岩本家の別荘で、お互い幼いころから交流があったのだ。
 1950年代のヨーロッパは、別荘を持っているような日本人が行きかう世界だったのだなあとつくづく思う。
 次回はカネの話。

 


アジア雑語林(236) 2008年10月8日

石井好子の外国 その2 ハワイ

 ハワイを訪れた有名人を写真で紹介した『憧れのハワイ航路』(恒文社21編集部著、恒文社21発行、恒文社、2001年)を読むと、戦後初めてハワイに立ち寄った芸能人は、田中絹代だとわかる。1949年10月、日米親善使節として渡米し、その往路と復路にハワイに立ち寄り、1950年2月に帰国した。大和撫子の代表のように思われていた女優が、ちょっとアメリカに行っただけで、サングラスの派手なアメリカ人風の服装で、ファンに投げキッスをする変身ぶりに対し、いっせいに非難を浴びたエピソードは有名だ。
 1950年になると、ハワイを訪れる芸能人が一気に増える。
 石井好子がハワイの空港に到着すると、出迎えに来ていたのは、服部良一、笠置シズ子、暁テル子、灰田勝彦、榎本美佐江といった有名人だった。空港からラジオ番組を放送するという企画だった。
 服部良一がハワイにいた事情は、笠置シズ子の「東京ブギウギ」がハワイでも話題になり、ハワイで興行していたということらしい。服部良一一行よりも数カ月早く、1950年4月には古賀政男一行がハワイに来ている。霧島昇、二葉あき子、小唄勝太郎、渡辺はま子、市丸といった歌謡ショーの一行だった。5月には、美空ひばりと川田晴久が来て興行をしている。これは二世部隊のチャリティーコンサートへの招待だった。ハワイを観光するひばりの映像は、映画「東京キッド」にごく一部挿入されている。50年7月には、山口淑子がアメリカ訪問の途中ハワイに立ち寄り、服部良一一行と合流している。
 ハワイ到着から10日後、石井好子はサンフランシスコに着き、学生生活とアルバイトの歌手生活が始まった。紹介者があって出会えたジョセフィン・ベーカーに、シャンソンを勉強したいなら、パリに行けといわれて、フランスに渡ることを決心する。実際に、石井がフランスに渡るのは、1951年12月だった。ニューヨークからの船旅だった。
 パリで歌手となって暮らす石井好子については、すでにいくらかは知っている。1950年代初めにパリを訪れた有名人の旅行記には、石井がよく登場していたからだ。パリ在住日本人が少なかった時代、多くの有名・無名人たちが、石井を頼ってパリに来たと思われる。
 以下、石井がフランスで交流があった人々の名を上げてみよう。フランスに日本料理店が一軒もなかった時代だ。
 パリ北駅で石井を出迎えたのは、朝吹登水子(1917〜2005)。実業家の娘で、1936年から39年までフランスで過ごし、戦後の50年になってまたフランスにやってきた。彼女が翻訳したサガンの『悲しみよこんにちは』が出版されたのは、1955年。その朝吹が出迎えに来ていたのには、理由がある。朝吹の兄であるフランス文学者朝吹三吉の妻は、石井の姉なので、ふたりは義理の姉妹ということになる。
 このあと、続々と有名人が登場するが、それは次回。

 


アジア雑語林(235) 2008年9月28日

石井好子の外国 その1 日本脱出

 戦後の日本人の外国体験については、フルブライト留学などアメリカに渡った人々の話はいくらか調べたが、それ以外の国についてはほとんど知らない。『戦後日本人世界各国留学事情』といった本でもあれば、それを読んで「問題解決」としたいのだが、私が読みたいような本は、たいていはまだ出版されていない。戦前期の留学や移民の研究はそこそこあるのだが、戦後となると研究書は少ない。そこで、ちょっと調べてみた。「フランス留学事情といえば・・・」と考えて、頭に浮かんだのは遠藤周作であり、石井好子である。
 まず手に入れたのは、石井好子の『私は私』(岩波書店、1997年)だ。シャンソンに多少知識があれば、この書名が有名な歌のタイトルからとったとわかるだろう。
 まずは、石井好子の略歴を紹介しておく。
 1922年、東京生まれ。祖父は逓信大臣久原房之助、父は経済界や政界で活躍した石井光三郎。1942年、東京音楽学校声楽科(のちの東京芸術大学)卒業。終戦後すぐにジャズ歌手となる。ジャズとシャンソンを歌い、結婚し4年後に離婚という生活をしていた石井は、別の世界に行ってみたくなった。以下、引用は『私は私』から。

 ―――外国へ行きたい、としみじみ思った。こんな狭くるしい島国の中で手さぐりをしながら歌っている身が、もどかしかった。こうしていても、月日はどんどん流れてゆく。こんな無駄な時間の中で青春がすぎてゆく事はがまんならなかった。

 それでフランスに行ったのだと思っていたが、ちがった。石井もアメリカに行ったのだと、この本を読んで初めて知った。フランスへの門は狭いが、アメリカならどうにかなるという留学事情だったらしい。この当時の留学記にはよくあることなのだが、留学にまつわるこまごまとした手続きに関しては、まったく記述がない。占領下の日本では、日本人が外国に出ることは基本的には許可されない。外務省の官僚などが、例外的に許可されるという渡航事情で、私費留学できた裏の事情は、当然ながら何も書いてない。留学の費用をどうやって作ったのかは、書いてある。「山中湖の別荘を売って留学費用を出してくれた」とあるが、その日本円を持っていくわけには行かないし、日本国外では当時の日本円などゴミでしかない。別荘の売却代金どころか、小額であれ日本円をドルに両替できるような時代ではない。そこに、権力者だけができるカラクリがあるから、正々堂々とは書けないのだろう。
 1950年8月1日、羽田空港から出た。つまり、安い船ではなく、高価な飛行機を使ったということだ。目的地はサンフランシスコのミュージック・アンド・アーツ・インスティテュート。パンアメリカンの機内には、「ハワイ公演に行く漫才の姉妹、二世部隊の小説取材に行かれる作家の今日出海さんがおられた」。
 「漫才の姉妹」については、詳細不明。今日出海がこのときの取材をもとに書いた小説は、単行本になっているかどうか不明だが、その小説が映画化されていることはわかった。なんと「ハワイの夜」だ。なんと、と驚いているのは戦後の映画史とか異文化交流に興味を持っている少数の者だけだろうが、「ハワイの夜」は、1953年の新東宝映画。出演は鶴田浩二、岸恵子など。ハワイでロケをしている。1950年に、小説の取材のためにハワイに行ったということは、自費ではもちろん、出版社のカネでも無理だし、許可も出ないということは、アメリカ政府か軍がバックについていた映画だとわかる。
 というところで、石井好子はまだハワイにも着けない。次回に続く。

 


アジア雑語林(234) 2008年9月18日

バンコクの伝説的ホテル「タイ・ソン・グリート」の、35年目の真実

 インターネットで昔のタイの情報をいろいろ探していたら、古いホテルの写真に解説がついた貴重なサイトを見つけた(http://www.oldbangkok.com/)。私の記憶にもある数々のホテルの写真を眺めていたら、そのなかに一軒だけ、異質のホテルの写真が載っていた。インターコンチネンタルとかリバティーホテルといった高級・中級ホテル群のなかに、室料の点でいえば、超々低級宿であるタイ・ソン・グリートの在りし日の写真が唐突に混じっていたのだ。
 バブル時代以前の1980年代の、たぶん前半にはもう消えてしまったオンボロ宿だから、活字資料が少しはあるかもしれないが、まさか映像が残っているとは思わなかった。
 Thai Song Greet Hotel という宿は、バンコク中央駅、通称フアランポーン駅を出てラーマ4世通りを左に曲がってすぐの、バス停そばに建っていた。駅近辺には文字通り、何軒かの駅前旅館があって、タイ・ソン・グリートもその一軒なのだが、世界を放浪する貧乏旅行者たちに、何かのきっかけでその名を知られていた。一階が飯屋で、階上が客室になっている典型的な旅社である。
 「バンコクに行ったら、タイソンに行け。旅の情報はそこで手に入る。知り合いに再会できるかもしれない」という話が、インドで、ネパールでささやかれ、ガイドブックなどない時代の旅行者は、「タイソンに行けば、あとは何とかなる」という思いで、バンコクにたどり着いたのである。インドを旅行していた私も、「バンコクに行ったら、タイソン」という情報をネパールで入手した日本人旅行者にくっついて、ドンムアン空港前からバスに乗り、安宿にたどりついたのである。1973年のことだ。
 その当時、大通りに面したうるさい部屋は25バーツ、裏側の少しは静かな部屋は30バーツだったはずだ。日本円で言えば、当時の30バーツは約450円である。学生アルバイトの時給が、150円から200円くらいの時代である。
 伝説的安宿タイ・ソン・グリートについては、『バンコクの好奇心』でやや詳しく書いているので、もっと知りたい人はそちらを参照されたい。インターネット上にも情報がいくらかある。
 さて、写真の話だ。ネット上の写真のおかげで、三十数年ぶりにタイ・ソン・グリートに再会できて、しばしセンチメンタルジャニーをしていたのだが、店頭の看板が気になった。記憶のなかのタイ・ソン・グリートの看板は、「Thai Song Greet」というローマ字と、「泰松」という漢字だったのだが、その漢字が確認できない。あまり鮮明ではない店頭写真だから、看板の文字もはっきりとは見えない。タイ語と英語と中国語の3言語で書いてある。
 英語で「THAI SONG GREET HOTEL」と書いてあるのははっきりと読める。
 漢字は「○○○大旅社」で、3文字の漢字があることはわかるが、それがどういう字なのか判読できない。泰松という2文字が入っているのか、いないのかもわからない。
 タイ語はあまり鮮明ではないので、タイとメールのやりとりをして解読した結果、タイ・ソン・グリートではないという驚くべき結果が出た。「ロングレーム・タイ・ソン・キット」なのだ。いままでずっと、宿の名前を間違えていたのだ。ロングレームは旅館、ホテルのことだからいいとして、タイは、タイ国のタイ。ソンは、意味はいくつかあるが、もっとも普通なのは、英語のstyleにあたる語だ。キットは「仕事」のことだが、社名や屋号の一部としても使う語らしい。私のタイ語力では、全体としてどういう意味かよくわからないが、仮の訳として、泰流旅社としておこう。
 どうにも理解できないのは、kit がなぜ greet というローマ字表記になったのかということだ。kriit が kit と表記することはあるが、その逆は考えられない。
 というわけで、誰かが greet とローマ字表記したために、外国人は皆「グリート」と間違った名で呼んできたのである。35年目に偶然わかった真実である。

 


アジア雑語林(233) 2008年9月8日

論文を読むのが、楽しい

 きっかけは、タイ音楽の歴史を探っているときだった。音楽の歴史を社会との関連で知るには、ラジオ放送の歴史を調べるのがいいと思い、インターネットで探ってみると、こういうレポートが出てきた。
 “Radio Broadcasting in the Days before the National Broadcasting Service of Thailand Come into Being ”
 A4に印刷して、10ページくらいになるタイ国ラジオ史の資料で、知りたかった芸能との関係は、「まあまあ」という程度だが、質と量のある資料なので、読んでいて楽しかった。
 そこで、本格的に、きちんとした資料を読んでみたくなった。ネット上にあまたある「感想」や「意見」や「引用」などどうでもいい。読みでのある論文を読みたくなったのである。従来なら、学術誌や大学の紀要などは、大学の図書館に出かけるか、たまたま神田の古書店で見かけたときに買うしかなかった。そうそう、先日、国立民族学博物館関連の論文集が文字通り山積みで売られていた。欲しい資料はもちろんあったが、それらを買い込むと、たちまち数万円にもなるので、買うのはきっぱりと諦めた。カネもないが、本の置き場所もない。
 インターネットの時代に入り、貧乏人でも学術論文が手軽に読めるようになった。“google scholar” を使うのだ。googleの最初のページにある「サービス一覧」をクリックして、次の画面左下の “google scholar 世界の学術論文を検索”をクリックすると、検索画面がでるから、キーワードを入れて検索すればいい。あるいは、国立情報学研究所(CII)のホームページから、CiNii(NII論文情報ナビゲーター)に入る方法もある。
 このとき注意することは、資料を探すだけならそのまま検索してもいいが、モニターで資料を読みたい場合は、「本文あり」を指定してから検索すること。不幸にして有料論文に当たってしまうこともあるが、その場合の対処は自分で決めてください。
 この雑語林では珍しくガイドのようなことをやってしまったが、基礎だけ教えれば、あとは自分の関心分野の論文を探せばいい。この論文遊びの欠点はただひとつ、紙とインクがすぐなくなることだ。30ページや40ページの論文などいくらでもあるから、次々に印刷していると、たちまちインクがなくなる。だからといって、まさかモニターで全文読む気にはなれず、しかたなく、プリンターを絶え間なく働かせている。
 というわけで、プリントしながら読んでいった論文のいくつかを紹介しておこう。結果的には、「東南アジア研究」(京都大学)に発表された論文が多かった。だから、のちには直接、「東南アジア研究」のサイトから入るようになった。そのほうが、目次もあって見やすく、なぜか我がパソコンの動きもずっと早い。 こんな論文が見つかりました。
■「植民地期インドネシアにおけるラジオ放送の開始と音楽文化 ―『NIROMの声』が描く音楽文化」田子内進 インドネシアの音楽に関心があれば、この筆者の名で検索すると、ほかにも論文がでてきます。
■「食物をめぐる人と自然の関わり ―東北タイでの事例から」藤田渡
■「シンガポールにおける寿司の受容 ―寿司のグローバライゼーションとローカライゼーションをめぐって」呉偉明、合田美穂
■「ミャンマーにおける発酵米麺(モヒンガー)の成分と微生物の特徴」池田昌代ほか
■「カンボジアにおける発酵米麺の製造方法と食し方について」池田昌代ほか
■「ラオスにおけるカオプン製造工程中の成分変化」加藤みゆきほか
■「タイにおける発酵米麺の改良とその特性」小林明奈ほか
■“The Vietnam War and Tourism in Bangkok’s Development , 1960−70 ” By Porphant Ouyyanont

 ほかにも、読みたい論文が見つかったが、60ページを越えるものは、印刷するのにまだためらいがある。

 


アジア雑語林(232) 2008年8月29日

大正時代の海外旅行事情 その2

 アメリカ入国の注意事項は、「見せ金」を用意しておくことだ、とある。出稼ぎ目当ての貧乏人を入国させないための措置で、3等室の客はとくに念入りに詮索される。だから、100円ほどの金を用意しておかないと、入国拒否にあうかもしれないというのだ。
 「見せ金」は、私自身もやったことがある。イギリスに入るときだ。イギリスの入国審査は今でもうるさいようだが、1975年当時もうるさかった。貧乏人がイギリスに出稼ぎに来たんじゃないかと疑って、旅行者を取り調べたのである。ヒースロー空港に到着した私は、まさに貧しい国から来た貧しい若者そのもので、イミグレーションで「持っているカネを全部見せないさい!」と言われ、厳しい取調べを受けた。
 そのときは、なんとか入国が許される程度のカネを持っていたのだが、その後のヨーロッパ大陸の旅で、資金のあらかた使ってしまった。フランスの港から船に乗り、再度イギリスに入るというとき、所持金不足により入国拒否にあう可能性が考えられた。船上で出会った同類の貧乏旅行者たちは、互いに助け合い、それぞれが持っている米ドルの現金をかき集め、バラバラに入国の手続きを受けに入った。数時間の間に、船内の一室に設けられたイミグレーションカウンターに行って、審査を受けるのである。ひとりが入国のスタンプを受けると、貧乏人用の客室に戻り、手元の現金は次に審査を受ける旅行者の手に渡り、あたかも自分のカネのような顔をして入国審査を受けたのである。
 さて、大正時代のアメリカ旅行に話を戻す。
 携行品について、興味深い記述があるので、そこだけ箇条書きにしてみよう。

・シャツ、ズボン下、ハンカチなどは、アメリカが本場だから、日本で買うより安くて高品質だから、わざわざ日本から持っていくことはない。服は、アメリカには既製服がいくらでもあって日本より安いが、注文服となると、日本よりもよほど高い。
・船中でかぶる鳥打帽と、燕尾服にあう帽子が必要。
・3等船室には毛布はないので、持参すること。
・万年筆を2本持っていくこと。サンエス万年筆がいい(広告が出ているから提灯記事だ)。
・宝丹(胸やけ、吐き気などの薬)、仁丹、胃酸、風邪薬、消化薬、便通剤などを用意する。

 携行品の説明で、また「スモーキング」に出会った。「また」というのは、以前に紹介した『ヨーロッパの旅』(辻静雄、保育社、1965)の携行品のなかに、「スモーキング」という語があり、「モーニング」の誤植かと思ったが、確認すると「スモーキング・ジャケット」なるものがあると知った。おおざっぱにいえば、フランスではタキシードのことを「スモーキング」というらしく、「仏和辞典」にも出ていた。ネット検索によると、まだ死語にはなっていないようだ。タキシードはもちろん、背広だって持っていない私なので(じつはネクタイも持っていない)、こういう服飾用語はまるでわからない。
 あの時代、アメリカのビザを、どのようにして取得したのかという具体的な情報はないが、どういう人物が、アメリカ入国を拒否されるかということが箇条書きで書いてある。多妻の者とか無政府主義者といった事柄を除けば、差別語とされるものばかりで、引用がはばかられる。さまざまな心身障害者が拒否されたのである。
 税関の説明で興味深かったのは、まず、これ。
 ラッコの皮を使った衣服は、輸入を禁止されている。
 ラッコの毛皮は、保温力に優れているために、高級毛皮として人気が高く、20世紀初めには絶滅寸前の危機に瀕していた。そこで1911年には、国際的な保護条約が結ばれている。このガイドブックの発売は1918年だから、まさに保護運動のさいちゅうだったことがわかる。
 タバコは紙巻なら300本まで持ち込めるが、酒はいっさい輸入できない。
 そうか、禁酒法の時代だったのだ。禁酒法は19世紀なかばから州ごとに制定されていたが、全国的な法律として施行されるのは、1920年以降である。
 最後に、ホテルと食費に関する金額を書き出しておこう。
 ホテル代は、シカゴやニューヨークなどの大都市では、一泊浴室付で5ドル以上。一週間で10ドルほどの下宿もある。食費は個人差があるが、朝食で75セント、昼食なら、1ドル50セント。夕食なら2ドルといったところだろうとあるが、ホテル料金と比べると食費が高い。しかし、フルコースの食事とワインの金額を想定しているなら、高額になるのは当然だろう。
 大正8年ごろ、1ドルは約2円だった。大正12年の帝国ホテルの宿泊費は、シングル8円、ツインが14円だから、ドルに換算するとそれぞれ4ドルと7ドルということになる。

 


アジア雑語林(231) 2008年8月18日

大正時代の海外旅行事情 その1

 海外旅行体験記というものは、明治初期から出版されているものの、詳しい旅行事情はよくわからない。出国までの手続きや、携行品の内容や、渡航資金はどのくらいかかったかといったことがよくわからない。そこで、ちょっと資料を探してみると、たまたま『米国旅行案内』(上村知清、日米図書出版社)という本が見つかった。大正8年の出版だから、1919年ということになる。これが最初の旅行ガイドではないだろうが、参考になりそうなので、内容を紹介してみよう。
 本題に入る前に、書誌学的な話題を書いておこう。次のように、ややこしい事情があるからだ。国会図書館のリストでは、『米国旅行案内』という書名で検索すると、次の4冊が収蔵されているとわかった。出版年の古い順に書き出すと、次のようになる。

1、上村知清著        新光社 大正8年 (1919)
2、  〃      海外旅行案内社 大正13年(1924)
3、  〃            〃     昭和2年 (1927)
4、滝本二郎著  欧米旅行案内社 昭和5年 (1930)

 私が読んだ日米図書出版社版は国会図書館にはないようだが、同じ著者が同じ年に同じ書名の本を出版している事実は、興味深いが深入りしない。おそらく、同じ内容の本だろう。
 私は、この本を古本屋で手に入れたわけではない。ゆまに書房から2007年に復刻されたものを読んだのだ。復刻版でも1万4000円もする本だから、私にとっては珍しいことに、図書館で借りて読んだ。
 では、さっそく、海外旅行の準備に入ろう。
 旅券取得 明治33年改正の海外旅券規則による。
 申請書に記入するのは、次の事項。

 1、氏名
 2、本籍地
 3、身分(これは、戸主とか長男といった区別)
 4、族称(皇族、華族、士族、平民の別)
 5、年齢
 6、職業
 7、旅行地名
 8、旅行の目的

 この申請書に、戸籍謄本をそえて、それぞれの地方の役所に申請する。手数料は収入印紙で50銭。当時の50銭がどのくらいの価値があるのか調べてみたら、12色のクレヨンが30銭、そば一杯が10銭弱だから、特別に高額というわけではない。いまのパスポート代金よりも、むしろ安いくらいだ。
 給付されるまでにかかる日数は書いてないが、給付されてから6カ月以内に日本を出ないと無効になる。この当時の旅券は現在の数次旅券とは違い、帰国するまで有効の一次旅券だ。
 現在と大きく異なるのは、保証人が必要なことだろう。保証人は、渡航者の旅費全般に責任を持つ。旅先で無一文になったとか、病気で帰国できない、客死したといった場合に発生する費用のすべてに責任を持つという保証書だ。
 船旅 南ルートであるハワイ経由なら17日間、シアトルに行く北ルートなら13日間ほどで到着する。運賃は横浜からシアトルまで、1等600円、2等350円、3等100円。当時、サラリーマンの初任給が30〜40円くらいで、大正9年の小学校教師の初任給が40〜55円だったことを考えれば、船底の地獄部屋のごとき3等室ならば、アメリカ旅行が1960年代よりも割安だったと考えられる。
 驚くほど高いのが、アメリカの入国税だ。乗船券購入時に支払うことになっているが、その額は、8ドル(16円)。船賃が100円で、入国税が16円は高い。ただし、60日以内にアメリカを出国する者は、払い戻しの制度がある。

 


アジア雑語林(230) 2008年8月10日

英語を学ぶ目的は

 今回は、『英語ベストセラー本の研究』(晴山陽一、幻冬舎新書)を点検しながら、日本人が英語を学ぶ目的について考えてみたい。
 晴山氏によれば、1949年から使われ始めた英語の教科書『ジャック・アンド・ベティー』には序論「なぜこの書はつくられたか」があるそうだ。
 その序論で、英語教育の目標について、次のような項目があるという。
   1、英語で考える習慣をつけること。
   2、英語の聴き方と話し方とを学ぶこと。
   3、英語の読み方と書き方を学ぶこと。
   4、英語を話す国民について知ること。特にその風俗習慣および日常生 活について知ること。
 これらの項目について、晴山氏は、こう書いている。

 「こうして見てくると、日本の英語教育の目標について、実は六十年以上前に立派な模範解答が示されており、以後の英語教育の迷走ぶりは、この模範解答に対しまるで駄々っ子のように、逡巡し抵抗を繰り返してきた歴史であるように思われる」

 晴山氏の文章の特徴は、表面上はわかりやすそうな文章でありながら、じつは何を言いたいのか、読者にはなかなか伝わらない舌足らずな文章だということだ。上に引用した文章で言えば、「駄々っ子のように、逡巡し抵抗してきた」とは、具体的にどういう主張が誰によってなされてきたのか、詳しい説明がいっさいない。書いている本人はわかっているのだろうが、読者には伝わらないという個所がほかにいくらでもあるが、ここでは触れない。
 さて、この序論は、晴山氏の言うように、日本人に対する英語教育の目標として、はたして「立派な模範解答」なのだろうか。別の言い方をすれば、日本人が英語を学ぶ目的の「立派な模範解答」なのだろうか。
 英語教育の素人である私の直感でいえば、日本人にとって英語とは、戦前は「イギリス人のことば」であり、戦後に「アメリカ人のことば」になった。実質的にはアメリカ軍である進駐軍の占領下では、英語を学ぶということは、アメリカ人が日本人に見せたがっているアメリカの素晴らしさを学ぶことであったはずだ。
 いまでもそう信じている日本人は少なくない。やたらに「ネイティブの発音は・・・」などと言うようなことを言いたがる人たちだ。英会話学習書の重要な買い手群(大して読まないだろうから、「読者」ではないだろう)は、そういう人たちだろう。アメリカ人のように英語を発音できるようになれればいいなとつまらん憧れを抱いているから、いつまでたっても話せるようにならないのだ。英語学習書がたえず売れ続けている理由は、それがダイエット本と同じだからである。人々は「本を買えば効果がある」と思い込んでいるから、次々と本を買うのである。
 戦後の英語教育史上、「アメリカを学ぶための英語」という時代は、もうとっくに終わっている。
 英語の教科書を編集している友人によれば、もう何年も前から、英語の教科書にアジアやアフリカの話が出てくるようになって、アメリカやイギリス一辺倒という時代は終わり、「英語の教科書も、なかなかやるな、という時代ですよ」という。
 日本の外務省でさえ、日本人の名前のローマ字表記を、以前は西洋人のサル真似をして名・姓の順で書いていたものを、日本式に姓・名に改めてパスポートに記入するようにしている。
 英会話学校であれ、テレビの英語講座であれ、英語教師といえばいつも白人という時代が、少しずつ変わりつつある。
 戦後の英語ベストセラー本の流れをしっかりとつかんで論評するなら、このポイントをしっかりと押さえておかなければいけないと、英語教育の素人は思うのである。
 私なら、こう書く。
 「『ジャック・アンド・ベティー』の序論は、英語がアメリカ文化を学習する手段であった時代の歴史資料としては重要であるが、現実的にはもはや時代遅れである。英語は、英語を母語とする人たちの文化を学ぶためだけの言語ではない。英語は、多少であっても英語を理解できる、世界のありとあらゆる人たちとの意思疎通の道具であり、情報を集め、出す道具のひとつと考えられるようになった。それが、日本の戦後英語教育史の大きな変化である」

 


アジア雑語林(229) 2008年8月2日

『日米会話手帳』に関して、またまた。これで3度目だ。

 日本人の外国語学習史に興味があるので、その関連の本を折に触れて読んでいる。今年の春に読んだのが、『日本人と英語 ――もうひとつの英語百年史』(斎藤兆史、研究社、2007)で、日本人と英語に関する歴史を解説する本だから、『日米会話手帳』が当然ながら登場する。で、残念ながら、版元が正しい「科学教材社」ではなく、あまたの本が間違えている「誠文堂新光社」になっている。著者が英語史の専門家である東京大学教授であり、版元が英語の本の研究社だから、この間違いはイタい。
 『日米会話手帳』については、すでにこのアジア雑語林の103199で触れているから、未読の方は、まずその文章を読んでください。
 さて、今日だ。外国語学習史の関連で、『英語ベストセラー本の研究』(晴山陽一、幻冬舎新書)を買った。売れているらしく、2008年5月30日第1刷で、6月10日には2刷になっている。私はその2刷を買った。
 この本でも、当然『日米会話手帳』が紹介してあり、「あんたもかい!」と言いたくなった。ここでも、版元を「誠文堂新光社」にしている。それだけの間違いなら、いままでの本と同じあやまちなのだが、この新書の場合は問題が多すぎる。
 すでにこのアジア雑語林で書いたように、『日米会話手帳』は古本屋を探しても見つからないし、国会図書館にもない。だから、『日米会話手帳』を写真で全ページ紹介し、出版にいたるいきさつを解説している『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日文庫)を参考書にするしかない。
 『英語ベストセラー本の研究』も、やはり朝日文庫を参考資料にしたと明記し、引用もしている。しかし、それならば、版元を間違えるはずはない。『日米会話手帳』の著者は誠文堂新光社の社長である小川菊松だが、なぜ自社から出さなかったのかという話は、資料にしたという朝日文庫にちゃんと書いてあるのだ。朝日文庫を「参考にさせていただいた」と書いているが、どうやら読んではいないようだ。
 また、「誠文堂新光社は科学系書籍の出版社であったため、物資の不足していたこの時期に、なお大量の紙を保有していたのも幸運だった」と書いているが、「科学系書籍の出版社」ならば、なぜ大量の印刷用紙が割り当てられていたのか、まったく説明がつかない。著者は納得して原稿を書いたのだろうか。
 正解は、こうだ。誠文堂新光社は戦時中、軍国賛美の本を多く出していたので、軍部に優遇されていた。そのせいで、大量の用紙を割り当てられていたのだ。しかし、戦時中のそういう活動のせいで、社長の小川はGHQにより公職追放にあうのである。
 『英語ベストセラー本の研究』の著者が準備段階でしておくべきだったのは、英語関連本であるかどうかに関わらず、まず戦後のベストセラー全体の勉強をして、それから英語関連本に手を着けるべきだった。著者は元編集者なのだから、なおさらそのことに気がついてほしかった。英語関連のベストセラーなら、この『日米会話手帳』や『英語に強くなる本』(岩田一男)に関しても、例えば『ベストセラーの戦後史』全2巻(井上ひさし、文藝春秋、1995)など、詳しく書いてある本は多数ある。
 『英語ベストセラー本の研究』は、どうも信用ならないのではないかと思い始めると、校閲しながら読んでしまう。すると、すぐにおかしな個所が見つかった。
 「一九四六年二月に、「カム・カム・エヴリバディ」の歌声で有名な、平川唯一の『NHKラジオ英会話』の放送がスタートした」とあるが、1946年にはまだテレビはないのだから、番組名にわざわざ「ラジオ」と明記するわけはない。正しい番組名は「英語会話」である。
 『みんなのカムカム英語』(平川唯一、毎日新聞社、1981)から、「kitty, kitty. Come on, kitty. Come here.」という例文を引用しながら、「私が驚いたのは、ここにはトムもメアリーも登場しないことだ。出てくるのはすべて日本人であり・・・」と書いている。ということは、このキティーちゃんは日本人なんだ。
 出版をよく知っているはずの元編集者が書いた本にしては、あまりにずさんである。
 驚いたことに、AMAZONの読者評価ではかなり好評なのだが、読者もきちんと読まずに評価したのだろうか。

 


アジア雑語林(228) 2008年7月23日

1952年生まれの旅行者

 すでに死んでしまった8人の旅行者たちの生涯を紹介した『ラストシーン』(小林誠子、バジリコ、2007年)を読んだ。登山家の若山美子以外、植村直己や上温湯隆など、著作を通じてではあるが、よく知っている人ばかりだ。だから、単なる、「生涯のあらすじ集」でしかないこの本を高く評価することは出来ないし、引用のしかたや、写真のクレジットなど、執筆技術の点でも問題の多い本だと思う。
 まあ、そういうことはともかく、登場人物の年表を眺めていて、あることに気がついた。サハラをラクダで横断しようとして渇死した上温湯隆(かみおんゆ・たかし)と、ロシアでクマに襲われて死んだ写真家星野道夫は、ともに1952年生まれなのだ。星野は9月、上温湯は11月のうまれだ。なぜ、そんなことが気になったかといえば、同じ年の4月に私が生まれているからだ。
 ただし、同年生まれという親近感はない。ただ、同じ時代を生きたので、時代背景を共有できることに興味を覚えたのだ。
 上温湯は、高校を中退して働いてカネを作り、1970年、17歳で一度目のアジア・アフリカ方面への旅に出た。帰国したのは、72年だ。
 上温湯が資金作りに励んでいるころ、慶応高校の生徒だった星野は、アメリカ旅行に行っている。1969年のことだ。『ラストシーン』から、その部分を引用してみる。

 「大学生になってアラスカを目指した星野だが、高校二年の時アルバイトで貯めたお金では足りず、父に資金援助をしてもらい横浜港から『アルゼンチナ丸』に乗り、アメリカ四十日間バスやヒッチハイクで一人旅をしている」

 この本の別の個所では、アメリカだけではなく、メキシコ、カナダも旅していることがわかる。
 さて、例によって、駆け出しの海外旅行史研究家としては、気になることがふたつある。
 ひとつは資金のことだ。1969年当時、あるぜんちな丸(ひらがな表記が正しい)の横浜・ロサンゼルス間の片道運賃は、最も安い大部屋で12万2400円。往復だと1割引きになり、約23万円。だから、総旅行費は30万円以上と考えられる。1969年ごろといえば、学生アルバイトの日給が1000円くらいの時代だ。高校をやめて本格的に働いた上温湯は、香港までの切符を買ったらそれほど残らなかった。大学の夜間部に入学し昼間働いていた鈴木紀夫(小野田氏発見者で有名)だって、1年かかってやっと作った20万円が、1969年の初旅行の全資金だった。ちなみに、星野の5年前におなじあるぜんちな丸に乗ってロサンゼルスに向かったのが植村直己だ。その植村も、片道の運賃分しか稼げなかった。そういう時代背景を考えれば、「父に資金援助をしてもらい」というのが、実際は、「ほとんど親に出してもらい」なのだろうと推察される。
 もうひとつの問題は、時間だ。横浜・ロサンゼルス間は船で15日かかる。もし、往復とも船を使ったとすれば、全日程40日間のうち、30日は船上にいたということになる。それで、アメリカ、メキシコ、カナダをヒッチハイク? 帰路を飛行機にすれば、日程的にやや楽になるが、資金的につらくなる。
 星野のこの旅が架空だろうと言いたいのではない。大金を使った高校生のあわただしい旅だなあと思っただけだ。
 ひがんで言うわけじゃないが、外国に行きたいと思っていたこの前川は、なかなかカネがたまらず、資金援助してくれるような父もおらず、1973年まで資金稼ぎが続いてやっと出国できたのだ。

 


アジア雑語林(227) 2008年7月15日

不敬罪本の謎

 2000年に出たその本を、アジア文庫で見た記憶はあった。それ以外の記憶はないのだが、おそらくページをパラパラとめくって、「まあ、買う必要のない本だな」と結論を出し、本を平台に戻したのだろう。
 その本、『チェンマイ田舎暮らし ――微笑の国で年金生活を充実させる』(高橋公志、マガジンハウス、2000)をめぐる不敬罪騒ぎを知ったのは、さて、いつだったか。タイ王室を侮辱した内容だということで、タイ警察が捜査を始めたということだったか、詳しくは何も覚えていない。日本で発売している本だから、タイの司法がいきなり発売中止という処分が下すことはないが、日本側としても自主規制をして発売中止、すぐに絶版にしただろうと思った。不敬罪を不快には思うが、その本に興味がなかったから、その後のいきさつを調べる気はなかった。
 ところが、ちょっと前のこと、例によってインターネット古書店の販売目録を読んでいたら、この本がリストにあった。いわくつきの本なら、とんでもない高値がついているに違いないと思ったら、普通の古書価格だ。つまり、捨て値だということだ。それならばと、ついつい調子に乗って、カチッとクリックして購入してしまった。
 数日後、送られてきた本を読んでみたのだが、不敬罪として告発されそうな記述はいっさい見つからないのだ。もしかして、削除して「2版」あるいは「2刷」にしたのかと思い奥付けを確認すると、「二〇〇〇年八月二四日 第一刷発行」になっている。初版初刷りのままということだが、これはいったいどういうことだ。
 著者がタイで不敬罪に問われたその版元、マガジンハウスがとる態度は、次の3つだろう。
 1、不敬罪など無視して、そのまま発売を続ける。
 2、絶版にする。
 3、手直しして、いわば改訂版を出す。
 タイでは売らないということにすれば、1の態度をとることも出来るが、同社の雑誌などタイ取材が一切禁止される事態になれば、損害は大きい。よって、態度1は、ない。
 もうある程度売れたあとだろうから、今後急激に売れないから、多額の費用をかけて改訂版を出すくらいなら、絶版にするという態度2が、適正な判断だろうと思う。
 ところが実際は、不敬罪になりそうな記述を削除して、しかし、奥付けはそのままで増刷したらしいのだ。「まだまだ売れるぞ」と版元が判断したようだ。アジア本の世界を知っている出版人なら、おどろきの判断じゃないですか。
 さて、ここから先は、ネット情報をもとに調べた結果だ。
 問題となった個所は、ネット上で読めた。犯罪となるかどうかはともかく、品のない記述ではある。著者は、2003年2月にタイ当局により逮捕され、7月に禁固1年6月、執行猶予2年の判決が下されている。
 ということは、発売後3年たって、告発されたわけで、そのころ初版がほぼ売り切れていたので、手直しして再販したというのであれば奥付けで「2刷」になっているはずで、よくわからない。某有名中堅出版社は、カバーに「改訂版」と印刷し、再販本をそのまま売っていたのは知っている。本は初版のままの奥付けだった。改訂版じゃなくて、改装版だよ。
 そうそう、いま思い出したが、“The Devil‘s Discus”も、確信はないが、たぶん不敬罪になったんじゃないかなあ。日本語版は『タイ国王暗殺事件』(レイン・クルーガー著、徳岡孝夫訳、エール出版、1974年)で、定価1000円は、高い。ちなみに、この原稿執筆時にアマゾンでは1冊出品されていて、売値は2万1000円。
 私はだいぶ前に、早稲田の古本屋で買った。1000円だった。読んでみれば、1000円以上だして買う価値はないが、読みたくなるタイトルではある。

 


アジア雑語林(226) 2008年7月7日

柳の下のカレー本たち

 もう何年も前からカレーとラーメンがブームのようで、専門店だけでなく、出版部門でもカレー本やラーメン本があまたある。しかし、カレー本もラーメン本も、内容はほとんど大差なく、店ガイドと既刊書の焼き直しという、あいも変わらぬ「柳の下のドジョウ本」からほとんど抜け出していない。カレーが好きな日本人が1億人いても、カレーについて深い興味を持っている人は数百人もいないらしい。
 自称「カレー好きライター」はひと山いくらで売れるほどいても、新たな資料を見つけて分析する者もなければ、周到なフィールドワークで新境地を切り開く者もいない。読者が「食べる」ことにしか興味がないから、出版側も粗製乱造を繰り返しているのだろうか。「森枝卓士を越えてやろうじゃないか」と、果敢に挑戦するライターがいてもいいと思うが、登場するのは焼き直しばかりだ。
 こういう出版状況が腹に据えかねて、『アジア・カレー大全』(旅行人)という画期的な本を企画したのだが、華々しく売れるという状況にはない。「自称カレーマニア」たちでさえ、韓国や中国のカレー事情にはまるで関心がないらしいのだ。食文化研究というのは、スポーツと並んで、外見は派手だが、研究書の少ないマイナーな分野なのだ。そういえば、マンガもファンは多い世界だが、読者の数に比べて研究者は少ない気がする。とくに、外国のマンガ事情に関心がある人が少ないらしい。カレーも、ラーメンも、マンガも、日本が世界一だと思っていて、日本国外への関心がないのだ。
 日本語の本にはもはや期待ができないから、英語のカレーの本を探してみた。アマゾンなどで探してみて、まっさきに気がついたのは、「Curry」さんという姓の人が多いことだ。「curry」で検索すると、著者名のCurryでヒットしてしまうのだ。
 カレー氏に驚いたあとで気がついたのは、英語でもカレーの本が多いことだ。タイやマレーシアの書店で、英語の本をチェックしてみても、「カレー」や「インド料理」に分類できる本が数多くあることに気がついた。カレーは日本だけのブームではなく、英語出版物の世界でも、どうやらブームらしいのだ。
 「もしかして、おもしろいかもしれない」と思って注文した本が届いた。
 Dave Dewitt  & Arther Pais “A World of Curries ―― From Bombay to Bangkok , Java to Jamaica , Exciting Cookery Featuring Fresh & Exotic Spices” Little,Brown and Company,1994,Canada
 約19センチX23センチと、正方形のような本で、242ページ。参考文献や索引のページも多く、しかし、西洋の料理書では珍しくないのだが、カラーはもちろん白黒写真さえまったくないという質実剛健ぶりだ。世界のカレーを、料理法つきで150種を紹介しているらしい。
 タイの食文化については、当方、少しはわかるから、内容の信憑性を確かめる上で、さっそく読んでみた。

「タイの家庭やレストランでは、野菜や果物を彫刻した花を料理に添えるのは、ごく普通のことである」

 スイカで作った花などを添える高級レストランはあるが、それが普通のレストランではないし、ましてや「家庭で」となれば、よほど特別な家庭である。
 料理法を読んでみると、「カレーペーストを、オリーブ油でよく炒め」などと書いてある。タイ人がオリーブ油を使うわけはない。どうしてこういうおかしな文章を書いているのかいぶかしく思い、調べてみた。どこの誰だかわからないが、トミー・タンとかいう料理人が書いたタイ料理の本から、料理法を紹介したようだ。その料理人の本には「タイ人はオリーブ油を使わないが・・・」と断った上ではあるが、タイ料理には使わないハーブ類も使った創作タイ料理本らしい。つまり、「タイ風創作料理」を参考資料に使ったために、ヘンテコな記述になってしまった。著者は、いったい何を考えているのだろう。
 つまりは、世の料理本がそうであるように、読者の家庭でどう再現するかが最重要課題であって、例えば、それぞれの地で「カレー」がどう作られ、どう食べられているかなどといったことは、関心外なんだとよくわかる。「ウチ」にしか興味がないのが、お料理研究家とその読者なのだ。自分や自民族の舌と台所と腕前に合わせることが目的だから、食文化の資料にはまったくならない。
 お料理本や店ガイドをもちろん否定はしないが、そればかりじゃなあ・・・・。

 


アジア雑語林(225) 2008年6月29日

1965年ごろのヨーロッパの日本料理店

 前回の原稿をアジア文庫に送っってすぐに、知りあいから「日本人の海外旅行事情研究の参考になれば・・・」ということで、『ヨーロッパの旅』(辻静雄、保育社カラーブックス、1965年)をいただいた。
 日本で海外旅行が自由化されたのが1964年4月だ。だからといって、この本を持ってすぐヨーロッパにいける金持ちなどごくわずかしかいなかったが、サラリーマンがフェラーリの本を買うような心境と同じようなもので、憧れの気持ちでこの本を買ったのかもしれない。若いサラリーマンの月給が2万円程度の時代に、日本からヨーロッパまでの航空運賃は42万円である。月給の20倍と考えれば、現代の若いサラリーマンにとっては、500万円といった感じか。これに宿泊費や交通費や食費などがかかるから、中古の「フェラーリ」なら、けっして誇張した比較ではない。
 この本の、カラーページの観光ガイドの部分は、まるでおもしろくもないが、巻末の情報ページの「荷物」とか「ホテルの利用法」(やっぱりビデの話が出てきた)といったミニ情報のほうが、時代を感じさせておもしろい。
 この本の最後のページに、「さすが」と言いたくなる記事が載っていた。巻末資料として載っているのが、「ヨーロッパ各地にある日本料理店・中華料理店の名称と所在地」という2ページのリストだ。なぜこれが「さすが」かといえば、理由はふたつある。ひとつは、著者が元新聞記者にして料理研究家であるということだ。英語かフランス語のガイドブックの転用(盗用?)かもしれないが、リストを作る行為は、やはり素人ではない。「さすが」の、もうひとつの理由は、やはり日本料理店か、せめて中華料理店の紹介が、当時の日本人旅行者には絶対に必要だと考えたのだろう。西洋料理のレストラン紹介は一切ないが、日本と中国の料理店は紹介しないといけないというのが、1965年なのだろう。
 さて、この記事を読むと、1965年のイギリスにすでに日本料理店があったことがわかる。前回のこの雑語林で、イギリス最初の日本料理店は1972年だと書いたのは、どうやら誤りらしい。
 ヨーロッパにおける最初の日本料理店はいつ、どこにできたのかという問題には、私はほとんど興味はないが、行きがかり上、この『ヨーロッパの旅』にでている店を紹介しておこう。

  ・フランス パリ       「京都」・・・クイーン・エリザベス・ホテル内
  ・イタリア ローマ      「東京」・・・Sardegna
  ・イギリス ロンドン     「ニッポン・クラブ」・・・Irving Street
  ・ドイツ ハンブルグ     「湖月」
       デュッセルドルフ  「トーキョー」
       ベルリン       「トーキョー」

 中華料理店リストは省略するが、国名と掲載している店舗数だけ紹介しておこう。

  ・フランス     3店
  ・イタリア       4店
  ・イギリス     5店
  ・デンマーク    2店
  ・スイス      4店
  ・ドイツ      15店
  ・オーストリア   1店

 このリストがどういう方法で作成されたものかはまったく不明なので、リストそのものに対して論じることは、あまり有益ではないとは思うが、ドイツの15店は多いような気がする。もちろん、フランスに中華料理店が3店しかないとは思えないが、対日本人読者ということを考えると、駐在員が多いドイツを厚く紹介しておこうと考えたのかもしれない。
 ヨーロッパにおけるレストラン事情は、調べる気なら資料はいくらでもありそうなので、私は手を出さない。ただ、前回の記事の訂正と追加情報という意味で続編を書いた。
 そうそう、もう一点。巻末のミニ情報に「無銭旅行」という項目があり、その参考資料として、「ヨーロッパ一日五ドル旅行という本まであって(邦訳あり)・・・」という記述もある。辻静雄といえば、調理師学校の「おえらいさん」というイメージがあるが、この本を書いたときはまだ30歳をちょっと過ぎたころで、著者もまだ日本も若く、金銭的にも豊かではなかったはずで、さしもの辻氏も『ヨーロッパ1日5ドルの旅』(社会評論新社、1963年)という翻訳書にも目をとおしている。と、まあ、旅行史の話を始めるときりがないので、ここまで。


アジア雑語林(224) 2008年6月21日

最初のマクドナルド

 『マクドナルドはグローバルか』に、世界各国のマクドナルド初出店年リストが出ている。ながめているだけで、世界の経済や文化が見えてくるようで、興味深い。このリストの元の情報源は、もちろんマクドナルドだが、それを1996年の「ニューヨーク・タイムズ」が報じ、その記事を本書に載せたわけで、私のこのコラムは4度目の引用ということになる。引用に頼らず、マクドナルドが持っている情報を直接紹介しようと思ったのだが、「だいたい、このころ」というあいまいな時代しか載っていないので、しかたなく、引用の繰り返しで紹介する。

1955 アメリカでフランチャイズ開始
1967 カナダ
1971 日本、オーストラリア、ドイツ
1972 フランス
1973 スウェーデン
1974 イギリス
1975 香港
1976 ニュージーランド
1979 ブラジル、シンガポール
1981 フィリピン
1982 マレーシア
1984 台湾
1985 タイ、メキシコ
1986 トルコ
1988 韓国
1990 中国(しんせん)、ロシア
1991 インドネシア
1992 中国(北京)、ポーランド
1993 イスラエル
1994 サウジアラビア
1995 南アフリカ
1996 クロアチア

 香港のマクドナルドは、75年か。九龍の、ネイザンロードからちょっと入ったところに、赤地に黄色いM字の看板が見えたときのことを、よく覚えている。なぜか、珍しくミルクティー注文した。ティーバッグではあるが、インドのチャイのような濃厚な風味だったのが意外で、しかし、イギリスの植民地だからなあと納得したことなどを、いま思い出した。香港1号店は、香港島のコーズウェイ、パターソン通りにできたから、私の定宿近くにあった店は1号店ではないようだ。
 このリストを読んでいて、「あれ?」と思ったのが、イタリアが入っていないことだ。そこで、マクドナルドの情報をイタリア語で検索したら、1号店は1985年だとわかった。それなのに、なぜ「ニューヨーク・タイムズ」の資料にでていなかったのだろう。その事情はわからないが、イタリア最初のマクドナルドはローマの、かのスペイン広場の店で、マクドナルドの出店がのちのスローフードの運動に結びついていくわけで、「マクドナルドに見る世界の現代史」という研究は、何人もがすでにやっていても当然というくらい興味深いテーマだ。
 例えば、韓国1号店は1988年で、この年は「パルパル」(88の意味)がキャッチフレーズで、ソウル・オリンピックが行なわれた年だ。1990年の中国(しんせん)も、当時の政治や経済事情と深く関連しているにちがいない。ケ小平がしんせんを訪問した92年から開放政策が加速し、この年、北京にマクドナルドができる。
 1971年に日本に第1号店が出店したことに、政治や経済上の、なにか特別な意味があるのかどうかわからないが、状況証拠のような傍証をあげておく。1970年の大阪万博時代と、深い関連があるような気がするのだ。1970年に、「ダンキンドーナッツ」が銀座に第1号店を出店している。大阪の万博会場では世界各国の料理を出すレストランが営業していた。「ケンタッキー・フライドチキン」は、万博会場内と、名古屋市内の両方で営業を開始している。1971年には「ミスタードーナッツ」が大阪府に出店し、そして銀座にマクドナルド第1号店が出店する。
 こういう外食産業史を見ていけば、マクドナルドが1971年に出店したのは偶然ではなく、なにか経済的、あるいは外交的必然があったような気がする。興味を持った人は自分で調べてみればいい。卒論程度の内容はあるテーマだろうと思う。あるいは、最近はやりの粗製乱造新書向け企画か。
 さて、おまけの話だ。マクドナルドの足跡を追っているうちに、イギリスのインターネット・サイトで、こんなすごいサイトに出会った。
 “THE HISTORY OF THE 'ETHNIC' RESTAURANT IN BRITAIN” 
 これは主に、イギリスにおけるインド料理店の歴史を追ったものだが、ここでは小さな話をしておこう。
 イギリス最初のタイ料理店は、1967年の「バンコク」という店だそうだ。以後、次々と開店し、現在(いつが、現在なのかわからないところがネット情報の欠点だ)600店以上のタイ料理店がイギリスにあるそうだ。1973年に「S&P」出店という情報があるのだが、同名のチェーン店がタイにあるのだが、あの店のことだろうか。
 さて、イギリスにおける日本料理店事情はどうかというと、最初の店は「アジムラ」という店で、1972年だという。現在150店あるというから、タイ料理よりも出店は遅く、総数も少ない、つまりタイ料理よりもマイナーだということがわかる。まあ、このあたりの事情は、詳しく詰めないといけない事柄もあるだろうが、一応、情報としてお伝えしておく。

 


アジア雑語林(223) 2008年6月13日

東アジアのファーストフード店、再考

 前回まで書いてきた東アジアのファーストフード関連で、ずっと前から読もうと思っていた本にやっと手をつけた。『マクドナルドはグローバルか――東アジアのファーストフード』(ジェームズ・ワトソン編、前川啓治・竹内恵行・岡部曜子訳、新曜社、2003年、2800円)は、出たばかりのころ書店で見つけて読みたくなったが、まあ、2800円の本だから、そのうち古本屋で見かけたら買おうかと考えているうちに時間が過ぎ去り、しかし、古本屋で見かけるのはいつも『マクドナルド化する社会』(ジョージ・リッツァ、早稲田大学出版部)ばかりで、しかたなくこれも読んでみたが、イマイチ面白みに欠けていた。
 すでに何度も書いてきたように、『ファーストフードマニア』が欲求不満を起こさせる本だったので、すぐさま『マクドナルドはグローバル化』が読みたくなった。編者はハーバード大の教授ということだが、まったく知らない名だ。しかし、執筆者のなかに、『甘さと権力』などで知られるシドニー・ミンツや、ハワイ大学東西センター研究員のデビッド・ウーなど、昨年秋にペナンのシンポジウムで会った研究者の名がある。また、協力者リストにも知り合いの名もあり、もっと早く読んでおけばペナンでいろいろ教えてもらえたのにと後悔。
 さて、この本、傑作だ。おもしろい。『ファーストフードマニア』に関して書いた私の不満が、この本を読めばかなり解決できる。アメリカ生まれのマクドナルドが、東アジアの地で活動していくなかで、どんな文化的衝突があったのかというテーマで、北京、香港、台北、ソウル、日本の各事情を研究者が書いた論文を集めてある。私好みの、異文化衝突、文化変容の本だ。研究者たちが現地で調査したのは、1990年代なかばで、英語の原著が出版されたのが1997年。日本語版が2003年で、私が読んだのが2008年だから、約10年のタイムラグがあることになる。東アジアの大都市でこの10年の変化は著しいだろうが、それはわかった上で、楽しく読んだ。
 付箋だらけになった本だから、興味深い部分の紹介を始めるときりがない。だから、一点だけに触れることにしよう。私がかねがね気にしていたのは、マクドナルドの客は、自分で食器を片付けるだろうかというテーマだ。私は、「日本ではおおむね片付けるが、東南アジアでは片付けないのが普通」と推測している。
 この本では、次のように説明している、北京では、西洋人やアメリカ帰りの中国人が食後、自分で食器を片付けるのを一般客が見て、そういうものだと学習した。それが「西洋文明」なのだと理解したわけで、文明人らしい振る舞いとして、カネを持った中国人が自分で食器を片付けているというのだ。中国語で、「洋」と「土」という表現があり、「洋」は西洋で、プラス評価。「土」は地元、土地、つまり中国的な事柄を意味し、マイナス評価だという。マクドナルドは洋なので、「うまいとは思わないが」(中年の中国人の感想)ハンバーガーなるものを食べていると、調査者に答えている。
 北京のマクドナルドは1992年の開店だが、香港では75年の開店なので、もはや特権階級の中級レストランではなく、客は食器を片付けないという習慣がすっかり定着しているのだという。人件費節約のため、店側は客に食器やゴミを片付けてもらおうとキャンペーンを繰り返しているが、いっこうに効果がないらしい。北京と違い、「食器を自分で片付ける」という行為が、ステイタスシンボルにはならないのだ。
 こうやって書き出せば、キリがないほどおもしろい切り口が詰まっているのだが、結論らしきことをまとめると、こういうことになる。アメリカ生まれのファーストフード店は、「すぐに、手軽に、安く」食べられるからファーストフードなのだが、東アジアではどこでも「急いでいない」というのだ。客は長居する。マクドナルドは、東アジアではファーストフード店ではないということだ。中国や東南アジアでは、「安い食べ物屋」でもない。料金だけでいえば、中級レストランなのだ。

 


アジア雑語林(222) 2008年6月4日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その3

 『ファーストフードマニア』のいいところは、インターネットのホームページの情報だろうが、企業の情報も書いていることだ。出店した年や全国の総店舗数といった基本情報だ。あるいは、経営母体の話だ。
 観察した記述として、台湾のスターバックスについて、こういう記述がある。

「高校生のおこづかいではスターバックスのコーヒーはかなり高め。そのため女子グループなどでは1人がコーヒーを買い、残り数名は水で粘るという風景も見受けられる」

 基礎データとともに、こういう観察記録も読みたいのだ。両方の情報をあわせると、コーヒーショップが、立体的に見えてくる。データだけでは退屈だし、印象記だけでは全体像を網羅できない。
 だからこそ、それぞれの国の物価をまとめて紹介しておいてくれたらよかったのだ。例えば、屋台での食事はいくら、とか、大学の食堂ではだいたいいくらとか、コンビニの飲み物はいくらとか、労働者の日給など基礎情報をまとめて1ページで書いておいてくれると、その国の事情に疎い読者でも読みこなせる。
 私がタイのハンバーガーショップ、つまりマクドナルドについて調べたときに感じたのは、ファーストフード店はけっして安い飲食施設ではないということだ。コーラもハンバーガーにも興味がないので、調べなければ気がつかないことだった。たかがハンバーガー1個の値段が、屋台の1皿の料理よりもずっと高かったのだ。ましてや、ピザショップは中級レストランの印象だ。
 だからこそ、ファーストフードというものに、アメリカ風の飲食チェーン店という枠をはめないほうがいい。ヨーロッパなら、バルと比較しないといけないし、東南アジアなら屋台と比較しないと、マクドナルドやスターバックスの姿が見えてこないのだ。
 『ファーストフードマニア』を読んでわかったのは、マクドナルドやスターバックスといった日本でも有名なファーストフード店(あるいはコーヒーショップ)を除くと、中国でも台湾でも香港でも、コーヒーショップではなく、日本でいう「ファミリーレストラン」だとわかる。
 本書では言及はないが、日本でも地方都市の喫茶店に行くと、うどんやチャンポンやカレーライスがあったりする。コーヒーだけでは商売が成り立たないのだ。「うちは喫茶店ですから、当然コーヒーだけでやっています」というのは、大都市でしかできない商売だ。コーヒーに限らず、専門店というのは大都会的商売だということがわかると、中国のコーヒー店に中国料理もある理由が理解できる。つまり、まだ歴史が始まったばかりなのだ。
 さて、この本の巻末に、うれしいお知らせが載っている。この本が、「Vol.1」とあるように、以下続刊予定があるらしい。

第2巻 東南アジア編
第3巻 アメリカ大陸部
第4巻 ヨーロッパ編
第5巻 中東・アフリカ・オセアニア
第6巻 韓国編
第7巻 日本編

この予定が、たんなる「ほら吹きラッパ」でないことを期待したい。

 


アジア雑語林(221) 2008年5月27日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その2

 『ファーストフードマニア』をひとことで説明すれば、駄文と駄写真と駄デザインの本である。中国と台湾と香港のファーストフード店を紹介した本で、屋台や露店は含めず、アメリカ式ファーストフード店の形態をとった店を紹介している。その企画は悪くない。だから、買ったのだ。で、最初の「中国編」を読み始めると、インターネットで集めた5行のネタを、駄文で水増しして100行にしたような文章が、小さな字でぎっしりと詰まっているとわかった。写真が多い本でもあるが、点数だけは多いが意味のないカットだらけで、しかも小さいので、細部までよくわからない。だから、駄写真だ。
 つまり、編集者(か、ライター)の企画力はあるが、編集力がないとしか思えない。デザインを重視しすぎた方針が、道を誤らせたのだ。活字をできるだけ小さくし、できるだけ長文にし、写真をできるだけ多く載せる。おそらくは、こういう方針が先にあるから、取材をしない書き手は、駄文で行数を埋めることになったと推理する。写真も、とにかく点数を多く、という方針だから、撮影した写真をなんでも載せようということになったのだろう。
 もしかして、これが、デザイナーが作った案だったとしても、そのまま採用した編集者が悪い。
 駄文は駄文でしかないから、中国人にとってのコーヒーや紅茶やパンがどういうものか。並んで買うことに問題はないのかといった、さまざまな文化衝突について、たいした考察もない。もっとも重要なのは、ハンバーガー1個の値段が、中国でどの程度の価値があるのかということもわからないし、メニューの紹介もない。写真の点数を半分にして、文章量を3割減にして、活字をやや大きくして、あいたスペースに全メニューや、解説付き主要メニュー表があればいいのだが、編集者はそんなことは考えなかったらしい。無意味な店内写真が多いが、そこでどういう食べ物や飲み物があるのかよくわからないのだ。手当たりしだいに注文し、写真を撮っていく時間と取材費はないだろう。だから、商品の写真が載っている広告ビラ(チラシ)を大きく載せればいいのだ。実際にビラの写真も載っているが、イメージカットの扱いで、小さすぎて写っている物がよく見えないし、値段の数字も読めない。こまった駄写真だ。
 文章は、現地の日本語雑誌にでも出ているような感じで、現地のファーストフード店をよく知っている人向けに書いているとしか、思えないのだ。だから、細部がわからない。
 台湾編はかなりいい。私の疑問点にも、かなり答えてくれている。香港編は合格点には達しないが、まだましだ。
 ただし、首をかしげてしまう記述もある。たとえば、台湾人は食器を手に持って食事しないと書いてあるが、中国人の世界では、茶碗や丼を左手に持って食事している風景はよく見かける。台湾だけがその例外というのは、おかしい。あるいは、「香港人は辛い料理が苦手である。辛い味で有名な四川料理の四川省が近いだけに不思議だ」という文章を、中国・香港に詳しいというライターが書いている。香港は四川の近くにあるかね。カシュガルや大連よりは、まあ、たしかに近いことは近いが。本文を読みながら、つい?印を書いてしまった文が、少なくない。
 この場で、こうした文句を書いているのは、批難するためではない。期待しているからだ。今はやりの、女が書いたイラスト旅行記のようなものならば、はじめから無視している。商品カタログにもならないようなミニ図鑑ならば、なにも言及しない。「また、いつもの“柳の下本”か」と思うだけだ。
 しかし、この『ファーストフードマニア』は、まず、「ファスト」じゃないのが気に入った。「ファースト」と原稿を書くと、「ファストでは?」と言ってくる編集者もいる。それは、NHKや民間放送連盟や日本新聞協会のバカどもが、「ファスト」が正しいなどと決めたからだ。その理由は、「アメリカで生まれたこの外食産業を、アメリカ人がそう発音するから」だと。従来の「ファースト」はイギリス風の発音だから、適さないというのだ。じゃあ、American Breakfastは、「アメリカン・ブレックファスト」と表記しなきゃいけないのかい。世間は、若者のことばにやいのやいのと言うが、私はこういう「偉いお方」の規制もまた、気に入らない。エレベータとか、プリンタとか、理系に日本語バカが多いのはわかっているが、それを助長させる輩も許せない。
 ああ、また話がずれて、長くなった。できるだけ、1回読みきりにしたいと思っているのだが、まさに雑語で、さまざまな事柄が頭に浮かび、次々と長くなってしまう。ご容赦を。以下、次号だ。

 


アジア雑語林(220) 2008年5月19日

うれしいが、くやしいファーストフードの本 その1

 書店で平積みになっていた派手な表紙の『ファーストフードマニア Vol.1 中国・台湾・香港編』(黒川真吾・田村まどか・武田信晃、社会評論社、2008)を見かけ、手にとって0.5秒で購入を決めた。名カタログ『コーラ白書』と同じ版元じゃないか。いいかもしれないとひらめいたのだ。
 そこで、まずは『コーラ白書 世界のコーラ編』(中本晋輔・中橋一朗、社会評論社、2007)を紹介しておこう。この本は、間違いなく名著だ。著者が買い集めたコーラの写真に解説がついている。コーラのビンや缶のコレクターはいるが、ふたりの著者は集めるだけのコレクターではなく、分類し、できるかぎり分析し、解説を加えている。私はコーラ類はあまり好きではないので、ほとんど飲んだことはないのだが、比較文化という意味で、「比較コーラ論」となる本書のすばらしさはよくわかる。なにがすごいかといえば、コレクションの幅の広さと同時に、できるかぎり現物を飲んでいるのだ。缶だけ集めているコレクターとはレベルが違う。
 例えば、ビルマの「Royal Cola」について、こう解説する。長いので以下は、引用ではなく概要。

 発売元は、ミャンマー工業省傘下の国営食品メーカー。Coca−Colaを意識させるロゴとグラフィックだが、廉価コーラを連想させる。原材料に「濃縮コーラ」とある。これは正体不明だが、どこかからコーラの原液を買っているということだろう。その味は、チューペット(チューブに入った氷菓)のコーラ味と同じ。

 コーラは刻々と変化する商品なので、時間経過もちゃんと調べている。例えば、香港では、返還前と返還後で、どう変わったかを調べているし(味に関しては、それほど大きな変化はないそうだ)、韓国のコカコーラ03年にデザインを変えたことに言及している。韓国のコカコーラは、甘味の強さとまろやかさでは、世界のトップクラスだそうで、しかし酸味はほとんどないそうだ。アスパルテームや、アセルファムカリウムといった人工甘味料の説明もある。食品工業も国際経済も視野に入れて書いている。すばらしい目配りだ。
 コーラはほとんど飲まない私には、味のことを言われても、「はあ、そうですか」としか言えないし、味は個人差や環境の違いで評価がかわりやすいが、それでもできる限り飲んで、調べてやろうという意気を感じる。
 コツコツと調べる努力などせずに、印象だけで語りたがる人は、こういう実証的な文章を、「コイツら、オタクだよなあ」と嘲笑しがちだが、調べもしないそういうヤツラこそ、あざ笑ってやろうと思う。きちんと調査をせず、資料も読まないヤツは、たとえ大学教授の肩書きがあっても、バカにしてやろう。
 この『コーラ白書』をまず絶賛したのは、同じ出版社から出た『ファーストフードマニア』を読んでみたら、その内容のレベルが大きく落ちているとわかったからだ。おいおい、どうしたんだい。書き手の力不足だけがその理由じゃないだろう。編集者はどうしたんだという気がしたからだ。
 以下、つづく。

 


アジア雑語林(219) 2008年5月9日

ふたたび、自費出版にお願い

 団塊世代が大量に定年を迎えていることと、自費出版のブームが合体し、昔の海外駐在体験や長期出張体験、あるいは若き日の海外放浪をまとめた本が数多く出版されている。日本人の海外旅行史に興味がある私としては、ネット古書店などで「それらしい」本を見つけると、片っ端から注文している。
 その結果、もしかして、つまらない旅行記を日本で一番数多く読んでいるのは自分ではないかという気がしている。この手の本は、出版社が出そうと考えるレベルのものではないから自費出版したのであり、だからレベルの低さを嘆いてはいけないことはわかっている。「しょせん、素人、文章がヘタに決まっているだろ。なにをいまさら」と、私に説教をしたくなるかもしれない。
 私だって、文章のへたさをあげつらう気はない。ただ、もしも、家族や友人以外の第三者にも読んでもらいたいと思うなら、もうすこし工夫してほしいと、著者ならびに担当編集者にアドバイスしたくなったのだ。こういう話は以前にもちょっと書いたが、何度でも書いておきたい。

●全部は書けない・・・・30年間の旅や5年間の駐在体験を、1冊の本ですべて書けるわけはない。それを無理に全部書こうとすれば、各テーマを箇条書きの報告書のようになってしまう。まるで、出張報告書のような旅行記も現実にあって、うんざりさせられた。そういう本だとわかっていればもちろん買わないのだが、内容とレベルがまるでわからないネット書店の客の悲しさ、とりあえず注文してしまうんですな。

●ガイドは要らない・・・・旅行記を書きたい気はあっても、きっと書くことがないのだろう。訪れた名所旧跡の説明を、ほとんどガイドブックの丸写しのごとき文章で埋めているものもある。誰が、そんなものを読みたいと思うか。

 では、どのように書けばいいのかといえば、99人には「自分のカネで本を作るのだから、どうぞお好きなように。でも、家族以外誰も読みませんよ」と言っておこう。好きなように書けばいいのだ。しかし、100人のうちのひとりには、こういうふうに書いてみませんかとアドバイスしておこう。

○細部を書け・・・ガイドブックに書いてある情報など、いっさい要らない。いまのガイドブックには書いてないことだけを書いていけばいい。例えば、昔の渡航手続きや予防注射の話。駐在経験を書くなら、住んだ家の家賃や近所の環境など、「いまと違って、当時は」という話が出てくると、きっとおもしろいでしょう。ハワイ旅行の話だって、1970年代なら、新婚客がみやげにパイナップルを段ボール箱にいっぱい買ってきたものだ。だから、「新婚旅行でハワイ」というごくありふれた旅行であっても、「当時はね…」と、旅行代金やドルレートの話や、当時の写真を見ながら新婚客の服装やカメラなど旅行用品についてあれこれ書いても、たぶんおもしろいと思う。エッフェル塔は、50年前も今も変わらないが、それを見つめてきた人と文化は移ろいでいる。いま、突然、高校で習った「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同…」という詩を思い出したが、そうなんだ。変わらぬ花(名所旧跡)の説明なんかされたって、読む気にならない。移ろう人間のほうにポイントを合わせたほうがおもしろいと、売れないライターである私は思うのですよ。

○専門知識を生かせ・・・駐在員体験を書くなら、専門の分野の知識も披露してもらいたい。例えば、自動車会社の駐在員として、バンコクで駐在した経験を書くなら、赴任当時のタイの自動車事情を書いておいてくれるとありがたい。アメリカ車中心で、こういう車種が人気でとか、税金は、ガソリン代は、道路事情はどうか、近隣の国ではどうかといった話だ。私としては、食品や乗り物関連ならうれしいが、金融問題を語られても困るなあと正直思うが、金融に興味のある読者もいるだろうから、通り一遍の滞在記よりも、専門知識をちりばめたほうが、きっとおもしろくなる。ただし、社内人事のことを書かれても困るので、その点はご配慮を。

 


アジア雑語林(218) 2008年4月7日

オランダ人の日本戦後史 おどろく事実 その2

 1950年から74年まで日本で過ごしたオランダ人銀行員が書いた『まがたま模様の落書き』の話の続きだ。
 この本を読んでおどろいたもうひとつのことは、日本の外国料理店に関するものだ。前回は1960年代の話だったが、今回はちょっと戻って1950年代、場所は関西だ。
 1957年、著者は大阪支店の副支店長の24歳。日本の文化に深い関心がある著者は、さまざまな職種の人と交流していた。知り合いのひとりである医者が、京都木屋町に持っている空きスペースの有効利用法を考えていた。そこで、やはり仲間のひとりが、著者がアドバイザーになってくれるなら、オランダ料理店をやりたいと言い出した。そうしたいきさつで生まれたのが、オランダ料理店「ボーア」だという。ということは、もしかすると、これが日本最初のオランダ料理店かもしれない。
 著者は1959年に日本人と結婚するのだが、58年のデートで、「宝塚にあったイタリアレストラン『アベラズ』で夕食をともにした」とある。
 1958年の宝塚にイタリア料理店があったのかと調べ始めて、自分の無知を痛感した(今に始まったことではないのだが・・・・)。
 「アベラズ」というレストランは、おそらく原文は「アベーラさんの店」という意味の「Abela's」だろう。1946年に、イタリア人オラッツィオ・アベーラが開店した「イタリアンレストラン アベーラ」のことだろう。1946年? とびっくりした。終戦の翌年だよ。
 というわけで、『まがたま・・・』を離れて、もっと調べてみたくなった。
 ことのいきさつは、1943年9月から始まる。この年、イタリアの輸送艦カリテア号は、日本軍に物資を補給するために神戸に寄港した。ところが、イタリアは9月3日に降伏して、連合軍側になってしまったのだ。イタリアは突然、日本の敵になってしまったのだ。だから、カリテア号そのものも乗組員も、日本の敵側ということになってしまったのだ。
 捕虜となった乗組員のなかで、少なくとも3人のイタリア人が日本で料理店を開いたことがわかっている。
 将校用のコックだったアントニオ・カンチェミは、1944年神戸でイタリア料理店を開くものの、物資不足でわずか数カ月で閉店している。戦後の動きはよくわからないのだが、『日本で味わえる世界の味』(保育社、1969年)によれば、大阪の店をたたんで10年前に東京の麻布にやってきたという記述があるので、それが正しければ、東京進出は1950年代末ということになるだろう。しかし、「パパ・アントニオ」という現在の店のホームページでは、「1950年代初めごろ座間キャンプ近くに前身となる店をオープン。その後西麻布でイタリア料理店アントニオを開店」とある。座間は神奈川県だ。いくつもの資料を読んでみたが、どうもこのあたりの事情がはっきりしない。
 カリテア号に乗っていたオラッツィオ・アベーラも、イタリアで多少の調理経験があったので、1946年に宝塚でレストランを開く。71年に店名が「アモレ・アベーラ」となり、いまも営業している。
 やはりカリテア号に乗っていたジュセップ・ドンナロイヤも1952年に神戸にイタリアレストラン「ドンナロイヤ」を開いた。
 というわけで、日本最古のイタリア料理店は「アントニオ」か、あるいは「アモーレ・アベーラ」かと思っていたら、もっと古くからあったという資料が見つかった。
 明治7年にフランスの曲馬団の一行として来日したイタリア人ピエトロ・ミリオーレが、病気のため興行先の新潟に居残り、そのまま住み着いて牛肉店を始めたという。資料によっては牛鍋屋などと書いてあるが、イタリア料理店を開いたとわかるのは、1981(明治14)年の「イタリヤ軒」開店だ。そのレストランは、現在「ホテルイタリア軒」となって、新潟市で営業している。
 というわけで、日本におけるイタリア料理の歴史は意外に古いことがわかった。ここで書いたことは、ほとんどネット上の情報を使っただけなので、文献や取材もすれば、きっとおもしろい外国料理店始末記ができるだろう。やはりこの世界、なかなかに興味深い。
 このように、日本におけるイタリア料理史を調べているなかで読んだのが、『イタリア料理に魅せられて』(堀川春子、調理栄養教育公社、2002年)。著者の経歴がすごい。著者15歳の1932年、イタリアの日本大使館館員一家のもとで家政婦をするために渡航。5年間滞在し、イタリア料理も学ぶ。戦後は駐日イタリア大使館で働いたあと、本格的にイタリア料理と関わる。今回の原稿に関連することを、年表風にイタリア料理店の名を書き出してみよう。
 1962年 新宿伊勢丹に「カリーナ」開店。伊勢丹の直営らしい。「その当時、イタリア料理専門店は六本木に一軒あったくらいなので珍しかったようです」とある。その六本木の店が、アントニオか?
 1967年 日本橋東急に、自分の店「サンレモ」開店。
 1871年 洋菓子のフランセが原宿でイタリア料理店「トスカーナ」を開店。著者が責任者となる。
 そして、「ああ、なんだ」というどんでん返しの話。雑誌「料理王国」(2006年7月号)で、「日本のイタリア料理100年史」という大特集をやっていて、この雑語林に書いたようなことはとっくに活字になっていたことを、最後になって発見した。徒労か。「料理王国」のこの号は好評らしく、古書市場でもけっこう高い。いずれ買うでしょうが、いまは読まずに書きました。
 西洋料理の話は、雑誌で深い記事が特集されるが、それ以外の料理だと資料が少ないなあ。

 


アジア雑語林(217) 2008年3月24日

オランダ人の日本戦後史 おどろく事実 その1

 倒産した新風舎はなにかと評判が悪かったが、浜の真砂ほども出版した本のなかには、ちょっとはいい本もあり、旅行史や異文化関連の本を数冊買っている。
 つい最近読んだのが、1950年から74年まで日本に滞在していたオランダ人銀行家が書いた、『まがたま模様の落書き』(ハンス・ブリンクマン著、溝口広美訳、新風舎、2005年)という滞在記だ。
 全体的には、とりたてておもしろいわけではないし、鋭い考察があるわけでもないが、「ええ!」と驚いて傍線を引きたくなる記述が、少なくとも2カ所あった。
 ひとつは、オランダのナショナル・ハンデルス銀行の東京支店長になった1962年ごろに住んでいた新宿区西落合の家と、そのご近所の話だ。ちなみに、このとき著者はまだ29歳だが、運転手つきの車に乗る生活だった。
 日本人の妻と住んでいたその家というのが、アントニン・レーモンドが1933年に設計したものだというではないか。日本の建築史に多少の知識があれば、「ほっほー」と驚くだろう。レーモンドは、旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトほどの知名度はないが、そのライトの助手だったレーモンドは聖路加病院や東京女子大などの設計で知られる有名な建築家だ。
 西落合のご近所について、こういう記述がある。
 「本田氏はうちの近所に、大きくてモダンな家を建てたばかりだった」という、「本田氏」とは本田宗一郎で、当時のホンダは自動車を発売しはじめたばかりだが、もちろん本田宗一郎はすでに有名人だ。
 著者が勤めるナショナル・ハンデルス銀行が、1963年に創立100周年を迎えるので、上野の東京文化会館で記念コンサートを開催しよういう計画を立てた。そこで、近所に住んでいる武蔵野音楽大学の教授に、演目の相談に行った。その教授とは、日本の音楽教育に多大な貢献をしたドイツ人音楽家クラウス・プリングハイムだ。プリングハイムが初来日したのは1931年だが、37年から2年間はバンコクで西洋音楽を教えていたが、タイが連合国側の政策に転じたため、国外追放にあい、日本にやってきたという流浪の音楽家である。
 さて、西落合周辺のご近所の人間で、もっともびっくりしたのは、著者と家族ぐるみの付き合いをしていたという、「オードリー・ヘップバーンの実兄」一家だ。「彼らのちっぽけなプールつきの庭で、よく一緒に日曜日の午後を過ごし」たそうだ。オードリーには兄がふたりいるようだが、どちらの兄が日本でどういう生活をしていたのか、まったくわからない。

 


アジア雑語林(216) 2008年3月16日

マレーシア、タイ、ラオスで買った本

 所用のついでに、マレーシア、タイ、ラオスをしばらく旅した。重い荷物は持ちたくないので、できる限り本は買わない予定ではあり、その決心は2週間ほどは続いたのだが、1冊重い本を買うと、「持っては歩けないほど重い本を買ってしまったのだから、郵送するしかない。とすれば、どんどんと買ってもいいはずだ」となり、やはり買ってしまった。
 タイとラオスで買った本は持ち帰り、マレーシアから船便で送った本も到着したので、文献紹介の意味で、何冊かとりあげてみよう。本によっては、アマゾンなどでもっと詳しい情報が得られるうえに、現地価格とあまりかわらない値段で買うこともできる。
 それでは、マレーシアの本からいくか。

 “Chronicle of Malaysia 1957〜2007 Fifty years of headline news ” Editions Didier Millet , 2007

 毎日新聞社から『昭和史全記録』という厚く重い本があるが、ちょうどそういうタイプの本だ。百科事典ほどの本で、新聞記事からマレーシアの歴史を振り返ることができる。編年史なので、例えば「1985年」のページを見れば、ペナンの超高層ビル「コムタ」が完成した年だとわかるし、「1971年」の1月にはクアラルンプールが大雨で1メートルほどの洪水になった写真がでている。タイでもこういう本が出ればいいのだが、無理だろうな。

The encyclopedia of Malaysia Architecture” Editions Didier Millet , Archipelago press ,1998

 インドネシア編としても出版されている項目別事典のマレーシア版。インドネシア版はほぼ全巻ジャカルタで買ったが、マレーシア版は諸事情(高い本だ。送料も高くなる。置き場所がない)により、「建築編」だけ購入。ショップハウスの歴史的変遷の図解など、豊富な図版が楽しく、参考にもなる。この雑語林でも以前に書いた話だが、インドネシア編のほうの百科事典が、なんと高田馬場のブックオフで売っていたのには驚いた。すぐ売れたようだ。

“The Star Guide to Malaysia Street Food ”Star Publications , 2007

 屋台や食堂のガイドブックなのだが、私は屋台料理のガイドとして買った。豊富な料理写真と解説がついているので、「屋台料理図鑑」として使える。

“Gateway to Peranakan Culture”Lim GS. Catherine & Wing Fee , Asiapac Books, 2003
“Gateway to Peranakan Food Culture”Tan Gek Suan &Wing Fee, Asiapac books , 2004

 中国移民の男とマレー人の女の家庭で生まれたのがプラナカン文化。マレーシアの文化を紹介するこの入門シリーズは何冊か出ているが、とりあえず2冊購入。中学生用の副読本という感じだから、イラストも多く、外国人にはわかりやすい。このシリーズの内容はインターネットで検索できる。

Food and Drinks in Ancient India ”Rajendralala Mitra , Indigo Books , New Delhi , 2007
Eating India ”Chitrita Banerji , Bloomsbury , London , 2007

 インドの食文化を知る古今編2冊だが、まだ読んでいないので、内容のレベルはわからない。

“Sampheng Bangkok’s Chinatown Inside out”Edward Van Roy , Chinese Studies Center , Chulalongkorn University , Bangkok , 2007

 バンコクの中華街の雑学研究書。こういう本を読んで、バンコクのガイドを書くライターがいるとうれしいのだが・・・・・。 ちなみに値段は、ペーパーバックで800バーツ。チュラ大の書店で入手できる。

 “Lao Close Encounters ”John J.S. Burton , Orchid Press , Bangkok , 2005

 タイで出版された本だが、バンコクでは見つからず、ラオスのルアンパバンで購入。けっしてカメラマンなら撮らないラオスのスナップ写真集。カレンダー写真でも、絵はがき写真でもないラオスの写真とその解説満載。全ページカラー写真だからしょうがないが、高価な本である。

“Luang Phabang An Architectural Journey ”Ateliers de peninsula , Vientiane , 2004

 ルアンパバンの建築調査報告書。これはラオスで出版された本なのに、ラオスで見つからず、バンコクで買った。100ページちょっとの本だが、買うかどうか数日考えるほどの値段だ。

Ant Egg Soup”Natacha Du Pont De Bie , A Sceptre Books , London , 2004

 どういう本かわかりやすく言えば、『世界一の日常食』(戸田杏子、晶文社、1986年)のラオス版で、食文化探訪旅行記にレシピがついている。あるいは、写真が1枚もない浜井幸子さんの本といえばわかりやすいか。旅行記部分が多く、食文化の記述が少ないのが私には難点だが、一般読者相手ならしょうがないか。おもしろかったが、日本語に翻訳しても売れないだろうなあ。この本に関しては書きたいことがいくらでもあるので、機会があれば詳しく触れるかもしれない。

 


アジア雑語林(215) 2008年3月2日

補記 ジプシーとピラニアの話など

 いままでこの雑語林に書いた文章の、追加情報を書いておこう。
 この雑語林の150号で、朝日新聞記者伊藤千尋氏が大学時代に、サンケイ・アドベンチャー・プランという企画に応募して合格したという話を書いた。朝日新聞に就職が決まっていたが、入社を辞退してジプシーを訪ねる旅に出た。翌年、再び試験を受けて、同じ朝日新聞に就職したという話だ。
 先日、古本屋の棚に『「ジプシー」の幌馬車を追った』(伊藤千尋、大村書店、1994年)があるのに気がついて、買ってみた。1994年に出た新聞記者の本だが、文章は1960年代の若者の文章だ。60年代の若者の海外旅行記を昔から読んできた私には、なつかしい文体でもある。
 植村直己の本でも、あるいはほかの若者の本でも、「ああ、外国に行きたい。日本とは違う世界が見てみたい」という憧れと、「日本で決まりきった生活なんざいやだ」という、日本脱出の気分がよく伝わってくる。たぶん、新聞記者になる前に書いた昔の原稿を、のちに再構成したのだろう。
 サンケイ・アドベンチャー・プランに応募した伊藤氏の「ジプシー調査探検隊」計画は見事合格し、ヨーロッパに旅立ったという話は150号で書いたとおりなのだが、こういうエピソードもあった。
 「合格したのは私たちのほかにもう一つあり、インカ帝国のあとをたどってカヌーでアマゾンの源流調査をするという企画だ。立案者は関野吉晴氏」。関野氏は、当時一橋大学の探検部員だったはずだ。
 というわけで、調査資金の1000万円は両者で折半した。

 さて次は、173号に書いた、タイのピラニアの話だ。
 バンコクで、久しぶりにプリチャー・ムシカシートンさんに会った。カセサート大学の魚類学者だが、古くからタイに興味を持っている人には、彼の姓が気にかかるだろう。『タイの花鳥風月』(めこん)を書いたレヌカー・ムシカシートンさんのご子息だ。
 プリチャーさんに会って、「タイのピラニア」の話をした。バンコク在住の友人が、市場でピラニアを見つけたというのだが、本当にピラニアなんだろうかという疑問だ。
 じつは、プリチャーさんに会う数週間前に、ペナンで会った香港の大学教授から、中国では現在ピラニアを養殖しているという話も聞いたので、ぜひとも専門家の話を聞いてみたかったのだ。
 「ああ、あれは、ピラニアじゃありませんよ。似ていますが、歯がピラニアほど鋭くないので、すぐにわかります」
 あの、ピラニアに似た魚というのは、私が調べて書いているように、ブラジルでの通称がタンバキ、あるいは学名からコロソマと呼ばれている魚だとわかった。タンバキについては、ネット上にも詳しい情報が出ているから、興味のある人は各自調べてください。
 というわけで、簡単に問題解決。さすが専門家だ。

 次は、207号に書いた「日本最古のタイ料理店」に関する話題。
 昔のタイ料理店について知っている方は連絡をくださいと書いたところ、森枝卓士氏からメールをいただいた。
 1970年代なかごろに、大学生時代だから1978年以前ということになるが、武蔵小金井のマンションの1階にタイ料理店があったのを覚えていますが、店名など詳しいことはすっかり忘れました、とのことだ。
 日比谷の「チェンマイ」が1979年開店だから、それよりも古いことになる。やはり、1970年代に福岡にタイ料理も出す中華料理店があったという話も、当時その店に通っていた人物から聞いている。
 というわけで、タイ料理あるいはアジア料理の古い店をご存知の方は、アジア文庫までお知らせいただければ、ありがたい。「黎明期アジア料理店年表」なんて、おもしろそうでしょ。

 


アジア雑語林(214) 2008年2月19日

昆虫を食べる本を読んでいて思い出した、いくつかのこと

 すでに何冊も読んだというのに、また、昆虫食の本を買ってしまった。
 本棚を見れば、昆虫食を真正面から扱っているこんな本の背が見える。

 『虫の味』(修永哲・林晃史、八坂書房、1996年)
 『虫を食べる人々』(三橋淳編、平凡社、1997年)
 『虫を食べる文化誌』(梅谷献二、創森社、2004年)

 このほか、昆虫食も一部では扱っているという本も加えれば、あと数冊増える。だからといって、私が昆虫を大好きなわけではないし、ましてや昆虫を食べるのが好きなわけではない。いままでに、タイで何種類かの昆虫を口にしたことはあるが、自分から進んで注文したことはない。路上の店で買ったこともない。アジアの食文化資料として、昆虫食の本を買ったのである。食べられるが、好んで食べたいわけではない。
 今度買ったのは、『虫食む人々の暮らし』(野中健一、NHKブックス、2007年)だ。上に書き出した従来の本が、どちらかといえば、虫そのものに重点を置いているのに対して、今度買った本は、虫を食べている人に重点を置いている。だから、食べられている昆虫の詳しい紹介はない。
 『虫食む人々の暮らし』を読んでいて、虫に関するさまざまな思い出がよみがえってきた。この本は、アフリカの昆虫食から話が始まる。いままで、「昆虫食」といえば、どうしてもインドシナ中心に紹介されてきたが、アフリカでも昆虫は食べる。
 食べものがとても少ないウガンダの市場で、干したイモムシが山にして売られていたのを思い出した。そのままでは食べられないから買わなかったが、イモムシとイモくらいしかない市場だった。
 そういえば、虫が出てくる小説を読んだことがある。あれは、カメルーンの作家モンゴ・ベティの英語訳版「ミッション・トゥ・カラ」だったか、あるいは東アフリカの小説だったか、はっきりと記憶がない。なにしろ、ケニアでアフリカの小説を読んでいた25年以上前のことだから、記憶があいまいだ。
 こういうシーンだった。突然、村にバッタが襲ってくる。しばしば「イナゴ」だと誤って説明されるが、群れとなって飛来してくるのは、バッタである。バッタの大軍がやってきて、せっかく育てた作物が全滅するという悲劇的結末を予感したが、違った。
 大騒ぎする村人。草を燃やして、バッタを防ぐのだろうかと思い、読み進んでいくと、村人は食べものが飛んできたことに、大喜びしているのだ。バッタが食べられることに、喜んでいたのだ。この描写で、アフリカ人も虫を食べることを初めて知った。ウガンダの市場で、干した虫を見たのはその小説を読んだ後のことだ。
 『虫食む人々・・・』に、ツムギアリの話が出てくる。噛まれると七転八倒するほど痛いアリだが、噛まれたことは一度、食べたことは数回ある。
 2回目か3回目にツムギアリを食べたのは、チャンマイだった。テレビの取材でタイを旅行していたときだ。チェンマイ担当のコーディネーターとの夕食が、昆虫づくしだった。昆虫の取材にきたわけではない。日本から来た取材チームを驚かせようという、タイ人たちのいたずらだったのだが、お生憎さま、ディレクターもカメラマンも私も、昆虫の料理を目にしてもびっくりなどしない。タイで何度も体験済みだから、平然と、バクバクと口に運ぶ。お笑い芸人のように「辛い!」といって、飛び跳ねることもしない。このときの料理の1品が、ツムギアリ入りのスープだったことは覚えている。あとの料理は忘れた。
 ちょうど同じ頃、のちに『タイの日常茶飯』(弘文堂)としてまとまるタイ食文化の本の取材を続けていて、タイのどこかの本屋で買ったのがイサーン料理の教科書だ。イサーンの本屋だったか、あるいはチュラロンコーン大学の書店だったか、まるで覚えていない。そのタイ語の本は『タムラップ・アーハーン・イサーン』(イサーン料理教書)といい、著者はペンチット・ヨシダという。おそらく、吉田さんと結婚したタイ人だと思うが、著者に関する情報はない。
 この本は料理のテキストだが、タイプ印刷したような体裁で、写真は一枚もない。イサーン料理の教科書というよりも、むしろ伝統的イサーン料理の記録簿という側面のほうが強いような気がする。というのは、ヘビやカエル、そしてコウモリや昆虫の料理などもちゃんと紹介してあるからだ。実用的な料理本というよりも、イサーンの料理を後世の為に書き残した本のような気がする。
 民族誌として、この本を誰か翻訳出版してくれないかなあ。辞書を引きながら読むのは、面倒だ。めこんさん、どうです。

 


アジア雑語林(213) 2008年2月11日

ISA社のその後の話

 1999年に出した拙著『アジア・旅の五十音』(講談社文庫)で、ISA社の話を書いた。国際的な禁煙運動に胡散臭さとファシズムを感じ、そういう動きに反発したくなったのである。航空機はすでに全面禁煙になってしまったから、逆に喫煙可能を売り物にした航空会社があってもいいだろうという趣旨で原稿を書いた。タバコを吸わない人に迷惑がかからないように、席を完全に分離すればいいのだという企画だった。私の文章の一部を引用する。

 「この不況のおり、ISA社創設がビジネスチャンスである。ISA,つまりインターナショナル・スモーキング・エアーラインズ(国際喫煙航空)の設立である。全席喫煙にすることはない。座席の半分か三分の一を喫煙席にして、禁煙席にタバコの煙や匂いが流れないように防煙設備を徹底させる」

 なかば冗談でかいた文章だが、まさか本気でそういうことを考える人が現れるとは思わなかった。2006年の新聞記事だった。ドイツ人実業家アレキサンダー・ショップマン氏が、デュッセルドルフ―東京間に全席喫煙可の飛行機を飛ばそうと考えたらしい。航空会社の名はISAではなく、SIA、つまりスモーカーズ・インターナショナル・エアウェイズだ。私のような貧乏臭い企画ではなく、ファーストとビジネスのみの高額フライトらしい。計画では、2007年3月の就航を予定している。
 さて、もう2007年3月などとっくに過ぎたので、あの計画はどうなっているのか調べてみたら、どうにもなっていなかった。頓挫したわけではないが、「2007年秋には・・・」となって、先延ばしになっている。会社への出資者の問題もあるだろうが、やはり「ご時勢」というのも関係しているように思う。
 アメリカなどは、喫煙席のある航空機はアメリカの空港に着陸させないと宣言しているし、タバコが吸える航空機の発着を許す国がどれだけあるだろうかと考えてみると、喫煙航空の実現はほとんど不可能だと思われる。アメリカの世論など、銃よりタバコのほうが害があると感じているらしい。
 例え喫煙航空が実現したとしても、ファーストとビジネスしかない便では、貧乏人の私には用がない。それ以前に、すでにタバコをやめてしまった私には、ISAもSIAも100円ライターや金張りのライター同様、用のない存在になってしまったのである。

 


アジア雑語林(212) 2008年2月3日

吉田集而さんの本を巡って

 本が好きなくせに、本屋に長居するのが苦手だった。さっさと本を探し、さっさと出て行くのがいままでの習慣だった。本の数が多すぎると圧迫・圧倒されて息苦しいのだ。苦しくなって、「本なんて、もうどうでもいいや」という気分になるのだ。
 そういう習慣が変わったのは、池袋にジュンク堂ができてからだ。他の本屋にはない本がいくらでも置いてあるので、各階の棚めぐりをしていても飽きないのだ。
 先日も、例によって池袋ジュンク堂で棚巡りを楽しんでいたら、文化人類学の棚に『生活技術の人類学』(吉田集而編、平凡社、1995年、6800円)があることに気がついた。吉田さんのこの本を、1995年当時、出たことに気がつかなかったのか、あるいは出版されたことは知っていたが、高額なので無視したのか、そのあたりのことは覚えていないが、読んだことがないのは確かだ。ページをめくってみると、おもしろそうだ。読んでみたくなった。買わねばなるまい。
 民族学博物館の教授だった吉田集而(よしだ・しゅうじ)さんとは何度か顔を合わせてはいるが、立ち話以上の会話を交わしたことはない。植物学や入浴や、私が興味を持つ分野の大先達であるが、なぜか話をするチャンスはあまりなかった。吉田さんの本は1冊か2冊は読んでいるが、熱心な読者ではなかった。
 「こんな本があったらいいなあ」と思い、私が企画した『東南アジア市場図鑑』(弘文堂)が出来たのが2001年で、現物をお見せすると、「なんだい、植物一覧にベトナム語は入っとらんのかい。ベトナムは東南アジアじゃないのかね」とご不満のようであった。ベトナム語もビルマ語もカンボジア語も、植物名と魚介類名リストに載せたかったのはやまやまだが、その作業ができる人が見つからなかったんですと答えたが、納得はしなかったようだ。「なまけものめ」という顔だった。
 吉田さんが倒れたのは、それから数ヵ月後の2001年末のことで、2004年に亡くなった。吉田さんの業績など詳しくは、民博のホームページにでている松原正毅さんの「吉田集而への弔辞」を読んでください。
 吉田さんが編者となった『生活技術の人類学』をどうしても読みたくなったのは、「ハヌノオ・マンヤン族の服装観―フィリピン、ミンドロ島山地民の事例から」という亘純吉(わたり・じゅんきち)氏の論文がおもしろそうだったからだ。内容は、民族服飾学とでもいおうか、褌の締め方と衣文化が語られている。
 この『生活技術・・・』という本は、民博で行なわれたシンポジウムをまとめたもので、おもにアジア・オセアニア地域の衣食住に関する論文を載せて、そのあと討論会という構成になっている。
 収められている論文すべてがおもしろいということはなかったが、植物の毒を使った漁について書いた「魚毒漁の分布と系譜」(秋道智弥)もおもしろかった。
 この本を読んだことで、吉田さんの手による本を調べてみたくなって調べると、『ねむり衣の文化誌』(吉田集而・睡眠文化研究所編、冬青社、2003年、1800円)があることを知り、さっそく注文した。簡単にいえば、世界の人は何を着て寝ているのかという研究のようで、おもしろそうだ。そういう疑問を1975年のヨーロッパで抱き、ちょっと調べたことがあるのだ。
 衣食住の研究で、衣文化だけが研究が遅れているような気がする。衣といえば、もっぱら織りと染めが中心で、それ以外ではパリコレクションなどの話になってしまう。これは調理と栄養と、店ガイドしか手をつけていない食文化研究みたいなもので、なんとも、もの足りない。
 衣文化研究が大展開しないのは、男が参入しないからだと思う。元凶が何かはわからないが、被服学や家政学が中心で、ほかの学問分野の人が次々に参入するシステムになっていないからだろう。
 まったく偶然なのだが、きのうたまたま神田で買った『オーストロネシアの民族生物学』(中尾佐助・秋道智弥編、平凡社、1999年、6400円)は、とんでもなく安かったので、目次も見ずに買ったのだが、吉田さんの「発酵パン果の謎」という論文があった。
 ここしばらくは、吉田関連本で遊べる。

 


アジア雑語林(211) 2008年1月25日

刺身への多大な情熱

 古本屋のワゴンで、『海外食生活百科』(木村学而・鈴木清編、フジ・テクノシステム発行、東京官書普及発売、1986年)を買った。定価は4500円だが、古本屋の売価は500円だった。
 東京官書普及は、政府刊行物の販売をやっている会社だけに、これは普通の本ではない。どういう団体や個人が企画した本なのか不明だし、一般の書店で販売する意図もないらしい。ISBNコードも定価も、奥付けに印刷してある。国際協力事業団をはじめ海外滞在経験者たちが、コラムやエッセイを書いている。そのなかで、名に見覚えがある書き手は、阿部年晴・埼玉大教授だけだ。
 この本を簡単に説明すれば、外国で長期滞在する日本人に、現地の食生活情報を与えようというものだ。駐在員が滞在地の料理を紹介するといった本は何冊か発売されているが、そういう本ではない。もちろん、現地の食文化の簡単な紹介はあるが、中心は駐在員のための現地食生活ガイドである。例えば、日本人好みの食材がどの程度入手できるのか、米は、生魚は、醤油はどうかといった話題も載っている。納豆、豆腐、もやし、あるいは脱脂粉乳を原料にしたカテッジチーズの作り方なども載っている。
 海外で生活する場合の基本情報と、地域別、国別の詳しい情報が載っている。ただし、1986年の発売なので、もはや実用情報としては使えないが、世界のどこの地域でも駐在員生活をする気がないので、実用情報などもともと私には必要がないのだ。読んで、おもしろそうなので、買ったにすぎない。
 日本から持っていったほうがいい台所用品の「三種の神器」としているのは、包丁(菜切り包丁と出刃包丁)、砥石、プラスチックのまな板だという。まあ、そうだろうなあとは思うものの、現在の日本の家庭で、出刃包丁がどれだけ活躍しているか疑問だ。日本では魚屋でさばいてくれるのに慣れているから、外国では自分で魚をおろすために出刃包丁が必要なのだろうが、さて、使いこなせるか。
 隔世の感があるのは、日本から持っていったほうがいいとされる食品リストだ。1986年の事情だと、東南アジアには、「わかめ、のり、みそ、サラダ油、真空パック入り漬け物、野菜の種子」だそうだ。
 現在のバンコクでもシンガポールでも、こうした日本の食品は普通に手に入る。日本の小都市よりも、食品のバラエティーは豊富だといっていい。ところが、アフリカや中東地域では、20年たっても、事情はまだ変わっていないと思う。ソースだって、わさびだって、なんでも日本から持っていく必要があるだろう。
 ケニアの項目を見ていたら、「この一年半、無塩バターは姿を消したまま」という書き込みがあった。それで思い出したのは、ナイロビでたった1回許したぜいたくがケーキで、ボソボソでしかも塩味が強かったことだ。「ここには、無塩バターがないからだよ」と旅行者が解説してくれた。
 この本をざっと拾い読みすると、あらためて日本人は「生食」の民族だと気がつく。解説ページには、「鮮度のおちた冷凍魚の見分け方」と題して、それぞれの魚の注意点が書いてある。当然、寄生虫の説明もある。圧巻は、日本在外企業協会が実施したアンケート調査の結果だ。海外107都市における調査で、「生鮮食料品の調達・鮮度・生食の可否」一覧表が載っている。世界107都市の生魚・生野菜事情アンケート調査だ。
 例えば、マドラス。「質を問わねば一応は購入可能。肉、魚、野菜とも種類が豊富だが、ない時もある。鮮度、清潔さは最低で生食は不可」
 アルジェリアのオラン。「日本食、米は当地で入手。カリフォルニア米でうまい。魚は地中海より新鮮なものが入り、刺身は日本よりうまい。野菜、果物も豊富。調味料のみ日本、パリ等から持ってくる」
 という具合に、107都市の生魚事情がリストされている。それほどに、日本人には生魚が重要なのだ。
 私は、すしも刺身も好きだが、なくてもさほど苦にならないので、こういう刺身に対する情熱は共有できない。刺身よりも、もっと食べたいものがあるが、それはまた別の話。

 


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